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箱―人とうまくやる、応援される、には

2013-04-29 18:30:45 | 無題
『箱から出る方法』の本を読んだ。


私のすべてがいけないことだったように思えた。


箱から出れたようだった。


次に、

相手のためになにしたくなったら、

それに従うというのを思い出し、

ではと思ったが、

わからなくなった。


私が相手が喜ぶと思ってしようとすることは、

果たして相手が喜ぶことなのか、

検討がつかないと。


そこで思い出した。


母ーの場合は、

以前よいと言っていたことも、

次はよくないことに逆転していたりするのだ。

箱の本でいうところの、

自分を正当化するために、

周りのものにたいする評価や味方が、

コロコロ変わっているようだった。

本の解説により、

母のそのコロコロと変わる現象に納得がいったのだが、

されど果たして母の真の欲求がわからずにいる。


わからなくもない。

自分の中で矛盾が生じていると観じたことが、

私にもある。

それが表に出たときに、

他人からは一体なにがしたいんだろう?なにを求めているんだろう?

と見えるだろう。


されど、そんなことが解ったからといって、

なにか解決するわけではない。

母とやりとりするのは、

やはり非常に難しいと改めてわかった。

母は箱の中に箱をつくりさらに箱に入りー

その箱は複雑にからみあっているようだった。


母のことは置いておいて、

友達でありクライアントである人―のことについて考えた。


悪いことをしたな。

そう思った。

以前からそう思っていて、

先日メールをした。

直接その話題にはふれず、

お茶にでもという趣旨のメール内容を送った。

このとき私は、

直接的にこの前の件どうですか?と話を振ればよかったと、

やりとりが終わって思った。

お茶いいねといいながら、

今忙しいからこちらから連絡するという返事だった。

もう連絡してきてほしくないほしくないというのが、

以前も薄々感じていたが、

1ヶ月も絶ってから返信のような内容のメールが来たので、

私も時間を置いてから、

気にしないでほしいと気軽な内容にしたつもりだった。


本当のところがつかみかねている。

もう関係を絶ってしまいたいのか、

関係を絶ってしまいたいわずらわしい関係なら、

私も無理につくそうとは思わない。


ここで

ふと、「友達がお客さん」のことを考える。


母も昔、友達から商品をかわされたと文句を言っていた。

しかし最初の頃は、そんな風ではなかったと思う。

それにその商品自体も他の類似品よりいいものだった。

けれど母はいつしか買わされたと憤慨するようになっていった。

友達と疎遠になってからだろうか。


次に、

以前の職場で知り合ったすごい数の人脈のある人を思い出す。

若いのに、何千人もFacebookで友達がいて、

それは見かけだけではなく、

その人がすることをみんな応援してくれるような人だった。

その人の人柄もよく、

一生懸命でいて何回かに一回はそこそこな結果を出すので、

将来を有望視する周りの気持ちが私もよくわかる。

もしその人が事業を立ち上げたら、

私にそのときお金があれば、

いくらかでも出資してもいいかもと思えるほどだ。

私はその人とそんなに話したことはない。

なれど、2、3交わした言葉の中や、

話し掛けてくるときは、

いつも尊敬の念と、頼りにしてのことからだったから、

私は嫌な気分ではなく、むしろ、

その人に対していい気分を抱いているのだろう。

その人は私に対して他の何千人の中で大した思い入れがなくとも、

私はこうして影ながら応援したいという気持ち、

―さらには出資、お金を出してもいいという程の応援の気持ちになるのは、

この違いはなんだろうか?


私が出資ではなく実際に手を動かすことで、

普通は料金をもらうことをもらわないで応援したことがあった。

その事例を考えると、何か解けるかもしれない。


その人は年下ながら、

目標を見据えていて、

それに向かって実際に動き、その時点ながらの結果を出していた。

つまり、

目標があり、

口だけでなく、実際に行動し、それなりの結果を出していたということだ。


もし、行動しているところまで止まりなら、

その人の将来性がわからなくて、

実際にこちらも手を貸して応援するということはなく、

口だけでがんばれといっていたのではないだろうか。


しかし手を出して応援していたけれど、

その勢いは失速してしまい、

ぐずぐず悩んだり、ぐずぐず行動せずにいるのを観じると、

途端に、無償で応援の手を貸すのがイヤになった。

私もこれはプロとしてやっていることだし、

それに対してあまり役立ってると感じられないのも、

感謝の言葉がないのもイヤと観じた。

将来有望に見えなくなってきたとき、

これからは料金を払ってほしいと申し出ることにした。

気持ちとしては、もうつき合いきれないという感じだ。


ここでふと、これを書いていて、真理を見た。

「それに対してあまり役立ってると感じられない」

株主を思い出した。

出資しているのに、それがあまり役立てられていないと感じるのは、

利益の跳ね返りうんぬんより前の、

無意味なところに、自分の労力を注ぎこんでいるような虚しい気分と同じだ。

それがお金か、はたまた他の力だとしても、

一緒のことだ。


やはり、どんな人柄がよい人でも、

ある程度、結果を出していかなければ、

心理的なところの奥底では、がんばれという気持ちはまだあっても、

実際に行動するまでのところまでにはいかなくなるということ。


例えば、Facebookでコメント1つ付けるのも、いいね!をするのも、

同じくらいの結果をコンスタントに出し続けるよりも、

少しは進展がないと、

その小さな労力も働かせる気が失せてくるという原理だ。



卒業してから、

毎日、ファインアートをつくってアップするということをしている人がいる。

最初は卒業生である大先輩の有名アーティスからもコメントを頂いていたのに、

つづけていくうちにコメントもいいね!も減って、

今は2、3件いいね!やコメントが付くくらいにいたっている。

それも毎回同じ人だ。ファンか好意を抱いているのだろう。

そのことを思い出したのだ。


なれん、もう1人のイラストレーターのことを思い出した。

次の記事で書こう。





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