碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

西田 税(みつぎ)のこと (45)

2019年07月21日 17時16分57秒 | 西田 税のこと

ebatopeko

         西田 税(みつぎ)のこと (45)

    (政党結成) 

 米子ゆかりのジャーナリストの碧川企救男は、民衆の立場から権力への抵抗、批判をおこなった。それは、日本中が戦争に狂喜した「日露戦争」のさなかに、この戦争が民衆の犠牲の上におこなわれていることを新聞紙上で訴えたことにも表れている。

 一方、同じ米子に生まれ育った西田税(みつぎ)は、碧川企救男とまったく別の角度から権力批判をおこない、結果その権力に抹殺され、刑場の露と消えたのである。この地に住む者として、西田税のことを調べてみたい。

  西田税に関する文献は多岐にわたるが、概略を紹介するために、みすず書房『現代史資料』、学芸書林『ドキュメント日本人ー西田税』など基本的なもの、および米子の山陰歴史館の発行された『西田税資料』をもととした。

 さらに高橋正衛『二・二六事件』中公新書、小泉順三『「戦雲を麾く」西田税と二・二六事件』)、澤地久枝『妻たちの二・二六事件』なども参考にした。

 はじめに西田 税の自叙伝である「戦雲を麾く」を中心に彼の道筋をたどる。「麾く」は「さしまねく」と読む。

 西田税は、明治三十四年(1901)十月三日、米子市博労町に父久米造、母つねの二男として生まれた。碧川企救男より二回りすなわち24歳下である。

     昭和四年(1929)三月、西田税は「不戦条約御托准秦請反対同盟」に参加した。

 この不戦条約とは、1928年8月27日にアメリカ、フランス、イギリス、ドイツ、イタリア、日本などがパリで調印した戦争の拡大を防ぐために結ばれた国際条約である。

 但し、当時の日本では、政友会の田中義一内閣であったが、その第一条が「人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言」するとあることから、天皇大権に違反するとの枢密院や右翼からの批判を受けた。

 西田の反対運動も、この右翼の反対運動の一環であった。

 田中義一内閣の登場までの、大正時代の政治情勢、とくに大正デモクラシーについては別稿で記す。

 さて不戦条約についてであるが、田中義一内閣はアメリカに修正を申し入れたが、受け容れられず、結局、この条項は日本には適用しないことを条件に昭和四年6月27日に批准したのであった。

 さらに西田税は、昭和四年五月には「信州国民党」なるものを結成した。これは、我が国最初の愛国無産党である。

 これは、5月26日八幡博堂、鈴木善一によって松本市に設立された。総理には野田喜代志がなり、顧問に右翼の巨魁頭山満と内田良平が就任した。西田税は統制委員長に就任している。

 そのねらいは、ロシア革命によって出来たソヴィエト、ロシアが「日本爆破」を計画しているとし、世界を共産主義化しようとしているこれらの動きに対して、有色人種の尖端となって戦うというものであった。

 同年11月には、「日本国民党」と改称し、昭和五年(1930)二月の第二回普通選挙には八幡博堂が信州から立候補したのであった。さらに昭和六年(1931)11月には「大日本生産党」に合流するにいたった。 


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