碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

米子散歩 ⑥

2007年08月08日 13時04分51秒 | 米子散歩

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                      米子散歩 ⑥   

 

 (宮ノ町)    

 宮ノ町(みやのちょう)である。現在、加茂町に入っている。
 堀端町の北、東西に走る道に沿う武家地である。町名は、加茂社・八幡社(現在は、賀茂神社天満宮)を祀ることにちなむ。

 近世は、三社(みやしろ)町、御社町あるいは宮城町と記されている。 長さ百二十五間、道幅五間。 ここには、伊木、鷲見、荒尾、岩越、野村、山本氏ら米子組士の屋敷があった。

 加茂社は、勧請されたのが吉川氏の時代の慶長三年(1598)と伝えられる。米子の産土神とされ、米子の旧名加茂は、この神社にちなむという。

 元和四年(1618)、加藤貞泰から糺(ただす)神社(現在の鴨御祖神社)・弁才天(現在の宇気河口神社)とともに社領十五石を寄進された。池田氏からは十二石を寄進された。

 例祭日は、はじめ九月九日で、神輿は城の追手門あたりで神事の後、海岸にちかい馬場丁通を通り、灘町の宇気大明神を御旅所とし、内町、片原町を経て還幸した。

 のち文化年間(1804~18)から例祭は六月十九日にかわり、神輿巡幸区域も城下町中をすべて巡ることになった。

   深浦の祇園社(現深浦神社)は、牛頭天王やスサノオの神を祭神とし、疫病をふせぐ神として古くから信仰された。京都の祇園社(八坂神社)が本社である。 祇園さんは、水辺を守る神としても信じられていたので、米子城の裏にある水軍の根拠地である深浦に、江戸時代はじめからまつられていた。

   氏子は塩町と大工町(いまは愛宕町、祇園町も)で、おもに大工町の人たちが神輿をかついで町中を練り歩き、夜に深浦から提灯で飾った船を仕立てて中海に漕ぎだし、加茂川口の宇気河口神社で休んだのち海上を宮に帰った。

   このような行事を、神様の「海上渡御」というが、現在はもう見られなくなってしまった。 祇園社は、明治五年(1872)神田神社の末社とされ、深浦神社と改められた。

 などが進出した。
加茂社の北西には的場があり、米子家中の弓術練習場として使われた。また、境内の井戸水は古来より「宮水」と称し、大正末期の上水道通水まで、町民の良質な飲料水として尊重された。

 加茂社の西隣の八幡社は、「軍陣八幡宮」ともよばれた。城の鎮守として中村氏により勧請された。旧社地は八幡丸とよばれる。社屋破損によって延宝八年(1680)加茂社の隣地に移された。
 明治初年、加茂社は八幡社を合祀、賀茂神社となる。昭和三十七年(1962)天神町の稲荷神社を合祀、賀茂神社天満宮と改称した。

 稲荷神社の近くには、加藤氏時代末の二年間、中江吉長が孫の源蔵(のちの中江藤樹)を養育した屋敷跡があり、「中江藤樹先生成長之地」の祈念碑が建てられている。

 明治末期には、米子税務署、大正十一年(1922)には、博愛病院などが建設された。昭和以降も道路も拡張され、米子商工会議所、広島電気(現中国電力)山陰支所などが進出した。



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