関西ミドル 雑記帳
不動産賃貸業 元ゼネコン勤務
 



ズビグニュー・ブレジンスキー
2017年5月26日没(89歳)

1976年の大統領選においてカーターの外交政策アドバイザーを務め、カーター政権発足後に国家安全保障問題担当大統領補佐官に就任。
反共主義者ながら、一方で中華人民共和国との米中国交正常化に取り組み、後にG2論者にもなってることから親中派であったとされる。

(G2(Group of Two)  米中2大国で国際社会の秩序を担うとする考え)

ハト派の多い民主党の中では異色のタカ派(リベラルホーク)でもあり、ソ連のアフガニスタン侵攻に対するムジャヒディンの支援やペルシャ湾をアメリカの権益と見做して中東への軍事介入も掲げたカーター・ドクトリン(英語版)を策定した。

ポーランド生まれ。
米ハーバード大で博士号を取得し、米コロンビア大教授などを経て、1977~81年に大統領補佐官を務めた。中国との国交正常化や第2次戦略兵器制限条約(SALT2)の調印などに尽力した。

退任後も米外交界の重鎮として存在感を示し、ヘンリー・キッシンジャー元国務長官らと並び称された。
70年代に半年間在住した日本の閉鎖性や変革能力の乏しさなどを「ひよわな花」と表現した。
急速な経済発展を遂げた日本が政治外交領域ではいまだに独立した行動をとる力を持っていない「ひよわな花」であると論じ、日本で大きな注目を浴びた。
冷戦後に発表した『ブレジンスキーの世界はこう動く』でも、日本に対する基本的な見方は継承されている。



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