碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

明治の山陰の文学巨星 「杉谷代水」 (57)

2016年12月04日 11時37分18秒 | 杉谷代水


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    明治の山陰の文学巨星 「杉谷代水」 (57)


 今や忘れられつつある、鳥取の明治文学巨星「杉谷代水」について思い起こしてみたい。参考にしたのは、杉谷恵美子編『杉谷代水選集』冨山房、昭和十年(1935.11.12)、山下清三著『鳥取の文学山脈』(1980.11.15)、鳥取市人物誌『きらめく120人』(2010.1.1)などである。直接図書館などでのご覧をお勧めします。 

          
  杉谷代水愛嬢佐々木恵美子 『妻の文箱(ふばこ)』 ⑯
 
                                                                             
(前回まで)

 平成12年(2,000)六月、杉谷代水の愛嬢佐々木恵美子は、ペンと筆によって「妻の文箱(ふばこ)」をまとめた。

 これは、杉谷代水が妻の壽賀などに宛てた手紙、葉書の保存されたもので、母壽賀が大事にしていたのを平成12年(2,000)に愛嬢の恵美子がまとめたものである。


   杉谷代水は明治四十四年(1911)十二月、宮田脩氏の媒酌により粟田壽賀子を迎へ逗子に新家庭を作り長女恵美子をあげた。父母はこの初孫をよろこばれたという。

 しかし、結婚生活もわずか三年に満たない短さで、病は篤く覚悟をしていた彼は家族を枕頭に集め、遺言をなし、静かに合掌しつつ永遠の眠りに入ったのであった。


 生前、杉谷代水は妻の壽賀などに対して宛てた手紙や葉書などをマメに送った。 
 
 このペンと筆による「妻の文箱」が、本という形を取っていないが、愛嬢によってまとめられていた。杉谷代水の生誕の地、境市立図書館にあることを知り、閲覧した。残念ながら印刷されていず、「禁帯出」である。

 それを貴重なものであるので、次に紹介したいと思います。


       
     妻への手紙


  註=手紙はすべて巻紙に毛筆、旧漢字、旧仮名づかい、あえて原文のまま写し、巻紙の文(ふみ)の丈(たけ)長きは、思いも多きことと喜ばれたようです。

 

 

  (以下今回)


    ⑪ 大正元年(1912)十月一日 夕  ①

         (注:表紙は「郵便はかき」が逆向きで、葉書表紙には菊の
   1銭5厘切手(今の52円にあたるか)、宛名は「相模国逗子  杉谷須賀殿 鳥取にて 虎蔵 十月一日 夕 」とある。

     (裏の絵葉書は千代川鐵(てっ)橋)

(注:代水の名前はこの鳥取の「千代川」に由来するが、これは「上田敏」に貰ったもの)

 

   十月一日 夕   ①

 この橋のやや下流のところにて 小生中学校の課程をうる
 洪水はこのあたり尤(もっと)も激しかりし由 死者百八十と
 報ぜらる 道路足を踏ミ入るの地も無ければ 多く歩かず
 絵はがきばかり見て情懐(じょうかい、注:心中の思い)を慰 (い、慰める)す 故舊(こきゅう、注:いぜんからの知り合いの人のこと)皆無事 水後の悪臭には慣れたれど虱(しらみ)
 には閉口 不眠
 

     

    ⑫ 大正元年(1912)十月一日 夕  ②

         (注:表紙は「郵便はかき」が逆向きで、葉書表紙には菊の
   1銭5厘切手(今の52円にあたるか)、宛名は「相模国逗子 杉谷寿賀殿 鳥取にて 虎蔵 十月一日 夕 」とある。

     (裏の絵葉書は氣高(けだか)郡鹿野町幸盛寺山中鹿之助の墓)

 

   十月一日 夕 ②

  法事無事終り おつるといふ老婦人の顔 父の面影に似て
 妙に哀れになつかしくなり 帰途茶町の橋まで見送り 金一封を贈りて別る 

  西方十満 安養界の佛たち 受けさせ玉へ 清き涙を  

  住谷の世話にて萬事早く運びたれば 明日は出発すべし 
                                 かしこ

                        



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