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楽居庵

私の備忘録

大徳寺 利休忌&月釜

2013-03-07 08:38:48 | 茶会

四月の茶会の掛軸を拝借するため整理を兼ねて京都在住の姉宅へ、幸いこれはという掛物がありほっとした。「これもあれも待合に使えるわね」と呟いていたら、「我が家では使わないからあげるわ」ということになり後日また取りにいくことになった。

 翌日朝、大きな掛軸をホテルに預けて大徳寺へ。すでに利休忌の法要が始まっていたため、瑞峰院の塔頭へ回ったところ、受付でH氏が一席目を終えて出られたところであった。茶道に造詣が深い若い茶人である。ゆっくり朝食を済ませなければよかった!

  聚光院

さて、弥生は雛の月も明日からという28日瑞峰院へ、寄付掛物は尋牛斎(久田家12代)筆の雛の画にこの塔頭の前田昌道和尚(先代?)筆“雛まつる都はずれや桃の月“のうたの賛が、今日のぽかぽか陽気に和している。本席は、柳がそよとそよいでいる画は而妙斎宗匠、緑は宗員宗匠、花は尋牛斎宗匠、紅は昌道和尚という四方の合筆、何かお集まりの折「御酒による座興の筆ではないでしょうか」と席主が楽しそうに話された。素敵な一幅であった。有楽椿と万作が竹尺八花入に。

   

  瑞峰院

次に大慈院へ、有髪のお坊さん?と数寄者の男性が上座に座られ会が始まる。表千家の衣笠良子氏が席主。本席の掛物は、而妙斎の一行「橋上来陽春」、掛花入一重切にさんしゅゆと椿、染付荘子香合が付書院に。席主のお父さまは高名な茶人で今年13回忌に当たられ、席主も10年前にこの席で掛け釜をされたという。はんなりとした席主は京美人ながら三代続いた茶家を守っていられる。こちらでも紅梅きんとん(紫野源水製)と干菓子の下萌えで二服を頂く。

  大慈院

三席目は興臨院へ、大原・卯庵(裏千家)氏の掛け釜。待合は狩野山楽(永徳の子)の花鳥の掛物(入江波光旧蔵、是沢恭三箱)、本席は川喜多半泥子が娘の初節句に贈った雛の絵、うらやましい一幅である。香合はお雛さまにふさわしい貝合わせ、源氏物語の一節の梅が枝の絵付けであった。千歳盆による点前で如何にも雛祭りにふさわしいやさしき雰囲気のなか、和やかに。

やはり半泥子の粉引茶碗、青磁人形手、薄器は半泥子と仲間二人の合作、茶杓の銘がつつがなし、これまた半泥子で中節が上にあるのが彼の特徴であるとか、半泥子尽くしの席であった。                             興臨院

 さてまだ時間の余裕があったので、聚光院へ。方丈の襖絵障壁画をゆっくりと拝見したが、保存のためデジタル再製画に入れ替えられていたとは! 狩野松栄、永徳父子の国宝襖絵38面は、現代の最新鋭複製に置き換えられていた。

寄付には大心義統老師(273世、覚々斎、六閑斎の参禅の師)の指月布袋画賛、本席の閑隠席は利休画像と賛、利休300年遠忌により円能斎が利休像を描き、又妙斎が賛をされている。掛花入は鍍金の経筒を写し、亡くなった日に入れられていたということに因み、菜の花が利休居士を偲んでいた。

川端道喜のこぼれ梅は京都ならではのご馳走でした。そば席にておしのぎを頂き終わって、さてもう一席で終わりだからと思い玉林院へ。

   玉林院・南明庵

寄付で待つ間、本堂の脇にある南明庵で何やら話し声がする。春うららのぽかぽか陽気に誘われ本堂の外に出てみると、重文・南明庵のこけら葺きの屋根に足場を組んでいるようだ。席主側の方がこけら葺きの屋根、軒も雨漏りで傷み、屋根の葺き替えをするための工事を始めたとのこと。

  玉林院・板戸

席主の表千家・石渡正子氏は東京から、総勢30名で大挙京都へ。本床は玉舟老師の禅語「互換思量何云々…」と続く。「この床に掛けると何故かぴったり納まりますね」と満更でもない説明。

香合(手まり)、茶杓(銘・友白髪)、赤楽茶碗の箱書が惺斎。表さんの菓子器は食籠が使われ蓋を開けるまでどんな菓子が現われるか楽しみの一つでもある。銘・みちとせという嘯月製のきんとん。ご丁寧に二服をふるまわれる。全部で五席も回り、五つの主菓子と三種類の干菓子を頂いたが少しも重く感じなかったのは、伝統ある京老舗のなせる技?

 日永の春を楽しみながらの京都大徳寺の利休居士のお参りであった。


護国寺 東京茶道会茶会 一言印象記

2013-02-15 20:26:42 | 茶会

欠席の会員の方より頂き4名で各席を回った。風の冷たく朝より茶室の外で待つのはつらいけれど、私より年配の方々が辛抱強く待っている。

その気配を感じて早めにどうぞという声がかかりほっとする。第一席は宗澄庵(三畳台目席)、官休庵千宗屋若宗匠席であるも所用のこと、今時の人であるので楽しみにしていたのに残念! 大寄せでは流派に従った道具組のようで、印象に残ったのは春日大社の油注花入に貝母が優しく、そして手にすっぽり入る小さな志野香合、一見わからないが底は正しく志野釉。

茶碗は銘が寒さくらという瀬戸筒の桜高台、土が軟らかいうちにきれいに搔き落として桜形にしているのであろうか、如何にも手の内にさくらが広がったよう、正客の男性が慈しむように手の中で温めている感じが伝わってきた。それ程手がかじかんで茶碗に温められた第一席であった。中京の志野流18世頑魯庵の箱書。

第二席の月窓軒広間は、小堀宗実遠州流家元席、“萬年祝融の峯に在り”の中に松の画が描かれている、宗中七十歳の堂々たる隷書の横物掛軸、幕末の8世。輪無し竹花入に山茱萸と加茂本阿弥椿が見事である。竹の青がまさって如何にも初春らしく鮮やかどっしりとしている。先代の紅心宗慶宗匠の茶花も他の追随を許さなかったことをなつかしく思い出した(数少ない拝見だったけれども)。

砂手御本の茶碗も良かった。朝鮮の御本手の茶碗のうち砂気の多いものを砂御本といわれた。確かに砂まじりで手触りもざらざらしている感じである。見込みに梅の絵付けがある。本来ならば綺麗寂びに適わないという感じがしないでもないが…

 

第三席は大日本茶道学会が不昧軒で、二月は会員だけの招待茶会とあって割合スムーズに入れるのは、寒さが厳しい季節だけにありがたい。清厳老師筆の横物墨蹟「處々園光」、難しいことはわからないがながめているだけで隅々まで光が満ちてくるという春の温かさが感じられる。

 またまた茶碗に目がいってしまう。座った席の後ろが床の間で、そこに休意高麗(銘が花折)が飾られていた。休意という人の所持で形は明らかに熊川である。休意という方はどのような方なのか不明。

 

第四席の艸雷庵(四畳半台目席)は江戸千家(弥生町)川上閑雪家元、三畳台目席が待合、本席の掛物が如心斎筆の和歌“暁の月の……冬枯の木の間にやどる朝のさやけき”と読めないところもあって、変体かなはむずかしい! 七官青磁に牡丹が入り、やはり牡丹籠の牡丹は風炉で、炉は青磁がぴったりと贅沢な気分を味わう。

写真(四点とも):季節の花300より


新春茶会 その二

2013-02-01 09:04:39 | 茶会

若き茶人お招きのお礼の手紙より抜粋しました

初春の青空のもと、K庵になつかしく参上させて頂きました。K庵さまの親しきご友人の中、はからずも上座にに座らせていただき恐縮に存じました。

Yさま、Sさま、Hさまのなつかしき方々とも御席にて共にお心の一服を頂きましたこと、幸せに存じます。濃茶の一咄は誠に美味しく、それ以上の言葉がみつかりません。小山園の天授、まことに初春より天よりの寿をいただきました。

 とらやの松かさね

博多雑煮も実は初めての椀にてお見事なお味!焼きあごのだし、どんこ、ぶり、里芋、人参、ごぼう、大根、焼き豆腐、かまぼこ、かつお菜(小松菜だったかもしれません)、丸餅の豪勢なこと!

博多雑煮のブログより拝借 

私も来年は博多雑煮でいこうかしらと思わず思案しましたが、K庵さまのご実家だからこその家伝のお味なのでしょうね。

そしてそして、前後しましたがカラスミは長崎産と博多産の二大選手権、どちらにも軍配を上げたいところですね。黄金色というか、茜色というか、日頃の精進の季のたまものを頂くなんて本当に目にも口にも幸せな一日でございました。

   

 

  

 

  薄茶席のだるませんべい

 

K庵さまが話されていたように無事であっての一会ですね。これからも尚尚ご精進、ご活躍されますようお祈り申上げます。(後略)

 K庵のマンションの広場にて


新春茶会 その一

2013-01-31 16:58:08 | 茶会

大寒に入り間もない頃、東京はおかげさまで抜けるような青空の下、沢山着込んでいるものの心は温かく定刻の11時前にお招きの待合に五名が揃う。

待合の床は、「福壽康」の一字寄書き、福は八十七翁青淵渋沢栄一、壽は九十翁鶴彦大蔵喜八郎、康は? 戦国大名吉川家の末裔? 喜八郎没年の1928年の筆らしい。今年一年心がけたい思いで拝見した。

ご挨拶の後、立礼席にて向付の鯛で一献、薄作りの白磁に染付した向付皿はご実家蔵の平戸焼、次に羽子板に色とりどりの盛り合せが、茄子を何気なく頂いたのが本席「一富士、二鷹、三茄子」の初夢への助走。

 

さて本日は露地でつくばいを使い塵を払い入席、やはり床は富士画賛“たちのぼる……富士の嶺高く……”光廣卿のお歌であった。何方かに請われてさらっと一筆書きされたような感じであった。香合にどうしても目が! やはり仁清の玄猪香合であった。長方形の形をして底に仁清小判型の印。

古道弥(寛文時代)の霰尾垂釜が如何にも時代を思わせる。置かれた水指は良く判らない芋頭、底に細川三斎公の花押、11代玄々斎の箱書、銘・代ゝ能登裳。

そして高麗雲鶴青磁茶碗(銘・磯千鳥)で濃茶を頂く。今日初下ろしの仙台袴を着けた席主が「久しぶりで練るので…」と照れながら練られる姿は、益田鈍翁のような風情。茶碗の三度笠を深くしたような形は見たことがなくかなりの薄作りの雲鶴青磁。

茶入は藤四郎春慶広口、茶杓は権十郎蓬露の歌銘“あさくこそ人はみるとも関河のたゆる心はあるらしとそ思ふ”と定家様の筒書と茶杓は、まだ古色を帯びているとは見えないが遠州流の優美な姿。そうそう二鷹は仕付棚に鷹の羽箒が置かれていたので納得。

 

さて一旦中立しての後入りの薄茶席の中釘に紅白の椿が蘇山作青磁花入に、改められた席入りの変化はいつもドラマティック的ですらある。手付きの若松蒔絵文様の菓子器に鶴と松の干菓子が運ばれ、席主は一服点てられた後、代点をとのこと、恐れ多くも私が皆さまへ織部沓形茶碗、12代弘入赤楽茶碗、魯山人の筒茶碗で差し上げる。

また連客の方も代点下さり、薄茶席ならではの寛ぎの語らいを席主夫妻を交えて。金沢の神社(神社の名前を失念)の垂木古材使用の棗は抹茶が入っているのに誠に軽い。地元金沢の蒔絵師太田抱逸作、菜の花が一本金蒔絵を施している朱塗棗は贅沢な一品、茶杓は東大寺修二会の松明の竹を以って削られた森本寛秀長老の作、銘・春の声。この銘を奥さまが気に入られた由、夫唱婦随のおもてなしに感謝申上げ、春浅しの茶室を辞した。

二月三日は節分、ご近所の神社の氏子で今年年男でいらっしゃる席主は豆を撒かれるとのこと、そういえば待合の煙草盆は豆まきの升でした。


癸巳の初釜

2013-01-17 22:37:03 | 茶会

おだやかに年が明けた一日、先生宅で初釜が催された。「松花伴鶴飛」の横物墨蹟が結び柳と打ち出の小槌を伴い、寿棚に酒海壷水指、扇面の棗、丸釜(先代大西清衛門造)と根来塗炉縁で初春の幕が開いた。

                        

席入りは一瞬の緊張を伴なう。そして今年も無事に始められることが叶ったことを慶ぶ。年に1回、先生の初炭、何やらゆかしい炭斗が持ち出され、背筋がきりっと伸びた美しいお手前を見つめる。松霰地紋丸釜が持ち上げられ、その全容が現われてくる。先年茶会で使われたなつかしき見事な釜である。東山御物の写しとのことで、そのとき調べてみたが本歌はわからなかった。

 そして炭斗、やはり井上世外公旧蔵で鱧籠とのこと、この籠に長い鱧をぐるぐる巻きにして入れたのであろうか、なんにしても見立ての妙は面白い。遠くから見た香合はとぐろを巻いた巳かと思ったが、真葛の独楽であった。

 

続いて恒例の島台による金銀茶碗で濃茶が点てられる。自然光のやわらかい日差しが広間に射し、緊張がほぐれていく。黒楽茶碗とはまた違った金碗、銀碗の中の抹茶色との調和を感じる。何時頃から楽茶碗に金銀を施したのだろうか。きっと戦乱の世が落着き、江戸の経済もバブルの豊かな時代になってきた時代の産物であろうか。

 

それから八寸と酒杯を持ち出され、こぞの一年に感謝し、ことしのご指導を仰ぎ先生より一献を賜わる。先生が昨年トルコへ旅行した時の土産のカラスミが八寸に。カラスミは手を加えていたようで酒粕を日本酒で溶いてやわらかくしてガーゼで包んでカラスミを漬けたとのこと、山のものはフィッグログで乾燥イチジクで紀伊国屋のご用達とのこと、結構美味であった。本膳は後に新宿のホテルでゆっくりと頂くのが近年の慣わしとなった。

 それから薄茶となった。乾山写しの寒雀文様茶碗(永楽造)がこの季節に持ち出されると、最近は森や林が減り寒の雀も見ることもなくなったわね、と先生の点前を見つめながらの語らいが進む。最後に若い方が先生へ一服点てて差し上げる。岬屋の鶴と松葉の有平糖がいつもながら美味しい、私も今度真似して使ってみましょう。

 

釜を掛けて準備してくださった二畳台目中板向半板向切逆勝手下座床の小間は、今回時間がなくて使えずお席の拝見で終ってしまったのが至極残念であった。かくして東京が雪になる前々日の初釜日和を楽しむことが出来た。


有楽苑初釜&桑名・初春茶会

2013-01-10 13:55:29 | 茶会

有楽苑初釜

癸巳・平成25年(2013年)の初春はことの他寒さが厳しいが、日本海側に比べれば何と過ごしやすいことか。子供の頃の東京は、元旦の朝雨戸を開けたら庭が一面雪景色で驚いたことがある。

 知人が住まう桑名での初春茶会にお誘いを受け、新年早々犬山、桑名へと繰り出した。有楽苑内には国宝如庵がある。かつて神奈川大磯の三井別邸に移築されていた時期に見学したことがある。苔むした露地に如庵と旧正伝院の佇まいが目に浮かぶ、そして犬山への流転へ。

 有楽苑の薄氷のつくばい

 あらたまの年の如庵は清められた露地、有楽が好んだ佐女牛井の井筒、薄氷の張ったつくばい、やさしい春の陽光に如庵は安住の地を得たよう、ただ如庵は見学だけ。

  如庵内部

初釜は弘庵の待合いで一時待ち、旧正伝院書院で薄茶を頂く。

床の間の障壁画は長谷川等伯作、「四愛図(菊、梅、蓮、蘭)」が微かに描かれているが私には良く判らなかった。でも40代の頃の等伯作が間近に見られて感激する。

  旧正伝院床・長谷川等伯筆

及台子に初釜らしい華やかな道具組、天板のふちが四方に少し立ち上がっているのが碌々斎(表流11代家元)好みとのこと、初めて拝見する。その後犬山ホテルでお節とお雑煮を頂く。

 

桑名・初春茶会

翌日桑名に向かう。知人の出迎えにてまずは車で市内の案内を、初めて降り立つ地にて何もかも珍しい。まずは東海道五十三次桑名で有名な七里の渡跡へ、揖斐川と長良川と木曽川が見渡せる河口堰に立つ。

伊勢湾台風による被害甚大な桑名は、その後河川の整備を急ぎ、シジミやアサリが壊滅したという。

 さて焼きはまぐりは桑名の名産、是非とも味わいたいと案内してくださる。午後からの茶会のため少々軽めに、吸い物のはまぐりの香りがひろがる、焼きはまぐりの身の大きいこと、川風で冷えた身体にしみわたるよう。ご馳走さまでした。

 

続いて六華苑へ、桑名の実業化諸戸清六邸を見学、ジョサイア・コンドル設計の木造2階建と和館の邸宅である。ここで茶会や雅楽が催されるとのことである。

 諸戸家の長屋門と神輿蔵など

 諸戸家洋館

市内の遠州流T先生宅へ、すでに待合いには先客方がお待ちでお湯を頂戴して露地へ。湯桶のお心使いで清め入室する。床には梅の大字に賛、古銅六角管耳花入に妙蓮寺椿と衝羽根、香合は古染付萬歳烏帽子という武家茶らしい床構えである。

 賛は和漢朗詠集(上 紅梅)より溝口翠濤公(越後国新発田藩10代藩主、宗中公と親交があった)染筆。

“紅梅の色が薄紅で美しいさまは、あの仙人が仙術で作った雪も恥じるほどであり、濃い香りは妓女が薫物する香炉も一歩を譲るほどである”と。

 茶室5畳の炉には古天命田口形広口釜が客を迎えて鳴りだしている。炉縁は栗の殴り、水指棚には古染付の雁木文、ご子息が茶碗を持ち出されて点前が始まる。袴姿のきりっとした点前はゆったりと露地の蹲の水音に時として耳をかたむけ、一碗が点てられるまでの時間を忘れる。遠州流家元初釜に伺ったときの家元のお点前と重なる。

 主茶碗は古萩、銘松花(川上不白箱)である。昨秋華蔵寺茶会で頂いた大井戸茶碗「厳」に姿が良く似ているので驚いた。この古萩が作られた頃は尚朝鮮の土で朝鮮の陶工が焼いていた血の濃さがあったのかもしれないと勝手に想像。華奢な茶杓でたっぷりと何杓も掬われた杓は一尾伊織作。

 春慶肩衝茶入は肩がすっきりと、おだやかな胴は紅心宗慶宗匠が春の夜と銘している。宗匠は銘の付け方がしゃれている、勿論歌銘がある。先に頂いた主菓子“紅きんとん”は桑名の老舗・花乃舎から届いた。この紅と紅梅とが重なる、あともう少しで立春、待ちわびる紅梅でもある。

さて遠州流は一旦濃茶を仕舞いつけてから薄茶となる。すくっと立っている雪吹立鶴蒔絵茶器を下ろす。

鶴亀文の御本四方茶碗、紅心宗慶宗匠が三羽の鶴を描いたのを豊斎が焼いた朝日焼、織部黒筒茶碗と言祝ぎの茶碗に清水寺大西良慶大老師98歳の茶杓は岩戸の銘、溜塗四方盆の青貝が枝、花ごとに螺鈿が輝く目張柳文様は工芸品。手に取りつくづくと小さな宇宙の美をみつめる。

 その間中、半東役のT宗匠が一つひとつ桑名のこと、お道具のこと、などなど教えてくださったことが桑名での出会いのご馳走だったのかもしれない。

 日も傾き、二階の忘筌写しの広間にてご祝膳と一献が振る舞われる。床には其心庵宗明宗匠の富士画と入日残れる三保の松原の賛が、宗明、宗慶両宗匠も生前には桑名に立ち寄られT宗匠とも親しく交わられたとのこと、そのような由緒のある初春の茶会にお呼ばれして、今年の幕開けを祝うことが出来たことは茶の湯あってのことと深く心に感じた。知人のHさんには桑名訪問までの案内、資料などお知らせ頂き、そして当日のご案内までの心づくしのおもてなしをいただき感謝申上げます。

 福引の白宝珠香合


蝋月茶会へ

2012-12-17 11:10:48 | 茶会

「師走の足音が聞こえてくる時節となりました」というご案内にて今年最後の蝋月の茶会に伺った。おだやかな昼下がり、待合には短冊「己巳歳 世の人のこころの花をあいてあいぬ 春くハヽれる春を待ちえし 光廣」、己巳(つちのとのみ)は寛永6年(1629年)で、己巳は字が似ているらしく春がふたつはいっているという仕儀らしい。この時代の伸びやかな個性ある書体とお見受けした。

 つくばいを使い、にじり口の正面に床のある四畳半台目に入る。床には、昨日はで始まり、宛先は宮内殿とあり、文中に政所さまと辛うじて判読できる消息の掛物、さてどなたが書いたか、判じ物のような消息はお手上げ。

前には古銅花入、小さくて口辺にるい座がちりばめられ繊細な耳が付いている。初嵐椿と青文字が見事!目を転じれば志野釉の香合、勿論桃山の時代、小さな伽藍の形のようにみえた。

  初嵐椿(椿の里HPより)

小粒のあられが鋳込んである釜、古備前らしき水指と茶入、風炉先窓に柄杓が荘られている。座も落ち着き一呼吸を整えているところへ席主がにこやかに入席される。「一年間お世話になりました」という席主と老茶人の丁寧なご挨拶に、壬辰の年も終わりに近づいてきた実感。

 初雪きんとんが縁高に、口の中でとろけそうな味に初雪という銘を付けた菓子舗の主人の顔が浮かぶ。席主が一年を惜しむかのようにゆったりとゆったりと練られる。そして熱い濃茶を回し飲みしていく正客と連客の顔は満足げ、そして二椀目も沈黙の中練られる。そしておもむろに正客と席主との会話が弾む。何十年も正客を務めたであろう老茶人は実に清々しく尋ねられる。

 掛物は木下長嘯子筆(北の政所の甥で武将)、消息を意訳すると「昨日は政所様のご推挙によりお招きに預りありがとうございました。お礼は私の方にて致しますので…」という内容らしい。歌人としても有名のようで、最後に和歌が記されている。宮内殿も役職名らしいとのこと、どのような人物かわからない。表装は誠に立派でほの暗い茶室で梅と鶯の文様を刺繍している本金襴が遠目にも鮮やか、隣のご夫人が清水裂よ、と教えてくださったが『茶の裂地名鑑』によると北野裂かもしれないが定かではない。

 そうそう老正客は、「この掛物は一幅の絵のよう」と、席主は「この頃はそのように意識して書いたかもしれませんよ」と受ける。次客の男性曰く「このような語らいが出来るのは楽しいですね。お茶をもっと多くの方に知ってほしいですね」と。

 さて、いよいよ茶碗の拝見となる。熊川の約束通りの優品である。熊川なりの碗、端反の口造り、丸く張った胴、粘りのある細かな土、やわらかくなめらかな白い釉、細かい貫入、竹の節高台、丸削りの高台内、見込みの茶溜りは丸く、小さな丸の鏡、と非の打ち所のない真熊川に圧倒される。

 次の茶碗は奥高麗ともいいたいけれども唐津ですね、と主、含蓄のある説明。何人かの数奇者はこちらの方が好きですね、と云われたという。色目が何とも青みがかつてきめも細かく大ぶりで唐津でも初期の窯から出たのではないか、とも云われる。

 ひとしきり茶碗談義が終ると、茶入と茶杓が回ってきた。茶入は瓶子か梅瓶のような肩の張った古瀬戸、主は古瀬戸と云われる時代も200年続いているので、これはあえて室町の“ふる瀬戸”と云いたい、と伝来された道具の細かい解釈でもある。何とも景色がありなだれというよりいびつなまるの抜き、小さな茶入が大きく見える。皆さん、こんな景色のある茶入を見たことありませんね、と口々に。どのような銘が付いていたか知りたくてお尋ねすると、箱には、ただ有明(この字が当てはまるか不明)と銘してあるのみ、とのこと。

高揚した気分が収まるように釜の煮えも松風に、続いて薄茶を頂く。たたみ目16目位の大きさの屈輪盆にうさぎの落雁と有平糖が屈輪の朱とうさぎの白と常盤の有平糖が画のように収まる。半使、祥瑞、唐津、乾山、安南とたっぷりと美味しく点てられる。雪うさぎが屈輪盆から飛び出してお終い。唐津は小服で掌にすっぽりと入り、師走のひとときをゆっくりと味わった。

 その後、芳中筆の松に雪図、豊蔵の立鼓花入に水仙がすっきりと入った点心席へ、越の寒梅で一献頂きながら今日の一期一会の隣同士との話しに耳を傾けながら、本年最後の会を終えた。


修善寺茶会へ

2012-12-06 08:52:52 | 茶会

   

 修禅寺庭園・どうだんつつじの古木も見事に紅葉 

師走に入り茶の納会は修善寺温泉で、少人数で主催者も精鋭、お客さまも茶歴の長い方ばかり(勿論私はお邪魔虫?)。午後2時からの席入りの第一席はホテルのバーラウンジの立礼にて、主催者は全員男性、普段でも手馴れたしつらいに定評があり、ホテルの壁のインドネシアのタペストリーに「庭を清め時おりにごる心を掃き清めなさい」という歳末らしい掛物、九十一歳耳庵翁の前では素直になれる?

花入はT先生の自作、蓋と身の合ったスワンコロークの柿の蔕香合が即席の床にぴったり。

やはり何処でも何時でも茶は出来る心得のある方々の茶はすごい!

 

でも眼目は、長年自らの眼で収集してきた中国、朝鮮、日本の古陶磁で茶を一服。勿論茶は修練しているのでお話しされながら数々の茶碗、茶入などのお話しがまた楽しい。こうして使うには200個位の数が手元になければ、なんて恐ろしいことを言われる。

 

一つだに持てない私はどうしてくれる!と。時には石油缶、ダンボール箱に入っていたものを確かな鑑識眼、鑑賞眼を養い、破損していたものは自ら金繕いして持ち出される。南宋の海渡り、覆輪を施した茶碗、スワンカローク、高麗末~李朝初期、灰釉で多分付け高台の桃山以前のもの、江戸初期の古美濃とか、濃茶と薄茶を頂く楽しいひとときであった。

 さて次に向かったのは客室の広間で煎茶席、「どの部屋でするのかわからなかったので急きょこのようになりました」と言われるが、見事に煎茶席の雰囲気に短時間で変身。獅子ユズという名のユズが目を引く。ひとしきり食べられるのかしら、この大きさで木にぶる下がったらどうなるのかしらという話しで盛り上がる、文旦という仲間とのこと。

煎茶を二煎、舌に玉露を味わいながら紅葉饅頭を。

次の席はトルコ?人に扮した日本人が入れて下さったトルコ茶を味わう。“ウルターナムアッサラム”と書かれたアラビア語は日本語に訳すと“和敬静寂”。ナツメヤシの実を入れた菓子器は宋時代の海上がりで底に貝殻が付着している。5億年前のオウム貝を風炉にして銀器のポットから湯を注ぐ主はスルタン王のよう。

 

三席回って夕食までの時間、温泉の掛け流しで一年の身の濁りを清めたが、心は除夜の鐘まで待たねばならない?

         

       源範頼の墓の散紅葉         修禅寺の今年最後のもみじ

 


教授拝命披露茶会へ

2012-12-05 11:27:09 | 茶会

Yさんのお誘いで東京は羽根木公園へ、梅林の見事な公園内に星辰堂と日月庵の茶室がある。梢の木々の葉は潅木の植栽に被うばかりに積もっている。東京の冬も“おさおさ劣るまじ”という実感。

広々とした陽の当たる縁側で待つことしばし、一陣の風が木々に残っていた葉を吹き降ろす。公園ならではの銀杏落葉の風情を楽しむ。

 

今日はMさんの教授拝命披露のお祝いの会、広間は長板の硯屏荘りの設えである。長板中心に青磁らしき硯屏に柄杓をかけて、鈴木日々庵(鈴木宗保師)よりMさんの先生の先生にあたる方が伝授されたという点前を初めて拝見する。大勢の目がお振袖のお嬢さんの手元を見つめる。

 

点前は荘りの柄杓を取り蓋置を引いて始まる。柄杓の柄を朱に塗ってお祝いの気分が盛り上がる。清・嘉慶年製(1796-1820)の共蓋水指の四方に四神獣(龍、鳳凰、亀、麒麟)を染付で、小振りで長板に収まり具合が良く、中国の至宝を持ち出されたお祝いの会にぴったり。

 正客のYさんは席主のMさんとの出会いのエピソードを語られる。講習会でホテルの同宿は二人だったので親密さをまし、それから修道者同士の交流が始まりこの度のお祝いに駆けつけられた由、ご縁とは不思議なもの、私がお連れした友人もYさんと旧知で再会に喜びあった。

 

さて前後するが、濃茶席の先生はMさんの師。清厳老師の横物「僧問蜜庵如何是正法眼 庵云破沙盆」、古銅のソロリに師走より使える水仙が目に新鮮に映る。いよいよ炉の季節になじみ火を囲み、床に水仙が置かれるという炉にふさわしき花に出合ったのはご馳走。桃山時代の香合、師らしい格式のある床荘りの四畳半台目席であった。

 先ほどの風で公園の石畳は一面の落ち葉、冬の弱い日差しの中まだ日暮れには早いので銀座・谷庄東京店「歳末茶道古美術展」へ(12月8日迄)。丁度数寄屋橋では6億円の歳末ジャンボ発売中、友人が「当たったら棚のここからここまで全部買うわ」なんて冗談に言ったりして…

 一服頂いた蕎麦茶碗は?百万円とか、「やはり宝くじの世界ね」と云いつつ、茶の話の続きに不二家の甘味処に、話しに花が咲いたのでありました。


あるお数奇者の茶会へ

2012-11-29 21:05:06 | 茶会

この日も冷たい雨の中、心は期待で一杯のお席に急ぐ。迎えられた主は三つ紋の紋付で出迎えられ、肩身せまく立礼の待合へ。六畳の床には「楽」の短冊、十三代円能斎の花押、円相の丸に草字の楽が、私の好きな出合いに途端にうれしくなってしまう。

炭道具が飾られている、唐物の炭斗は等しく底まで丹念に繊細に組まれている、かんは松竹梅象嵌の相生かん、火箸は四角桑枝の先が鋭く、多分相当使い込んで消耗しているよう、灰匙も火箸同様四角の面取りで同時代の古さかと思う。脇の灰器は南方のカメの蓋で相当ゆがんでいるが、身辺にあるものを見立てたひょうげた一品である。また釜敷は古色を帯びているので竹かと想像したら、これもやはり藤で編んだという。同行の方が「編んでみようかしら」と熱心に数えている。

          

最初からにぎやかにしている内に、大振りな汲み出しでのどをうるほす、呂山人という。そして炉開きの季節にて一献をすすめられ友人もびっくり! 鯛の向付は弘入隠居判の菊形の赤、六客揃組という。

さてこれからの本席は如何ばかりかと、雨のためつくばい、にじり口からの入席は省略して三畳台目席、深く一礼し床前に進む。春屋宗園筆「僧門 其門如何是卆啄之機門云響……」と続く、「碧厳録」。花入はひと目みて園城寺花入とおぼしき大きさ、世に園城寺と同じ手は3つあるという中の一つとのこと、某流家元の箱書に「蜂 阿」とある、秀吉に仕えた阿波蜂須賀小六に違いない、後にかすがいが打ってある。花は白椿と土佐水木が堂々と、そして十一代玄々斎手ひねりの一葉香合。

                  

久以の炉縁に尾垂あられ釜、獅子頭のかん付が上に付けられた堂々の釜は客遅しと待ちわびている風情、持出された茶碗は大井戸、繕いも景色の一部に収まるかのような銘・時雨、五名でたっぷりいただく贅沢に雨音も遠のく。主は強い雨に気遣いをされるが茶室の中は時雨もなんのその。

掬い出された茶器は黒の小棗、町棗のようである。宗旦が見出しとのこと、甲に菊が描かれているので後の細工のような気がした。宝尽くしと牡丹唐草の仕服は、またほつれが気になる位古い金襴の裂地、扱いの心配りが大事な宝を手に取らせて下さる主に感謝!

茶杓が少庵の蟻腰の華奢で優美、主はかい先のしっかりとたわめられている茶杓でたっぷりと掬われていた。道具にまつわる話しも果てしなく…、一旦ここで中立。

   

そうそう水指を忘れていました。私の坐していた正面の水指は南蛮、存在感がある。

さて、改めて席入りすると炉縁が替わっている。「本来このようなことはしないのですけれど、襖をあけて広間にしましょう」と云われる。、座が改まったようで炉縁に目を凝らすと、遠州好みの拭き漆の七宝繋ぎ、薄茶らしい華やぎの席に。

菓子盆がすごい!まだ確かに残っている、朱四方盆の裏に利休のケラ判が! 表の家元が利休判茶入盆と箱書きしている。唐物茶入の盆として添っていたものに違いない。一対といえば細川家の永青文庫の所蔵品には必ず盆と唐物が一対になって展示している。その400年以上前の菓子盆には富ヶ谷の岬製の銘・瑞鹿が、きび糖を使ってあるので黒糖の風味、銘菓である。

  

ここでご主人さまにも登場していただき高砂の如く、相生の如くの息のあったおもてなしにはなが咲く。先に出されたこおり蓋のような煙草盆は何とご主人さまの手作りとのこと、赤松の一枚板で2年程の製作期間の大作、古い道具の名品の数々と初々しさが感じられる煙草盆の取り合わせに脱帽!

        

二碗の薄茶茶碗は、織部沓形と明瓔珞赤玉文様、野武士のような荒々しさとしなやかな赤玉茶碗を交替していただく至福の時間はまたたく間にすぎてゆく…、前席で吊り棚にある気になっていた薄器は三島、元は香炉という。薄器の蓋は牙蓋で裏に布地が張ってあるという。私はそれを見逃してしまったが…。薄茶では黒柿の替蓋になっていた。所蔵家(平瀬家?)の番号が打ってある。茶杓は平戸初代藩主にして松浦鎮信流の祖である松浦鎮信作、この茶杓も優美にして華奢、美杓である。

退出してみれば、寄付の床には田山方南の和歌「あかねさすにわのもみじをながむればけふのひとひはくれすともよし」、が掛けかえられていて、まさにそのような思いであった。

居心地のよい茶室、ご夫妻に再会を約束して雨脚の衰えない中、帰途についた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


松月茶会

2012-11-28 09:31:58 | 茶会

先日冬の雨の中、Tさんのお誘いで大磯は松月茶会へ。寄付に十五代鵬雲斎の筆による雀と稲穂の掛物、旧暦で云えば新嘗祭にあたるこの日、五穀豊穣を感謝するよき日であった。

露地より沙鴎庵(四畳半台目)に入席、正面に居山二文字の横物、八十二翁鈍庵の筆、前に白玉椿と夏椿の照り葉が覚々斎造の竹一重切花入に、うすく色づいている照り葉がやさしい。

席主は漆芸家村瀬治兵衛氏、うずくまる釜(寒雉極め)の前でお話しを進めながら、現代作家の道具を扱われる。土の塊を高火度で焼いたような面白い形をした備前焼(名前を失念)の水指。

茶碗に小川待子造の信楽風の主茶碗、プリミティなものの印象があるこの作家にして茶碗として機能している(?)。現代作家の展覧会から遠ざかっているので新鮮な手取りであった。

次茶碗、鯉江良二氏は岐阜恵那の出身、席主はこれまでこの茶碗が主茶碗の座を占めていた、と話される。4名の方がこの瀬戸茶碗で頂く。

三碗目は辻清明造の茶碗は奥高麗と話されていたよう(最近段々記憶が怪しくなって…)、信楽土による自然釉を中心に作陶していた陶芸家と記憶していたが、席主は普段から愛用して水や湯をくぐらせているのでしょうか、茶の映りが良い。席主はあちこちから茶道具が集まってきますと話されていたが、この茶碗もこれから治兵衛氏の席に登場することでしょう。

家業である道具は、金峯山蔵王堂修復の際の古材を用いた三代目席主の炉縁である。「初代の頃の古材が残り少なくなって、この古材に3ミリの厚さに漆を塗ったのでかなり重いですよ」と話される。国宝蔵王堂の古材がこのように現代に活かされているということに日本の伝統の奥深さを思う。

そして、中次も初代時代の古材を使用して、材自体が枯れているようで軽い。初代を尊敬して止まない三代目の心意気を感じる。

さて薄茶席に移る。十二畳付書院の広間の席主は福厳寺新美昌道師、道元禅師の教えを掛物に、南京はぜの実と西王母椿。同行のTさんが、「昔は実の皮から”ろうそく”用のろうを採ったのよ」と、茶花の修練をしているTさんならではの博学に教えられる。

  

大好きな松華堂のお菓子が大皿の備前皿に運ばれ、赤楽(了入)、黒楽(覚入)の両椀、300年前の古信楽茶碗を手に取らせていただき、一服を味わった。

待ちに待った松月の点心は、金沢の板さんの振舞い、温かく美味しく頂戴した。

 

 

 


枕木山華蔵寺茶会 その2

2012-11-09 10:06:27 | 茶会

ところが正客は金沢へ帰る時間が迫っているとのことで先に帰られ、私が正客になってしまった、さてどうしましょう! 度胸は歳とともにいささか付いてきたものの(要するにずうずうしくなっただけ?)、有馬頼底管長の前では話が違うではないか、と焦ることしきり、もう高位の禅僧のおん前では虚心坦懐と濃茶席のお成りの間に進む。

 床は      一絲文守墨蹟 開炉七絶
        甎爐(せんろ)を修整すれども、いまだ功終わらず
        檐(のき)を排(つら)ねる拱木、山風に嘯く
        灰は寒し、百有餘歳
        爭奈、今朝吹けども紅ならざることを
          寛永癸未之作
          山居沙門一絲

 開炉にふさわしき墨蹟だが、浅学の身にはわからず持ち帰ってみたがどのように解すればよいか?どなたか教えてください。それでも墨蹟の主、一糸文守と後水尾天皇の第一皇女梅宮との恋物語を確か新聞連載で読んだことがあり、生意気にも有馬老師にその話を持ち出してしまったのだ。老師はさらりと話を受け、一糸文守はその後近江永源寺の開山になられたこと、美男子だったが「私よりはね」とか座をにぎやかにされ私もほっとする。でも本当は「何を云っているのだ、馬鹿もん!」と警策で打たれる仕儀だったかも。

 この墨蹟は寛文癸未、寛文20年(1643年)の年に当たる。私も癸未生まれなのでより親しみがわいてきた。漢文だがやわらかい文字であった。

 さてさて急がねば、花入がまた見事!飛青磁不遊環、大阪市立東洋陶磁美術館の国宝とまではいかないが、相国寺承天閣美術館蔵の飛青磁も見応えがある、照葉と白玉椿?も負けそう。

釜は寺常住の筋釜で共蓋、鳴りがものすごく老師が坐し点前するにつれ唸るが如く、炉縁も常住で一尺5寸か6寸の1尺4寸より少し大きい中炉。風炉先は頼底好み、銀閣寺古材に老師が山並みを墨で描き、碧層々の文字、言わずと知れた「遠山無限碧層々」、まさにここ枕木山華蔵寺は雲の合間から見える遠くの山々の碧は、幾層にも重なり今日は大山(だいせん)も初冠雪で雪を頂き、眼下に中海が広がり、たとえようのない風光地であります。

 水指は古備前火襷一重口、肌がきめ細かく火襷を一層きわだたせる白さの優品、書付に出雲で求むとあり里帰りしたのかもしれません。

 そのような道具との出合いを味わううちに、老師が大井戸茶碗を持ち出されてどっしりと座られる。蓋置に柄杓を引く、カツーン! お成りの間に響きわたる心地よい点前の始まり。そして「点前は皆さんの方が上手で…」と、何とかと話されながらの点前は融通無碍なるかな、今でも老師のなさる点前を思い浮かべてなつかしく思う。それ以上言葉が見つからない… その蓋置は竹に山水を彫った明時代の古色、枯れに枯れた音の響きでしょうか。

 茶入は、膳所焼の広口、一筋の景色があり、不昧公の箱書。そして銘「巌」の大井戸茶碗は松江藩家老職である有沢いつ通が旧蔵したという、銘「巌」とあるように胴部が巌のように立ち上がっているような印象を受けた。高台も低くてそれ程大きくない。その茶碗で有難く感謝して頂く、熱くまろやかな中にも苦さもある頼底好み「萬年の翠」、美味しかった。菓子はやはり三英堂の置上菊のような練り切り。

 お成りの間の一角に小間席があり、そこが寄付になっている。床には鳥居引拙消息、古市播磨守宛、不昧公箱、消息は、引拙が瀬戸茶入が幾つかあるが一つ送ります、とか何とかでしょうか。炭道具は千鳥が一羽描かれた織部、時代のさざえ籠、青らんの羽箒、古越州耳付の灰器は漢時代の越州窯、持ってみるとかなりどっしりとしている、東山時代の蒔絵冊屑箱を煙草盆に、かつて宮廷人は書損じの和歌を入れた箱が冊屑箱ときいている。どれも由緒のある炭道具。

会の主催者の方のブログをお読みいただければ会記も書かれていますので参考まで

http://blogs.yahoo.co.jp/omk72000/folder/1806115.html

 その後、会の青年の案内で中海を展望できる場所へ、先に記した風景が飛び込んできたのです。去りがたく日の沈むまで佇んでいたかったのですが、松江の一会を大事に帰途に着きました。

 

   

前後ながら、前日米子空港、米子駅経由で足立美術館へ、百聞は一見にしかず!庭園は宗教法人MOA美術館と双璧をなす見事さ、ただただカメラを向ける始末(ここで電池を消耗したのでした)。印象に残ったのはこの季節に展覧する横山大観の紅葉の屏風でした、技巧的でありながら技巧的でない構図と素朴さでした。

       中海の夕日  

 


枕木山華蔵寺茶会 その1

2012-11-08 22:52:24 | 茶会

11月4日松江より車で約30分、枕木山華蔵寺で開山700年記念茶会が開かれ参列した。

松平不昧公により再建された本堂、お成りの間、客殿、書院、はじめ全山を会場として、相国寺派有馬頼底管長自ら濃茶を練られるという幸運を頂いた。

 薄茶席の席主、堀江恭子氏よりお誘いを受けて三十数年ぶりに松江を訪れた。晩秋のおだやかな一日、主催者が用意されたタクシーで標高456mの枕木山へ向かう。道すがらたわわに実った本庄柿の柿園、石蕗の群生は真っ青な空と相まってカラフルな色彩感覚、そしてつづら折を上がっていくと樹間より中海がチラチラと、少しずつ気持ちが浄化されていく。

 

沈流会取締りの福田誠一郎氏の出迎えを受け、山門をくぐり、薄茶席の本堂書院に入席、正客は堀江氏と昵懇の金沢の茶人、そして恐れ多くも私が遠方よりということで次客を仰せつかった。

 

床は、本阿弥光悦筆和歌巻切「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声きく時そ秋は悲しき 猿丸大夫」、何とこの枕木山の実景にふさわしき掛物、この寺の伽藍は明治の廃仏毀釈とその後でかなりの荒廃、この度の茶会も堀江氏と有馬頼底管長のお力添えなしに出来なかったと思われる。

 

それはさておいて、掛物の前に高麗初期、草葉紋の花入が何とも控えめでいて奥山に分け入らんとする趣き、ドウダンの紅葉と初嵐椿が色を添える。遠州流席主の堀江氏は、遠州好みの風炉先、時代寄木棚、その棚に緑玉の水指が異彩を放つ。後ほど水を空けて持ち出され、「道具は手に取らないとわからないのよ」と惜しげもなく存分に見せてくださる。緑玉は時代を感じさせず用の美に収まっているように感じた。

 薄器は籠目文様の大平棗で江戸時代の作、茶碗はまがき菊文様の御本で遠州好、次は割合小さな堅手、私はこの茶碗で頂く。また茶杓は不昧公の歌銘がある「白鷺」、“葦の間に淋しく立てる白鷺の肩より時雨る村雨の音”、虫喰いを見立てたのであろうか、如何にも白鷺が葦の間に立つているよう。蓋置は金森宗和、竹が割れてその間に別の竹を鎹で止めてあり宗和らしい。先に出された七宝瓜実形の菓子器に三英堂の山河(さんが)と季子ごよみ、山河は不昧公が寛政8年10月茶事で召し上がった菓子、季子ごよみは淡雪生地に麦粉を入れ二色の琥珀と栗を散らした秋の素朴な味、両方とも不昧公お膝元らしい名菓だった。

 

点心席は客殿で華蔵寺和尚の案内、講話ののち大徳寺弁当を立礼で。椎茸、こんにゃく、人参、銀杏、里芋、むかご、そして胡麻豆腐の椀は絶品であった、手を抜かずに練った心づくしの精進を頂いて、いざ濃茶席へ。

(残念なことにここでデジカメの電池がなくなり、写真は断念!)


なでしこ茶会

2012-10-10 19:08:13 | 茶会

天高く秋晴れの一日、三鷹井心亭で小寄せ茶会が催された。

席主のYさんは青年部時代の方々とグループをつくり、年一回茶会を開いている。昨年はクリスマスの12月25日、ヒイラギやクリスマスローズを用いて翡翠の花入に入れていたのが印象的な茶会であった(グループのKさんの席でしたが…)。

    

玄関に入ると蔓梅擬や竜胆、かごにはいが栗が里の秋を満載して出迎えてくれた。広い縁側を使って待合に、2mもあろうか、高の羽薄が天高く、足元にガラスの月と兎が…9月は30日の十五夜、10月は27日の十三夜、月がもっとも美しい季節の月見を感じさせてくれる。

さて八畳の広間に円相と無尽蔵の横物、席主のIさんは円相を月に見立てられ懐深くご説明くださる。社中の方でしょうか、二代長楽の黒で一生懸命に練ってくださった濃茶がきんとんの甘味の残った舌に程よくとても美味しかった。

   

Yさんは今年薄茶席を担当された。この井心亭はぐるりとたたみ廊下が回っていて、ここは屏風を立てている。草野心平の詩に棟方志功の板画、詩は“富士 西に没し 満月 東に浮き あがる”、心平は志功の版画をそえた詩画集を刊行していることを知った。心憎い待合のしつらえであった。が少々残念だったのは願わくば草仕立にした表装だったらもっとイメージがわいたのでは、なんて外野の勝手な想像。

  

そして、黄交趾(確か宝尽し文様)菓子鉢になんとも鮮やかな夕焼色にトンボが止まっている生菓子、吉祥寺の亀屋万年堂製、今回の茶会の趣旨を話されて創作してくださったとのこと、持つべきものは友人ですね。

 さて、薄茶のあとはこの場で点心を頂くことに、いつもお心入れのお手製のご馳走が上手に盛り合わされて、そうこうする内に退出の時間になってしまった。Yさん、Iさん、来年もまた呼んでくださいね。

 三鷹駅に戻る途中“マグノリア”でコーヒーを、入口に白い彼岸花と赤彼岸花がざっくりと投げ入れられているのが気にいったのでオーナーにうかがうと、「この上の庭に毎年沢山咲きますよ、特に三鷹付近は白が多くて、我が家も赤は少ししか咲きませんでした」と。

 

道すがら薄と秋明菊とホトトギスが今を盛りに咲き乱れているコーナーに出合い、パチリ。


箱根大文字焼茶会

2012-08-20 18:23:08 | 茶会

午後7時半、箱根明星ケ岳の「大」の字に点火された。同時に花火も上り、箱根全山の精霊の送り火を強羅公園内白雲洞の対字斎でみることができた。対字斎の名もここに由来するという

打上げの数時間前より白雲洞茶苑の各茶室で茶会が催された。その対字斎の床に掛けられたのは、秋艸道人の「おほらかにもろてのゆびをひらかせて おほきほとけはあまたらしたり」歌が東大寺の古き銅鐸の拓本に書かれている。送り火のこの日にふさわしい掛け物が「手に入りましたので」と席主が控えめながらご披露される

 そして宋白磁水瓶にせきしょうの花と金水引が手向けられている。香合は薬師寺ゆかりの朱泥色の薬器がみほとけのひらかれた手のひらにのっているような、祈りの床荘りに感動!

 

風炉先も薬師寺薬師三尊台座の葡萄唐草を拓本にして風炉釜を囲む。置かれた水指は朝鮮の辰砂の発色の良い名品、席主のお話しに暑さも忘れる

 朱の高杯に盛られたお菓子は、東日本大震災に被災した方々への供養と大船渡より届いたかもめの玉子を紫色にアレンジして出された。ここにも席主の祈りがこめられていた。そして茶碗は宋白磁、建窯、辰砂、見込みに辰砂のある天目、吉州窯、定窯などなど「夏らしく平茶碗にしてみました」と中国の古窯の茶碗は十碗をこえる

 薄器は宋白磁蓮弁文様の小壷、まことに清々しい存在感のある壷に細作りの茶杓、白雲洞建設の主、益田鈍翁夫人タキさんが削った銘「羽衣」、女性の感性が細部にまでゆきわたった軽くて華奢な羽衣茶杓を席主は送り火とともに捧げられた

 次に白雲洞茶室へ、「田舎家の席」の貴重な作例とか、いろりに縁なしのたたみという意匠で八畳敷きの茶室。茶道具の見立ての枠をはずした構成が合うこの席の壁床に「華厳」、東大寺206世別当上司海雲の雄渾な二文字が掛けられ、前には東大寺印の根来盆に古銅花入(水戸家伝来の古銅花入写し)に蓮の葉と花床(花中央の黄色部分)、蓮弁は盆の上に散らされて…

   

 徐々に陰りをみせた田舎家の席に火が入れられ…その陰影の中、席主は丁寧に一人ひとりに抹茶を点てられる。それがおもてなしと言われるのが本当にありがたくうれしい

水指に注連縄が…、「ここ箱根の200mの地下水から汲み上げられた本物の名水です」と見込みに大きな魚が泳いでいる大水指から汲まれる。さて南方の焼物とうかがったが失念

 

そして三席目は緑に囲まれた一角の野点の席へ、一日に一花夕方より咲くぎぼしが汕頭窯(すわとう、広東省)?の花入に、ようやく涼しくなった席に冷たい抹茶を席主の楽しい話しとともにうかがっていると薄昏となって大文字焼の刻が迫っていく

 翌日はポーラ美術館、湿性花園、ラリック美術館ではランチを、湿性花園では夏の名残の花、来る秋の花を堪能した

   

 キツネノカミソリ             節黒仙翁                河原撫子

 

  鬼百合                           桔梗

 

    箱根菊                          釣船草