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袋小路から迷いの森ー辿りつけるか。

2013-04-29 22:15:13 | 無題
他人から身を守るために、

他人という集団の中で生きていくために、

私は他人のことを思う。

だから自分の本心に沿って行動したら、

余計、他人と関わりを持つ機会や、

他人を応援したり、助けようとする機会がなくなると思い、

自分は心底ひどい人だなと思った話だった。


そこで思うのが、

他人は、他者に本心から心底なにかをしてあげたいと、

常に思っているのかということである。

とくに、

私が尊敬する、べらぼうに心の広い禅の境地ではないかという人は、

(実際その人は禅を本で知り禅の教えに感銘を受けたのだとか。)

自分の損得なしに、

なにかをしてあげたいと思っていつも生きているのだろうかということ。

それが普通なのかということ。


私が他者になにかをするとき、

その人本人からでなくても、

まわりめぐってでも自分の役に立つことがあると判断したときに、

他者になにかをする気がする。


たとえば、

電車で席をゆずるのもゆずってあげたら、自分が気持ちいいからだ。

もし2人しかいない空間で自分の体調が悪くなければゆずってあげようとするのも、

それは自分がそうすると相手が喜んで気持ちイイからだ。


あれ?

これは自己欺瞞に書いてある、本心や良心に背くとは違うな。

相手のためになにかをする=自分が気持ちいい

という図式はありなのか。


そうか。

相手がなにを欲しているか、なにで喜ぶかわからない、

やってあげたことに喜ばれない状況がいやなんだ。

そしてそれをわからなくさせているのは、

特に母が気難しい人でコロコロ変わるから、

なにかをしてあげたいと私が思う=それは確信をもって喜ばれることといえる自信がない。

という図式が私に染み付いているのだ。

だから人になにかしてあげたいと思っても、

一度疑心暗鬼に落ちいると、

箱に入ってしまって、

うまくいかなくなるのだ。


と結論を出してみたところで、



地震ですか。怖いです。

つづけます。



なにも解決していない。

というのも前の前の記事で気がする。

つまりもどってきてしまった訳だ。


もう既に関係が崩れはじめてしまっている2件については、

諦めるしかないだろう。

私はこれを修復する技量もないし、

両者とも私との関係をわずらわしく思っているのではないかと感じている。

そして私もそれぞれのためになにかを無償でしてあげたいという気はなく、

対価交換があってはじめてなにかをしてもいいと思えるくらいだ。

対価交換があったときにも、

イライラ感じさせられることもあったくらいだ。

それは私が対価と要求が釣り合いがとれていないのに、

横柄な態度で接っさられることに、

ほとほとがまんの限界が来ているからだ。

それでもつきあっているのは、

自分のために少なからずなるからだ。

実績があれば、他で評価してくる人が少なからずいて、

実績がなくなれば、元も木阿弥で、

今までの苦労が水の泡になってしまうからだ。


そこで私は、箱から脱出するとか自己欺瞞とかいう内省ところから抜け出し、

ビジネス面でこの件を捉え観測した方がいいことに至った。

その方がより健全的で、

今回、転んでしまったことを次へ活かせる。



それは次に書くとして、

だとしても、他の件、他の人との関わり合いがうまくいっていないことに

目を向けたい。


先の両者はお金やビジネスが絡んだことだ。

それが関係しない、

いわゆるただの”友達”は、

なぜ私にできないのだろうか?




やはりどんなにがんばっても、

内面的根本的に、

他者から身を守り、

他者の間で生きるためという考えがある限り、

長期的につづく友達などできないのであろうか?





箱と自己欺瞞

2013-04-29 21:33:02 | 無題
とにかくお金を出してもらうということは、

関係性をうまくいかせるのに難しいことは、

一般的からいってもいえることで、

身をもってわかった。


では、私を応援する人がいなかったかといえば、

いた。

非常に熱心に教えてくれた先生に、

私は今でも感謝している。

その恩恵を受けられたのも、

私が熱心に勉学や課題に取り組んでいたから、

先生も応援してくれたのだと分かる。



自己欺𥈞について考える。
自分で自分の心をあざむくこと。

自分の良心や本心に反しているのを知りながら、

それを自分に対して無理に正当化すること。



さてはて、箱の本にはそれをやめて相手のためにしたいと思ったことをすればいいと書いてある。


そこで困ったことが、

私の今の本心を探り出すと、

その人と関係を修復したいという気持ちと、

一方に、もうなにもしたくないという気持ちがある。

そしてそれを打ち返す波としてさらに、

制作したものを活かしておきたいというのがある。

それは自分のためだ。

心底自分がひどい人間だなぁと思う。


しかし少し前まで、

言い出しにくいのでは?

こちらから話を振った方がいいのでは?と悩んでいたことが、

クリアになった気がする。


私が心底相手に対してどう感じていたかということと、

それに対して、なにをしてあげたいかと思っていたことに

スポットを当てると、

私は自分のことばかり考えていて、

他人に対して、なにかしてあげたいと心底思ったことがあるのか、

疑問に思えてくる。


そうすると、

私はこれまでもそうだし、これからも、

他者と長期的に良好な関係を築き続けるというのが、

難しいことがわかる。


私の中での他人は、

助けてくれないし、むしろ、

私を傷つけるものかもしれない恐れがあるというもので、

それから身を守ることや、

その中でどうやっていきていくか、

どうやって自分の空間を確保するかということが

先決で、根本としてそれがある。


そうなったのは、

恐らく、

家庭で暴力、暴言を受け、疎外感を受けながら

育ってきたからだと思う。

一番信用していた人に裏切られたときの衝撃は、

今も忘れたくても、忘れられない。


私が誰かのためになにかをしたりするのは、

その相手に仲間だから傷つけてほしくないというのがあるのではないかと思う。



小学校低学年のとき、

クラス全員で図書室に行って本を探すという授業があった。

そのときクラスメートが吐いてしまった。

私はとっさに、

かわいそうと思った。

小学生頃の私は冬になると毎年、

吐き気を伴う風邪をひいていて、

吐くというのは、どれだけ辛く苦しいことか、

そのときの体験が脳裏に浮かんで、

その子をかわいそうと思った。

恐らく辛いだろうと思って、

とっさに保健室へ連れて行こうと思った。

周りのみんなはきゃーとか、わぁとか言って、

一瞬避けたあと、どうしていいのかわからず周りで立っていただけだった。

その中にも助けたいと思った人は恐らくいると思う。

でも一瞬私がその人たちより動くのが速かったのは、

吐いたときは、また吐き気がすることがあるし、

その場でじっとしているなんてできない状態という経験があったから、

すぐにでも、お手洗いか保健室へ連れて行ってあげたいというのがあった。

私だったら、また吐いてしまって、キャーとかわぁとか言われるのも嫌だと思った。

気持ち悪いのか、その場から動き出せずにいるその人を、

それでもきっと、ここで気持ち悪くしていたくないだろうと、

保健室へ行こうと連れ出した。

私は、確か、保険係ではなかった。


そのとき私は思った。

保険係ではないから先生から止められるかもと。

吐いたものは誰が処理するんだろう?

吐いたもののとこにいるより、

この人を保険質へ連れて行きたいな、

そうしたらいい気分だし、

教室を抜け出せるのも爽快だな。

優しい人と思われるかもな。

強く取り立てられなくても印象くらいは残せるかもな。

と考えていた。


先のことそんなこととで、

行こうととりあえず申し出てみた。

その子は吐いて苦しいときの涙目でいて、うんとうなずいた。

先生は意外にも、えらいわ、じゃぁ(私)さん保健室へ連れて行って、

保険係の2人はここを掃除してといった。


私は驚いた。

保険係が掃除するのかと。

先生が掃除を申し付けたのも驚いたけれど、

保険係が連れて行くからとならずにすんなりと、

私にたくされたことも驚きだった。

保険係には申し訳ないなと思った。

でも保険係も任務を仰せつかって誇らしげなような感じで、

周りの立ってなにかしてあげたいけどできずにいた人たちも、

私もといってみんなで掃除するのがはじまった。


私はそれを横目に、

申し出なかったら吐いたのを掃除することになっていたのかと、

内心申し出てよかったと思っていた。


でも連れていく吐いた本人が、また吐くかもしれず、

自分も吐いた経験から、

吐かれたら汚いとか、気持ち悪いとかいうよりも、

気持ち悪くまたなったら辛いだろうな、どうしようと思っていた。

保健室へ連れていきながら、

気持ち悪くないか、トイレに寄りたくないかと聞いた。

大丈夫だというので、そのまま保健室へ連れて行った。


帰りながら、私は思った。

クラスのみんな、私がいいとこどりして、

恨んでいるだろうなぁ。コワいなぁ。


が、予想に反して、

クラスと先生は私を褒めたたえてくれた。

よく吐いた人を保健室にとっさに連れて行ったと。

吐いた人を気持ち悪がらずに、えらいと言った。


私は予想外、予想外以上のことに驚きながら、

いやぁ、吐いたのを処理する方がいやだし…掃除した人の方がすごいと思うよ

と思った。

だけどなぜか掃除した人より、掃除した人も加わって褒めたたえられた。


これは今でもなんだったんだろうかと思う。

私がいない間に先生が取り立ててすごいと言ったから、

みんなも一緒になってすごいといっていたのかもしれない。

掃除した人たちは、私達も掃除したんだけどなぁと思っていたかもしれない。

それにしても爽やかな顔だったから、もうよくわからない。

(エヴァンゲリオンでいうところの最後の、おめでとう、みたいな。)


それはそれで日常の一コマとして終わったことだと思っていた。

家に帰っていつも通り、のんびりしていると、

母が勢いよく話し掛けてきた。

「あんた吐いた子を保健室へ連れて行ったの?」

「「ええ!?なんで知ってるの?そうだけど、なにかなぁ。怒られるのかなぁ?

なんで知ってるんだろう。」」

「そう・・だよ。なんで知ってるの?」

「えらい!あんた偉いよ。よく吐いた子を保健室へ連れて行ったね。」

「ええ?;それよりなんで、そんなこと知ってるの?」

「いや、さっき先生から電話があって、先生も褒めてたわよ。」

えええ!?なんで電話したんだろう?そんな電話するようなことだったのか?

「その子の親御さんからもお礼言われて、優しい子ねって言われたわよ。」

誇らしげに言う母を尻目に、一体どうい状況でそうなったの?

電話が次々に掛かってきたの?先生からの人伝え?

「他の子のお母さんからも言われちゃったわよぉ、優しい子ねぇって。」

ええ、なにそれ。なんでそんなに話が大きくなってるの?

嬉しい気持ちより、

吐いた子を保健室へ連れて行ったことがなぜそんなにすごいことなのか、

わからず―これは今もわからず、

うん―といいながら、心は首をかしげるばかりだった。


あのとき私が思ったことは、

吐いたの片付けるのやだなとか、

ちょっとは優しい子って認識されてクラスで仲間にしてもらえるかな

(別段そのときはすごくいじめられていたわけではないけれど、

もうちょっと輪に普通に入れたらと思っていた。

低学年だったから、自分が周りとなじめてないとか友達がいないとか

そういう深い認識や悩みはなかったが、

クラスの目が変ったらなにかあるかもと思っていた。)

私はクラスという社会、他人の集団で、

自分の居心地のよい空間ができたらと思っていたのだ。


けれど予想以上のヒーロー扱いっぷりに驚くと共に、

吐いたものってみんなの中では汚いものっていう認識なんだなとわかった。

私が吐いたものが片付けるのがいやだったのは、

液体のどろどろしたものを、

一体どうやってきれいに片付けるんだろう?めんどくさそう、

という掃除するのがめんどくさいのと同じ理由からだった。


今でこそ、嘔吐物には菌が含まれるかもしれず、

容易に近づいていいものとは言えない知識があるので、

汚いとは思わなくても、近づいちゃいけないと思うものとして、

あんまりいいものじゃないという認識はあるけれど。


それでも今も保健室に連れて行っただけなのに、

なんであんなに褒めたたえられたのかわからない。


とにかく、そんな訳で、

人になにかしてあげようと思うのは、

自分のためであり、

相手が本当にしてほしいかは、

いつもしてほしいと言った直後でもない限り、

わからず、

してほしいと言った直後でも、

その期待に応える形のものを提供できるか、

わからないということだ。


母に限らず、

この前の件でいうと、

感想を聞かせてほしい、メールではなく直接というので、

これは軽く、いいと思うよというのを求めているたぐいではなく、

真剣に感想を述べてほしいのだろうと思って、

よくよくそれと向き合って、時間を取り、

どういう言葉で伝えたらよいか考えて、

感想を述べたけれど、

終わってみたら、

軽く感想を述べて、いいよと言っておいた方が、よかったな

というできごとがあった。


そのとき

自分の感想を伝えてさらに役立ちたいという欲がでてしまったのがいけなかったなぁ

と反省をしつつ、

相手の期待を見抜き、それだけに応えるのは難しくなぁと思った。


やはり私には人とよいご縁を長くつづけるのは難しいことで、

それができるようになるにはーと考えると、

気が遠くなった。


根本的に無理なんじゃないのかと。

応援されることの原理

2013-04-29 19:38:09 | 無題
<h1>前回の記事で、箱から抜け出す方法について考えていたのに、

応援されるにはということに考えが至った。</h1>


そのつづき。


イラストレーターの友達を思い出した。

その人は毎日アップもしていなければ、

むしろあまりアップをしないし、

プロでもないのだけれど、

応援したくなるところがある。

それについて考える。


前回出し答えは、

応援という株でいえば出資にあたることを受けるには、

進展のある結果を出していかないと、

毎日イラストをアップするだけではあきられるよう

―将来の有望性があやぶまれる

ようであると結果を出した。


しかし、毎日イラストをアップもしていなければ、

むしろ、もうイラストレーターなどのアート系の道は断念して、

事務や経理の道を目指そうかなぁと考えていることを表明した人のことを思い出した。


それでも、なぜかイラストは描き続けてほしいと思うし、

私が仕事を触れる立ち場になれればなぁと思わされるほどだ。

もちろんその人には仕事があって、

私には仕事がなかったら、すごく悔しくて、

素直に応援できない気持ちになるのだろうけど。



その人は在学中も課題を期日までにやってこないような人だった。

なれん、

期日をすぎたけれど一気に出した作品はどれもそこそこクオリティがあった。

先生は毎回期日をすぎていたけれど、

いつも声をかけて気にして、期待しているようだった。

卒業後もFacebookでたまにアップされるなにかつくったものに、

いいね!やコメントを必ずつけるほど、

先生は気にしていてお気に入りだった。

先生にも何百人もの生徒と、在校生がいるのに。

その人はイラストがうまかった。

デザイン科ではあるけれど、

単純線で描いたキャラクターから、

リアルよりの絵まで描けた。


それで、前回出したファインアートの人だけれど、

その人はあまりうまくはなかった。

色使いも万人受け刷るようなものではないし、

他の作品もアンダーグラウンドな感じで、

できは理解できる人にはいいかもしれないけど、

あまりうまい作品とは言えなかった。

そういうアンダーグラウンドな作品でも世間がいいと騒ぐものは

キャッチーさがあると私には感じるんだけれど、

そういうのが毎回ない。


つまり、

“将来有望そう”

と感じられる、感じさせるのが大事であって、

毎日アップとかは有益ではないということになる。


毎日アップより、技術が高い人の方が、

その人がプラプラしていても、

周りがもったいないとほおっておかないということだ。

それはよく聞く話だ。


ここでなんでこんな話になったのかという話をする。


前回書いたとおり、

駆け出しの人に対して、駆け出しである私もほぼ無償で、

手を貸して応援したわけだけれど、

私はプロになり、

お金を貰える立ち場になった時、

会社で結果を出し

(アシスタントではなく1人で案件をこなし

クライアントさんにも喜んでいただけたとき)、

1つ進展した私は、

手を貸している相手に料金を払ってくれるよう申し出た。


無料だと思っていたものが、

料金の話が出た時、

驚きながらもそりゃぁそうだよねという反応を両者とも見せた。


私はなんだか申し訳な気持ちになった。

けれど無償で行っていくには限界があるし、

無償だから遠慮している部分があるのではという不安や、

無償であるものに価値はなく、遠慮はしていなくてもまぁこれでいいやと

思っているのではないかという疑心暗鬼があって、

どちらにしてもお互い気持ちにいい状況ではないと思って決断した。

先輩は、無償で仕事を引き受けるのはよくないと説いた。

さらに業界の方にも申し訳なかった。

この仕事が無償で行えるような労力と価値のものという認識を、

少なからず広める手助けをしていることを、

私はよくないことだと思って、

裏切りのような感じさせるのではという恐れもありながら、

意を決して申し出たことであった。


一方は既に自分の商売でお客さまから料金を頂いて暮らしている人だった。

けれど、そうだよねぇ、タダ働きになっちゃうと苦笑いしていて、

私は悲しかった。

申し訳ない気持ちと、今までやってきたことに価値をおいて―役立っていなかったのだと。

私の応援は果たして、

その人にとって糧になるものだったのか、

まったく無意味なものだったのか、

それよりうるさい、わずらわしいものだったのか。

私はわからなくなってしまった。

嬉しそうに打ち合わせをしたり、喜んでいた姿はなんだったのかと。


こう書くと、

ただその人にとって勝手に応援してくれる人で、

応援してくれるならウエルカムだけど、

お金を少しでも払って助けてもらいたいということではなかった

―それについて投資する気はなかったということだ。

その人ははじめるとき、

私のことを応援しているといっていた。

互いに、互いへ投資する気持ちで伸びていけたらと思っていた。

私はその人とうまく関係性を築けなかった。

2人とも伸びたらお互いお金を出し合って―などと考えていた。

けれどそれは必要ないものだったのか。

私の対処法が違えば、人柄が違えば、

こんなことにはならずに済んではないのかと思ってしまう。


前回の記事で書いた、出資してもいいと思う人が、

たとえ私自身は活用しないサービスや商品であったとしても、

犯罪めいたものではければ出資したいと思わされるのは、

ひとえにその人の人柄によるものではないだろうか。

その先に、お金という見返りよりも、

もし失敗しても、

その人から

感謝されたり、おかげでと言われたりして、

一役買えたら、気分いいなぁというのがある。


それかもしれない!

その人なら、大変感謝を示しそうな感じが、

よくよく考えなくてもするのだ。

いやでもむしろよくよく考えると、

一人一人には感謝しないで大勢に向かって、

感謝の意を表明しそうで、

私はフューチャーされないことが予想つく。

それでもいいと思えるのはなんだろうか?

人がそこにたくさんいるからかもしれない。


これはメジャーになっていくにつれて

ファンが増える率が加速していくのと、

同じ原理だ。



いろんな面から見ても、

私の人格の未熟さを思わすにいられなくて、

とても落ち込み、

今、途方にくれている。


その応援したつもりの相手との、

関係修復が、

私には難しそうだ。

箱―人とうまくやる、応援される、には

2013-04-29 18:30:45 | 無題
『箱から出る方法』の本を読んだ。


私のすべてがいけないことだったように思えた。


箱から出れたようだった。


次に、

相手のためになにしたくなったら、

それに従うというのを思い出し、

ではと思ったが、

わからなくなった。


私が相手が喜ぶと思ってしようとすることは、

果たして相手が喜ぶことなのか、

検討がつかないと。


そこで思い出した。


母ーの場合は、

以前よいと言っていたことも、

次はよくないことに逆転していたりするのだ。

箱の本でいうところの、

自分を正当化するために、

周りのものにたいする評価や味方が、

コロコロ変わっているようだった。

本の解説により、

母のそのコロコロと変わる現象に納得がいったのだが、

されど果たして母の真の欲求がわからずにいる。


わからなくもない。

自分の中で矛盾が生じていると観じたことが、

私にもある。

それが表に出たときに、

他人からは一体なにがしたいんだろう?なにを求めているんだろう?

と見えるだろう。


されど、そんなことが解ったからといって、

なにか解決するわけではない。

母とやりとりするのは、

やはり非常に難しいと改めてわかった。

母は箱の中に箱をつくりさらに箱に入りー

その箱は複雑にからみあっているようだった。


母のことは置いておいて、

友達でありクライアントである人―のことについて考えた。


悪いことをしたな。

そう思った。

以前からそう思っていて、

先日メールをした。

直接その話題にはふれず、

お茶にでもという趣旨のメール内容を送った。

このとき私は、

直接的にこの前の件どうですか?と話を振ればよかったと、

やりとりが終わって思った。

お茶いいねといいながら、

今忙しいからこちらから連絡するという返事だった。

もう連絡してきてほしくないほしくないというのが、

以前も薄々感じていたが、

1ヶ月も絶ってから返信のような内容のメールが来たので、

私も時間を置いてから、

気にしないでほしいと気軽な内容にしたつもりだった。


本当のところがつかみかねている。

もう関係を絶ってしまいたいのか、

関係を絶ってしまいたいわずらわしい関係なら、

私も無理につくそうとは思わない。


ここで

ふと、「友達がお客さん」のことを考える。


母も昔、友達から商品をかわされたと文句を言っていた。

しかし最初の頃は、そんな風ではなかったと思う。

それにその商品自体も他の類似品よりいいものだった。

けれど母はいつしか買わされたと憤慨するようになっていった。

友達と疎遠になってからだろうか。


次に、

以前の職場で知り合ったすごい数の人脈のある人を思い出す。

若いのに、何千人もFacebookで友達がいて、

それは見かけだけではなく、

その人がすることをみんな応援してくれるような人だった。

その人の人柄もよく、

一生懸命でいて何回かに一回はそこそこな結果を出すので、

将来を有望視する周りの気持ちが私もよくわかる。

もしその人が事業を立ち上げたら、

私にそのときお金があれば、

いくらかでも出資してもいいかもと思えるほどだ。

私はその人とそんなに話したことはない。

なれど、2、3交わした言葉の中や、

話し掛けてくるときは、

いつも尊敬の念と、頼りにしてのことからだったから、

私は嫌な気分ではなく、むしろ、

その人に対していい気分を抱いているのだろう。

その人は私に対して他の何千人の中で大した思い入れがなくとも、

私はこうして影ながら応援したいという気持ち、

―さらには出資、お金を出してもいいという程の応援の気持ちになるのは、

この違いはなんだろうか?


私が出資ではなく実際に手を動かすことで、

普通は料金をもらうことをもらわないで応援したことがあった。

その事例を考えると、何か解けるかもしれない。


その人は年下ながら、

目標を見据えていて、

それに向かって実際に動き、その時点ながらの結果を出していた。

つまり、

目標があり、

口だけでなく、実際に行動し、それなりの結果を出していたということだ。


もし、行動しているところまで止まりなら、

その人の将来性がわからなくて、

実際にこちらも手を貸して応援するということはなく、

口だけでがんばれといっていたのではないだろうか。


しかし手を出して応援していたけれど、

その勢いは失速してしまい、

ぐずぐず悩んだり、ぐずぐず行動せずにいるのを観じると、

途端に、無償で応援の手を貸すのがイヤになった。

私もこれはプロとしてやっていることだし、

それに対してあまり役立ってると感じられないのも、

感謝の言葉がないのもイヤと観じた。

将来有望に見えなくなってきたとき、

これからは料金を払ってほしいと申し出ることにした。

気持ちとしては、もうつき合いきれないという感じだ。


ここでふと、これを書いていて、真理を見た。

「それに対してあまり役立ってると感じられない」

株主を思い出した。

出資しているのに、それがあまり役立てられていないと感じるのは、

利益の跳ね返りうんぬんより前の、

無意味なところに、自分の労力を注ぎこんでいるような虚しい気分と同じだ。

それがお金か、はたまた他の力だとしても、

一緒のことだ。


やはり、どんな人柄がよい人でも、

ある程度、結果を出していかなければ、

心理的なところの奥底では、がんばれという気持ちはまだあっても、

実際に行動するまでのところまでにはいかなくなるということ。


例えば、Facebookでコメント1つ付けるのも、いいね!をするのも、

同じくらいの結果をコンスタントに出し続けるよりも、

少しは進展がないと、

その小さな労力も働かせる気が失せてくるという原理だ。



卒業してから、

毎日、ファインアートをつくってアップするということをしている人がいる。

最初は卒業生である大先輩の有名アーティスからもコメントを頂いていたのに、

つづけていくうちにコメントもいいね!も減って、

今は2、3件いいね!やコメントが付くくらいにいたっている。

それも毎回同じ人だ。ファンか好意を抱いているのだろう。

そのことを思い出したのだ。


なれん、もう1人のイラストレーターのことを思い出した。

次の記事で書こう。