他人から身を守るために、
他人という集団の中で生きていくために、
私は他人のことを思う。
だから自分の本心に沿って行動したら、
余計、他人と関わりを持つ機会や、
他人を応援したり、助けようとする機会がなくなると思い、
自分は心底ひどい人だなと思った話だった。
そこで思うのが、
他人は、他者に本心から心底なにかをしてあげたいと、
常に思っているのかということである。
とくに、
私が尊敬する、べらぼうに心の広い禅の境地ではないかという人は、
(実際その人は禅を本で知り禅の教えに感銘を受けたのだとか。)
自分の損得なしに、
なにかをしてあげたいと思っていつも生きているのだろうかということ。
それが普通なのかということ。
私が他者になにかをするとき、
その人本人からでなくても、
まわりめぐってでも自分の役に立つことがあると判断したときに、
他者になにかをする気がする。
たとえば、
電車で席をゆずるのもゆずってあげたら、自分が気持ちいいからだ。
もし2人しかいない空間で自分の体調が悪くなければゆずってあげようとするのも、
それは自分がそうすると相手が喜んで気持ちイイからだ。
あれ?
これは自己欺瞞に書いてある、本心や良心に背くとは違うな。
相手のためになにかをする=自分が気持ちいい
という図式はありなのか。
そうか。
相手がなにを欲しているか、なにで喜ぶかわからない、
やってあげたことに喜ばれない状況がいやなんだ。
そしてそれをわからなくさせているのは、
特に母が気難しい人でコロコロ変わるから、
なにかをしてあげたいと私が思う=それは確信をもって喜ばれることといえる自信がない。
という図式が私に染み付いているのだ。
だから人になにかしてあげたいと思っても、
一度疑心暗鬼に落ちいると、
箱に入ってしまって、
うまくいかなくなるのだ。
と結論を出してみたところで、
地震ですか。怖いです。
つづけます。
なにも解決していない。
というのも前の前の記事で気がする。
つまりもどってきてしまった訳だ。
もう既に関係が崩れはじめてしまっている2件については、
諦めるしかないだろう。
私はこれを修復する技量もないし、
両者とも私との関係をわずらわしく思っているのではないかと感じている。
そして私もそれぞれのためになにかを無償でしてあげたいという気はなく、
対価交換があってはじめてなにかをしてもいいと思えるくらいだ。
対価交換があったときにも、
イライラ感じさせられることもあったくらいだ。
それは私が対価と要求が釣り合いがとれていないのに、
横柄な態度で接っさられることに、
ほとほとがまんの限界が来ているからだ。
それでもつきあっているのは、
自分のために少なからずなるからだ。
実績があれば、他で評価してくる人が少なからずいて、
実績がなくなれば、元も木阿弥で、
今までの苦労が水の泡になってしまうからだ。
そこで私は、箱から脱出するとか自己欺瞞とかいう内省ところから抜け出し、
ビジネス面でこの件を捉え観測した方がいいことに至った。
その方がより健全的で、
今回、転んでしまったことを次へ活かせる。
それは次に書くとして、
だとしても、他の件、他の人との関わり合いがうまくいっていないことに
目を向けたい。
先の両者はお金やビジネスが絡んだことだ。
それが関係しない、
いわゆるただの”友達”は、
なぜ私にできないのだろうか?
やはりどんなにがんばっても、
内面的根本的に、
他者から身を守り、
他者の間で生きるためという考えがある限り、
長期的につづく友達などできないのであろうか?
他人という集団の中で生きていくために、
私は他人のことを思う。
だから自分の本心に沿って行動したら、
余計、他人と関わりを持つ機会や、
他人を応援したり、助けようとする機会がなくなると思い、
自分は心底ひどい人だなと思った話だった。
そこで思うのが、
他人は、他者に本心から心底なにかをしてあげたいと、
常に思っているのかということである。
とくに、
私が尊敬する、べらぼうに心の広い禅の境地ではないかという人は、
(実際その人は禅を本で知り禅の教えに感銘を受けたのだとか。)
自分の損得なしに、
なにかをしてあげたいと思っていつも生きているのだろうかということ。
それが普通なのかということ。
私が他者になにかをするとき、
その人本人からでなくても、
まわりめぐってでも自分の役に立つことがあると判断したときに、
他者になにかをする気がする。
たとえば、
電車で席をゆずるのもゆずってあげたら、自分が気持ちいいからだ。
もし2人しかいない空間で自分の体調が悪くなければゆずってあげようとするのも、
それは自分がそうすると相手が喜んで気持ちイイからだ。
あれ?
これは自己欺瞞に書いてある、本心や良心に背くとは違うな。
相手のためになにかをする=自分が気持ちいい
という図式はありなのか。
そうか。
相手がなにを欲しているか、なにで喜ぶかわからない、
やってあげたことに喜ばれない状況がいやなんだ。
そしてそれをわからなくさせているのは、
特に母が気難しい人でコロコロ変わるから、
なにかをしてあげたいと私が思う=それは確信をもって喜ばれることといえる自信がない。
という図式が私に染み付いているのだ。
だから人になにかしてあげたいと思っても、
一度疑心暗鬼に落ちいると、
箱に入ってしまって、
うまくいかなくなるのだ。
と結論を出してみたところで、
地震ですか。怖いです。
つづけます。
なにも解決していない。
というのも前の前の記事で気がする。
つまりもどってきてしまった訳だ。
もう既に関係が崩れはじめてしまっている2件については、
諦めるしかないだろう。
私はこれを修復する技量もないし、
両者とも私との関係をわずらわしく思っているのではないかと感じている。
そして私もそれぞれのためになにかを無償でしてあげたいという気はなく、
対価交換があってはじめてなにかをしてもいいと思えるくらいだ。
対価交換があったときにも、
イライラ感じさせられることもあったくらいだ。
それは私が対価と要求が釣り合いがとれていないのに、
横柄な態度で接っさられることに、
ほとほとがまんの限界が来ているからだ。
それでもつきあっているのは、
自分のために少なからずなるからだ。
実績があれば、他で評価してくる人が少なからずいて、
実績がなくなれば、元も木阿弥で、
今までの苦労が水の泡になってしまうからだ。
そこで私は、箱から脱出するとか自己欺瞞とかいう内省ところから抜け出し、
ビジネス面でこの件を捉え観測した方がいいことに至った。
その方がより健全的で、
今回、転んでしまったことを次へ活かせる。
それは次に書くとして、
だとしても、他の件、他の人との関わり合いがうまくいっていないことに
目を向けたい。
先の両者はお金やビジネスが絡んだことだ。
それが関係しない、
いわゆるただの”友達”は、
なぜ私にできないのだろうか?
やはりどんなにがんばっても、
内面的根本的に、
他者から身を守り、
他者の間で生きるためという考えがある限り、
長期的につづく友達などできないのであろうか?