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夏目漱石の第六旧宅は、2016/04/14の熊本地震で被害はなかったのだろうか?
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「坊っちゃん」の松山より長い期間を過ごし、後に「草枕」を生んだ「熊本の漱石」はあまり知られていない。
夏目漱石が旧制五高(現・熊本大)の教師として熊本に赴任した際 暮したらした旧居(熊本市中央区北千反畑町)の保存運動が進んでいない
漱石は1896(明治29)年、前任地の松山を離れ旧制五高に赴任。1900年までの4年3カ月の熊本暮らしの間に、結婚して長女も誕生した。その間たびたび転居し、少なくとも6軒に住んだ。
熊本市によると、この6軒のうち第3旧居(熊本市中央区水前寺公園=移築)、内坪井旧居(同区内坪井町=第5旧居。市指定史跡で、一般公開中)と第6旧居(同区北千反畑町)の3軒が現在も残っている。当時と同じ場所に残っているのは、全国でも第5と第6の2軒だけだという。
保存が持ち上がっているのは、漱石の「熊本時代最後の家」である第6旧居。100年以上前に建ち、老朽化した旧居と土地の所有者側が2014年末、保存を前提に手放す意向を示した。
現在、第6旧居である北千畑町の家は、現在は一般住宅のため公開されていない。
漱石は1900年の英国留学前、数カ月をこの家で過ごした。この時期に「菜の花の隣もありて竹の垣」の句も生まれたという。
木造2階建てで、敷地は約600平方メートル。所有者は関西に住み、その親族で熊本市の磯谷精一さん(81)らが管理してきた。
磯谷さんの父親は、漱石が住んでいた当時、午前2時すぎまで2階の明かりがついていたのを覚えていたという。
2011年ごろまで親族が住んでいたが、その後は空き家に。壁にひびが入るなど傷みが目立ち、「管理が大変で、このままだと取り壊さざるを得ないが、保存のために文化団体などに管理をお願いできれば」と磯谷さんは話す。
熊本市文化振興課は第6について、「熊本時代最後の家で保存の必要は十分理解できる。文化財として保存する価値があるか調査しないといけない」と話す。
ただ、購入については「財政も厳しく現時点で市として購入する考えはない。保存と管理については、今後民間団体との話し合いが必要」との考えだ。
漱石ファンでつくる「くまもと漱石倶楽部」の和田正隆会長らは事情を知り、保存に向けて購入費の募金などの検討を始めた。同倶楽部が呼びかけて発足した記念年100人委員会の総会(2015/3中旬)を皮切りに、活動を具体化させる方針だ。
漱石研究者で元熊本大教授の中村青史さん(81)は「難しい話ではなく、文豪が住んでいた家が当時の場所にそのまま残っていることに価値がある」と指摘する。
第5より第6の方が当時の原形をとどめているといい、「空襲や大水害も生き抜いた。民間から寄付金を集め、全国に呼びかけたい」と話す。
保存を求める声は、県外からも上がる。
歴史建築の保存・記録に取り組む市民団体「明治建築研究会」(大阪府堺市)の柴田正己代表は、熊本市などに文化財としての保全を求めるメールを送った。柴田代表は「漱石が生活していた『歴史』を残すことが大事。関西からも募金などのお手伝いができれば」とエールを送る。
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熊本県によると午前5時現在、県内のけが人は少なくとも860人で、うち53人が重傷。県内約500カ所に一時約4万4400人が避難した。
気象庁によると、15日午前9時までに震度1以上の余震を120回観測。
今後1週間は激しい揺れを伴う余震に警戒するよう呼び掛けた。県警と消防は被災者の救出作業を続ける一方、被害状況の確認を急いでいる