碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

西田 税(みつぎ)のこと (68)

2019年09月10日 20時32分05秒 | 西田 税のこと

ebatopeko

         西田 税(みつぎ)のこと (68)

       (秩父宮親王)  

 米子ゆかりのジャーナリストの碧川企救男は、民衆の立場から権力への抵抗、批判をおこなった。それは、日本中が戦争に狂喜した「日露戦争」のさなかに、この戦争が民衆の犠牲の上におこなわれていることを新聞紙上で訴えたことにも表れている。

 一方、同じ米子に生まれ育った西田税(みつぎ)は、碧川企救男とまったく別の角度から権力批判をおこない、結果その権力に抹殺され、刑場の露と消えたのである。この地に住む者として、西田税のことを調べてみたい。

  西田税に関する文献は多岐にわたる。米子の山陰歴史館の発行された『西田税資料』を基本資料とした。

 さらに高橋正衛『二・二六事件』中公新書、小泉順三『「戦雲を麾く」西田税と二・二六事件』)、須山幸雄『西田税 二・二六への軌跡』、澤地久枝『妻たちの二・二六事件』なども参考にした。

 また、最近発刊された、堀真清『西田税と日本ファッシズム運動』(岩波書店)は、西田税に関する現在の到達点と言える研究である。実に教えられるところが大きかった。きわめて大冊であるが、関心のおありの方は是非ご覧いただきたい。

  ここではこの著をもとに記していきたい。但しあくまで私の主観で解釈し取捨選択しており、堀氏の著作をないがしろにするものではありません。堀氏の著作の価値は実際に原著をお読みいただければ十分に納得いただけます。

  はじめに西田 税の自叙伝である「戦雲を麾く」を中心に彼の道筋をたどる。「麾く」は「さしまねく」と読む。

 西田税は、明治三十四年(1901)十月三日、米子市博労町に父久米造、母つねの二男として生まれた。

 当時の歴史的資料も扱っているので、今からみると差別的な部分もありますが、ご了承をお願い致します。

(以下今回)

 前回、大正天皇を取り上げたのは、大正天皇が明治天皇と昭和天皇のはざまで、在世期間も少なくあまり取り上げられていない側面があるのではないかと考えたからである。

 それと同じく、大正天皇の四人の皇子のなかで、長男の昭和天皇が在世年代もながく(注:明治天皇45年、大正天皇15年、昭和天皇64年、ただし摂政時代も含めると69年)、第二次世界大戦にも加わり、人々の印象に強いことは間違いない。

 それに対し、次男の秩父宮は兄昭和天皇と一つ違いであるにもかかわらず、50歳という早世でもあり、意外に知られていないところがあるのではないであろうか。そこで秩父宮親王を取り上げてみた。

 次男の秩父宮親王は、明治三十五年(1902)、父、皇太子時代の大正天皇と母、皇太子妃節子(さだこ)=のち貞明皇后=との間にうまれた。

   四人の兄弟の中では、兄(のちの昭和天皇)に比べ活発でよく手を出し、おもちゃに先に手を出すこともあった。

 大正九年(1920)に陸軍士官学校に入学した。同期に西田税や三好達治などがいる。陸士三十四期である。

 西田税の自伝『戦雲を麾く』には、「淳宮(注:秩父宮)は余と同中隊なりしも、区隊を隣にした。・・せかるるものは宮への接近であった。そは余が宿年の心願であるからである。・・余は亦外国語授業に際しては仏蘭西語第一班の一人として、他の五名と共に殿下と教室を同じうし、且つ余は座席を宮の右隣に占むるの光栄を持ち得た。」とある。

 大正十一年(1922)陸士卒業直前の七月二十一日に、西田税は秩父宮とひそかに兜松のほとりで、宮本進、福永憲、平野勣、牛尾亀麿らと会合した。西田税はそこで日本国内外の形勢、亜細亜の現状等を述べ日本改造による改革を訴えた。

 また翌二十二日も、秩父宮を囲んで論争をした。宮は「日本の無産階級は果たして如何なる思想状態にあるか」と西田税に質ねた。西田税は「我が国の所謂無産労働階級は、極度に虐げられて、その生活すでに死線を越え奴隷の位置にあり。それが国民の大多数で、

 彼等は一部特権階級資本家のために、天皇の恩沢に浴し得ざる窮状にある。国民の大多数を占める無産労働者階級と天皇は、離るべからざる霊肉の関係にある。その敵は日本を毒する外国と国内に巣くへる特権階級資本家どもなり」とのべた。

 宮は「余は境遇やむを得ず、漸次下層社会の事情に疎遠を来すに至る。必ず卿(注:西田税ら)等は屡々報ぜよ」と述べた。    大正十四年(1925)三月六日、秩父宮が山陰においでになった。西田税は松江の御旅舎を訪問した。翌三月七日、宮の特別列車に乗車し、侍官、随員を退けて西田税は進言した。

 昭和三年(1928)九月二十八日松平節子とご成婚になった。節子は皇太后九条節子に遠慮して「勢津子」と名乗ることになった。

 松平節子は、旧松平容保の四男、外交官松平恒雄の長女である。松平容保は旧会津藩で、会津戦争を薩長の新政府側と戦った間である。また昭和天皇の皇后良子(ながこ)の母は旧薩摩島藩十二代島津忠義の七女である。ここには微妙な関係があったのではないか。

 昭和六年(1931)ごろ、安藤輝三などとも交流をもち、昭和天皇に親政の必要をとき、天皇とかなり激しい論争となったといわれる。また秩父宮は村中孝次に同行し北一輝の自宅を訪問したともいう。  

 昭和十二年(1937)には欧州歴訪を行い、イギリスのジョージ六世の即位式に出席した。

 このヨーロッパ歴訪のドイツでは、ナチス党大会に出席した。その折り、ヒトラーがソビエトのスターリンについて、「私は彼を憎みます」と激しく罵ったのに対し、「他国の代表者を毛嫌いしていいのでしょうか?」と返し、ヒトラーは一瞬ひるんだという。

 お付き武官の本間雅晴に、「ヒトラーは役者だ。信用できない」ともらしたと言われる。

 昭和十五年(1940)に肺結核と診断され、戦時中は御殿場で療養生活を送ることになった。

  御殿場での療養中は、地元の人々ときさくに話し合い、高校の卒業式にも来賓として招かれ祝辞を述べたこともあった。

 

  秩父宮は、「スポーツの宮様」といわれるくらい活発であったようで、それは「秩父宮ラグビー場」に残っているが、大阪の「近鉄花園ラグビー場」ももとは宮の発案だったという。

 また登山にも積極的で、昭和十二年(1937)のヨーロッパ歴訪では、マッターホルンにも登った。

 また昭和三年(1928)に北海道に行啓したときには、手稲山で将来の冬季五輪招致のため、大型ジャンプ台の建設を発案し、ずっとのちの札幌冬季五輪につながった。

 戦後には、「開かれた皇室」のあるべき姿について、積極的に新聞などに寄稿した。

 また新時代の皇室の立て役者皇太子明仁親王(注:現天皇)にかける期待は大きく、イギリスのエリザベス女王の戴冠式に出席する天皇の名代には、まだ大学生であった皇太子明仁親王をつよく宮内庁につよく働きかけた。

(注:エリザベス女王の戴冠式は1953年6月2日で、前年の一月に秩父宮は逝去している)

  昭和二十七年(1952)、御殿場から神奈川の藤沢に移ったが療養の甲斐なく、翌年一月四日薨去した。五十歳であった。

 死の前に遺書があり、そこで火葬にすること、解剖にすること、葬儀は特定の宗教によらないこと、などが指示されていた。その結果皇族としては異例の「病理解剖」がおこなわれた。


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