楽居庵

私の備忘録

歳晩の茶事へ 不染庵

2014-12-22 10:51:56 | 茶事

 そもそものきっかけは

昨年の箱根大文字焼き茶会へ強羅・白雲洞茶苑に出かけたのが事の発端であった。茶苑のひとつ対字斎の広間で点火されるまでの間に薄茶が点てられた。

 この対字斎は白雲洞の二代目の庵主、三渓翁が建てられ文字通り広縁の正面に「大文字」の大の字が望まれる。席の掛物は横一行「風月双清」確か慈雲の筆と記憶している。その席に団扇が暑さをしのぐために置かれていた。松虫草が涼しげに描かれた団扇を所望して持ち帰ったのでした。裏面に“まつむし草咲きわたる野をなつかしみ湖のむかふ山にけふ来し”の詠を。

そうこうする内に年月がたち

今秋、旅先で大津絵の松山の店に立ち寄ったところ「雷公の太鼓釣」という団扇をみつけた。団扇には団扇でお返しという筋書きを勝手に思い立ちお届けした。軽い気持ちでの一件がこの度のお茶事のお招きの次第となったのでした。“瓢箪からこま”とは、落とした太鼓を吊り上げた私とは、とまた勝手な解釈ながら天下の箱根路を友人とともに越えた。

 茶をされる方はかくあるべきなのでしょうか、私のこの一事に不染庵に火を入れて頂いた尊さは歳晩の忘れがたき茶事になりました。仰木魯堂設計の不染庵は二畳台目向板向切下座床という造りにて、柾目の見事な床に床柱は河村瑞賢ゆかり、炉縁は妙心寺山門古材という本席に四畳半の寄付が付いているという贅沢さ。鈍翁はこの庵でどのような茶事をしたのであろうか。

白雲洞hpより

さて4名で11時半の席入を

壁床に正倉院御物で人々に膾炙されている「羊木臈纈屏風」写し、前には文房至宝飾り、そして例の団扇が添えられているではありませんか。席主の格調の高い寄付に「何でしょう?」という雰囲気で連客の方々が口々に。

 

席主自ら運ばれた甘酒で温もり、いよいよ不染庵へ寄付よりにじる。正面の掛物は鮮やかな翠料紙に金彩が棚引く小色紙に藤原定家朝臣の歌と、短冊は差し込まれて雁が飛ぶさま。にこやかにS氏が入られ、一人ひとり丁寧にご挨拶されて不染庵はいよいよ。不染庵に久方ぶりに火が入って灰に温もりが移り種炭が真っ赤になった炉中の景色は捨てがたく。高麗の匙かとみえる灰匙は曲線美を、そこに炭と枝炭がそえられると三色の色合いとなって釜がかけられ湯が沸くまでの一時を懐石にて待つ。

 その前に掛物の話

「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の…」の筆は尊円法親王が鎌倉期に青蓮院流の書派をたてられたとのこと、流麗な中に格調高い筆と拝見する。そして席主は表装の話におよんで、よくよく眺めているうちにアラベスク文様と確信されたと語る。どのような方がアラベスク文様を表装に選んだのでしょうか。見渡せばこの不染庵の在る白雲洞も散落葉が色を失い露地や石段を埋め尽くしていた。枝にあるときにはこの不染庵は真っ赤に染まっていたのであろうかと…。

 いつも話が脱線してしまいます、香合に話を戻すと身と蓋は別物でS氏が中国の調査ツアーに同行した折に入手されたようで、蓋は焼くときの窯道具のトチンだそうで、それを蓋に使う発想の自由さに驚きよくよく窯道具に詳しくないとトチンとはわからない。

時分となり、

急こしらえと持出されながらも四つ椀も。お汁の美味しいこと汁替えまでして下さり地元の点心の心配りも。私が喜んで参上したばかりのお忙しさに恐縮、とは言いつつも席主が持出された御酒は諏訪神社の封を切った青白磁壷より頂く。S氏は全く受け付けないとのことで客同士で…。

そうこうする内に縁高に銀杏色した金団をいただき中立ちとなる。その金団は席主のご主人が作られたとか!お詰の方が「席主にはお抱えの職人さんが控えていらっしゃるのよ」という話よりお菓子は短期間の間に習得されたとか。遜色のない味におもてなしの極意を感じた。

 後入りとなる

床正面に秀麗で端正な姿の白磁水注に東洋蘭が。各々方が思い当たるようなはてな顔でいずれ席主の話しを心待ちに。ハンネラにあわせ蓋の水指、その前に茶入を置き合わせて。たっぷりの水を含ませたハンネラ水指が釜の湯気にも負けず土ながらの膚が美しく。

 

持出された茶碗は形から和物茶碗、炉を常に使用していれば湯の沸きようも左程心配ないが、今日は随分と気を使われたのではと思いつつ茶碗が温められ香り高い濃茶が点った。この度は団扇の一件により正客の座を頂いたので最初の一啜をありがたく頂く。茶碗を手にしてさて何処の窯でしょうと首をひねりつつ、美味しかった。嘉辰の昔は当代のお好みにて渋く抹茶らしい味であった。

 さて席主は桃山は後の方で唐九郎の箱書のある志野茶碗と話される。鉄絵も一筆に豪快ながらも味のある雰囲気の茶碗、桃山数十年の時代を思えば誰が焼いたのか明らかではないのは当然かもしれない。濃茶を頂いたので花入のことに及ぶと、南宋の手付白磁水注にて手付きと口の曲線の優美な姿に寒蘭を入れて。寒蘭を栽培している方より分けていただいたと話されるが、原産地の中国の寒蘭と南宋の水注の取り合わせが何とも格調高く、中国の古き良きものを審美眼で好まれる席主の心のこもった床荘りであった。

 拝見の茶入、茶杓

仕覆より出された茶入は磁州窯とのこと、肩があり言葉が足らないが中国の唐花風であって時代を失念。その茶入の仕覆は席主自らの仕立てにて、軸を表装される出入りの方より分けていただいた紺黒地地紋のある紗合せで茶室では地紋も判別できないので障子を開け何とか見出すも、年々目力が弱く残念。そして釜の蓋をしっかりと受止めている蓋置は席主がお住いの芦ノ湖畔の蘆をつんだもの。枯蘆をそろえて切られた由、勿論伴侶の製作にて頭をきちんとそろえるのは意外とむずかしいのではと皆でいじくり回ししたりして。

 続いて薄茶となり

朝鮮李朝の足付の大きな漆絵の盆に大徳寺納豆の少し入った何というのか口に含んだ途端に美味しい!と口走ってしまった干菓子と薄氷のような菓子(両菓子銘とも失念!)のおもてなしにて数々の茶碗、明染付、祥瑞手、文字天目釉などS席主のお好きな茶碗で一服を味わう。薄器はペルシャの小壷の銀化したのが見える。上に乗せた茶杓は正倉院古材、天平の古い時代をこよなく愛されて銘を「ふるごと」と名付けられ、共筒は合作。

 なおなお去りがたかったが冬至十日前のこの日、白雲洞は冬仕度の最中、振り返ればS夫妻のお見送りの礼に大和こころをいただき極月にふさわしい茶事の締めくくりであった。備忘録のこの日は冬至、旧11月1日でもあり朔旦冬至となりめでたい瑞兆でもあり、めでたしで結びと致します。ありがとうございました。

 

 


再々佐川美術館 蘆聚茶会へ

2014-11-25 10:09:51 | 茶会

11月19日蘆聚茶会へ、前回訪れたのは二年前の蘆が青々としていた6月の青蘆茶会であった。このたび願いが叶い、水面(みなも)を映している枯蘆の季節となった。佐川美術館に着いた12時頃、手びさしする位の日ざしに湖西の陰影は感じられなかった。

  

休館の札があり、この日は6席の各席6名、計36名のために設けられた様子で館内は静まり返っている。何という贅沢なひと時であろうか。ただ移りゆく刻を枯蘆と水が支配する時と空間、最後の席2時40分まで美術館地下の「新兵衛の樂 吉左衛門の萩」展示を回る。

 

パンフレットより少し抜粋させていただく。「第6回目となる吉左衛門Xでは、萩焼・十五代坂倉新兵衛氏と樂焼・十五代樂吉左衛門氏とのクロストーク・コラボレーション展を開催いたします。今回、坂倉氏は樂焼に、樂氏は萩焼に挑戦。それぞれ、相手方の製作法を用いて製作します。(中略)」

 最後に「冒険的かつ刺激的な試みと言えます」と結んでいるが、まさしく刺激的なワクワクするような二人の作家のチャレンジを作品を通して見ることが出来た。この展示は来年の3月29日まで、合わせてその経過を一冊の本「新兵衛の樂 吉左衛門の萩」(世界文化社)を出版された。

さて、点心席は本館特設席に案内される。水庭を眺めながらの一献は萩の露という滋賀の銘酒、珍しくぐっときたのはこれから席入りすることへの緊張感を和らげる序段? 松茸真蒸も初物でとに角頂くことに専念して。

 

その後、階段を下り目を凝らしながら寄付へ。寄付には当美術館の方と席主方の二人が袴姿りりしく、寄付に掛物「伝燈 孝淳」一字、席主がこの3月比叡山延暦寺に上られ第256世半田孝淳天台座主に染筆をお願いされたとの説明、さてもこの蘆聚茶会のテーマは「伝燈」であった。

 汲出しの湯はまろやか、白磁の椀は黒田泰蔵氏の薄造り、行李盆に乾山深省銘詩入「閑居有余楽奔走…」に松林かとおもわれる画賛の大きな火入をしばし鑑賞。まもなく銘々皿に金団、何とも軟らかくいただくのにてこずっているとき、「招福楼(東近江・八日市)のご主人は上手にお食べになりましたよ」といわれて、さもありなん招福楼の黒豆金団でありました。銘は“埋火”、金団のなかに赤い火が、いよいよ会の核心に入っていったようです。

 それから腰掛待合へ、ドームの壁に水の落ちる音だけが伝わる、そのときガラガラと開けられる音、蘆聚茶会の席主の官休庵・千宗屋若宗匠が蹲われた。無言の挨拶、ガラガラの戸が閉まる。そしてガラガラの戸を開け闇に近い露地を進むと蹲へ、スリットよりもれる明かりを受けて清め、小間の磐陀庵へにじる。正面の台に燈が照らしているのは仏画と思われるがもとより私にはわからない。

 寄付の「伝燈」であるからに、まさか比叡山の「不滅の法燈」の灯であろうかとその灯りにかしこまっていると磐陀庵の襖が開き、千宗屋武者小路家元後嗣が現わる、一同深く黙礼。

この一席のテーマは「伝燈」、延暦寺の創建時より絶えることのない「不滅の法燈」の「分燈」を現代というなかに据えて、改めて伝統の意味を共有しその継承の重みを強く伝えようとの茶会の趣向ではなかったろうか。「分燈」しての茶会は過去にも例がなく家元後嗣の決意が感じられる。

 道具組にも後嗣たる利休伝来のしつらえが、まさに濃茶を練るに良き煮えの阿弥陀堂釜は与次郎、向切に水指は盛阿弥の黒手桶、前に濃き藍色の仕覆の茶入、午後4時前の刻で天井高の明かりとりから射す陽は「昨日より明るいですね」と連日の茶会の日差しの違いを話される。陰翳ありての磐陀庵である。

 さて黒茶碗を持出される。馥郁たる香りが小間だからこそひろがり待たれる。私にとり始めての若宗匠自ら練られた一啜である。たっぷり練られているので遠慮なく頂く。若宗匠が「もし美味しいと感じられるのならこの水は横川より運ばれた水です」。まさに火と水と、生きるに欠かせない大事な命を伝教大師最澄の時代と今を共有した一瞬であった。

 当代樂吉左衛門氏の茶碗であった。「平成15年後嗣号宗屋を襲名した折に当代に焼いていただいた茶碗です。その後使う機会がなく今回この茶室で使いました」と話されるが願ってもない茶碗であった。生意気なことを言わせていただければ、大きくて彫刻的でもあり茶陶的でもあり、そして女性の手にも扱え、ずっと手に抱えたかったが早く廻さなければならない。出帛紗は金モール、伝来であろうか手にずしりと金の重みが感じられる。茶はお好みの福寿の昔(柳桜園詰)。

 茶杓は珠光、紹鴎、利休と続く茶統の一筋である珠光の真の茶杓である。真中に樋が一筋通っている茶の宝である。それでわかった、何と理解のおそい我ながらこの席に入る資格がないと恥じ入るばかりであったが、「法燈」の前に灰被天目茶碗にて献茶をされていたのだった!

 茶入は温故知新、現代作家の内田剛一氏の瓶子形でした。席主は「蓋を替えて使いましたが、会にもいらっしゃいました当の作家も自分の作品であると判らなかったようです」と。蓋により印象の変わることの道具の面白さも趣向である。その茶入を包んでいるのは志村ふくみ氏の仕覆であった。水を湛えた琵琶湖の深藍に一糸が織り込まれて水の緒のような“ふくみ芸術”。

主は茶道具は勿論のこと日本美術史、古美術、そして現代美術と幅広く何時までも話しをうかがいたかったが日も傾き磐陀庵は落日の気配、次の俯仰軒広間へ移る。磐陀庵へ何段かの階段を上るとそこは磐陀庵への思いを断ち切るように眼前に末枯れた枯蘆と落日のなかに比叡の山並みがくっきりと、一同感嘆の声しきり。障子を開けられたままにされ、自然と一体になりながら席入りする。現代建築の茶室でありながらもてなされる主催方のベストな環境設計に再三ながら心から嗚呼という他ない。

 

正面の掛物は、この度の染筆官休庵家元有隣斎徳翁宗守の「燈々無盡」の横物、濃茶席と呼応して頭をたれる。前には昭和31年延暦寺大講堂は放火にあい、その古材による花入である。確か側面の一部は朱になっていたのではないか、野菊がさりげなく。

足元が危なくなるので先を急がねば、佐川美術館の学芸員の方々がおもてなしして下さる。香合は仁清、書院に現代作家の五輪塔(作家名失念)、主茶碗は二代常慶と並ぶ宗味の黒楽という。このような茶碗が出てくるということはどういうこと?と楽音痴の私は思う(ん!楽に限らないけれど!)。それから限られた時間に岡部嶺男(来春の1月12日まで菊池寛実記念智美術館にて開催中)、空中、乾山など(などと云っては誠に失礼と思うのでありますが拝見できませんでした)。

この頃若宗匠がお見えになる。数日間の茶会でこの俯仰軒に一度もお座りになられなかった由、見えられたときに上座へお進めする配慮がなかったことは返す返すも客一同の失態。「次の世代に創意工夫をお伝えしていきたい」という強い決意が言葉にも茶会の組立てにも、その背景には若宗匠が幼き頃より足繁く通われたという比叡山延暦寺座主の薫陶や道統のお立場が感じられた。

 茶杓は藤村庸軒作、庸軒は琵琶湖畔の堅田にゆかりがあり優しく繊細な茶杓である。棗は確か八代休翁宗守好みにて、不昧は八代と親交があったので不昧好みとしてデザインをアレンジした菊蒔絵大棗だったような気がする。蓋置は当代楽の船の錨のような形でしょうか、何か愛おしくて握ったまま。

 

暮れ易しの佐川美術館水庭の茶室に心を残して退出した。

 (追記:地下の展覧後、樂吉左衛門館ロビーにて熊本・菊池市のうすい干菓子の松風で香煎を頂く)

 

(追記:俯仰軒を退出するとき、磐陀庵より読経が…、一連の茶会を終えて法燈を延暦寺にお返しする行であったのでは、磐陀庵は再び闇に包まれた)

 


京都・妙法院の茶会&三井寺&和久傳

2014-11-15 11:26:03 | 茶会

妙法院茶会 

今はもう初冬になってしまったが、晩秋の10月下旬友人二人をお誘いして秋菊忌の顕彰茶会へ。主宰であられる堀江宗蓬先生は妙法院門跡との親交により、普段は拝観できない妙法院の奥の院にて濃茶席、瑞龍殿にて薄茶席とのご案内をいただいた。

 

今日ばかりは表門も茶会のために開かれ(勿論唐門は開かずの門であるらしい)、受付の玄関は国宝の庫裏、桃山時代のそれは圧倒するばかりの棟高60尺という大建築である。(春秋の特定期間のみ一部拝観できるらしい)。

 

さて午後1時の席入りにてまもなく案内人により案内される。翠香園の内庭を通り板地彩色された三十六歌仙絵36面(各650×430cm)のかかる廊下を通るが、慶長8年(1603年)頃に狩野光信によって描かれた可能性が強いという美術ロードを鑑賞するまもなく通り、濃茶席である御座の間(江戸時代)へ通される。

 そうそう、その前に「ここが寄付です」と通された部屋に秀吉筆消息・三条殿蒲生氏(おとら)宛(秀吉の側室)、秀頼筆色紙(重要美術品)、淀君筆和歌短冊という三人揃い組みという披露、そして炭荘も桃山文化の粋を集めた道具組。

 そして一之間、二之間、三之間と続く法親王の学問所に用いられた部屋の床に蘭渓道隆筆の尺牘 円爾弁円宛(東福寺伝来)、豊公が北野大茶湯に用いられたという大掛物。古備前の筒花入に草牡丹、野菊、芍薬の赤い実が晩秋らしく花が終った後で絮のようで今にも吹き飛ばされそうな、柏のような葉でさて何?と首をかしげるが、後に草牡丹と判り晩秋の風情が御学問所に…。

  パンフレットより御学問所

肝心のお席主です。芳心軒木村宗慎氏は昨秋東博でも濃茶席を持たれた若きお数奇者であり、東西に教室を持たれ活躍をされている。席主自ら濃茶を練られるとともに、爽やかに正客とのお話も進められる。主茶碗は鬼熊川(妙法院尭然法親王(御陽成天皇皇子)箱・松浦家伝来)、替茶碗は黄瀬戸(宗和箱、上野有竹旧蔵)。この黄瀬戸茶碗はかなり大きくて深く、一番の見所は胆礬釉が中にも鮮やかに発色している。釉膚の柔らかい味わいがあり、この茶碗でいただけたのがうれしかった。お席主のやわらかな立ち居振る舞いは、茶を点てる者の必須と今更ながら感じたことも門跡寺院の雅のたたずまいのなせること?

 さて説明はこの位にして会記から抜粋

書院:伽羅木(堆黒 倶利盆に乗せて、陽明文庫伝来)

結界:西大寺古材 芳心軒好

釜:雲龍 初代寒雉造 風炉:鉄欠け 菊霰 敷瓦:織部 寸松庵瓦

水指:絵唐津 瓢箪

茶入:瀬戸 源十郎作 肩衝 水戸徳川家伝来

仕覆:道元緞子、伊東漢東、東福門院御好松竹梅金襴

盆:名物 松ノ木盆 珠光所持

茶杓:織部作 覚々斎筒箱

御茶:鶴嶋 丸久小山園 菓子:今朝ノ霜 末富製

器:菊絵銘々盆 道恵造 替:黒塗輪花銘々盆 平瀬家伝来

 菓子器の黒地銘々盆は目測で5寸程の大きさで盆裏一杯に菊の花びらの線描文様、薄作りで道恵の時代を感じさせる。この頃の京は季感として初霜がおりる頃なので菓子銘「今朝の霜」をご用意なさったかと思うのですが、その霜もほんの少しのって菓子舗のご苦労も感じられたことでした。

 薄茶席 

その後すぐ大広間の薄茶席に通され少人数ならではの贅沢なご案内である。

茶会主宰の堀江先生はおもてなしされることに徹底される方である。妙法院の瑞龍殿大広間の床には、御陽成天皇の御宸筆・大字「龍虎」、前に金銀菊紋蒔絵中央卓に青磁香炉、花は陽明文庫の青竹に枝もつけてまゆはけおもとが古銅の花入に。陽明文庫縁の名和和子氏が挿花されているとうかがう。まゆはけおもとの花を拝見したのも初めて、茶席で拝見したのも初めて、おもてなしの妙を存分に味わわせていただいた。

 眉刷毛万年青(季節の花300より)

 筑前芦屋青銅八角風炉(初代長野垤志造)に松竹梅紋真形(高橋因幡造)、初代長野垤志氏とも親交のあった堀江主宰はこの前で二日間にわたる御自身のお手前にお疲れも見えずご接待され、客人の私たちは古都京都妙法院の奥殿で京都の菓子舗・松寿軒の薯蕷、紅心宗慶宗匠好の清の森を楽しむ。

 大広間の書院には文麿公好の倣「物かわ伽羅箱三ノ内」と菊蒔絵硯箱(毛利家献上)、この物かわ伽羅箱(義政所持、予楽院箱書付)は近衛家第一回入札にて世に出ていると思われるが、それ以前に倣つて作られたものであろうか。入札名称は「物賀盤」伽羅箱になっていました。

 薄茶席も会記より抜粋

釜:松竹梅紋真形 高橋因幡造  風炉:筑前芦屋 青銅八角 初代垤志造

棚:遠州好 風炉置棚 時代    水指:染付 群仙図一重口 清朝時代

薄茶器:時代 菊桐紋蒔絵 平棗   茶杓:不昧作 銘白鷺 共筒

茶碗:高麗 銘尭風 妙法院菅原信海大僧正箱   替:古萩

 点心

三井寺へ

翌朝、近江八景の一つ大津の三井寺(園城寺)へ参る。記憶が定かではないが若かりし頃園城寺銘の釜、利休作竹一重切の花入を知った頃訪れたことがある。そのとき大津絵の鬼の版画を求め長い間そのまままにしてあったが、時を得て表装にし節分の茶会に使用した思い出の地。

 三井の晩鐘

 芭蕉の句碑

元禄四年(1691年)八月十五夜、松尾芭蕉は琵琶湖の舟上で中秋の名月を詠んだ

「三井寺の門たたかばやけふの月」

 大津絵の店内

石段を少し上ると西国第十四番札所の観音院でそこから琵琶湖が晩秋の陽を受けてキラキラ揺らめいている。参拝後、大津絵の名人高橋松山のお店へ立ち寄る。友人は何か茶事茶会に使えそうな物を物色、いずれその会にお招きいただけるかしらと期待。

和久傳へ

さてその後京都に戻り昼食は伊勢丹内11階の「和久傳」へ、私は初めてであったが大文字焼きの五山が全部みられるとか。献立は少し贅沢に京料理を味わい女三人の旅を終えた。

 

 


秋の特別展を回る

2014-10-31 18:13:51 | 展覧会

昨年の秋は出歩かなかったので、今秋はその反動とばかりに茶会と美術館を見る機会に恵まれた。一言コメントで括るにはあまりに雑ではあるが…、備忘録だから…

 まず東博で14年ぶりの「日本国宝展」(~12月17日)、テーマは「祈り、信じる力」、祈り信じる力が正しき、善き、美しきかたちを造りだす、すなわち仏や神への絶対的な信仰がかたちになって絵画にしろ彫刻にしろ、工芸品であっても眼前にくりひろげられる曼荼羅世界であるとみた。

“縄文のビーナスは紀元前3000年前の土偶で実に愛らしい! 正倉院宝物の「鳥毛立女屏風」の天平美人に通じるような…、国宝には失礼なそのような勝手な想像も。後期は11月11日から。

 http://www.tnm.jp/   白嫁菜

「東山御物の美」(足利将軍家の至宝、三井記念美術館、~11月24日)もよく集めに集めたかと思われる。13世紀から15世紀に集中する足利将軍家の唐物趣味は一見に値する。願わくば鑑賞者が唐物世界を理解するうえで、会所という空間で飾る、すなわち君台観左右帳記に表される飾りを展示の唐物道具で飾れば素晴しい会所空間が表現されたのではないか、と思いました。

国宝「油滴天目」茶碗(大阪市立東洋陶磁美術館蔵)は光の反射によるのでしょうか、所蔵する大阪市立東洋陶磁美術館で見たときの方が自然光らしく生々しかったような気がする。

 http://www.mitsui-museum.jp/  荻

 

「名画を切り、名器を継ぐ 美術にみる愛蔵のかたち」(新創開館5周年記念特別展、根津美術館、~11月3日)

目録で“本展は、将軍や茶人をはじめとする所有者たちによる改変が、どれほどの深い愛情と驚くほどの想像力をもって行なわれたかを名品によって知る機会”と解説しています。

国宝・大聖武で始まる古筆手鑑「翰墨城」を鑑賞するたびに本当に愛してやまなかったと思うのです。日本人の美意識を深く鑑賞できる大切な手鑑です。

そしてもう一つ前期に出展の「崔子玉座右銘」断簡は拝見し損ないました。大師会はこの崔子玉座右銘を入手して益田鈍翁が始められたと膾炙されている断簡(重要文化財)は何時の日か拝見できることを期待して。空海筆の「風信帖」の最初の“風信雲書”の四文字を手習いで臨書した時の圧倒的な筆順を思いだした。

 http://www.nezu-muse.or.jp/  白花桜蓼

「大名茶人 松平不昧の数寄-- -」(開館50周年記念特別展、畠山記念館、~12月14日)はすべて当館所蔵品で展覧している。

油屋肩衝と:圜悟克勤墨蹟(流れ圜悟、現在東京国立博物館蔵)について松平不昧は次のようなことを「道具帖」に書き記している。それは文化8年(1811年)不昧が61歳で隠退し息子月潭に名器類の全てを譲るにあたり、この二点は茶会で使用を禁じ、しかも扱う人物はただ一人、そして隠退した江戸大崎の下屋敷より持ち出しを禁じているという因縁の唐物である。

印象的であったのは、畠山即翁は松江松平家より入手したものも多くあるものの他家や他美術館を経て所蔵した雲州蔵帳の名茶器(例えば古銅増耳花入、彫三島茶碗、備前八角水指など)もあるということは、結局雲州蔵帳の所蔵品は一番ではないかと、開館50周年にふさわしい特別展であった。

不昧は“天下の名物にして一人一家一国の宝にあらずと知るべし”と言葉を残している。折しも4年後の2018年は不昧生誕200年忌である。

http://www.ebara.co.jp/csr/hatakeyama/index.html                          

        山帰來  蒲

 力芝

 烏瓜

圧倒的な秋の特別展を鑑賞したせいでしょうか、畠山記念館の帰途立ち寄った白金自然教育園の自然の草草に触れて。

(写真:10月30日自然教育園内で)


秋の北アルプス 西穂高独標へ

2014-10-14 22:28:39 | ハイキング

9日朝7時、新宿スタート

台風18号と19号の狭間の9日、新宿7時発平湯温泉下車の高速バスに乗車、またバス、新穂高ロープウェイを乗り継いで西穂高口(2156m)に13時5分に着く。東京から登山口まで6時間を費やす。ここまでは観光コース、ロープウェイが出来たため西穂高へのルートは行きやすくなったという。ここで昼食をとり登山開始。

 今も登山者の捜索が続く御嶽山の遭難事故のことから、登山届けが厳しくなったようで私たちもしっかりと出す。ここから西穂山荘まで1時間30分の行程だが、一旦山を降り、更に急登してコースタイムの1時間20分、14時50分に山荘(2385m)に到着。

 すでに風は冷たく体感温度5℃位? 明日登る西穂独標は雲がかかっている。その山を眺めながらテラスで持参のボンベでコーヒーを沸かしコーヒーブレークを楽しむ。案内役の家人はかつて冬の上高地側から入り西穂高岳へのルートをとったとのこと、山荘泊まりは本来家人の趣味ではないが、年齢もここに至って10月のテント泊は0℃以下になり厳しく山荘泊まりとする。何張りかのテントにはやはり若者たちが…。

 西穂山荘に宿泊、夕食は自炊

それでも山を楽しむために食事は自炊、その食料、ボンベは勿論家人が持つことに。山荘の団らん室はボンベ使用可能なので夕食はアルファー米にレトルトカレー、秋刀魚の缶詰、缶ビールで。この西穂山荘は清潔で団らん室では宿泊客がおもいおもいに明日のスケジュールを確認しあっている模様。

 その内に十六夜の月が中空に煌々と山荘の窓に差し込む。あまりの耀きに外へ、2000m級の山で眺める月の独断場である。明日は晴れの天気予想にほっとする。21時に山荘の灯りは消され漆黒の闇に。

10日快晴、天高し

翌10日4時半の起床、しらじらと明けてくる。カップラーメン、エネルギーイン、ビスケット、コーヒーで朝食を済ませ6時登山開始。

 独標、西穂高岳へ向かう

 山荘から15分の丸山まで足慣らしで歩きやすくなだらかな丘陵地帯に出る。北アルプスの山容が目に飛び込んでくる。が森林限界を超えるので少し風が出てくる。着衣はウールのシャツで十分。お花畑(と称するが今は何もなし)までガレ場で慎重に進む。そして今日の目標の独標(2701m)までルートが狭くなり角度のある岩場が続く。

 雲海の中に焼岳

 焼岳の先に乗鞍岳遠望

 笠が岳

7時40分、独標2701m 

家人の歩きは腰を下ろしての休憩はなく、立ち休憩なのでその場で山の稜線を眺めたりすると、斑模様に黄葉が色づいて麓に下りていく。周囲の山々を近くに感じながら独標(2701m)に7時40分到着。

気持ちのよい秋晴れの独標は360度の大パノラマ、西穂高岳山頂、その右手に前穂高岳、明神岳、左手に笠ケ岳が連なっている。遠くに御嶽山の噴煙がみえると他のパーティーが地図を出して確かめていた。

 独標から西穂高岳をみる

  手前は焼岳、奥に乗鞍岳

さてこの独標から西穂高山頂(2909m)へは、余裕があればという家人の気持ちだったようだが、急峻でやせた尾根の登下降が連続するとあって私はここまでが精一杯、家人の「後ろ髪引かれる思い」というセリフを残して降りることになった。来年はザイルを用意して西穂高岳へなんて言っていたようだけど…。下山途中またコーヒーブレークしながら9時35分山荘着。日差しが強く天高し、荷造りして10時10分上高地へ下山開始。

10時10分、上高地へ下山開始 

西穂山荘から上高地からまでの道は標高差が900m近くある。1時間ほど下るともう半分位下りたかなと思ったが、尾根上を通るルートは下りても下りても森は深い。時に上高地側から登ってくる人は体力がありそうな男性が5人ほど。1時間で標高差300m下りることに、下り足にダメージがあり膝に疲れが溜まってきたようで登山下り口の田代橋に出たとき、梓川の清流に心が洗われた。

 上高地のバスターミナルは三連休の観光客で大賑わい、新宿行きの高速バス15時発を予約しベンチで無事下山の乾杯をビールでしばし、始めて乗るグリーンバスで快適な帰宅となった。

 


隠岐の島吟行

2014-09-21 10:00:13 | 俳句

九月も下旬にはいり爽やかな秋日和となる。今夏を振り返ってみると俳句結社で隠岐の島へ吟行したことも半月前のこととなった。数年前に後鳥羽上皇の足跡をたずねて熊野古道の一部、中辺路コースを紀伊田辺から熊野本宮大社まで歩いた。そして承久の乱により後鳥羽院の配流の地、隠岐の島へ行きたかったことが、今回の吟行で叶えられた。

羽田~出雲空港~隠岐空港へは乗り継ぎの待ち時間(80分)を入れても3時間で着くという意外な近さ。ただ帰りは境港へ船でわたるという帰路もあったが、往復とも飛行機というのは少し残念であった。

島滞在だけの2泊3日は見るもの、聞くもの、味わうという五感はすべて俳句つくりということに向けられ息苦しさは感じられたものの、そこは後鳥羽院が流された隠岐の島を肌で感じられることが大事かな、と割り切って。

隠岐の島は大きく4島の島より成り立ち、後鳥羽院配流の地の島前(どうぜん)には船の便がなくて渡れなかった。

院の”我こそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け”の代表的な和歌を思いながら、おだやかな海の先にある島前に手を合わせた。 

      那久岬灯台より島前をみる

    壇鏡の滝

 裏見の滝ともいう

 屋那の舟小屋群

  

 なごらんの里の蓮

  西郷港出航する烏賊釣船

 イチジク(完熟を頂いた)

 棗の実

 牛突きを観光(引分となる)

 ホテル前の船着場のくえ(奥の魚)

   ホテルの夕食の一部

 


ある茶事へ

2014-08-18 12:24:42 | 茶事

H先生より4日後の急な七夕茶事のお話しがあった。それは京都大徳寺塔頭の徳禅寺ご住職をお招きした後の跡見の茶事のようであった。この度はもう一度催してほしいという方のたってのご要望のよう、T住職のお道具好きは私も茶会などで経験もあったことにて、炎暑最中ではあったが先生の茶事も初めてのことでもあり若き友人をお誘いして東京郊外のH邸へ。

 

今は亡きご主人さまは書道史家であり古筆鑑定もされた方で、その所蔵の古筆の掛物が掛けられるのではないかと多いに期待を膨らませて門を入る。袴付きには七夕の趣向に誘うような笛を吹く貴公子が描かれた几帳のお出迎え。

 さてH先生席入りの前に連客のために古筆のお話を、かつて教鞭をとられていた事もあり講義は最も得意とするところであり、さても七夕の古筆切であることは間違いなし。その後改めて迎え付けされつくばいを使う。

露地の苔の花の何と美しい風情であろうか。露地の狭さを謙遜されるが真行草に組まれた石組みの構成に驚かされる。八畳の広間の一間以上ある床の間には上代様の高野切二種の手となる和漢朗詠集七夕の断簡を掛物に、床脇には李朝時代の螺鈿夕顔蒔絵の雅な香たんす。さても遠州流茶事は初めてのことでもあり、事の次第をH先生に委ねて。

 私の数少ない断簡の拝見に「九日付菊」「山水」そしてこの「七夕」。陰暦七夕は八月二日、拝見する方も読めないなりに詩文のところどころに思い当たる詞が、

「憶得少年長乞巧 竹竿頭上願多」  憶ひ得たり少年長く乞巧することを 竹竿の頭上を願糸多し 天の川 とほき渡りに あらねども 君が舟出は 年にこそ待て 人丸

 

切れの最初の詩文と和歌をようやく朗詠(帰宅後勿論確かめてしまったが…)、一年に一度の織女と牽牛の七夕伝説を大切に和歌にまで昇華して今日まで伝わり、現にこのように座に身を置いている自分を不思議にさえ思えてくる。

 床の間の隅に硯の重箱が置いてある。H先生は書道にも勿論造詣が深い方だけに、あなおそろしや、どのような趣向だろうか、見てみぬふり、果ては無視することに決めたり。

 炭を直される。釜は名越家系譜の堀山城作という、遠州公お好みの棚。瑠璃の美しい羽箒も印象的、象嵌の火箸やかんも優しくみやび。お手前されるH先生のたおやかさと堂々とした雰囲気は始終一貫してご披露された。

 

その先生自ら懐石を運ばれる。恐縮の至りであるが、思い出すのは裏千家の亡き浜本宗俊業体は八十歳過ぎてもそのようになさっていたとのこと。茶をなさる先達先輩の方々の姿勢に頭が下がります。

鱧の向付、鱧しんじょ椀、鮎の焼物、預け鉢三種と続き、お湯と冷水の両方を香の物と出されるのは遠州流とか。楽しく連客の皆さまと、そして先生と菊水の美酒を交わしている内に刻となる。

 中立する前に黒い丸盆にぬばたまの菓子を各人に、ベガとアルタイルとの星の逢引をかけて夜空に星がちりばめられているという印象を受けたのでしたが、菓子の銘は蛍の光だそう。京都は末富の黒糖の甘さが残った。

 

一旦待合に戻り、改めてドラと先生の迎え付けに誠に恐縮の至りでした。やはり遠州さんは武家茶とあって主客ともに互角のことなのであろうかと、私たちは腰を低くして小間へとにじった。その正面の床を一瞥して驚いた。三尺ともあろうか竹の節より葉を勢いよく伸ばしている、クレマチスの籠口、仙人草の蔓も下がり立体的な構成は真夏の花だけに四半刻の命である。竹の上部も半枯れにてそのバランスは遠州流の持ち味だけに感銘を受ける。京都は近衛家の陽明文庫の竹を持って運んだ馳走の極め。

台目畳に南蛮の水指、遠州瀬戸であろうか茶入、明時代とおもわれる天目茶碗で紅心宗慶宗匠好の飛鳥の昔を美味しく頂いた。先ほどの菓子も程よく舌に残っていたので、やはり甘さが残っている菓子の方が抹茶を引き立ててくれるのではと、濃茶の席でいつもながらおもうのでした。

さて、小間より広間の薄茶席へ改まる。このような改めはやはり千家の茶とは明らかに相違するところとおもう。床の間には前席の掛物は外され、一首の和歌の掛物と白磁花入に山の草草が、三笠宮妃殿下のご染筆にて“蝉しぐれ”のお歌である。先生は故里の信州へ足を運び摘んできた草草の数々は、撫子、黄蓮華升麻、山蛍袋、玉紫陽花、仙人草、風知草、夏より初秋にうつろう季節を床に映してひと時信州の涼しさをいただく。

 

床の間には初入りの時から重硯箱が変わらず、床脇には文房具一式が短冊とともに飾られている。ここでTご住職の席入りのときの第一声の様子をうかがう、「わしやあ、書かないよ」と。そのことをうかがい連客も一斉に「それでは私たちも!」と辞退申し上げて一件落着のことと相成った次第でした。でも本来でしたら歌の一首でも用意するのが招かれたものの嗜み?かと普段の不勉強が暴露された一コマでもありました。

 

H先生が文部省の文化使節として海外にお出かけになられた時に入手された器の数々を薄茶茶碗として、やはりお好みの“清の森”で頂いているうちに夏の陽はすこし落ち、露地に下りると小鳥がつくばいにいこいを求めて。心づくしのおもてなしに心を残しながら夏の日盛りへと邸を後にした。

 

 


朝茶に

2014-07-17 09:42:18 | 茶事

梅雨明けにはまだ間のある七夕月6日、朝茶のお招きを受けた。友人をお誘いして東京の郊外のお宅へ。連客の方々も各地より足を運ばれるので、多少遅めにて待合に通る。

 待合に梶の葉に万葉仮名で「たな者の袖つぐ宵能暁盤川瀬の鶴に鳴か須ともよ志」と万葉古歌を、織姫と彦星の袖を連ねての逢瀬も控えて本席の席入が楽しみとなった。見事な大きな梶の葉に流麗な筆、細かなぎざぎざの梶の葉は何処で探されたのかしらと。私も先日真似事をしましょうと探したのが新宿御苑に行く途中の街路樹でしたが、これ程の大きくて切れ目の入ったのは見当たらなかった。

 

それはさておいて、蹲を使い席入りすると「清風無間断」の墨蹟が目に飛び込む。文字で清風を呼ぶ力は日本語ならではと思いつつ、味わい深い一行である。絶えることなく滔々と落ちる大瀧の豊かな水が飛び散り清風をよぶ、そんな日本の風景がいつまでも残ってほしいと特に願い月の七夕に託して。

 長板に二つ置にして初炭をさらりと進められる。朝茶の本意である。丸灰の美しいこと、しばし見とれる。香合は八代宗哲作写しの玄々斎好み・蜑(あま)小舟香合、初めて拝見した珍しきもの。今日庵歴代の本によると、「松の皮目をそのまま残し、船の舳先と艫を斜めに削り落とし、側面の下部に面を取って紅溜塗地とし、金蒔絵で千鳥を表している」、そして蓋甲に「雪能花月裳清見屋田子浦」と漢詩に造詣が深い玄々斎が書いている。

朝の懐石はさらりともてなすというが、席主の水屋は多分若きお弟子とお嫁さんであろう。目下修行中の弟子の修練であればやはり力もこもるというもの、葛しんじょ、あいなめの焼物、炊き合せ、預け鉢、八寸、香の物と夏野菜の食材を軽く収めて。朝茶に葡萄唐草鉢、染付け鉢、赤絵皿、籠の飯器には芋の葉に紫蘇ご飯を盛って見た目にも涼しいのもご馳走である。釜の煮えも中立ちを誘うが如く松風に。

半刻の後、星祭をイメージした亀屋万年堂製の黒文字を入れてすーとなんとも軟らかいお菓子を頂いて中立ち。涼やかなお召し物の主は、茂山写しの御本茶碗に伊賀茶入を持出しての点前を連客一同静かにみつめる。いつも思うことはこの一碗のための茶事であり、一碗のためのおもてなしであること、何とも贅沢な一瞬ではなかろうか。

 

ありがたく主客の座をいただき最初の一啜を、この一啜に主客の和合が感じられるのかもしれないと。それでようやく水指のことに話が及んだ。京都の陶芸家、浅見五祥作の竹文様平水指は見込みにも笹竹がふいている感じ。茶杓は西山松之助作、銘・瀧。珍しい茶杓に出合った。歴史学者であり江戸の芸能と文化を語り、『家元の研究』という本を出している。読まなければ…と思いつつ今だに…。ある本で古今の茶杓の寸法を詳細に記録した頁を読んだことがあるので、その方の茶杓が今手にとることが出来た。すっきりとした美杓である。背筋のすっきり伸び枯れて樋の入った茶杓は西山松之助その人のような、間断なく落下する瀧に私も背筋を正さなくては。

 

そして続く薄茶にお弟子二人の代点にてお菓子が運ばれる。主の青年部時代に研修で絵付けしたガラス器に短冊と星のお菓子は天の河へと誘われる。またもう一つの笹舟の器に銀河系の星屑をのせて。結局二服までいただいてしまう、朝茶というに…。

 

 

 


山刀伐峠、T家お手伝い、鈍翁茶会

2014-07-08 20:53:12 | その他

山刀伐峠

例年の鈍翁茶会を前に、前々日一度行きたかった奥の細道紀行の山刀伐峠(なたぎりとうげ)を歩いた。『曾良随行日記』によると、時は元禄2年5月17日(陽暦7月3日)の午前、芭蕉と曾良はこの山刀伐峠をこえて尾花沢へ向かったとある。私は6月19日ほぼ同じような季節に芭蕉と逆の尾花沢から山刀伐峠に向かった。

                このような歴史の道を入る 

  梅雨の晴間

里人が昨秋刈取り束ねた萱を下ろしていた

 「高山森々として、一鳥声きかず。木下闇茂りあひて、夜行くがごとし。雲端につちふる心地して、篠の中踏み分け踏み分け、水をわたり、岩に躓て、肌につめたき汗を流して、最上の庄に出づ」と。

マンガ本『奥の細道』著者矢口高雄氏も「この峠を歩いてみたが、かなりデフォルメされた文章上のアヤを感じた」と書かれている。

  峠の碑

 峠で出会った最上町松林寺のご住職と山口から来た猿廻しの2人、ご住職はブログ”なあむ”の執筆者

私も実際歩いてみてそのように感じたが、それは時空をこえて三百数十年前の芭蕉の足跡を辿ることができて嬉しかった。そして芭蕉は当地で「涼しさをわが宿にしてねまるなり」の名句を残している。 

            山刀伐の由来の被り物(芭蕉・清風歴史資料館展示) 

            芭蕉と曾良は養泉寺で7泊して歌仙興行をした

 

 養泉寺前の風景

S家お手伝い

S家は山形・天童市出身の素封家にて、かつて陶説・山形県支部長をされたこともあるコレクターでした。そのS家の御当主が昨秋惜しまれて亡くなられた。私もお目にかかったことがあり、邸内の古美術コレクションを御当主の解説にて拝聴したのが懐かしい。

 この度は、御当主の交遊関係のお一人がご弔問されるので一服差し上げることになった、その水屋の手伝いを。お供も4名連れられて。

 以前催された陶説の山形県支部茶会の会記が手元にある。綺羅星の如く連記されている道具を今語ることは私の任ではないが、そのような重い茶道具の数々の一部を掛軸、花入、香合、水指などに組まれ、私は点前のために茶碗、茶杓、棗に触れさせていただいた。

 

弔問の方は陶器磁器の第一人者の方だけに次々と点てた茶碗の解説は講座の如く、それでも五碗位点てたでしょうか、その方は「違う茶碗でしたらもう一服頂きますよ」と云われてS家の後継者をあわてさせたりした。その後、広間にて中国、日本の古陶磁を中心に鑑賞した。

 

鈍翁茶会

今年は第三十回記念茶会にて第一回を担当された東京・神通青山居さんが濃茶席を持たれた。市内の清風荘・宝紅庵は一段と緑濃き大樹を従えて涼しい風が渡る。呈茶席の広間に冷泉為恭卿の七夕図が大床に、宮廷の官女が梶の葉を浮べている図でしたか。

 

寄付に炭飾りを格調高く、本席は宗達蓮下絵 光悦の百人一首和歌断簡(耳庵旧蔵)の床は、畠山記念館の所蔵品と同じ断簡かもしれない。床に掛けると掛物も呼吸をしているような感じできっと箱から出されて嬉しいのではないかと、鑑賞者は思いました。青磁算木手花入は大ぶり。茶入が良かった、膳所肩衝、金森宗和箱で遠州好みのように見受けられ、銘の大原山は京都周辺の山だそうだ。京都に隠棲した宗和が日々眺めていたのであろうかと想像へ。

 薄茶席は東京京橋の飯田好日堂さん、古美術商担当の席は、旧蔵の名品の数々を拝見できる眼福が得がたい。耳庵は茶の道へ入ったのが鈍翁の手引きらしい。鈍庵から耳庵に渡ったと思われる光悦好み網干詩入四方筒釜(古浄元作)は品がよい。そして楽浪古材の風炉先、掃雲台愛什とある。大正5年発掘により出土された堅木を「楽浪古材」と称される。その二千年にならんとする風炉先の風格はほれぼれとする。この風炉先がこのたび一番のお気に入りであった。

 利休所持写耳付籠(鈍翁箱)

そして立礼席は展覧席にて、主はこの清風荘につくばいと燈籠を寄進されたのをもって茶会が始まったという発起人の安藤登喜子氏の席。ここの床脇にも「楽浪古材青貝入沈箱 鈍翁より来る」とある。日本の工芸の繊細さをここでも確認。


古田織部400年遠忌追善茶会 その二

2014-06-25 22:23:52 | 茶会

薄茶席 菱本芳明氏

 瑞雲軒玄関

同じ連客が薄茶席の寄付に動座する。床は「不昧公・自画賛、舟乗布袋図」、賛「生涯不奠 いのちはかぎりありてとどまらざれどおおいなるさいわいちかきにおおし」、布袋は弥勒の化身であるという。

琵琶床に薩摩五弦琵琶が飾られている。席主は琵琶床に置くことが少なくなりましたがと話された。

 本席の二畳床に一休禅師一行「吟杖終無風月興」詩を吟するため行脚しているがとうとう風月を愛でる興趣がなくなってしまった という。藪内家・佐々木寿庵伝来である。藪内流一世紹智の養父にあたる藪内宗巴は織部とも親交があった茶人ゆえ藪内家に伝来していたものであろうかと勝手に想像。

 私は花を身近に見られる座に坐ったので、菱籠の見事な唐物花入に七段花、撫子、笹百合、鉄線、白下野が入っている。香合が素晴しい!桃形の紅花緑葉香合(伊達家伝来)はこの席で一番感動したものかもしれない。多分織部400年遠忌追善だからこそ席主の追善の気持ちがこめられたのではとありがたく推測させて頂く。信楽水指(利休所持)の銘・西王母、西王母の仙桃を食べて寿命が三千年も延びたという謂れをもじって桃形を使われたのでは。

さて、下手な解説はこの辺にして会記より転載させていただく。

釜(色紙 笛鐶付 定林作 東本願寺伝来)、風炉(唐銅獅子鐶付咬欄干)、薄器(菊桐蒔絵黒中棗)主曰く、高台寺創建当時の台座と同じ頃ではないかと。茶杓(織部作共筒)石州巻物添、「織部の好みは、普通には茶杓筒に「古織」と銘のあるものによりその大略がうかがわれる」と織部研究家の桑田忠親氏は書いていられる。筒の確認は出来なかったが…

 茶碗(鳴海織部 沓、蕎麦 銘あけぼの 益田家伝来、黒織部 沓、玄悦、織部唐津 沓)、織部好みの沓形は、武人としての力づよさが沓形になって織部の美を表していたのではないかと。だからというわけではないが、私は道具としてとても使いこなせないし取合せもできるはずがないと心得ているのでこのような席で織部茶碗で頂くことは出合いの場、勉強の場とさせて頂いた。

相変わらず横道にそれて…、建水(備前 松浦家伝来)、蓋置(染付竹節 室町三井家伝来)、五寸位の木地丸盆菓子器は利休所持で随流斎・啐啄斎箱書がなければ、打ち捨てられていたかと思うほどのつつましさ。対して男性的な豪放さの織部好みにふれた追善茶会であった。

 点心は、瑞雲軒にてたん熊北店のお弁当を頂く。友人はたん熊の点心に執心していたが、生憎参席出来なかったので写真にて報告。堪能した席の後だったので勿論点心も満足のお味でした。


古田織部400年遠忌追善茶会 その一

2014-06-24 17:40:58 | 茶会

古田織部重然は慶長20年(1615年)6月11日自刃、その遺徳を偲び大徳寺内にて茶会が催された。

 総見院

 濃茶席 鈴木晧詞氏

水無月の梅雨空を気にしながら、大徳寺総見院の本堂・待合に連ねて席入りを待つ。幸い前日の京都入りにて第一席の大広間の末席に座る。春屋宗園老師墨蹟 十字一行「直透萬里関 不住青宵裡 一黙子」、席主は鈴木晧詞氏(茶道研究家)。実はこの追善茶会は六席あり、鈴木晧詞氏と菱本芳明氏(茶道家)の席を選んだ理由は両茶道家の席は初めてだったからでもあるが、日頃書かれている随筆、茶会記などより数寄者の的確な薀蓄が語られているその人の呼吸に触れてみたかったからでもある。

 得度して僧籍に入るも還俗された鈴木氏は、『物に執して』(里文出版刊)の著書もあるように物への眼差しになみならぬものがあり、それでは物への徹底が茶道ではという好奇心?からといっては失礼だがその機会が大寄せ追善ながらおとずれた。

 古銅花入には大山蓮華が待合の「古画 蓮之図」に呼応してすっきりと入っている。織部の没年は慶長20年6月11日(旧暦)、400年前のこの日織部が最期に見た花はなんであったろうかとか、何の花を好んだのであろうかとか、具体的に思うのは丁度忌日の日だったからかと。

 芦屋真形霰釜に芦屋唐銅八角風炉、台目棚(織部好)に志野四方入替茶器(如春庵旧蔵)は目利きの鈴木氏が掘り出した物に他ならない。古伊賀水指の台目棚下に収まる小ささは何気に良く、織部焼茶入(銘・松風)は織部が最も充実していたころの堂々とした作風かと。織部は時の支配者に追従しながらも歴戦を重ねてきた武人である。だからこそ織部の好んだ道具の数々に織部像を重ねながらこれからもクローズアップされるに違いない。

 茶碗の筆頭は、釘彫伊羅保茶碗である。席主は「この伊羅保は東京の静嘉堂文庫所蔵の釘彫の手と同じです」と説明される。帰宅後本をひも解いてみると、正に同手のものと思われる。文庫蔵品の銘は「末広」、その形状を転記すると「口が広く、やや波うって、見込から茶溜りにかけては段差がみられる。外側の釉薬は灰青色に加えて赤みをおびたむらむらがあらわれ(以下省略)」。この茶碗に限らず、高麗、瀬戸黒、織部黒、赤織部、古瀬戸、織部沓形と目利きに叶った茶碗を主は「今日は特別にお出しするものです」と一言そえられたのは尤ものこと。加えて私は織部沓形茶碗で頂いて隣の方に渡したが、その方は不昧流で「正面を真向うにして頂きます」と手にとられる。沓形だから少し飲みにくいのではとチラリと見たりして…、でも流石に堂々と。

 茶杓は織部侯・同箱、一尾伊織極を紅心宗慶宗匠が伊織の極めであると更に極めしている。御茶銘は、偲びのよすが(星野製茶園詰)、菓子は銘・織部悠羹(末富製)、両方とも申し分ないおもてなしであった。

そして、菓子器も主の縁高(一閑蔵)だけではなく、青磁反鉢、祥瑞本捻鉢、赤絵羅漢図阿弥陀仏トアリ、染付蓮弁図成化年製ときら星の如く。

 最後に、寄付の琵琶床・唐盆に青磁小香炉、阿弥陀経一巻・紺紙金泥(田中光顕箱)にも鈴木晧詞席主の執心ぶりがうかがえた! 

 鈴木晧詞席主は連客に語りかけたかっただろうが、正客に老紳士が坐られて広間だけに声が届かず、そして何やら個人的な会話に終始しているようで正客の自分に執しているのが残念なことであった。

 濃茶席 

 


但馬路、近江八幡へ

2014-06-07 22:45:36 | 

スマートフォンに買い替えのキャンペーンで抽選に当たったのが天空の城・竹田城への旅となった。

城崎温泉へ  

京都から福知山経由の城崎は、結構遠かったが車窓から“実るほど穂を垂れよ”という格言を思いつくように日矢を受けた穂は黄金色に耀く麦秋であった。

 城崎温泉は外湯、外湯は城崎温泉とうたい文句にあったので、宿に着くと早速カランコロンと下駄の音高く露天風呂へと。滝の流れを眼の前に若葉も影を映すようなそんな中で湯につかるのは極楽かな。夕食後もまた外湯巡りを、柳風を受けながら湯から湯へそぞろ歩く湯の客の一人になる。

翌朝宿の辺りを散歩すると燕が忙しく飛び回っている。“つばくらめ湯宿飛び交ふ朝かな”

二日目は乗合タクシーで一路但馬路の竹田城へ。麓から約1キロにある天空の城は、400年を経た穴太積みの石垣で山城の遺構である。北千畳から三の丸、二の丸、本丸、南二の丸、南千畳と南北400mを平行移動しながら天空の城への第一歩を踏む。

   

354mの山頂に立つとに遠嶺に遠嶺を重ねた山容が広がる。この竹田城が広く知られるようになったのは、秋から冬にかけてよく晴れた早朝に朝霧が発生し、雲海に包まれた城が如何にも天空に浮かぶ城を思わせるそうだ。今城は万緑の只中にある季節、夢か幻か確かに燕が頂上の砦を掠めて飛び去っていった。“天空の城に飛燕や雲ながる”

 

この城は2006年高倉健主演による映画「単騎千里を走る」の舞台になったそうだ。その城は“山城の石塁崩れ夏あざみ”がただ風に揺れているのみ。5月とはいえ30℃を越す暑さも穴太積みの石垣の美しさに汗も引いてしまう。

 

下山後は福知山経由にて宇治平等院へ。平等院鳳凰堂は一年半ぶりに修理を終え池に丹塗りの姿を映し出された。藤原道長の別荘を寺院に改め創建された平等院は、阿弥陀如来を安置する阿弥陀堂である。風雪にさらされた寂びた趣の方が私は好きではあるが…。

近江八幡 水郷巡り 

さてフリータイムの最終日は近江八幡の水郷巡りを計画、時は水無月の一日、水郷の葦が青々と茂り緑の壁を作るころ、葦の秀(穂とも)に葦切(行々子)がギョギョシギョギョシと鳴く声がそれはにぎやかに水郷中をひびくかに。五人乗りの乗合の手こぎ舟は葦原をゆっくりと進む。鳰(かいつぶり)も葦の間に巣を作るので鳰の浮き巣ということも話し上手の船頭さんの語り口で知ったりして楽しい一時間であった。

“手こぎ舟葉末に留む行々子”

 

葦の葉に行々子を見つける(真中辺りに)

その後日牟禮八幡宮拝礼、そしてロープウエーで八幡山へ。豊臣秀次築城の八幡城は荒れはて、あわれ秀次の末期と重ねる。この八幡山から見下ろす鳰の海(琵琶湖)は、この2,3日の気温の上昇で靄でかすんでおぼろであるが豊臣一族の悲劇が靄の中にあいまいにみえるのもよいかもしれない。

 

近江八幡はきっと美味しい食べ物があるに違いないと、昼食に選んだのが八幡堀の「やまとく」、自家製の鮒寿司を家人は「あの独特のにおいはダメ!作家の篠崎某氏はそれを日本のカーマンベールと喩えていたよと」と。それでうな重を食したが、これがまた関東人の家人にはベストといえなかったかもしれない。というのは、こちらのうなぎは蒸さないでカチッと焼いて鰻に包丁の切れ目を入れてという料理法らしい。鰻大好きな家人の講釈である。

 

安土城へ

また近江八幡の駅に戻り、琵琶湖線で一駅先の安土駅へ。一度信長築城の安土城を一目見てみたかったが、結果的に竹田城よりも安土城の方が強烈な印象を受けた。予備知識ないままに天主跡に続く大手道の石段をひたすら上る。その石段の何箇所かに石仏を使っているのは短期間に築城したために周辺の寺の石仏を運ばせたそうだ。

 石段は当然足で踏まれるもの、そこに石仏を使っているのは信長の神仏への恐れを知らぬ行為がそうさせたのか、そのこと一つをとっても現場でみたことは驚きであった。そして天主跡は礎石が整然と並ぶだけではあるが、信長の世界を制覇する野心がこの場所だったのだということが時空をこえて迫ってきた。

 

帰路は三重塔、仁王門を通る。信長が甲賀から移建した三重塔(1454年建立)と仁王門(1571年建立)が緑濃き林から忽然と現われた。万緑の中に立つ三重塔はあくまでも美しい、冬の近江の安土城にも訪れてみたいと思いながら急ぎの旅を終えた。“駅頭や青水無月のあふみ去ぬ”


超絶技巧!明治工芸の粋 展へ 

2014-05-19 10:05:37 | 展覧会

東京・三井記念美術館で開催中(~7月13日)の美術工芸展で村田コレクションの存在を知った。http://www.mitsui-museum.jp

明治工/芸に七宝の並河靖之を知りたくて数年前に京都の自宅兼工房を訪れたことがあり、七宝の何と細かな技巧かと驚いたことがある。

 その七宝は勿論のこと、牙彫、漆工、自在、金工、印籠、薩摩、刺繍、刀装具の選りすぐりの展覧に驚いた1時間半であった。ともあれ是非とも明治の日本人の精緻な技巧の血が工芸に引き継がれていることを確信した。

 

茶道に関する狭い観点では、漆工の守屋松亭は白山松哉に師事している。さもありなん精密な研出蒔絵を見るに単眼鏡を持参してよかった。他の作品を見るにも必要な小道具でした。

 古田織部四百年遠忌追善茶会

6月11日に茶会が京都であることをこの展覧会のパンフレットで知ったが、生憎出かけられないのが残念!漫画「へいげもの」でつとに知られた織部追善茶会の席持ちの方々は数寄者揃いです。

 

 


旧聞ながら GWを過ごす

2014-05-17 10:17:38 | その他

秩父札所巡り

職を辞してよりサンデー毎日となったものの、心浮くゴールデンウィークを待つ気持ちは変わらないが、少し遠慮してお休みの取れない方々にGWをという気持ちになるウィークでもある。

 それでこのウィークのカレンダーは真っ白、それでも風薫る5月のまぶしい若葉光には勝てずに家人をつついて出かけたところが秩父札所巡り、折しも12年に一度の午年総開帳が行なわれていた。

 

かつて秩父出身の友人と秩父34観音霊場巡りをしたのは24年前の5月、そのときの納経帖を持参して、

次は13年前の10月、このときは仲間達とランニング巡礼でやはり納経帖を持っていったものの先頭についていけず途中で納経帖記入の時間が取れなかったことを思い出す。

 

そして今年若葉に雨煙る日であったが、31番札所・観音院の枝垂れ桃を鐘撞き堂より眺める風景は実に美しかった。御開帳の聖観音菩薩、千手観世音はどのお顔も優しく静かなたたずまいであった。

 

奥武蔵ハイキング

GW最中の日帰りハイクも混雑は避けて西武線東吾野駅下車、1グループしか降りない。虎秀川の沿いに藤浪が揺れる里を歩いていくと、紋白蝶、烏揚羽蝶、青筋揚羽蝶といやが上にものどかな気分。川筋にキャンバスを立てた日曜画家グループがすでにスケッチに水彩をしている。牡丹の花びらも崩れているのが少し哀れかななんて思いながら、沢沿いの道を数kmで「阿寺の岩場」へ。シニア資格十分の家人も一度この岩をやったというが、かなり岩がもろそうですがすがしい季節なのに誰も取り付いていなかった。

 

そこから顔振峠方面へ行くも途中諏訪神社方面にシフト変更、晴れていれば富士山一望も春霞で、そこへ地面に落ちたか降りたか聞いてみなければ分からない?蛇が突然目の前に現れてギョツ! この山村には住めないな、と蛇嫌いは思いました。

 さて諏訪神社→七曲り→エビガ坂→ユガテ集落方面へ少しずつ下って行く。諏訪神社で昼食をとる。昨日の鯛めしに鮭をのせた賄い弁当も万緑の中で食べると何となく贅沢な気分になるのは、自然のありがたさなのかもしれない。今が一番のシャガ路は風が通る、やわらかくそよぐ若葉青葉の時期は実は意外と短い。だから外さないようにGWでも出かけてしまうのです。足元の木苺の白い花に見とれていると巨樹の走り根につまずきそう、そしてチゴユリの白い花もうつむいて。

 やがてユガテの民家へ、かつて自給自足をしていたこの地は放牧していたり、山菜自生地あり、圃場ありの庭先を通る。朝堀りの筍が何と200円!昨日も筍だったけど真白なるやわらかい筍の前を素通りできず家包へ。老鶯の声に送られて下り道を駅へ、武蔵野30番札所の福徳寺は鄙にはまれな鎌倉末期の美しい阿弥陀堂であった。奥武蔵は同じく都内からも近い高尾山の賑々しいと比べ、殆ど人とも出会わないスポットである。

北区飛鳥山博物館・岳人 冠松次郎展

冠松次郎その人を知らなかったが、パンフレットによると「北アルプスを中心に渓谷からの登山という独特の形式を確立し、大正14年8月に国内有数の峻険なV字谷である黒部川下廊下を初めて遡行した登山家で知られている」とある。

その前に関連企画展で東京都写真美術館開催「黒部と槍」展で冠松次郎が撮った写真を見ていた。今回は記録映画製作に携わった動く映像である。

黒部川下廊下は、今でも北アルプスの山々を縦横に踏破する山男には魅力的であるが、危険な峡谷には違いない。下廊下(しものろうか)は黒部ダムが出来てから入りやすくなったかもしれないが、激流のV字谷を草鞋で細い綱で遡行する冠松次郎と山案内人19名の映像や写真は感動的ですらある。

 パンフレットより

井之頭自然文化園

吉祥寺は住みたい街のトップだという。駅から徒歩10分の井之頭公園周辺と自然文化園の自然環境は、たとえ郊外の足を伸ばせない人にとってはかけがえのない所だとおもう。月に1,2回出来るだけ行くようにしたこの場所に自然文化園が在る。まだその動物園には回っていないが朴の木の巨樹や大山蓮華が白い花を上に向けて咲いているのが印象的。そして充実した彫刻館と見所の多い園で吉祥寺住民がうらまやしい。

  大山蓮華

GWも終わり 高麗神社へ

高麗神社へのアクセスは、西武線高麗駅でも川越線高麗川駅でもよいが、今回は高麗川駅から2時間弱の山里のぶらり旅で。地図なしで歩くと自然里の人に道を聞くことになる。意外と新興住宅が多い道を歩くとモッコウバラの生垣があったり、しゃれた家の人は地元の農家の方であったり、圃場のジャーマンアイリスを手入れしていたり穏やかなひばりが囀る田舎道である。その途中先日奥武蔵ハイクで入手した筍よりも新鮮な筍がここでも200円!この日は買わなかったのが心残りであった。“朝採の筍真白やわらかき”

 

 霊厳寺へ立ち寄る。その寺に行くに尋ね尋ねしてたどり着いたときはお昼時、蛇行した高麗川、竹薮の老鶯を聞きながら東屋で弁当をつかい休息するのは至福の時。

 目的は吟行のはずが行楽気分になるのが私の悪いクセ、腰をあげて目的地の高麗神社は対岸の向うは指呼の距離でも蛇行している川を渡るには先の橋に行かねばならない。その橋の袂に錆びた藤の房が垂れている。猫車を引いた里の人と話をする、「今朝翡翠の声をききましたよ、姿は見えなかったけど」「高麗川は浅瀬なので子供の小さいころはここで泳いだものです」なんて立ち話をしたりして。

このときのひとコマを句に “里人に高麗のこと聞く青葉風”

高麗神社にて句会が開かれた。高麗人の住居に武者人形が飾られていて、先輩俳人の句“武者飾る高麗の裔居の奥座敷”

千駄ヶ谷・国立競技場の今

GWも終った7日、所属するランニング同好会の幹事会が競技場隣のビルARCO11階からのぞいてみた。3月までホームグランドであった。


金唐革紙展とエピソードを

2014-04-11 09:34:12 | 展覧会

Tawarayaさんという茶友は性能の良いすごーいアンテナを巡らしていて、情報通であるとともに現代アートから古典から勿論茶も、そして韓国料理通でグルメでもあるし、とに角ジャンルこえたすごーい人で動き回ること歩くこと(お母様の看護もなさり)、その方から時々良き情報を得ていた中で一昨日王子の飛鳥山・紙の博物館(http://www.papermuseum.jp/)へ。

 江戸名所図会にも出てくる桜の名所で公園の中に博物館がある。この博物館は紙のことを知りたければ、すべてたちどころに判るというすぐれ場所。今企画展は昭和の半ばに製造技術が忘れ去られていたのを復元した上田尚氏の80歳を記念して開催されている(6月1日まで)。

 上田氏は「金唐革紙」を和紙で模した「金唐紙」は豪奢かつはなやかで、ひとときその美しさに魅了される。私の「金唐革紙」との出合いは旧岩崎邸でみたのが最初で、やはり上田氏が修復を手がけている。

写真:紙博だよりパンフレットより

 さて、桜の満開のころはさぞ賑わっていた公園は今八重桜と山吹の彩りがはなやか、でも金唐紙には負けそう。帰りがけに学芸部長が見学者に説明しているところへ、私は「大高檀紙」のことを質問。「大高檀紙は和紙の規格の大きさになっているのでしょうか?」と。

部長曰く「格調の高い紙で歴代の将軍や大名があらそって朱印状や公式文書に大高檀紙が使われてきました」。そしてその大高檀紙にまつわる想い出を語られたのです。

 

「平成21年当館で紙の博物館創立60周年記念企画展・金唐革紙の魅力 ~過去から未来へ~を催したのですが、天皇皇后陛下もご来館になられました。その2週間前に宮内庁より電話があり28分しか来観時間がありませんと云われました。あわてて80もの想定集を作ったのですが、来館になられる前は頭痛がしたりして緊張しました。当日皇后陛下が“大高檀紙は歌会始の儀に使われていてお書きになられる方はご苦労されているようですよ”とささやくようなお声で話されました」と、そのときの様子を思い出されたのでしょうか。

 次の話も、「自分は京都生まれの京都育ちですがあのようなお方を知りません。もう死んでもいい位でしたよ」と。翌日天皇皇后陛下結婚50年行事を控えられて、そのような超多忙の時に寸暇を惜しんでお出かけになられるのです。

 大高檀紙は皺があるだけに扱いにくい紙なんですね。茶道では釜敷きに大高檀紙を使うのですが、女性にはとても扱いにくい紙です、何しろ胸懐に入れるのですから。よって茶会などに香合をのせる敷物で見られることが多いかもしれません。