碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

西田 税(みつぎ)のこと (46)

2019年07月21日 17時17分49秒 | 西田 税のこと

ebatopeko

         西田 税(みつぎ)のこと (46)

    (護憲運動と大正デモクラシー) 

 米子ゆかりのジャーナリストの碧川企救男は、民衆の立場から権力への抵抗、批判をおこなった。それは、日本中が戦争に狂喜した「日露戦争」のさなかに、この戦争が民衆の犠牲の上におこなわれていることを新聞紙上で訴えたことにも表れている。

 一方、同じ米子に生まれ育った西田税(みつぎ)は、碧川企救男とまったく別の角度から権力批判をおこない、結果その権力に抹殺され、刑場の露と消えたのである。この地に住む者として、西田税のことを調べてみたい。

  西田税に関する文献は多岐にわたるが、概略を紹介するために、みすず書房『現代史資料』、学芸書林『ドキュメント日本人ー西田税』など基本的なもの、および米子の山陰歴史館の発行された『西田税資料』をもととした。

 さらに高橋正衛『二・二六事件』中公新書、小泉順三『「戦雲を麾く」西田税と二・二六事件』)、澤地久枝『妻たちの二・二六事件』なども参考にした。

 はじめに西田 税の自叙伝である「戦雲を麾く」を中心に彼の道筋をたどる。「麾く」は「さしまねく」と読む。

 西田税は、明治三十四年(1901)十月三日、米子市博労町に父久米造、母つねの二男として生まれた。碧川企救男より二回りすなわち24歳下である。

      (以下今回)

 田中義一内閣の登場までの大正時代の政治情勢について記す。

 そもそも大正時代は「大正デモクラシー」といわれるように人々の声が政治に反映されるようになった社会風潮があった。そのきっかけが第一護憲運動、そして第二次護憲運動という二度にわたる「護憲運動」であった。その初めはまさに大正の幕開けとともに切っておとされたのである。

 大正元年(1912)11月、陸軍大臣上原勇作は朝鮮に二個師団の増設要求を提案した。これに対して、国民の支持をえて、行政整理と減税をかかげた西園寺内閣は、閣議で財政上不可能として否決した。東京商業会議所も二個師団増設に反対で、行政整理を主張した。

 ところが、上原勇作陸軍大臣は、元老の山県有朋と相談し、12月に直接天皇に辞表を提出した。これを「帷幄(いあく)上奏」という。さらに後任の陸軍大臣を出さなかった。つまり「軍部大臣現役武官制」によって西園寺内閣を倒そうとしたのであった。西園寺内閣はこうして陸軍の横暴によって退陣させられた。

 国民の支持をえていた西園寺内閣が軍部の横暴によって倒されたことに対して、国民は憤激した。さらに西園寺内閣のあとには、当時内大臣という宮中にあって天皇を補佐する地位にあった、長州出身・もと陸軍大将の桂太郎内閣が誕生した。

 宮中と府中、すなわち政府とは厳格に区別されていたのであった。にも拘わらず宮中から転じて総理大臣になるということに対して、翌年1月、桂太郎の退陣を要求し、「憲政擁護・閥族打破」をスローガンにする護憲運動が始まった。これが第一次護憲運動である。   その中心は尾崎行雄の立憲政友会と立憲国民党の犬養毅であった。両党は桂内閣不信任案を提出した。これに対して桂太郎は、新党の立憲同志会を結成して対抗しようとした。

 尾崎行雄は、このとき桂太郎に対し「玉座(天皇)をもって胸壁となし、詔勅をもって弾丸に代えて政敵を倒そうとするものではないか!」と議会で迫った。桂太郎は顔面蒼白となったという

 2月10日、。桂太郎は不信任案を避けるため、議会を3日間停止した。これを知った人々は議会を取り囲み、議会周辺には数万人の群衆が「憲政擁護・閥族打破」を叫んでだ。ついに桂太郎は在職53日で辞任することになった。これが「大正政変」であり、一連の動きを第一次護憲運動という。

 さらに大正末の13年(1924)1月、貴族院・官僚をバックに清浦奎吾内閣が誕生した。清浦はいわゆる「超然主義」と唱えた。すなわち議会や政党から超然として、独自の方向をとるというものであった。

 これに対して、政友会、憲政会、革新倶楽部の三党は、清浦内閣打倒の運動を始めた。これが第二次護憲運動とよばれるものである。このさなか、1月26日に摂政宮裕仁親王(のちの昭和天皇)が久邇宮良子(ながこ)女王と結婚式を挙げたのであった。     その4日後の1月30日、政友会の高橋是清、憲政会の加藤高明、革新倶楽部の犬養毅の三党の党首が乗車していた列車の転覆未遂事件がおこった。

 5月10日、第15回衆議院議員選挙がおこなわれた。結果は憲政会151人、政友会105人、革新倶楽部30人となり、三党合計は286人にもなった。与党の政友本党は109人で惨敗した。

 6月、清浦奎吾内閣は衆議院議員選挙の敗北をうけて退陣し、かわって憲政会の加藤高明内閣が誕生した。いわゆる「護憲三派内閣」である。

 この護憲三派内閣では、長年の願いであった普通選挙法(一定の年齢以上のすべての男子ーこのときは25歳ーに選挙権を与える)が成立した。また幣原喜重郎が外相となり、対外協調主義が実施されることとなった。

 このあと加藤高明が1926年1月病死したため、同じく憲政会の若槻礼次郎憲政会内閣へと昭和2年(1927)までつづいた。

 しかし、幣原外交の協調主義に反対する軍部の不満は蓄積された。 昭和二年(1927)3月金融恐慌が起こった。若槻内閣の台湾銀行救済案が、幣原外交を不満とする枢密院の反対で倒れると、政友会総裁であったもと陸軍大将の田中義一を総理に担ぎ出した。

 田中義一内閣は、外相も田中が兼ねると、幣原協調外交から強硬外交に転じた。 それは中国における蒋介石による北伐の進行に対して、第一次および第二次の山東出兵をおこなうことで示された。

 さらに、1928年には満州の雄、張作霖を爆殺するといういわゆる「満州某重大事件」を引き起こした。その上、国内的には「治安維持法」を改悪し、死刑罪を適用出来るように変えた。左翼運動に対する脅しであった。

 しかし、田中義一は張作霖事件にからんで、天皇から叱責されたことにより失脚に追い込まれたのであった。

 


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