碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

西田 税(みつぎ)のこと (71)

2019年09月20日 20時27分45秒 | 西田 税のこと

ebatopeko

         西田 税(みつぎ)のこと (71)

       ( 『無 眼 私 論』 3)  

 米子ゆかりのジャーナリストの碧川企救男は、民衆の立場から権力への抵抗、批判をおこなった。それは、日本中が戦争に狂喜した「日露戦争」のさなかに、この戦争が民衆の犠牲の上におこなわれていることを新聞紙上で訴えたことにも表れている。

 一方、同じ米子に生まれ育った西田税(みつぎ)は、碧川企救男とまったく別の角度から権力批判をおこない、結果その権力に抹殺され、刑場の露と消えたのである。この地に住む者として、西田税のことを調べてみたい。

  西田税に関する文献は多岐にわたる。米子の山陰歴史館の発行された『西田税資料』を基本資料とした。

 さらに高橋正衛『二・二六事件』中公新書、小泉順三『「戦雲を麾く」西田税と二・二六事件』)、須山幸雄『西田税 二・二六への軌跡』、澤地久枝『妻たちの二・二六事件』なども参考にした。

 また、最近発刊された、堀真清『西田税と日本ファッシズム運動』(岩波書店)は、西田税に関する現在の到達点と言える研究である。実に教えられるところが大きかった。きわめて大冊であるが、関心のおありの方は是非ご覧いただきたい。

  ここではこの著をもとに記していきたい。但しあくまで私の主観で解釈し取捨選択しており、堀氏の著作をないがしろにするものではありません。堀氏の著作の価値は実際に原著をお読みいただければ十分に納得いただけます。

  はじめに西田 税の自叙伝である「戦雲を麾く」を中心に彼の道筋をたどる。「麾く」は「さしまねく」と読む。

 西田税は、明治三十四年(1901)十月三日、米子市博労町に父久米造、母つねの二男として生まれた。

 当時の歴史的資料も扱っているので、今からみると差別的な部分もありますが、ご了承をお願い致します。

  西田税が、書に秀でていたことは、小学校六年に筆で残した「整頓掃除和楽育児交際慈善」の端正な肉太の字に明らかである。私などは足許にも及ばない。

 そして彼の文章力が素晴らしいものであることは、『戦雲を麾(さしまね)く』を読めばよく理解されるところである。ところが彼の遺したまとまった著作は自伝といえる『戦雲を麾く』と『無眼(むがん)私論』の二冊しかない。

 しかし『戦雲を麾く』はわりあい知られているが、『無眼私論』はほとんど知られていない。そこで、ここでは『無眼私論』を『現代史資料5』「国家主義運動(2)」(みすず書房)にもとづいて紹介したい。

 そこには昭和維新の大立者というイメージからはほど遠い女々しい面も見られると言われる。大正ロマンチシズムもみられるとも。次の詩にはそれがよく現れている。

 「詩と死と、   死は詩なり、   死は人生生存の終焉にして永遠に生存すべき発路(ママ)なり、   ー人生の光彩は実に此間に見るべし、   死は美し、   吾人は吾人の死をして真に美しからざしめるべからず」

(以下今回)

 天は余をこの試練に遭はしめたのである、 そして余はこの苦難に打克たねばならないー微々たる体的苦悩で はないか 天の恩寵実に茲に及ぶ、ー余は茲に於て絶大の感謝を天に捧ぐる のである、

余は静かに過去を辿った、 平生余が探得した真理は余自身之に対して十全の従順をいたした か? 哲理に対して余は十全の誠を発露したか? 理想に十全の誠を濺ぎ懸けたか? 主義は純真なる余を認め得しめたか? 茲の問に対する余の答へはまこと十全ではない、 それは自ら認めるのである、

「真に哲理的合理的美的人生に活きよう」とは余が衷心の叫びであ る 而して過去はあの様である、 今度のことーそれは余の不良なる過去の終焉であって新しき生の 発程であらねばはならぬ、 天は余にこの時機を寄与したものである、

新しく真の理想的人生に活きよう、 信仰とは更に確立したのである、 余は今や天心を見て居る、 庭青いよいよ大きくなりて春は将に酣ならむとするのである、 身体の苦悩已に去って胸患独り癒ゆるに至らず

恍然として和熙たる春光に対し三界の想華はまこと美しくも懐しい のである 詩的人生の新しき大道を往かむ

        二五八二、三、一一

 (注:皇紀で、当時の年号では大正11年となり西暦では1922年になる。皇紀年号とは神武天皇即位を元年とする。皇紀2600年が昭和15年となり、皇紀末尾数字をとって「零式艦上戦闘機」(いわゆるゼロ戦)などの名前の由来である。なお皇紀元年は西暦でいえば紀元前660年になる)

 

 


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