碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

西田 税(みつぎ)のこと (70)

2019年09月16日 08時51分53秒 | 西田 税のこと

ebatopeko

         西田 税(みつぎ)のこと (70)

       ( 『無 眼 私 論』 2 )  

 米子ゆかりのジャーナリストの碧川企救男は、民衆の立場から権力への抵抗、批判をおこなった。それは、日本中が戦争に狂喜した「日露戦争」のさなかに、この戦争が民衆の犠牲の上におこなわれていることを新聞紙上で訴えたことにも表れている。

 一方、同じ米子に生まれ育った西田税(みつぎ)は、碧川企救男とまったく別の角度から権力批判をおこない、結果その権力に抹殺され、刑場の露と消えたのである。この地に住む者として、西田税のことを調べてみたい。

  西田税に関する文献は多岐にわたる。米子の山陰歴史館の発行された『西田税資料』を基本資料とした。

 さらに高橋正衛『二・二六事件』中公新書、小泉順三『「戦雲を麾く」西田税と二・二六事件』)、須山幸雄『西田税 二・二六への軌跡』、澤地久枝『妻たちの二・二六事件』なども参考にした。

 また、最近発刊された、堀真清『西田税と日本ファッシズム運動』(岩波書店)は、西田税に関する現在の到達点と言える研究である。実に教えられるところが大きかった。きわめて大冊であるが、関心のおありの方は是非ご覧いただきたい。

  ここではこの著をもとに記していきたい。但しあくまで私の主観で解釈し取捨選択しており、堀氏の著作をないがしろにするものではありません。堀氏の著作の価値は実際に原著をお読みいただければ十分に納得いただけます。

  はじめに西田 税の自叙伝である「戦雲を麾く」を中心に彼の道筋をたどる。「麾く」は「さしまねく」と読む。

 西田税は、明治三十四年(1901)十月三日、米子市博労町に父久米造、母つねの二男として生まれた。

 当時の歴史的資料も扱っているので、今からみると差別的な部分もありますが、ご了承をお願い致します。

  西田税が、書に秀でていたことは、小学校六年に筆で残した「整頓掃除和楽育児交際慈善」の端正な肉太の字に明らかである。私などは足許にも及ばない。

 そして彼の文章力が素晴らしいものであることは、『戦雲を麾(さしまね)く』を読めばよく理解されるところである。ところが彼の遺したまとまった著作は自伝といえる『戦雲を麾く』と『無眼(むがん)私論』の二冊しかない。

 しかし『戦雲を麾く』はわりあい知られているが、『無眼私論』はほとんど知られていない。そこで、ここでは『無眼私論』を『現代史資料5』「国家主義運動(2)」(みすず書房)にもとづいて紹介したい。

 そこには昭和維新の大立者というイメージからはほど遠い女々しい面も見られると言われる。大正ロマンチシズムもみられるとも。次の詩にはそれがよく現れている。

 「詩と死と、   死は詩なり、   死は人生生存の終焉にして永遠に生存すべき発路(ママ)なり、   ー人生の光彩は実に此間に見るべし、   死は美し、   吾人は吾人の死をして真に美しからざしめるべからず」

(以下今回)

   新生に活きむ

 大正十一年二月二十二日夕、何となく不快を覚へた余は就寝の許可を得て自習室を去った、暗い寝室の寝台に潜り込んだのが丁度夜の第二自習の開始頃である。グラグラする様な頭の気分を押へていろいろ妄想に耽った、・・・・・・

 騒々しい跫音に気が付いたとき余は今迄夢を浅く辿って居たのを知った、其時余は多少発熱している居るのを覚えた。間もなく消燈だと寝室の学友は云った、

 「大分熱があるのー」Sは余の額に掌をあてて言った 皆はよって来た、そして口々に大事にせよと余に告げた、 それからウツラウツラして居るとやがて消燈の喇叭は暗を破って長く長く余の耳朶を衝いたのであった。

 あくる朝、余は日朝点呼に立ち得なかった、 身体頗る倦怠を」感じ頭痛を覚え、ハッキリした意識は殊更に余の心を悩した、

終日余は黙々として寝室に天井を眺めて暮した、嗟呼余はかくして体的苦悩のために起つ能はざるに至ったのである、

診断を受けた、 「これやー入院ぢゃ、右胸部の打診の音をきけ、明瞭なもんぢゃ」

軍医の叫びの異様さと右胸部の打診の気味わるきひびき、 余は胸膜炎の比較的甚いのに侵されて居るのだった、

爾来四日間、余は陰惨な医務室の一隅にある休養室に籠らざるを得なかった、 動けない、熱は平生も三十八度を越し脈搏は百を越して居た、

二月に二十八日 入院、 極度に疲労した身体をしっかりと強い意識で維持しつつ電車を半蔵門で乗りすてた、 真青な、痩せ衰へた余の姿は電車の同乗客の眼を牽いた、ー軍服をつけた哀れな人間であった、

病院の受付で十二番室といふことをきいて幾棟かの建物を抜けた、 病室に這入って病衣に換へ床に潜り込んだのはまるで夢の様だ、今から考へるとそれをハッキリ思出すことが出来ない、身体の極度の衰弱は実に精神にも影響して居るのであった、

夕方軍医の診断を受けた、 三年の休養ーそれも其間に生命に絶大の危険を伴ってゐると云う、 肺尖、胸膜の支障と之れに伴ふ内臓の衰弱ーこれは余の病を推した無理から来たのであった

絶対安静 これ丈けを宣告せられ更に身体自分のものだ、少しは之れと相談して物事をせねば駄目だといふ訓戒を頂戴した、余は今更別に驚かなかなかったが、「駄目か知ら、永劫に沈黙すべき秋を迎へつつあるのぢゃないか?」といふことを疑った、

余は幾度か迷った、 前途を抛棄せよと言はむばかりの軍医の言を繰返し繰り返し思ふのだった、

三月は来た、春は来た、神は来た、窓外庭の青みは日毎に大きくなってゆく、余は毎日妄想に日を送った、 熱も漸次に下がった、

診断の度に様子を尋ねたが軍医は脅しつける様なことのみ余に語った、ー十字街道に立てる子は我ながら哀れを感じたのであっ、ー迷ふた。

日曜の友の訪れの如何に嬉しかりしよ、 学校では余の重態を伝へた相だ、そして多くの人々の憂を生じたといふことであった。 検痰もやった、しかし何でもなかった。

故山の老父からは「精神堅確に信仰に活きよ」と訓へて来たー朝夕神仏に平癒を祈願して居るといふ老父の御愛情には病床人知れず泣いたのである。

 ああどうしても活きねばならぬ、忠孝の道に名をなさねばならぬ、今れるのは不忠であり不孝である、

余は茲に大勇猛心を起こした、そして一切の迷は去る、そして茲に平生求め得来たった信仰は再び光明を余の心に投げかけた、

旧区隊長である来島大尉、新妻中尉其他の朋友からは毎日の様に見舞と慰安との音信に接した、余はこの好意に泣かざるを得なかった、「何を以て報いやうか?」余は再び思った。 忠孝に活きよう、これが凡てに対する報酬の最も高価なるものである、

ー理想の実現である、 余はどうしても今仆れてはならぬといふ事を考えた、


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