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明治の山陰の文学巨星 「杉谷代水」 (51)
今や忘れられつつある、鳥取の明治文学巨星「杉谷代水」について思い起こしてみたい。参考にしたのは、杉谷恵美子編『杉谷代水選集』冨山房、昭和十年(1935.11.12)、山下清三著『鳥取の文学山脈』(1980.11.15)、鳥取市人物誌『きらめく120人』(2010.1.1)などである。直接図書館などでのご覧をお勧めします。
杉谷代水愛嬢佐々木恵美子 『妻の文箱(ふばこ)』 ⑩
(前回まで)
平成12年(2,000)六月、杉谷代水の愛嬢佐々木恵美子は、ペンと筆によって「妻の文箱(ふばこ)」をまとめた。
これは、杉谷代水が妻の壽賀などに宛てた手紙、葉書の保存されたもので、母壽賀が大事にしていたのを平成12年(2,000)に愛嬢の恵美子がまとめたものである。
杉谷代水は明治四十四年(1911)十二月、宮田脩氏の媒酌により粟田壽賀子を迎へ逗子に新家庭を作り長女恵美子をあげた。父母はこの初孫をよろこばれたという。
しかし、結婚生活もわずか三年に満たない短さで、病は篤く覚悟をしていた彼は家族を枕頭に集め、遺言をなし、静かに合掌しつつ永遠の眠りに入ったのであった。
生前、杉谷代水は妻の壽賀などに対して宛てた手紙や葉書などをマメに送った。
このペンと筆による「妻の文箱」が、本という形を取っていないが、愛嬢によってまとめられていた。杉谷代水の生誕の地、境市立図書館にあることを知り、閲覧した。残念ながら印刷されていず、「禁帯出」である。
それを貴重なものであるので、次に紹介したいと思います。
妻への手紙
註=手紙はすべて巻紙に毛筆、旧漢字、旧仮名づかい、あえて原文のまま写し、巻紙の文(ふみ)の丈(たけ)長きは、思いも多きことと喜ばれたようです。
一 歌劇「熊野(ゆや)上演に際して
(明治四十五年二月、東京神田小川町の仕事部屋よ り逗子の宅へ)
劇場であんな葉書を出したのは、御許(おもと)に無駄な心配をかけたやうなものだった 帰りに電車の中で考えをまとめて見ると、存外単純なものになって、相談の問題はただ一つになる
熊野(ゆや)は二場で四十五分、運びはよい方、単純だから中心がはっきりして演(や)りよささう 大体は坪内先生(坪内逍遙先生)の評の通り、しかし始(初の間違い?)めてのものとしては全然失敗ともいへぬかも知れぬ、
少なくとも環女史(注:三浦(柴田)環のこと、明治17年生まれで、日本で初めて国際的な名声をつかんだオペラ歌手、東京音楽学校で、ピアノを滝廉太郎に学んだ。出し物はのちに有名な「蝶々夫人」などがある。
明治45年(1912)帝国劇場で杉谷代水のかいた「熊野(ゆや)」は、彼女が演じた)は失敗したと思ってはゐぬかも知れぬ
『熊野(ゆや)』について、三浦環は自伝でこう語っている。
「この『熊野』は当時非常に野心的な作品でした。背景も衣裳も全部歌舞伎風、それに西洋音楽の独唱、合唱とオーケストラを使ったのでして、うまくゆけば、日本独特の歌劇が生まれる。
私たち出演者は勿論作者も、それから当時帝劇専務で、こうした新しい歌劇運動に非常な情熱を捧げた西野恵之助さんも、一同燃えるような意気で熱演しましたが、結果は失敗に終わった。
處(ところ)で僕だけの利害から虚心で考へてみるに熊野(ゆや)の為めに帝劇及び観衆から僕の受けた傷は存外軽微であった
(注:帝劇の「熊野」を、宝塚少女歌劇の準備を進めていた阪急社長、小林一三が見ていた。小林は「熊野」についてこう書き残している。
「まだ宝塚を創めない前に、私は帝劇でオペラを見たことがある。三浦環や清水金太郎らが出ていて、演し物は『熊野(ゆや)』であった。ところが、それを見ながら観客はゲラゲラ笑っている。そのころの観客は大体芝居のセリフ、講談のセリフを聞きつけている人たちだから、『もォーしもォーし』といって奇声を発しているのがおかしくてしようがないのであった」)
先づ咎めれば、下の点
1 無断で文句を動かした事
2 新作と新聞に吹聴(ふいちょう、言いふらすこと、言い 広めること)
3 招待その他の礼を欠きし事
御許の虚心で聞いた意味を聞かしてもらひたい つまりこの一点可成(なるべ)く返事を請ふ
きのふ小田原の東儀君から手紙がきた。
同宿の巌谷小波(じわやさざなみ、注:明治から大正にかけての作家、児童文学者、俳人、処女作『こがね丸』で日本児童文学を開いた。博文館と組んで日本に児童文学をひろげた)
も先達て帝劇に無断興行をやられたとて憤慨せりとの事
実際無礼は無礼だ どこかで一度やられて当然ではあるが、今度は一方に法律問題も持ち上がるから、それだけにしておいてもいいかも知れぬ。
勿論「歌舞伎」に投書するつもり
つまり矢張り坪内先生の詞(ことば)の意味きき直す訳にもいかず当惑
なお、虎=代水本名 虎蔵
時子=寿賀子の妹
一 寿賀体調くづし養生法のこと
(大正二年六月、東京神田小川町仕事部屋より逗子宅へ)
きのふはむしあつく、けさはうす寒く変動の多い時候だ。おなかを少しいためて奔走(ほんそう)に都合がわるいが大したこともなからうと思ふ。
赤んぼにつづいていつか知ら、脚気(かっけ)の事は大分、経験家に聞いておいた。要するに胃の悪いのと便通のつかぬのとが近縁ださうだ。
大学病院などでは砂糖を禁じてゐるとの事。糖精はきく様子。しかしそれよりも百姓家で手臼にした米の糠の方がいいといって遠い田舎から取りよせてゐる人もあるの由。
逗子にはあるかないか、赤んぼに母の乳のやれないことを誰も彼も同情してくれる。
行末の體質(たいしつ)にも影響する事だから、この際御許(おもと)の健康回復に尽力を注いで見たい。薬品を薬屋から送らせておいたから、午後か明日に着くだらう。
滋養糖とマルツ汁は、鈴木先生によく用法を聞いて下さい。エーテルは茶色の友口(ともくち)ビンに入ってゐる栓を固くしておかないとすぐ揮発して了(しま)ふさうだ。
前にアルコールが一ポンドある。それは少しづつ他のびんに小出して脱脂綿(だっしめん)にひたして、背だの胴だのを残らずマッサージ的に擦(こす)ってもらふのです。
さうすると入浴せずとも垢(あか)が綿についてとれるから綺麗(きれい)になり、血液の循環が活溌になって脚気には極(ごく)いいさうだ。
面倒でも母か姉にたのんで毎日さうしておもらひなさい。腰湯はいいさうだから度々おやんなさい。
右アルコール摩擦のあとで腰部にカンフルチンキを塗るといい。浜の砂の上を朝早く歩く事も大学ですすめられてゐたさうだが、動悸の多い間は見合わせるがいい。
ゆで小豆は飯田町でもすすめられてゐられた。大学では小豆は利尿剤の外、著効を知らぬといってゐたさうだ。試みるなら先ず小量がよからう。
それも砂糖を入れてはならぬ。飯田町へは昨晩行って、うゐらうを頼んでおいた。おっ母さんが腸カタルであったが、もう全快した。
藤瀬のをぢさんは神経衰弱に何やらに何やらで病気でやりきれぬから、早く帰ったのだとかいってゐられたさうだが、相変わらず肥満で元気もいいとの事
(以下今回)
ここまで書いた處(ところ)へ久能君が来訪した。同君も自らの處の経験では糖精が著効があった様だといふから、取あえず一罐(ひとかん)買って見る事にした。
軍医学校でも使用してゐるさうだから、万更(まんざら)のものではないでせう。もう出かけねばならぬから、これで擱筆(かくひつ、注:筆をおくこと)する。
まァ用心してあまり劇動せぬやうに、恵美(注:娘の恵美子)も目ン目はよからうと思ふがおなかはどうかしら。
しかし苦しいのに筆を取って返事をよこすには及ばぬ。わたしは明後二日中に帰りたいと思ふが、どうなるか。皆さんへご苦労ながら満事(ばんじ)よろしくいって下さい。
用ヶ瀬の亀治さん(もう早稲田の亀治君だが)は、きのふ行きましたが、僕は行き違ひ。あへないで残念であったとよろしくいって下さい。
オギヤァ、オギヤァ 、オギヤァ、ヘッ、ヘッ、ヘッ(鼻を鳴らす音)。チュン、チュン(乳を吸う音)。
こんなものが耳についていけない。
さよなら
六月三十日(注:大正二(1913)年) 東京神田 虎蔵
寿賀どの