碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

明治の山陰の文学巨星 「杉谷代水」 (49)

2016年11月15日 09時30分25秒 | 杉谷代水


            ebatopeko

 

 

        明治の山陰の文学巨星 「杉谷代水」 (49)


 

 今や忘れられつつある、鳥取の明治文学巨星「杉谷代水」について思い起こしてみたい。参考にしたのは、杉谷恵美子編『杉谷代水選集』冨山房、昭和十年(1935.11.12)、山下清三著『鳥取の文学山脈』(1980.11.15)、鳥取市人物誌『きらめく120人』(2010.1.1)などである。直接図書館などでのご覧をお勧めします。 

          

  杉谷代水愛嬢佐々木恵美子 『妻の文箱(ふばこ)』 ⑧
 
                                                                             
(前回まで)

 平成12年(2,000)六月、杉谷代水の愛嬢佐々木恵美子は、ペンと筆によって「妻の文箱(ふばこ)」をまとめた。

 これは、杉谷代水が妻の壽賀などに宛てた手紙、葉書の保存されたもので、母壽賀が大事にしていたのを平成12年(2,000)に愛嬢の恵美子がまとめたものである。


   杉谷代水は明治四十四年(1911)十二月、宮田脩氏の媒酌により粟田壽賀子を迎へ逗子に新家庭を作り長女恵美子をあげた。父母はこの初孫をよろこばれたという。

 しかし、結婚生活もわずか三年に満たない短さで、病は篤く覚悟をしていた彼は家族を枕頭に集め、遺言をなし、静かに合掌しつつ永遠の眠りに入ったのであった。


 生前、杉谷代水は妻の壽賀などに対して宛てた手紙や葉書などをマメに送った。 
 
 このペンと筆による「妻の文箱」が、本という形を取っていないが、愛嬢によってまとめられていた。杉谷代水の生誕の地、境市立図書館にあることを知り、閲覧した。残念ながら印刷されていず、「禁帯出」である。

 それを貴重なものであるので、次に紹介したいと思います。


       
     妻への手紙

  註=手紙はすべて巻紙に毛筆、旧漢字、旧仮名づかい、あえて原文のまま写し、巻紙の文(ふみ)の丈(たけ)長きは、思いも多きことと喜ばれたようです。

 一 歌劇「熊野(ゆや)上演に際して
      (明治四十五年二月、東京神田小川町の仕事部屋より逗子の宅へ)

 (注:「熊野」とは、(ゆや)と読む。これは「平家物語」にある話に肉付けしたものである。遠江の国(現在の静岡県)の池田宿の「熊野御前」という女主人が、都の権勢を誇る「平宗盛」に召されていた。

 平宗盛のもとにいた都の熊野(ゆや)のもとに、故郷の母の病状が思わしくなく、今生の別れに一目会いたいと母からの手紙が来た。熊野(ゆや)は宗盛に帰郷を願い出たが宗盛は今年の花見を一緒に過ごしてからと聞き入れない。

 春爛漫の中、楽しげな都の人々の様子を見ても、熊野(ゆや)の心は故郷への思い、母への気遣いで沈みがちです。心ならずも酒宴で舞を舞っていると、急に時雨が来て、花を散らしてしまった。

 これを「見た熊野は、母を思う和歌を一首読み上げました。その歌は、

     「いかにせん、都の春も惜しけれど、
        馴れし東(あずま)の花や 散るらん 」

 この歌は、かたくなな宗盛の心に届き、ようやく帰郷が許されといわれる。熊野(ゆや)は、宗盛が心変わりしないうちに、と急いで京を発ったという)

 
 劇場であんな葉書を出したのは、御許(おもと)に無駄な心配をかけたやうなものだった 帰りに電車の中で考えをまとめて見ると、存外単純なものになって、相談の問題はただ一つになる

 熊野(ゆや)は二場で四十五分、運びはよい方、単純だから中心がはっきりして演(や)りよささう 大体は坪内先生(坪内逍遙先生)の評の通り、しかし始(初の間違い?)めてのものとしては全然失敗ともいへぬかも知れぬ、

 少なくとも環女史(注:三浦(柴田)環のこと、明治17年生まれで、日本で初めて国際的な名声をつかんだオペラ歌手、東京音楽学校で、ピアノを滝廉太郎に学んだ。出し物はのちに有名な「蝶々夫人」などがある。

 明治45年(1912)帝国劇場で杉谷代水のかいた「熊野(ゆや)」は、彼女が演じた)は失敗したと思ってはゐぬかも知れぬ

   『熊野(ゆや)』について、三浦環は自伝でこう語っている。

 「この『熊野』は当時非常に野心的な作品でした。背景も衣裳も全部歌舞伎風、それに西洋音楽の独唱、合唱とオーケストラを使ったのでして、うまくゆけば、日本独特の歌劇が生まれる。

 私たち出演者は勿論作者も、それから当時帝劇専務で、こうした新しい歌劇運動に非常な情熱を捧げた西野恵之助さんも、一同燃えるような意気で熱演しましたが、結果は失敗に終わった。

 
 處(ところ)で僕だけの利害から虚心で考へてみるに熊野(ゆや)の為めに帝劇及び観衆から僕の受けた傷は存外軽微であった


 (注:帝劇の「熊野」を、宝塚少女歌劇の準備を進めていた阪急社長、小林一三が見ていた。小林は「熊野」についてこう書き残している。

 「まだ宝塚を創めない前に、私は帝劇でオペラを見たことがある。三浦環や清水金太郎らが出ていて、演し物は『熊野(ゆや)』であった。ところが、それを見ながら観客はゲラゲラ笑っている。そのころの観客は大体芝居のセリフ、講談のセリフを聞きつけている人たちだから、『もォーしもォーし』といって奇声を発しているのがおかしくてしようがないのであった」)


 先づ咎めれば、下の点

  1 無断で文句を動かした事
  2 新作と新聞に吹聴(ふいちょう、言いふらすこと、言い    広めること)
    3 招待その他の礼を欠きし事

 見て見るとどうも大した事も無い 勿論始めの處の詞(ことば)が少しちがふが、筋書以外にふえてゐない 又歌詞が気になった

     その歌をだに朝夕に

 は環も上山も舞台では原作通り

     その歌をのみ

 とはっきり歌ってゐた(下半は全然原作通りへ)して見ると文句変更云々も騒ぐほどの内容が無い(理屈からいへば一字でも変更は変更だが)

 第一がこの通りだと折角握り固めた拳固の栄螺(さざえ)が大分和らかになった形      

  第二の新作云々も」通信社が勝手に通信した間違いかも知れず、これも曖昧にして攻撃に價(あたい)せず、

 第三は物質的で大聲疾呼(おおごえしっこ)したくも無い事柄

 そこで御許(おもと、あなた)へ相談といふのは他ではないが、先達の坪内先生の詞(ことば)、あれを御許はどうお聞きだったか知らん この際我々作家全体の為に大いにやってやれ、

 若(も)しくはやってくれといふ程の深い意味があったかどうか、一所(いっしょ)に僕も聞いたのだが、どうにも意味があったやうにもあれば、無い様にも思はれ、

 今になった鳥渡(ちょっと)迷うのさ、僕には雑念があるから駄目なのだ

 御許の虚心で聞いた意味を聞かしてもらひたい つまりこの一点可成(なるべ)く返事を請ふ

 きのふ小田原の東儀君から手紙がきた。
 
 同宿の巌谷小波(じわやさざなみ、注:明治から大正にかけての作家、児童文学者、俳人、処女作『こがね丸』で日本児童文学を開いた。博文館と組んで日本に児童文学をひろげた)

も先達て帝劇に無断興行をやられたとて憤慨せりとの事

  実際無礼は無礼だ どこかで一度やられて当然ではあるが、今度は一方に法律問題も持ち上がるから、それだけにしておいてもいいかも知れぬ。

 勿論「歌舞伎」に投書するつもり

 つまり矢張り坪内先生の詞(ことば)の意味きき直す訳にもいかず当惑

 

      (以下今回)

 一昨夜、劇場のかへりに、飯田町へまはりおとう様のご厄介になって鶴の子を、今十三日午前中にのこらず湖月でくばらせる事にしたから、母にこの事を傳(つた)へて下さい。

 御許かへりの時刻はおとう様から聞いたが、荷物が大きくなったさうで御苦労様。

 「婦人の友」は、時子さんが買ってゐられてもらっておいた。
 早く読みたいなら郵便で出すから知らせて下さい。

 東京はきのふから風が出て中々寒い。今朝はこの手紙を書くため早く起き、堅氷を叩いて顔を洗った。帰宅は両三日さき、からだは無事。

   母へも父へもよろしく

   たよりの時 飯田町へもよろしく

                かしこ

  二月十三日            虎

  寿賀子どの    

    註=「熊野(ゆや)」はお能をもとにしてオペラに書き上げたもの。当時新しい試みで、          批評も多出した由。
           坪内逍遙先生の御意見は、古代の衣裳(いしょう)

      日本式風俗、それで口を大きく開ける洋楽の発声、所作が何かそぐわないものを  感じる、 

       今ひと工夫とのこと。しかし代水自身はそれほど違和 感を感じなかったか・・・。
    
      なかなかむつかしいものと思った由、

      母寿賀に聞いた話です。

 

  なお、虎=代水本名 虎蔵
      時子=寿賀子の妹

 



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