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楽居庵

私の備忘録

再々佐川美術館 蘆聚茶会へ

2014-11-25 10:09:51 | 茶会

11月19日蘆聚茶会へ、前回訪れたのは二年前の蘆が青々としていた6月の青蘆茶会であった。このたび願いが叶い、水面(みなも)を映している枯蘆の季節となった。佐川美術館に着いた12時頃、手びさしする位の日ざしに湖西の陰影は感じられなかった。

  

休館の札があり、この日は6席の各席6名、計36名のために設けられた様子で館内は静まり返っている。何という贅沢なひと時であろうか。ただ移りゆく刻を枯蘆と水が支配する時と空間、最後の席2時40分まで美術館地下の「新兵衛の樂 吉左衛門の萩」展示を回る。

 

パンフレットより少し抜粋させていただく。「第6回目となる吉左衛門Xでは、萩焼・十五代坂倉新兵衛氏と樂焼・十五代樂吉左衛門氏とのクロストーク・コラボレーション展を開催いたします。今回、坂倉氏は樂焼に、樂氏は萩焼に挑戦。それぞれ、相手方の製作法を用いて製作します。(中略)」

 最後に「冒険的かつ刺激的な試みと言えます」と結んでいるが、まさしく刺激的なワクワクするような二人の作家のチャレンジを作品を通して見ることが出来た。この展示は来年の3月29日まで、合わせてその経過を一冊の本「新兵衛の樂 吉左衛門の萩」(世界文化社)を出版された。

さて、点心席は本館特設席に案内される。水庭を眺めながらの一献は萩の露という滋賀の銘酒、珍しくぐっときたのはこれから席入りすることへの緊張感を和らげる序段? 松茸真蒸も初物でとに角頂くことに専念して。

 

その後、階段を下り目を凝らしながら寄付へ。寄付には当美術館の方と席主方の二人が袴姿りりしく、寄付に掛物「伝燈 孝淳」一字、席主がこの3月比叡山延暦寺に上られ第256世半田孝淳天台座主に染筆をお願いされたとの説明、さてもこの蘆聚茶会のテーマは「伝燈」であった。

 汲出しの湯はまろやか、白磁の椀は黒田泰蔵氏の薄造り、行李盆に乾山深省銘詩入「閑居有余楽奔走…」に松林かとおもわれる画賛の大きな火入をしばし鑑賞。まもなく銘々皿に金団、何とも軟らかくいただくのにてこずっているとき、「招福楼(東近江・八日市)のご主人は上手にお食べになりましたよ」といわれて、さもありなん招福楼の黒豆金団でありました。銘は“埋火”、金団のなかに赤い火が、いよいよ会の核心に入っていったようです。

 それから腰掛待合へ、ドームの壁に水の落ちる音だけが伝わる、そのときガラガラと開けられる音、蘆聚茶会の席主の官休庵・千宗屋若宗匠が蹲われた。無言の挨拶、ガラガラの戸が閉まる。そしてガラガラの戸を開け闇に近い露地を進むと蹲へ、スリットよりもれる明かりを受けて清め、小間の磐陀庵へにじる。正面の台に燈が照らしているのは仏画と思われるがもとより私にはわからない。

 寄付の「伝燈」であるからに、まさか比叡山の「不滅の法燈」の灯であろうかとその灯りにかしこまっていると磐陀庵の襖が開き、千宗屋武者小路家元後嗣が現わる、一同深く黙礼。

この一席のテーマは「伝燈」、延暦寺の創建時より絶えることのない「不滅の法燈」の「分燈」を現代というなかに据えて、改めて伝統の意味を共有しその継承の重みを強く伝えようとの茶会の趣向ではなかったろうか。「分燈」しての茶会は過去にも例がなく家元後嗣の決意が感じられる。

 道具組にも後嗣たる利休伝来のしつらえが、まさに濃茶を練るに良き煮えの阿弥陀堂釜は与次郎、向切に水指は盛阿弥の黒手桶、前に濃き藍色の仕覆の茶入、午後4時前の刻で天井高の明かりとりから射す陽は「昨日より明るいですね」と連日の茶会の日差しの違いを話される。陰翳ありての磐陀庵である。

 さて黒茶碗を持出される。馥郁たる香りが小間だからこそひろがり待たれる。私にとり始めての若宗匠自ら練られた一啜である。たっぷり練られているので遠慮なく頂く。若宗匠が「もし美味しいと感じられるのならこの水は横川より運ばれた水です」。まさに火と水と、生きるに欠かせない大事な命を伝教大師最澄の時代と今を共有した一瞬であった。

 当代樂吉左衛門氏の茶碗であった。「平成15年後嗣号宗屋を襲名した折に当代に焼いていただいた茶碗です。その後使う機会がなく今回この茶室で使いました」と話されるが願ってもない茶碗であった。生意気なことを言わせていただければ、大きくて彫刻的でもあり茶陶的でもあり、そして女性の手にも扱え、ずっと手に抱えたかったが早く廻さなければならない。出帛紗は金モール、伝来であろうか手にずしりと金の重みが感じられる。茶はお好みの福寿の昔(柳桜園詰)。

 茶杓は珠光、紹鴎、利休と続く茶統の一筋である珠光の真の茶杓である。真中に樋が一筋通っている茶の宝である。それでわかった、何と理解のおそい我ながらこの席に入る資格がないと恥じ入るばかりであったが、「法燈」の前に灰被天目茶碗にて献茶をされていたのだった!

 茶入は温故知新、現代作家の内田剛一氏の瓶子形でした。席主は「蓋を替えて使いましたが、会にもいらっしゃいました当の作家も自分の作品であると判らなかったようです」と。蓋により印象の変わることの道具の面白さも趣向である。その茶入を包んでいるのは志村ふくみ氏の仕覆であった。水を湛えた琵琶湖の深藍に一糸が織り込まれて水の緒のような“ふくみ芸術”。

主は茶道具は勿論のこと日本美術史、古美術、そして現代美術と幅広く何時までも話しをうかがいたかったが日も傾き磐陀庵は落日の気配、次の俯仰軒広間へ移る。磐陀庵へ何段かの階段を上るとそこは磐陀庵への思いを断ち切るように眼前に末枯れた枯蘆と落日のなかに比叡の山並みがくっきりと、一同感嘆の声しきり。障子を開けられたままにされ、自然と一体になりながら席入りする。現代建築の茶室でありながらもてなされる主催方のベストな環境設計に再三ながら心から嗚呼という他ない。

 

正面の掛物は、この度の染筆官休庵家元有隣斎徳翁宗守の「燈々無盡」の横物、濃茶席と呼応して頭をたれる。前には昭和31年延暦寺大講堂は放火にあい、その古材による花入である。確か側面の一部は朱になっていたのではないか、野菊がさりげなく。

足元が危なくなるので先を急がねば、佐川美術館の学芸員の方々がおもてなしして下さる。香合は仁清、書院に現代作家の五輪塔(作家名失念)、主茶碗は二代常慶と並ぶ宗味の黒楽という。このような茶碗が出てくるということはどういうこと?と楽音痴の私は思う(ん!楽に限らないけれど!)。それから限られた時間に岡部嶺男(来春の1月12日まで菊池寛実記念智美術館にて開催中)、空中、乾山など(などと云っては誠に失礼と思うのでありますが拝見できませんでした)。

この頃若宗匠がお見えになる。数日間の茶会でこの俯仰軒に一度もお座りになられなかった由、見えられたときに上座へお進めする配慮がなかったことは返す返すも客一同の失態。「次の世代に創意工夫をお伝えしていきたい」という強い決意が言葉にも茶会の組立てにも、その背景には若宗匠が幼き頃より足繁く通われたという比叡山延暦寺座主の薫陶や道統のお立場が感じられた。

 茶杓は藤村庸軒作、庸軒は琵琶湖畔の堅田にゆかりがあり優しく繊細な茶杓である。棗は確か八代休翁宗守好みにて、不昧は八代と親交があったので不昧好みとしてデザインをアレンジした菊蒔絵大棗だったような気がする。蓋置は当代楽の船の錨のような形でしょうか、何か愛おしくて握ったまま。

 

暮れ易しの佐川美術館水庭の茶室に心を残して退出した。

 (追記:地下の展覧後、樂吉左衛門館ロビーにて熊本・菊池市のうすい干菓子の松風で香煎を頂く)

 

(追記:俯仰軒を退出するとき、磐陀庵より読経が…、一連の茶会を終えて法燈を延暦寺にお返しする行であったのでは、磐陀庵は再び闇に包まれた)

 


京都・妙法院の茶会&三井寺&和久傳

2014-11-15 11:26:03 | 茶会

妙法院茶会 

今はもう初冬になってしまったが、晩秋の10月下旬友人二人をお誘いして秋菊忌の顕彰茶会へ。主宰であられる堀江宗蓬先生は妙法院門跡との親交により、普段は拝観できない妙法院の奥の院にて濃茶席、瑞龍殿にて薄茶席とのご案内をいただいた。

 

今日ばかりは表門も茶会のために開かれ(勿論唐門は開かずの門であるらしい)、受付の玄関は国宝の庫裏、桃山時代のそれは圧倒するばかりの棟高60尺という大建築である。(春秋の特定期間のみ一部拝観できるらしい)。

 

さて午後1時の席入りにてまもなく案内人により案内される。翠香園の内庭を通り板地彩色された三十六歌仙絵36面(各650×430cm)のかかる廊下を通るが、慶長8年(1603年)頃に狩野光信によって描かれた可能性が強いという美術ロードを鑑賞するまもなく通り、濃茶席である御座の間(江戸時代)へ通される。

 そうそう、その前に「ここが寄付です」と通された部屋に秀吉筆消息・三条殿蒲生氏(おとら)宛(秀吉の側室)、秀頼筆色紙(重要美術品)、淀君筆和歌短冊という三人揃い組みという披露、そして炭荘も桃山文化の粋を集めた道具組。

 そして一之間、二之間、三之間と続く法親王の学問所に用いられた部屋の床に蘭渓道隆筆の尺牘 円爾弁円宛(東福寺伝来)、豊公が北野大茶湯に用いられたという大掛物。古備前の筒花入に草牡丹、野菊、芍薬の赤い実が晩秋らしく花が終った後で絮のようで今にも吹き飛ばされそうな、柏のような葉でさて何?と首をかしげるが、後に草牡丹と判り晩秋の風情が御学問所に…。

  パンフレットより御学問所

肝心のお席主です。芳心軒木村宗慎氏は昨秋東博でも濃茶席を持たれた若きお数奇者であり、東西に教室を持たれ活躍をされている。席主自ら濃茶を練られるとともに、爽やかに正客とのお話も進められる。主茶碗は鬼熊川(妙法院尭然法親王(御陽成天皇皇子)箱・松浦家伝来)、替茶碗は黄瀬戸(宗和箱、上野有竹旧蔵)。この黄瀬戸茶碗はかなり大きくて深く、一番の見所は胆礬釉が中にも鮮やかに発色している。釉膚の柔らかい味わいがあり、この茶碗でいただけたのがうれしかった。お席主のやわらかな立ち居振る舞いは、茶を点てる者の必須と今更ながら感じたことも門跡寺院の雅のたたずまいのなせること?

 さて説明はこの位にして会記から抜粋

書院:伽羅木(堆黒 倶利盆に乗せて、陽明文庫伝来)

結界:西大寺古材 芳心軒好

釜:雲龍 初代寒雉造 風炉:鉄欠け 菊霰 敷瓦:織部 寸松庵瓦

水指:絵唐津 瓢箪

茶入:瀬戸 源十郎作 肩衝 水戸徳川家伝来

仕覆:道元緞子、伊東漢東、東福門院御好松竹梅金襴

盆:名物 松ノ木盆 珠光所持

茶杓:織部作 覚々斎筒箱

御茶:鶴嶋 丸久小山園 菓子:今朝ノ霜 末富製

器:菊絵銘々盆 道恵造 替:黒塗輪花銘々盆 平瀬家伝来

 菓子器の黒地銘々盆は目測で5寸程の大きさで盆裏一杯に菊の花びらの線描文様、薄作りで道恵の時代を感じさせる。この頃の京は季感として初霜がおりる頃なので菓子銘「今朝の霜」をご用意なさったかと思うのですが、その霜もほんの少しのって菓子舗のご苦労も感じられたことでした。

 薄茶席 

その後すぐ大広間の薄茶席に通され少人数ならではの贅沢なご案内である。

茶会主宰の堀江先生はおもてなしされることに徹底される方である。妙法院の瑞龍殿大広間の床には、御陽成天皇の御宸筆・大字「龍虎」、前に金銀菊紋蒔絵中央卓に青磁香炉、花は陽明文庫の青竹に枝もつけてまゆはけおもとが古銅の花入に。陽明文庫縁の名和和子氏が挿花されているとうかがう。まゆはけおもとの花を拝見したのも初めて、茶席で拝見したのも初めて、おもてなしの妙を存分に味わわせていただいた。

 眉刷毛万年青(季節の花300より)

 筑前芦屋青銅八角風炉(初代長野垤志造)に松竹梅紋真形(高橋因幡造)、初代長野垤志氏とも親交のあった堀江主宰はこの前で二日間にわたる御自身のお手前にお疲れも見えずご接待され、客人の私たちは古都京都妙法院の奥殿で京都の菓子舗・松寿軒の薯蕷、紅心宗慶宗匠好の清の森を楽しむ。

 大広間の書院には文麿公好の倣「物かわ伽羅箱三ノ内」と菊蒔絵硯箱(毛利家献上)、この物かわ伽羅箱(義政所持、予楽院箱書付)は近衛家第一回入札にて世に出ていると思われるが、それ以前に倣つて作られたものであろうか。入札名称は「物賀盤」伽羅箱になっていました。

 薄茶席も会記より抜粋

釜:松竹梅紋真形 高橋因幡造  風炉:筑前芦屋 青銅八角 初代垤志造

棚:遠州好 風炉置棚 時代    水指:染付 群仙図一重口 清朝時代

薄茶器:時代 菊桐紋蒔絵 平棗   茶杓:不昧作 銘白鷺 共筒

茶碗:高麗 銘尭風 妙法院菅原信海大僧正箱   替:古萩

 点心

三井寺へ

翌朝、近江八景の一つ大津の三井寺(園城寺)へ参る。記憶が定かではないが若かりし頃園城寺銘の釜、利休作竹一重切の花入を知った頃訪れたことがある。そのとき大津絵の鬼の版画を求め長い間そのまままにしてあったが、時を得て表装にし節分の茶会に使用した思い出の地。

 三井の晩鐘

 芭蕉の句碑

元禄四年(1691年)八月十五夜、松尾芭蕉は琵琶湖の舟上で中秋の名月を詠んだ

「三井寺の門たたかばやけふの月」

 大津絵の店内

石段を少し上ると西国第十四番札所の観音院でそこから琵琶湖が晩秋の陽を受けてキラキラ揺らめいている。参拝後、大津絵の名人高橋松山のお店へ立ち寄る。友人は何か茶事茶会に使えそうな物を物色、いずれその会にお招きいただけるかしらと期待。

和久傳へ

さてその後京都に戻り昼食は伊勢丹内11階の「和久傳」へ、私は初めてであったが大文字焼きの五山が全部みられるとか。献立は少し贅沢に京料理を味わい女三人の旅を終えた。

 

 


古田織部400年遠忌追善茶会 その二

2014-06-25 22:23:52 | 茶会

薄茶席 菱本芳明氏

 瑞雲軒玄関

同じ連客が薄茶席の寄付に動座する。床は「不昧公・自画賛、舟乗布袋図」、賛「生涯不奠 いのちはかぎりありてとどまらざれどおおいなるさいわいちかきにおおし」、布袋は弥勒の化身であるという。

琵琶床に薩摩五弦琵琶が飾られている。席主は琵琶床に置くことが少なくなりましたがと話された。

 本席の二畳床に一休禅師一行「吟杖終無風月興」詩を吟するため行脚しているがとうとう風月を愛でる興趣がなくなってしまった という。藪内家・佐々木寿庵伝来である。藪内流一世紹智の養父にあたる藪内宗巴は織部とも親交があった茶人ゆえ藪内家に伝来していたものであろうかと勝手に想像。

 私は花を身近に見られる座に坐ったので、菱籠の見事な唐物花入に七段花、撫子、笹百合、鉄線、白下野が入っている。香合が素晴しい!桃形の紅花緑葉香合(伊達家伝来)はこの席で一番感動したものかもしれない。多分織部400年遠忌追善だからこそ席主の追善の気持ちがこめられたのではとありがたく推測させて頂く。信楽水指(利休所持)の銘・西王母、西王母の仙桃を食べて寿命が三千年も延びたという謂れをもじって桃形を使われたのでは。

さて、下手な解説はこの辺にして会記より転載させていただく。

釜(色紙 笛鐶付 定林作 東本願寺伝来)、風炉(唐銅獅子鐶付咬欄干)、薄器(菊桐蒔絵黒中棗)主曰く、高台寺創建当時の台座と同じ頃ではないかと。茶杓(織部作共筒)石州巻物添、「織部の好みは、普通には茶杓筒に「古織」と銘のあるものによりその大略がうかがわれる」と織部研究家の桑田忠親氏は書いていられる。筒の確認は出来なかったが…

 茶碗(鳴海織部 沓、蕎麦 銘あけぼの 益田家伝来、黒織部 沓、玄悦、織部唐津 沓)、織部好みの沓形は、武人としての力づよさが沓形になって織部の美を表していたのではないかと。だからというわけではないが、私は道具としてとても使いこなせないし取合せもできるはずがないと心得ているのでこのような席で織部茶碗で頂くことは出合いの場、勉強の場とさせて頂いた。

相変わらず横道にそれて…、建水(備前 松浦家伝来)、蓋置(染付竹節 室町三井家伝来)、五寸位の木地丸盆菓子器は利休所持で随流斎・啐啄斎箱書がなければ、打ち捨てられていたかと思うほどのつつましさ。対して男性的な豪放さの織部好みにふれた追善茶会であった。

 点心は、瑞雲軒にてたん熊北店のお弁当を頂く。友人はたん熊の点心に執心していたが、生憎参席出来なかったので写真にて報告。堪能した席の後だったので勿論点心も満足のお味でした。


古田織部400年遠忌追善茶会 その一

2014-06-24 17:40:58 | 茶会

古田織部重然は慶長20年(1615年)6月11日自刃、その遺徳を偲び大徳寺内にて茶会が催された。

 総見院

 濃茶席 鈴木晧詞氏

水無月の梅雨空を気にしながら、大徳寺総見院の本堂・待合に連ねて席入りを待つ。幸い前日の京都入りにて第一席の大広間の末席に座る。春屋宗園老師墨蹟 十字一行「直透萬里関 不住青宵裡 一黙子」、席主は鈴木晧詞氏(茶道研究家)。実はこの追善茶会は六席あり、鈴木晧詞氏と菱本芳明氏(茶道家)の席を選んだ理由は両茶道家の席は初めてだったからでもあるが、日頃書かれている随筆、茶会記などより数寄者の的確な薀蓄が語られているその人の呼吸に触れてみたかったからでもある。

 得度して僧籍に入るも還俗された鈴木氏は、『物に執して』(里文出版刊)の著書もあるように物への眼差しになみならぬものがあり、それでは物への徹底が茶道ではという好奇心?からといっては失礼だがその機会が大寄せ追善ながらおとずれた。

 古銅花入には大山蓮華が待合の「古画 蓮之図」に呼応してすっきりと入っている。織部の没年は慶長20年6月11日(旧暦)、400年前のこの日織部が最期に見た花はなんであったろうかとか、何の花を好んだのであろうかとか、具体的に思うのは丁度忌日の日だったからかと。

 芦屋真形霰釜に芦屋唐銅八角風炉、台目棚(織部好)に志野四方入替茶器(如春庵旧蔵)は目利きの鈴木氏が掘り出した物に他ならない。古伊賀水指の台目棚下に収まる小ささは何気に良く、織部焼茶入(銘・松風)は織部が最も充実していたころの堂々とした作風かと。織部は時の支配者に追従しながらも歴戦を重ねてきた武人である。だからこそ織部の好んだ道具の数々に織部像を重ねながらこれからもクローズアップされるに違いない。

 茶碗の筆頭は、釘彫伊羅保茶碗である。席主は「この伊羅保は東京の静嘉堂文庫所蔵の釘彫の手と同じです」と説明される。帰宅後本をひも解いてみると、正に同手のものと思われる。文庫蔵品の銘は「末広」、その形状を転記すると「口が広く、やや波うって、見込から茶溜りにかけては段差がみられる。外側の釉薬は灰青色に加えて赤みをおびたむらむらがあらわれ(以下省略)」。この茶碗に限らず、高麗、瀬戸黒、織部黒、赤織部、古瀬戸、織部沓形と目利きに叶った茶碗を主は「今日は特別にお出しするものです」と一言そえられたのは尤ものこと。加えて私は織部沓形茶碗で頂いて隣の方に渡したが、その方は不昧流で「正面を真向うにして頂きます」と手にとられる。沓形だから少し飲みにくいのではとチラリと見たりして…、でも流石に堂々と。

 茶杓は織部侯・同箱、一尾伊織極を紅心宗慶宗匠が伊織の極めであると更に極めしている。御茶銘は、偲びのよすが(星野製茶園詰)、菓子は銘・織部悠羹(末富製)、両方とも申し分ないおもてなしであった。

そして、菓子器も主の縁高(一閑蔵)だけではなく、青磁反鉢、祥瑞本捻鉢、赤絵羅漢図阿弥陀仏トアリ、染付蓮弁図成化年製ときら星の如く。

 最後に、寄付の琵琶床・唐盆に青磁小香炉、阿弥陀経一巻・紺紙金泥(田中光顕箱)にも鈴木晧詞席主の執心ぶりがうかがえた! 

 鈴木晧詞席主は連客に語りかけたかっただろうが、正客に老紳士が坐られて広間だけに声が届かず、そして何やら個人的な会話に終始しているようで正客の自分に執しているのが残念なことであった。

 濃茶席 

 


春の護国寺茶会

2014-02-16 10:05:33 | 茶会

今年も護国寺の会員茶会に参席、毎年2月11日が定例の茶会日とあって覚悟しての衣更着である。心頭滅却すれば火もまた涼し…なんて場違いのことなどが浮かんだりして第一席の腰掛に待つ。

 第一席 艸雷庵(四畳半台目席・小堀宗実遠州流家元席)

待合に探幽の富士、丈山の漢詩の画賛、丈山が探幽に描かせた詩仙堂の三十六歌仙が有名なので2人の交遊がわかる画賛。本席の床には冷泉家の為満卿?の和歌懐紙、春雨と行路水の歌が二首、遠州公は冷泉家の当主より和歌を習ったのであろう、ここにも遠州公の幅広い交友関係の遺産を拝見。

  艸雷庵待合の鐘(堀越宗円寄進)

年初めに家元自ら切られた四寸ほどの青竹は格式あり、裾に景色のある青竹は瑞々しくその一重切に加茂本阿弥椿に枝ぶりに無駄がない紅梅が添えられている。ため息のつくような空間の美である。今日一日だけを完璧に披露する花は、茶会の終わりとともに春の雪とともに消えていく…、護国寺には8日の雪が斑雪(はだれゆき)となってところどころに。

 さて席に家元が挨拶されて、正客が「俳優さんのご登場」と茶々を入れられても動ぜず、その間浅井宗匠が手前を粛々と進められていかれる、その間合い、呼吸を楽しませて頂く。炉縁に掛るくらいの道仁(文字入り)の釜はさすが紹鷗時代の天下一道仁だけあって堂々、大蓋のやつれていること、高麗茶碗(11代宗明箱)は口造りが端反りで一寸繕いがあるものの宗匠は扱いなれているのでしょうか、じっと点前を拝見。

水指は遠州好みの黒手桶、茶入は真中古の大覚寺手、少し手厚いように見えたが端正な肩衝で釉も穏やかに感じた、銘を松の根。茶杓は蓬露作、宗中筒、幕末の頃であろうか。すっかり楽しませて露地を出ると千客万来、この後も待つことしきりかなと思いつつ第二席へ。

 第二席 円成庵(三畳台目席・田中仙翁大日本学会家元)

にじり口の正面に床のある小間は古渓宗陳の詩、鎹のある立派な花入は庸軒作、その一重切に曙椿と山茱萸、春に先駆ける梅とともに明るくて待ち遠しい花である。道安の力強い茶杓は官休庵文叔宗守の箱が添えられて。猫かき手の金海茶碗は飾られていたが、使われたら茶碗もうれしいのではないかと客側の勝手の所望でした。

 第三席(不昧軒 広間・川上閑雪江戸千家家元)

広間の不昧軒は下座床に新春らしい和歌懐紙は烏丸光廣卿の「春日松…」と続く掛物。流祖作の竹一重切花入に天が下椿と山茱萸、交趾大亀(左入写し)香合のしつらえ。滾る釜は江戸千家では欠かせない雪輪地紋、獅子耳の太鼓胴染付水指は明、駒という銘の黄瀬戸茶碗は小振りで見込みがビードロが溜まり松浦家伝来で箱書きにこまごまとその由来が書かれていたが、静かな正客でお尋ねにならず残念。

  天が下椿(椿の里hpより)

第四席(牡丹の間・裏千家秋山宗和宗匠)

    牡丹の間前の残り雪(2月8日の雪)

忠霊堂にて点心を済ませた後、牡丹の間へ、点て出しでしたらと振舞いに預った。この茶室だけは月光殿の一角にあり8日に降った残雪の露地を見ながら待つことが出来る。和漢朗詠集の慶賀よりとられた実朝筆の鎌倉切が見事な表装とともに、慶賀の漢詩文は7首、和歌は1首だが良くわからず。実朝は定家卿を敬愛し和歌の指南を仰いだとか、28歳で落命した実朝の染筆をせめてものとして拝見する。(帰宅後、俳句の歳時記を読んでいたら「青年の青き首すじ実朝忌」の句に出合った。そうだ実朝は旧暦1月27日が忌日だったので、この掛物を掛けられたのだということに気がついたのでした)。

その前に珠光青磁写し(楽惺入?)の花入に寒牡丹、真の格のある姿は席に誘われただけでもうれしいことであった。

 そして誰ケ袖棚(赤地友哉造)に私の好きな八田円斎の仁清写の梅に月文様の水指が実に美しく納まっている。思わず「円斎ね」とお隣の方に。茶器は喜三郎作、まるで(堀越)宗円好みの道具組とおもったことであった。茶杓は11代玄々斎作の銘寒月、香合は赤楽の梅香合とみたが何代のお好みか不明。

  塩野製 銘・好文木

そして点て出しでしたので、次客で頂いた茶碗は鶴が舞い亀が地に草草が淡い染付で軽く絵付けしている茶碗で何か心惹かれるものであったが、それが米禽作と高橋宗匠が話される。かなり前に米禽のことを教えてくれた道具商は、米禽も古美術商でありながら焼物を自ら焼き、それがお茶に適っていたことから茶席に時々使われているという名古屋の茶道具商という異色の人物。戦前に没したという。塩野製の銘好文木は紅梅に蕾が覗かせている塩野ならではの上品な味であった。

どちらの席も寒さを忘れるような、裏千家の四席は特に点心後にてご配慮の一献が利いていたせいでしょうか、舌もなめらかになった気がしたことでした。

  

 


寄贈記念茶会 東京国立博物館茶苑にて その三

2013-11-09 22:07:12 | 茶会

九条館 濃茶席 二代目 長野垤志

 九条館は、その昔京都御所内の九条邸にあり、その後東京赤坂九条公爵邸から東博に移築、二室(各十畳)は廻廊下をめぐらした誠に心がゆったりと広がる館です。

 九条館内部トーハクhpより

堀江先生のご関係の方でしょうか、奈良からお見えのご夫人は書家でいらして小堀遠州筆の消息をお読みになられているのが印象的でした。その方にご正客をお勧めできなかったのが心残りでした。

 長野先生は和銑(わずく)で釜を造る第一人者でお茶の大好きな釜師である。ご一緒した友人方は先生の講義を受けられている。http://www.nagano-kobo.com/

 寄付 小堀遠州筆 消息

本席 床 宙宝宗宇筆 一行 生有胸中五色絲

    書院 古銅 鶉 香炉

    違棚 百万塔陀羅尼

    花 斑入り石蕗

    花入 経筒 平安年号入

              香合 了全造

              釜 伊勢蘆屋 浄信寺釜

              炉縁 真塗

              棚 遠州好 台目棚

              水指 瀬戸一重口

              茶入 黒大棗 江岑在判 覚々斎箱

              茶碗 斗々屋 蓑半農軒箱

              替  松本萩

              替  赤 臨済写 長入造

              茶杓 土斎作 不白極筒

               蓋置 火舎 定林造

               建水 砂張 鉄鉢

               茶  祥雲の昔 丸久小山園詰

               菓子 薯蕷万頭 香雲堂製

               器  縁高

 この度の席主のお三方は茶会という形式でなければ、深い知識を余すことなくお話してくださる方々である。友人のお一人は堀江恭子先生を存じ上げないので著書『墨艶』を読まれて茶会に臨まれ、「ご本通りの迫力のある素晴しい方」と話され、またお誘いした方より「心意気溢れるお言葉に活力を頂きました」とお葉書を受け取りました。

 

茶はやはり茶事あって席主と客さまが道具を通して触れ合う、語り合う場…、木村宗慎先生には一休宗純筆、二貫縛詩の話をもっと伺いたかったし、長野垤志先生には数寄者としての茶道具の組み立て方など、深遠なるお話を伺いたく思っている。

 


寄贈記念茶会 東京国立博物館茶苑にて その二

2013-11-09 08:35:41 | 茶会

転合庵 濃茶席 芳心軒 木村宗慎

 恭子(宗蓬)夫人のご案内によると木村宗慎宗匠は1967年生れ、1997年芳心会設立、新進気鋭の茶人で茶書も出版されている。 http://www.hoshinkai.jp/

この春草蘆、転合庵、六窓庵に入席するまでの流れは、先生の教え子の学生さんによる誘導で無事転合庵に至った。それまでに何と2時間待ち!東博の全茶室を使用しての茶苑はなかなか機会がないので、お天気が幸いして待ちました。

  転合庵

春草蘆の5畳の床に、会津八一筆 百万塔 自画讃の掛物、堀江知彦先生の没後25年、会津八一秋艸道人の命日は11月21日、追善供養のお心遣いでありました。隣りの三畳では炭道具の展覧を拝見。

次に一旦芝生の茶苑で池の初鴨、枯蘆、枯蓮を眺む(俳句の景に事かきませんが今日は出来ません)。そうこうして転合庵(四畳半)に進み、不昧公筆 転合庵 條目 孤蓬庵蔵を拝見する。この日の転合庵に因み、木村先生は孤蓬庵より拝借した由、すごーい! 

   六窓庵

條目とは箇条書きの項目のこと、会記の如く不昧公は「一汁三菜付香物 汁物併肴、但し花、月の夜、雪の朝は肴を一つ増やしても、でも二つはいけませんよ、酒は飲んでも乱れてはいけません」と当たり前のことを云っているが、現代はなかなか? 

 そうそう忘れていました、この転合庵でお菓子と濃茶を頂くのです。葎の秋という、何と侘びた菓子銘でしょうか。『トンボの本 一日一菓』の本を書かれているので、どのような菓子を出されるか注視していたのですが、すでに刻は昼をまわり菓子皿の非常に薄くて手取りの軽い輪花銘々皿は目に浮かぶのですが、お菓子は何でしたかしら金団でしたか(お恥かしい!)、銘にふさわしい秋野の感じかと…

 http://www.shinchosha.co.jp/tonbo/blog/kimura/2012/07/30.html  

さて、転合庵を出ると本席の六窓庵です。会記の如く渾身のお席でした。解説は不要かと…

写真は撮れませんが、目に浮かびます。ここでも転合庵手 銘・万石 不昧書付 不昧寄進 孤蓬庵蔵です。本歌はこの東博に、銘を大名という。調べると赤星家旧蔵で遠州内箱書 不昧外箱書とあり、不昧公が転合庵手を作らせたので、銘を万石とひかえられて銘を付けたという話しでしたでしょうか。

  本歌 転合庵茶入 銘 大名

寄付 春草蘆 床 会津八一筆 百万塔 自画讃

                            香合 尾形乾山作 楓重

                            炭斗 利休写 油竹

        羽箒 青らん

                            火箸 宗和好 桑枝

                            かん 蝶に唐草紋金銀象嵌 相生かん

                            釜敷 アンペラ組 一閑作

                            灰器 エジプト 土器 松永耳庵箱

                            灰匙 時代 桑柄

転合庵 床 不昧公筆 転合庵 條目 孤蓬庵蔵                                 

                條々 (以下省略)

本席 六窓庵 床 一休宗純筆 横物 二貫縛詩 松浦家伝来

                          花 白玉椿

                          花入 古銅 華瓶 鎌倉時代 春日大社伝来 根来塗 高杯にのせて

                          釜  天明 筋 古田織部所持

                          炉縁 大徳寺経蔵古材

                          水指 古備前 耳付 林原美術館旧蔵

                          茶入  銘 万石 松平不昧書付 不昧寄進 孤蓬庵蔵

                           仕覆 茶地桐紋緞子 雲宝紋刺繍

                          盆  松の木盆珠光所持写 鈍翁書付 仰木政斎作 團家伝来

                          茶碗 常慶作 香炉釉 了入、慶入極書付 休々斎箱 

                                                        紀州徳川家伝来 滴水山口吉郎兵衛旧蔵

                             帛紗 古渡金毛織

                          茶杓 空中作 共筒 銘 五郎との

                          建水 木地曲  蓋置 青竹引切  

                茶 芳心軒好 鶴嶋 丸久小山園詰 

                菓子 葎の秋 末富製  器 輪花銘々皿 平瀬家伝来

                            莨盆 高台寺蒔絵 乱箱 火入 古染付 蓮葉


寄贈記念茶会 東京国立博物館茶苑にて その一

2013-11-08 08:39:33 | 茶会

応挙館 薄茶席 堀江宗蓬(幽水会)

誠に暑い最中の夏、十一月三日の茶会のお知らせが届いた。十一月という声を聞いただけ涼しさが感じられるご案内は、書蹟研究家・書道史家の故堀江知彦先生の遺品を、かつてこの博物館に在籍されていた由縁より奥様の堀江恭子様がご寄贈することになり、その記念の茶会であった。

 

皇居に参上される文化勲章受章者の晴の日でもある十一月三日は、穏やかな中にも少し冷気の感じられる朝、お誘いした方々と賑々しく応挙館の堀江宗蓬薄茶席へ。

堀江知彦先生の恩師で生涯敬愛されていた会津八一先生との書簡の一部は、風炉先屏風として貼られている。すでに寄贈品の目録の手続きは終えられているが、風炉先屏風はひとしお愛着の遺品にて、今日にして恭子夫人の手元より東博の所蔵品に。何かの折に会津八一秋艸道人の展覧展示などの折に寄贈品を拝見したい。

 

寄付きの如何にも桃山時代の風情が感じられる和漢朗詠集貼り交ぜ屏風は、光悦筆の色紙和歌を剥がして分けられた後、残った屏風に知彦先生が和漢朗詠の歌をお書きになられた由。

 会津八一秋艸道人は生涯奈良を愛され多くの奈良の歌を詠まれた。恭子夫人は、ご案内の一文に次のお歌を挿入された。

“ほほえみて うつつごころに ありたたす くだらぼとけに しくものぞなき 法隆寺 百済観音”

 さて、席中は遺品の数々と、床の花には天平の東大寺古材に柿の枝が投げ入れられ、そして会津八一秋艸道人より秋の一字を号に頂き、知彦先生の号の秋菊に因んで菊の花を添えられた。応挙館にふさわしき秋の茶苑であった。フランス製のシガレットケースは、夫君知彦氏が日常愛用されていた美しい莨盆であった。

会記にて応挙館薄茶席をもう一度楽しんで…

 寄付 堀江知彦筆 和漢朗詠集貼り交ぜ屏風

本席 堀江知彦筆 五言聯句 鷺林外に飛びて白し

                                   蓮水上に開きて紅なり

 書院 楠蒔絵硯箱 御下賜三笠宮子内親王御誕生祝

 床脇 文具飾り 硯屏 緑玉 龍鳳凰門

         硯 古端渓 瓢箪型

         墨 古香斎

         墨台 紫檀 獅子型

                       水注 琢斎 造

                   文鎮 香取正彦 造

 花  柿枝、黄菊

 花入 東大寺古材 天平時代

 香合 蓮弁紋 大理石 インド

 釜      鷺地紋 二代目 長野垤志 造

 炉縁 遠州好 時代 秋草蒔絵 黒柿

 水指 青磁 牡丹唐草紋 堀江知彦 箱

    青龍寺 ここに在りきと ひとひらの石ふみ立てり 麦畑のなか

           昭和五十三年二月 西安にて

 茶入 時代 粒菊蒔絵

 茶碗 絵御本 銘 まがきの菊

  替 古唐津

  替 高取 戸川窓積 造

 茶杓 宮崎央 作 銘 峯の白雲 堀江知彦 箱・筒共

 蓋置 瑠璃 夜学

 建水 モール エジプト

 御茶 頼底貌下好 常光 丸久小山園詰

 菓子 菊 はねさぬき製  季子好み 三英堂製

 器  菊小鳥文様

  莨盆 フランスシガレットケース

 応挙館

 


耳庵追善茶会へ

2013-06-22 10:46:28 | 茶会

明治8年、耳庵こと松永安左エ門は長崎県壱岐に生を受け、昭和46年6月16日満95歳で没した。

今年は42回目の忌日である。生前の自宅である老欅荘の広間には供茶とともに耳庵がお好きだった大宰府の梅園製「宝満山」、そして慶応病院に入院されていた病室に赤芽柏が飾られていたという、その赤芽柏が添えられていた。

 

菓子「宝満山」は、隣りの八畳の薄茶の席で相伴し、赤芽柏の葉は本館2階の窓から手に取るような高さに植えられていた。耳庵の遺影にお参りして、耳庵ゆかりの遺品の数々が使われている茶室へ。

 各席とも故人を偲ぶ追善とは、かくあるというおもいを深くした。

入席した順に掛物と他の道具を、
①法隆寺金堂阿弥陀壁画模写、付け書院に経筒に入っていたと思われる五輪塔

 
 
 

  

                          早雲寺抹香入れを香合に

②耳庵八十六歳、病中作、「山中無弦琴 風雪萬古存 一夜明月照 劉朗清音鳴」、薬師寺古材四方筒掛花入に沙羅の木(夏椿)、具利香合。この年の二年前妻一子を亡くした。茶杓は松庵作・銘「ながめつつ思う」

 
 
 
 

  

③「無 戊戊夏六月 耳庵」、黒手桶に姫睡蓮、蓮形鉄風炉(実三造)、茶杓は沙羅の木で以って席主自作

    

 ④「夢 鳥啼人不見」益州筆、竹経筒

             

 ⑤「道玄峰頂不是人間心外無法満目青山」大徳寺352世日寛宗舜筆、雑念のない研ぎ澄まされた心いっぱいに青山がうつし出されている禅語、法隆寺古材香合

 

⑥耳庵句、「我が老をなぐさ免んや鶯の夏山かけて法華経と鳴く」、花は須恵器に蛍袋、山椒薔薇、みやまふじのき

 因みに、葉雨庵は野崎幻庵の別荘に建てられた茶室を昭和61年に移築された。

                      葉雨庵の露地の実梅

三畳中板入り台目上座床はこの日は待合に使われ、点前座は本来水屋としてある畳二畳で点前され、客はこの二畳を囲む板の間に円座を敷いて薄茶を頂いた。席主によりどちらを使うのか当日の楽しみでもある。

本館2階の16畳の広間には、国宝『釈迦金棺出現図』の模写が床一杯に掛けられている。1961年(昭和36年)この大掛物を入手したときの耳庵の喜びは如何ばかりであったろうか。その10年後の6月16日に亡くなり、今は柳瀬山荘近くの平林寺に眠る。

耳庵の年譜をひも解くと、ものすごーい茶事を催している。それも時の財界人を集めて。列記すると、60歳で茶道を始めて、杉山茂丸、福沢桃介、山下亀三郎、根津青山、原三渓、益田鈍翁、小林逸翁、高橋箒庵、野崎幻庵、藤原暁雲、畠山逸翁、田中親美、服部山楓、仰木正斎。

 茶事の回数も61歳・12回以上、62歳・28回以上、63歳・38回、65歳・12回以上、66歳・26回以上、68歳・32回以上、驚異的な回数である。(松永記念館の配布物より参照)

 

現在は小田原市郷土文化館分館松永記念館として利用されている。

 


上田流水無月茶会へ

2013-06-14 09:37:54 | 茶会

先日根津美術館で東京遠鐘クラブの水無月茶会が開かれ、友人のお供でうかがった。

グループ毎に案内され、最初の席入りは薄茶席から、緑も色濃くなった苑内の池の橋を渡って披錦斎へ。

広間の床の掛物は、12代譲翁の郭公の和歌、花入は南紀・男山焼、花は空木、香合は紹鷗所持の根来というすっきりとした床荘りであった。

 

そもそも上田流を知らない自分にとり良い機会であった。天下に勇名をはせた戦国の武将上田宗箇から数えて16代目が現在の家元である。調べてみると広島藩浅野家の家老として幕末まで続いた。その間上田家には預り師範という立場の二家があり伝授をされていたが、それらを体系的にまとめたのが譲翁で歌を詠み、歌集や紀行文を残されているという。

流麗な筆使いの掛物の前に、染付(絵付けは不明)花入は幕末から明治初年の50年余焼かれたという男山焼。釜・萬字釜、風炉・黄唐金琉球風炉(ともに浄雪造)、水指・萩のえふご、薄茶器・妙喜庵老松(古満休意造)、茶碗・御本、唐津、茶杓・15代宗源作(銘田植唄)、建水・銅蟲、干菓子器・銅蟲。

 銅蟲の見本

銅蟲(どうちゅう)が珍しかった。銅板を(つち)で叩いて整形し、表面に「ツチ目」模様を施し稲の藁で燻して磨き上げ、色合いは焦げ茶色の玉虫のよう。時代を経るほどに一層深い色としぶい光沢を帯びてきて美しい。広島県の伝統工芸品である。

 薄茶席と濃茶席の間に点心(三友居)を頂く。さて濃茶席(弘仁亭)へ、弘仁亭前に広がる燕子花は少し前に花が終わり少々寂しい。

家元自らのお点前である。弘仁亭は京間の八畳と長4畳、仇英実父筆の山水図、子供たちが遊んでいる様子が描かれているが箱書は山水図。仇英実父という画家を調べてみると、明代後期の画家で宋、元の名作の臨模を徹底的になし、やがて明四大画家の一人とされたという。戦争中上田家は広島市内の邸から道具類を市外に移していたので戦災に免れたという話しをうかがったことがある。現存する作品の少ない仇英実父の掛物だけに垂涎の宝であろうか。

板床に矢筈の敷板を使い古銅象耳の花入がのっている。家元曰く、「15年前蔵から宗箇筆の文書が出てきて、その文書によると板床に敷板を敷くとある。それは新しい床に直に置くと跡がつく、と書いてあるので、弘仁亭ではどのような感じになるかと思いましたが」と話された。約400年前の文書の再現の試みである。

書院には鷹の羽蒔絵硯箱(東城浅野家伝来)、釜・車軸釜(堀山城造)、風炉・清涼院様好砂張風炉、水指・薩摩、長板・宗箇好、茶入・後楽園焼、茶碗・大徳寺呉器、茶杓・浅野綱晟(弾正)作。

 少々胴が長い白薩摩の水指と砂張の風炉が囲いのある長板に納まっている姿は遠目からも美しい。正客の矢部良明先生は『武将茶人 上田宗箇・桃山茶の湯の逸材』の著者だけにお話が豊かで楽しい席であった。浅野綱晟(弾正)は、芸州広島藩浅野家の三代藩主に当たり晩年の宗箇が拝領した茶杓であろう。広島の家元より根津美術館の席に運ばれた名品の数々を拝見できた水無月茶会であった。


追善茶会へ

2013-05-20 15:34:42 | 茶会

過去に追善茶会に参席したときの引出物が手元にあり、今も稽古に使う小さい赤玉香合、それと黒棒のお香、こちらは当然使ってしまったが先日竹の入れ物を開けてみると数粒残っていて、なお微かに香っている。残り香に面影を偲ぶ。

 この度は、三回忌の追善であった。席主の入門以来五十数年に渉る師の逝去は、「今なほ心に大きな空洞を…」、とご案内を頂きました。

 寄付には、癸巳卯月の日付で茶事にお招きした後継の返礼の消息が表装されていました。師への想いがもう表装され、主の心を表しているのです。恥ずかしながら定家流の染筆は全文読めません。寧一山云々が書かれています。

 待合には和翁宗中筆「力囲希咄」、炭荘りは炭斗・木地の曲、火箸は蓮頭、香合は手向けの香箱、如何にも大有宗甫好みらしい雅な蒔絵香合。

 にじり口より正面の床に、「四十三年……」と続く尺牘が掛けられている。後に席主の丁寧なるお話しを待ちましょう。柑子口甘面唐銅花入に枯蓮、黒百合、もう一種失念(Tさん教えて!)。

 

縁高に白蓮(と私はみましたが)きんとんの白と黒のモノトーンが想いを追善する。

 席主自らのお点前が静かに始まる。四方朱盆よりの茶入が仕服から出される。もとより唐物茶入である。

眼前で清められ、茶が掬い出される。招かれた客全員が席主の手元を見つめ続けるが、席主はいつもと変わらぬ自然体、そこに行き着くところはつまり師から五十数年導かれた姿なのであろう。

好みのあすかの白が本手斗々屋茶碗に練られる、この茶碗でご相伴に与る。緊張の中でも美味しさを味わうことができたのは望外の喜びであった。

 点前を終えられた主は掛物のお話しを、自分の理解の及ばないことを重々承知してこのような話ではなかったか、と前置きしながら……

 

一山一寧(1247-1317、1299年52歳の時日本へ、元の渡来僧)と独孤淳朋(1259-1336)の二人、寧一山が34歳、独孤が22歳の1281年夏安吾の公案に挑んだ。そのときから四十三年後、その公案を知った僧が二人の出会いを尺牘に書かれた、ということでしょうか。つまり席主の「師に対する追慕の念は同じです」と…私は感得したのだが自信ない…

 因みに独孤淳朋(どっこじゅんぽう)は今年春の王義之展で展示されていた“定武蘭亭序・独孤本”の独孤その人ではないかと。元時代の1310年、独孤は宋拓の定武蘭亭序を趙孟ふに譲り渡したとある。

 遠回りしてしまいました(Tさん、解釈が間違っていましたらお助けください)。

 一段落して茶入のお話しになりました。朝倉肩衝です、伝来がすごいです。朝倉義景の一乗谷滅亡後、信長-秀吉-家康-○-○-益田英作-赤星家(大正6年売立)-○と続く唐物です。

おだやかな姿をした肩衝で手取りがきわめて軽く、元時代でしょうか。寧一山と同時代の世界です。茶入に添う四方朱の盆は元、元の時代の盆の裏に釘を打っているのが特徴であるとのこと。

 茶杓は藤村庸軒作の豪快な銘・如意、生前おもいのままではなかったろうと推察される師を五十数年身近に仕えた弟子の敬慕を深く感じた一会でありました。

 引き出物の和歌集より一句を写させていただきました。

江月和尚へ 宗甫  今そしるわかるゝおりの袖のうへを 秋の野山の草木なりとは

 


東京茶道会 5月月釜:護国寺

2013-05-18 10:09:29 | 茶会

友人の券で入席した草雷庵の濃茶席が偶然知合いの方で、水屋の方々に挨拶。待合の掛物から期待が高まる。紅心宗慶のほととぎすの自詠と画、それでは本席とどのように呼応されているのか楽しみで入室すると、「雨後青山青転青」の墨蹟。

 ほととぎすの一声が届くような大膳の禅味あふれる一行。お話しによると、遠州公の二世は公務に忙しく書き物は少ないとか。

 昨夜来から降った雨上がりの護国寺の新樹にふさわしい墨蹟を拝した。記憶をたどると、この季節になると稽古場にこの禅語が掛けられていたことがなつかしく思い出された。それ以来、この禅語との出合いだったので鮮烈な印象だった。

 

目を転じると、柑子口の和物古銅花入に谷桑、突抜忍冬、山吹がさりげなく、朝採りの露を含んだ草花が生き生きと迎えてくれた。遠州の時代には和物の古銅が会記に登場していたようだ。唐銅よりも一回り、二回り小さな如何にも小間に納まりがよさそう。

 また香合が素晴しい。時代は明、宝珠形の龍が玉を抱えているような勢いが感じられて、5月の節句鯉が龍と化す、菓子銘が水の音(源太製)、清らかな水に渦を巻いているような朝一番の甘味と程よく練られた濃茶が美味しかった。

 高台の低い井戸釉の呉器、粉引、出雲焼、筆洗形の数々の茶碗は遠州好み、惜しげもなく手に取らせていただける大寄せの茶会が少なくなっているだけにうれしい。

 前に戻って、待合には又飛鳥川手の茶入の次第の一部が飾られている。牙蓋に遠州、利休、宗和の三つ、仕服は和久田金襴ほか二つ、引家には葛城と銘している。帰宅後飛鳥川と葛城の関連をひも解くと、“あすか川瀬々に波よる紅や葛城山の木枯しの風(新古542)”

とある。果たしてその歌を引用してよいのかわからないが、その葛城山にほととぎすの一声がこだましたのではないかと勝手な想像。

  本歌・飛鳥川

飛鳥川手本歌・飛鳥川茶入は遠州公がもっとも愛好した茶入とか、本歌の釉景は柿金気地釉中に黒釉が一筋なだれているので、茶会の茶入も改めて思い出してみると薄く黒釉が一筋流れている。飛鳥川手の良く判る茶入にめぐり合った。

 これで茶会の楽しさを充分味わったので散会しても良かったが、熱心な友人について江戸千家(弥生町)の薄茶席(不昧軒)へ。水指棚に青磁の瑞芝焼で共蓋、紀州の殿様治宝侯も好まれたという。

牡丹の間は池之端の江戸千家、名心庵好みの四方棚に胴に金彩で描いた稜花文様(?)の乾漆水指が珍しい。日本伝統工芸展にも出品されていた漆芸家の作品、月尾正之作とのこと。だいぶ前に制作されたとのことで漆もやわらかく、点前座を華やかにしている。現代工芸が伝統の中に活かされているシーンを楽しんだ。


古稀茶会のつづき 薄茶席

2013-04-15 11:51:41 | 茶会

井心亭にいらっしゃるお客さまは広々としたお庭や座敷を通ると、心もひろがると言われる。かつては日本の中産階級の家はこのような家が多かったようにおもう。

 玄関

 薄茶席は、玄関を入り右手の畳廊下を行くと八畳の本床と床脇が付いている。四君子会のNさんが「丁度良い賀の掛物を持っているので、この軸でお祝いの席にしましょう」という申し出で先ず床が決まる。

“七十路の今日より千代の寿を数々数え始むる宿ぞ久しき”日野資枝の染筆。

日野資枝卿は江戸後期の公卿、歌人であり、裏千家九代不見斎の和歌の師でもある。

 

そして花は、この席にふさわしい延齢草と白雲木の芽吹き、香合は泥中蔵六の松がブルー銀にのって。

 薄茶席に先に入りのちに濃茶席に入席のお客様が、「とっても素敵でしたよ!床の設えが」と話してくださった。床脇に17.8世紀頃の東南アジア製の茶籠を置いて、ここでも散華。茶籠の紐は稽古場の先生が組まれた紫の組み紐を付けて。ご都合が付かず欠席の先生の代参になったでしょうか。

石踊達哉画伯の描いた散華は、儚くも、幽玄で、そして心躍る桜が咲き、散って花筏となって流れていく…桜は行雲流水をいみじくも感じさせてくれる。

 さて点前座は透木の平蜘蛛釜(先々代畠春斎造)に色紙蒔絵炉縁、我が茶室は小間なので蒔絵炉縁、風炉先の用意がないのです。四君子会の協力があってこその一会なのでありがたく拝借する。

 

誰が袖棚に、色絵末広形松唐草文様水指(尾形周平造)、四君子蒔絵棗(岩木秀斎造)を置く。落花の季節、道すがら花を踏んでいらしたお客さまへは少し桜も重いかと感じ、設えは極力控えたつもりで。

ただ、杉浦澄子澄心庵は著書の中で、桜だけ“花重といって重複することをとくに許されると聞く”と書かれていたので、抹茶(銘小桜、柳桜園詰)と干菓子(さまざま桜三種、塩野製)、桜の蓋置(翠嵐造)を重ねてみた。

最後に薄茶茶碗の数々は、季節の取り合わせにこだわらずに皆さまに差し上げた。これといった茶碗は持てないので気にいった茶碗で、高麗青磁雲鶴(村田亀水造)、金銀彩鹿文様(村田陶苑造)、安南絞り手蜻蛉(加藤偉三造)、白雲(檜垣良多造)と現代作家のもの。求めたとき、村田陶苑翁も加藤偉三翁もすでに80歳代半ばの翁で圧倒されるばかりの陶歴の持ち主であった。

 幸い、お二人にはお会いしていたので茶碗への愛着が一入でこの度の取り合わせになった。また檜垣良多氏は、土風炉師寄神崇白の直系で檜垣青子楽焼作家を母に、新進作家として活躍している。良多氏の茶碗は使うほどに変化があり、白雲かと思うと薄雲だったり、曇雲だったりして面白い茶碗で気にいっている。

 

茶杓は十五代鵬雲斎・銘今昔を

唐の詩人杜甫の詩・曲江「酒債は尋常行く処に有り 人生七十古来稀なり」(酒代のつけは私が普通行く所には、どこにでもある。しかし七十年生きる人は古くから稀である)に由来する、という。

 さて古稀茶会をしたのも今は昔、これから今を生きましょう。

子猫が退出のとき見送ってくれた。


古稀茶会のつづき 濃茶席

2013-04-14 13:38:47 | 茶会

先日お客さまよりのお礼状でブログを済ませようと魂胆したものの、花冷えの一時やはり少し書いてみようと……

 ことは数十年前に遡る。懇意にしていた古美術商からお話しがあった。

岐阜は井ノ口(岐阜の古名)で切られた和漢朗詠・断簡の掛物があるが、というお話であった。もしかしたら先生がお断りになって私のところに来たかもしれないが、今となっては両方に聞くことが出来ない。

 癸巳四月とある古筆了信の極め、正しく私が生れた癸巳四月である。これは私のところに来るべきものがきたのではと心躍った。もう30数年前のこと、まだ若輩だったので何の工面に苦労した記憶がある。

「落花」の一節を切られている。

 時に虫干しをしては眺め、まだまだ使うのは早いと仕舞っては幾年が過ぎた。

さて今回の一会での会話「道具組をするときに何を一番に考えられますか?」というお尋ねに、「私は掛物です」と答えた。掛物があって膨らんでいく…、そして静かに巻き上げられ、印象の中に込められていく…。そのような茶事の出合いもあった。

濃茶席は諸荘り、竹筒の支えに時代の瓦を置き、根締めの白肥後すみれ、白山吹の一枝、そして姫うつぎがこぼれて、説相箱(室町時代)を花入に大胆に置いてみた。説相箱の由来は僧侶が仏教儀式の時に用いる衣や法具などの必要なものを納めて傍に置いた箱だという。お釈迦様生誕の翌八日に思いを寄せて。香合は御深井焼の鶴、姿が愛らしい。

 私は四畳半の茶室が好きである(台目畳が付いていても)。この空間の広がりは掛物を身近に感じられるし、一席五名の方々と主客が会話できる絶妙な4.5畳ではないかと。私の主張であるが、正客を決め正客を中心に会話が運ばれるのは当然であるけれども、連客も会話に思わず加わりたいことがあるかもしれない、そんな雰囲気であれば連客も正客任せではない会話が弾むかもしれない、と秘かにおもうのです。

また話しは脱線してしまう。井心亭は素晴しい純和風数寄屋造りの建物で部屋の周りは畳廊下になっている。その東側に菓子席をしつらえ、亀甲型の練切り(銘・不老門)を縁高でお出しして濃茶席へ。

  右手に小間席をみる

 薄茶席をみる

生憎の強風にてつくばい、腰掛、にじり口からの入席が出来なかったのが残念!でした。

 阿弥陀堂(根来琢巳造)の釜、台目畳に菱形の高取焼水指を置く。後見の友人が付いているので安心して点前が進められる。四君子の仲間にて花も朝採りの自家製、提案をしたけれども花を入れたのは友人という強力なるバックアップがあってこそ、一座建立の真の意味は、表だけではなく裏方を交えての建立という一会でもあった。

瀬戸灰釉茶碗を一目で見分けられたお客さまがいらして亭主冥利とうれしかった。その茶碗は実は会の一週間位前に入手したもの。物って出合いではないかとつくづく思う。もうすでに決めていたものの出合ったときの一瞬の交代は、数少ない茶事、茶会をする身にとりそれ程あるものではない。その交替劇(?)をしたのは京橋のさる古美術店の女性店主の審美眼、魅力からかもしれない。その方もいらしてくださり、店にあったときよりもとても良かったと褒めてくださった。

 十畳の待合に上野道善別当筆・短冊「行雲流水」を掛ける。執着なく雲や水が何にも妨げられず流れていく自由自在融通無碍に振る舞う禅者の姿を現わす、というが近づけないだけに好きな言葉を掛け、「落花語はずして空しく樹を辞す…」と誘導したつもりであるが…

 

本床、書院を設えた十二畳半の広間を点心席にして、床に稲垣稔次郎作型絵染の文様「力芝」を掛け、前にお地蔵さまを置き、散華する。「力芝」掛物は京都の義兄宅から、優しいお地蔵さまは友人のお守りとして七十歳の方が彫ったものをお借りした。とても爽やかで春の雰囲気にふさわしかったのではと。

 

 


古稀茶会をいたしました

2013-04-12 09:45:58 | 茶会

7日(日)、古稀茶会を三鷹・井心亭をお借りして主催した。

時ならぬ春の嵐に見舞われ、前日皆さまへ予定時間を繰り下げますという連絡をさしあげたところ、当日は強風であったが見事な青空が広がり、友人より「強運の持ち主ね」と。

でも練りに練ったタイムスケジュールはそんな訳でご破算、結果それもまた良しで臨機応変を学ばせていただいた一会でもあった。

 前置きはそれとして、今回も会が終わり帰宅してTaさんのブログを開いたところ、もう書き込んでいるではありませんか!速筆速文! 私は遅筆遅文(?)なので使わせていただきたくお願いいたしました。

Taさんのブログより

小田原の欠庵茶会によくいらっしゃるお茶人の古希茶会にお招きを受けました。時ならぬ春の嵐の翌日、まだ風は強かったものの晴天!前日にはお時間をずらせるとのご案内もいただきましたが、昨今は強風で電車が止まることもあり、ちょっと早めに出かけました。ご先客もすでにお見えになっていて、皆様同じ気持ち。

             

           点心席の床(稲垣稔次郎作紙型染め(力芝文様)&お地蔵さま&散華)

きっとこの日のために御亭主がご用意されたお道具の数々とお心入れの点心。こころもお腹も満たされた一日でした。

お道具の写真は生憎不出来で載せられませんが、一番のごちそうは亭主が練られた濃茶でした。本当に美味しい一服でした。また、濃茶席の床にびっくり!和漢朗詠集。落花の段。古筆の極めも添って、素晴らしいものでした。4月生まれのご亭主にピッタリの床でした。

お薄席のお花のひとつは延齢草。


 

  

お菓子は桜。余りにきれいでそっと持って帰ったつもりが八重桜が欠けてしまっていた。



点心。山口県の地酒「獺祭(だっさい)」がふるまわれました。「獺祭」は最近人気のお酒。甘口でした。

お椀はタケノコしんじょ。菜の花と新わかめ。春の香り満載。

   

              三友居の大徳寺弁当&煮物&向付

そして帰宅後。いただいた引き出物にはお手紙やら何やら、次から次と玉手箱のようにたくさんのお土産が。そのなかでもびっくりしたもの!

美しいビーズ刺繍。一体何に使うものでしょう。額に入れて飾りましょうか。滅多に経験できない桜づくし、ピンクの一日でした。(楽居庵のつぶやき:私もこのようなビーズを買うのは初めて桜に始まり落花で終わりたかったので…)

 

そして引き出物の中にはお床のお歌を印刷したものが入っていました。念の入ったお心遣いとともに、とても古希とは思えないご亭主の美しさとこの日のためにお力を注がれたであろう道具立てに脱帽です。(楽居庵のつぶやき:夫はいつも首から上はね?と云われていますのでおして知るべし)

ご夫君にはお目にかからなかったけどきっと裏からお力添えをなさったでしょうと思ったことでした。お疲れさまでした。(楽居庵:はい、だいぶ支えてくれました、感謝です)

いい一日でした!!

が、どうやってお返ししたらいいのかしら?とても及ばない我が力量。私も古稀に何かできるだろうか?あと5年しかない~・・・絶望的(楽居庵:いえいえ私はお茶会に伺っていますので、その力量は太鼓判が推されています)

若きT友人より

春の嵐が去って麗らかな日差しが注いでいます。
日曜日は古稀のお茶会にお招きいただきまして誠にありがとうございました。帰宅してお土産の袋を開けたら 次々にでてくる素敵な品々。楽居庵さんがお客様一人ひとりの顔を思いながら丁寧に用意されたお姿が浮かび本当のお茶人さんとはこうしたものだなぁと感じ入った次第です。

本席のお軸の素晴らしかったこと!いただいた読み下し文を味わいながら重厚にして華やかな表装の光が目に浮かびます。まさに楽居庵さんのお誕生日に掛けるのにこれ以上の軸はありましょうか・・・・
巻き上げながら髪の毛よりも細い罫線まで拝見しまして溜め息がでるようでした。当日は雨上がりで湿度がかなり高かったと思われます。

極め書きも一日中、畳に置かれた状態ですぐビニール袋に入れてしまっていいのか心配でした。どうぞご自宅の床に一日お掛けになって湿気を飛ばしてから保管くださいませ。実は私 焼き物に関しては父の道具を開け閉めしておりますのである程度は自信あるのですが掛物はほとんど触っていないものですからしまい方に粗相があったら大変ですので是非そうしてくださいね。

珠光青磁を写した茶碗もとてもいいお茶碗でした。私は以前、泉屋博古館で伯庵茶碗を見た時、その窯元がどこなのか興味を持ち黄瀬戸なのか、瀬戸なのか、はたまた唐津ではないかと考えて瀬戸の灰釉茶碗を熱心に見てまわった時期がありました。瀬戸の古い茶碗は山茶碗と言われるような荒削りな感じの茶碗が多いなか、楽居庵さんのお茶碗はお茶をいただくのにふさわしい風情あるお茶碗ですね。

姿優しく格調があり口縁に金繕いがあるのも茶碗の味を引き立てています。70年間歩んでこられたご亭主さまの姿を写されたような・・・そんなふうに感じたのです。濃茶を練るには難しいお茶碗と思われましたが流石に熟練の技で香り高く美味しいお濃茶でございました。

それからお茶入がすごく立派でした!「古瀬戸ではなくて新瀬戸」とのご説明でしたが古いものに興味のない方だと新しいものと思われた方もいらっしゃったかも・・・・本当に良いものは綺麗で新しく見えますものね。キリッとした形といいウズラ斑といい正統派のお茶入で好ましく拝見しました。お仕覆もふわりと軽くて・・・・仕舞いながらお箱をみたら次第も見事なもので・・・役得でした(嬉)

(楽居庵:全く亭主ながら赤面の至りですが、片付けの時確認しましたところ茶入は古瀬戸だったのでした!Tさんゴメンナサイ!勘違いでした、精進がたりません!)

お床の花のアイディア「目の眼」の表紙になりそうなくらい素敵だったです!素朴な野の花がよく映っていました。いつどんなところで このようなお道具との出会いがあったのか、またの機会にゆっくりとお話おきかせくださいませ。

構想何年?の大イベントでいらしたことと思います。お天気の事など最後までご心配でしたでしょうけどお席を持つということはお客様の時間をいただくということですから、色んな意味で重圧がおし掛かりますし体力的にも精神的にも大変なことだと感じました。日ごろのご精進の賜でお天気も回復、盛会となり本当によろしかったですね。



楽居庵さんはじめ四君子会の皆さん、Yさんと御一緒させていただきまして素晴らしい先輩が近くにいらしてくださる幸せを実感した1日でした。

楽居庵より:四君子会の力強いお力添え、なでしこ会のYさん、Kさん、Tさんのご協力なくして催すことが出来ませんでした。そして不安定な天気の中、駆けつけて下さったお客様方に心より深謝申し上げます。

(2日後実はしばらく山に行けなくて少しストレスがたまっていたのでしょうか、朝起きたら快晴!三浦半島の低山ハイキング、アップダウンの激しい5時間を堪能しました。茶会も山も欲張るから膝は一向に治らない!)