goo blog サービス終了のお知らせ 

喜多圭介のブログ

著作権を保持していますので、記載内容の全文を他に転用しないでください。

尾崎放哉(2)

2007-02-02 15:36:26 | 俳句・短歌と現代詩
放哉と並び称される自由律、放浪俳人山頭火の句と比べると放哉の句には「一人」という表現が異常に多いのです。このことは山頭火以外の俳人に比較しても割合は多いのではないかと推察します。代表句の一つは、

せきをしても一人

です。この句については、川端康成の最後の作品『隅田川』に、つぎのような場面がでてきます。東京駅の通路で不意に、街頭録音のためのマイクをつきつけられるところです。

「季節の感じを、ひとことふたことで言って下さい。」
「若い子と心中したいです。」
「心中? 女と死ぬことですね。老人の秋のさびしさですか。」
「咳をしても一人。」
「なんと言ひました。」
「俳句史上最も短い句ださうです。」

この場面を書いたときの川端の心境はよくわかります。「若い子と心中したいです。」という「若い子」にはひっかかりますが、川端の晩年の作品だけでなく初期の作品『伊豆の踊子』から考えても、川端には少女嗜好がありました。しかしながらあの鋭い禽獣の眼光ではいくらノーベル賞受賞の文豪とはいっても、少女どころかおとなの女性も彼には近付きがたかったでしょう。

子供の頃から肉親の愛の薄かった川端の孤独は、彼の容貌によってますます悲劇性を増し、不可解な自殺で孤高な人生の幕を下ろすことになりました。最晩年に川端は放哉の孤独、「一人」について思案していたことがわかります。

放哉が「一人」を表現した句を、調べた範囲で掲載しておきます。

須磨寺時代

雨の日は御灯(みあかし)ともし一人居る
高浪打ちかへす砂浜に一人を投げ出す
一人のたもとがマツチを持つて居た
一人つめたくいつ迄籔蚊出る事か
こんなよい月を一人で見て寝る
曇り日の落葉掃ききれぬ一人である
こんなよい月の夜のひとり
たつた一人になり切つて夕空
淋しいぞ一人五本のゆぴを開いて見る

小浜・小豆島時代

一人分の米白々と洗ひあげたる
臍(へそ)に湯をかけて一人夜中の温泉である
大根ぶらさげて橋を渡り切る一人
きせるがつまつてしまつたよい天気の一人である
縁に腰かけて番茶呑む一人眺めらる
土瓶がことこと音さして一人よ
寝ころぶ一人には高い天井がある
夜がらすに蹄かれても一人
人の親切に泣かされ今夜から一人で寝る
どうせ一人の夕べ出て行くかんなくづの帽子
御佛の灯を消して一人蚊帳にはいる
さゝつたとげを一人でぬかねばならぬ
山かげの赤土堀つて居る一人
一番遠くへ帰る自分が一人になつてしまつた
蚊帳のなか一人を入れ暮れ切る
昼も出て来てさす蚊よ一人者だ
一人の山路下りて来る庵の大松はなれず
たつた一人で活動館から出て来た
芋畑朝の人一人立てり
ふなうた遠く茲にも閣いて居る一人
青空焚きあぐる焚火大きくて一人
ぺたんと尻もちついて一人で起きあがる
海を見に山に登る一人にして
昼月風少しある一人なりけり
島の人等に交り自分一人帽子かぶつて居つた
夫婦で見送られて一人であつたは
一人呑む夜のお茶あつし
一人の道が暮れて来た
又一人雪の客が来た
一人住みてあけにくい戸ではある
海風に筒抜けられて居るいつも一人
月夜風ある一人咳して
咳をしても一人
墓地からもどつて来ても一人
一人でそば刈つてしまつた
一人豆を煮る夜のとろとろ火


数ある「一人」句の中で私の好きな句を以下に選んでみました。

たつた一人になり切つて夕空
淋しいぞ一人五本のゆぴを開いて見る
臍(へそ)に湯をかけて一人夜中の温泉である
土瓶がことこと音さして一人よ
一人の道が暮れて来た
海風に筒抜けられて居るいつも一人
月夜風ある一人咳して
咳をしても一人
墓地からもどつて来ても一人


ほかにも以下のような「一人」の句はありますが、これらは放哉「一人」という意味ではありませんので、考察の脇に置いておきます。

なぜか一人居る小供見て涙ぐまるる
人一人焼いた煙突がぼかんとしてる夕空


それにしても凄まじい数の「一人」句ではありませんか。このことは放哉の何を表しているか、ここを考察するのが、ここでの当面のテーマです。

放哉は中学時代、鳥取県第一中学校の第三学年頃から短歌や俳句をつくるようになりました(明治30ー35)。一高時代(明治35ー38)、大学時代(明治38ー42)、以後数多くの作句がありますが、「一人」という表現が表れるのは、須磨寺の寺男をやっていた頃からです。

尾崎放哉(1)で放哉の略歴を書きましたように大正十二年(1923)三九歳の十一月に妻と別居、京都市内左京区鹿ヶ谷の西田天香が主催する修養団体、一燈園に入り、以後「一人」暮らしを始めます。大正十三年に一時期須磨寺の寺男になりますがすぐに辞めています。

「一人」と表現していても一句、一句詳細に吟味すれば「一人」の意味は、たんに自分一人という人数を表したものではないということに気付くはずです。

とくに代表句の、

せきをしても一人

の「一人」は実に象徴的な表現で、この「一人」には放哉そのものが不在という大変な意味合いがあります。よくぞここまで極めたものだと感嘆し、息を呑んでしまいます。

ここでふと思い出すのが、浄土真宗開祖、親鸞聖人の、

親鸞は弟子一人(いちにん)ももたずさふらふ。

です。本願寺教団は浄土真宗中興の祖蓮如の時代から今日まで我が国一大勢力の念仏集団でありますが、開祖親鸞は「弟子一人(いちにん)ももたず」であった。弟子を持たないということは親鸞「一人」であったということです。

親鸞「一人」でなければならなかったのです。このことが親鸞にとって弥陀の本願への必要条件であったのです。このことを補強しているのは、これも『歎異抄』中の有名な文章、以下です。

たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。善導の御釈まことならば、法然のおおせそらごとならんや。法然のおおせまことならば、親鸞がもうすむね、またもって、むなしかるべからずそうろうか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。

私は高校生の頃に間違った解釈をしながらも「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。」と、陶酔したように口ずさんだものです。つまり『歎異抄』の毒気に当てられたのです。

さて親鸞の「一人」とは何を象徴しているのでしょうか。私の解釈は親鸞→法然→善導→釈尊→弥陀、すなわち親鸞=弥陀という強い自覚の「一人」です。人数の一人ではないのです。同じ事が、

せきをしても一人

にもあります。この句の「一人」は放哉であって放哉でない、放哉=弥陀の境地に辿り着いていたのではないかと思われます。この境地に至って放哉は救済され、弥陀の本願に至っていたのです。

放哉は、大正十四(一九二五))年十二月二日、南郷庵からの島丁哉宛の手紙で、「俳句は宗教である。」と以下のように書いています。

放哉ハ俳句ハ詩ト同時二宗教也ト中シテ居リマス 於茲、非常二苦心スルノデアリマス、何故と申スニ、自分ノ人格ノ向上二連レテ私ノ句ガ進歩スルヨリ外二ハ私ニハ途がナイノデアリマスカラ自己ノ修養ニツトメナケレバナリマセン ソコデ句作リガ私ニハ、大問題トナッテ居ルノデアリマス。

また飯尾星城子宛の大正十四年九月十四日の手紙には、

俳句は詩であり、宗教である筈であります。私の句は、ですから、「こんな事をしたり、考へたりして居るのは果たして自分だらうか? 平生の自分はコンナ事をやつたり、考へたりすることはナイ筈なのだが、而し事実やつてる、シテ見ると矢ッ張り自分は自分なのかな? ナンダカ分からなくなって来たゾ、自分なのか、自分でないのか、どうだらう? 其呆然として、自己が「空」になつてゐる端的の表現と思つて下さればよいのです。

この心境は仏教でいう「梵我一如」の世界。『歎異抄』の「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐる」であり、「弥陀の本願」であります。この弥陀の本願が放哉の身上に成立していたのです。

尾崎放哉(1)

2007-02-02 15:28:25 | 俳句・短歌と現代詩
昨今は傷つき、神経症気味の女子、女性が中学生辺りから多いですね。自ら招いた、あるいは無神経な、または狂暴な男によってと原因は様々でしょうが。

私はこうしたことの男性例を文学的考察として以前から調べたりしていますが、典型的なのは尾崎放哉(ほうさい)。

放哉の概略経歴は中学時代より句作。1902年(明治35)第一高等学校入学。荻原(おぎわら)井泉水(せいせんすい)のおこした一高俳句会に入る。東京帝国大学法科に入学後、芳哉の号で高浜虚子(きよし)選の『国民新聞』俳句欄や『ホトトギス』に投句。07年ごろ放哉の号となり、09年大学卒業。東洋生命保険会社入社。朝鮮火災海上保険会社支配人になったが、酒癖のため退職。妻と別れ京都の一燈園に入り、のち諸方の寺の寺男となった。終の栖(すみか)となった小豆島の西光寺奥の院の南郷庵に入り独居、しばらくして看取られることもなく息を引き取る。

放哉晩年の絶唱を二句。

淋しいぞ五本のゆびを開いて見る

せきをしても一人

私は南郷庵の墓前に二度立っているのですが、立つたびに言葉を失い暗然とした気分に陥ります。なぜ放哉がこのような生涯を送らなければならなかったのか、いまだに釈然としません。

寅さんでおなじみの渥美清さんは、寅さんシリーズを撮り終えたら放哉を演じてみたかったようです。山田洋次監督と墓前に詣っています。渥美清さんのライフスタイルからなんとなくわかる気がします。

南郷庵の暮らしは乞食同然、堕ちるところまで堕ちた、その凄さに言葉を呑むばかり。

南郷庵には井泉水の尽力によって住めるようになったのです。井泉水へあてた手紙の一部に、

ハカラズモ当地デ、妙ナ因縁カラ、ヂツトシテ、安定シテ死ナレサウナ処ヲ得、大イニ喜ンダ次第デアリマス。「之デモウ外二動カナイデモ死ナレル」私ノ句ノ中ニモアリマスガ(昨日、東京二百句送リマシタ中)、只今私ノ考ノ中二残ツテ居ルモノハ只、「死」……之丈デアリマス。積極的ニ死ヲ求メルカ、消極的ニ、ヂツトシテ安定シテ居テ死ノ到来ヲマツテ居ルカ……外ニハナンニモ無イ……ソシテ、唯一ノ残ツテ居ル希望ノ「死」ヲ、最モ早ク、ソシテ、安住シテ、自然ニ、受入レル事ガ出来ル……ソシテ、只、ソレ迄句作ヲ生命トシマセウ、(ソレ迄トハ勿論、死ヌ迄デスヨ)……ソシテ、悠然トシテタツタ一ツ残ツテル、タノシミノ「死」ヲ自然的二受入レタイト思フノデアリマス……ドウカ、成功スル様ニイノッテ下サイ。

とあります。この心境は若い頃に二度自殺未遂している私にもわからなくはありませんが、彼がどうしてこういう心境を採りうるひとになったのか、その根本が掴めません。放哉研究家にも掴めていないようです。

探りを入れるにも手掛かりとなる資料が少なすぎるからです。幼少年期をどのような思いで過ごしたか、家族関係は、となると彼自身の手で書いたものがありません。故郷は鳥取県ですが、彼の故郷嫌悪感は相当なもの。故郷を嫌う、それはそのまま両親否定です。ここに彼の壮絶な生き方の起因がある筈ですが、判然としません。

放哉と言えば山頭火と、漂泊、流浪の俳人が思い浮かびますが、山頭火十一歳のときに母は井戸に投身自殺、父は放蕩三昧で妾宅通いと、不幸な子供時代があります。こういう過去を持つと魂はデラシネ(根無し草)、放浪する、故郷喪失だから。この場合の故郷とは母性であります。女性だと愛を求めて迷える子羊ちゃんになるでしょう。女性の場合は父性でしょう。生涯、山頭火の念頭から母親が去ることはなかったでしょう。

うどん供へて、母よ、わたくしもいただきまする

放哉にはこれがない。一つ思いつくことは両親が案外クールな教育パパ、ママでなかったかと。そして放哉はこれに応えられるだけの真面目な秀才。このことが仇となり堕ちるところまで堕ちれたのかと想像します。

放哉、中学時代(明治30ー35)の句を少し掲載します。

きれ凧の糸かかりけり梅の枝
月代(つきしろ)や廊下に若葉の影を印す
水打つて静かな家や夏やなぎ
よき人の机によりて昼ねかな
古井戸や露に伏したる萩枯梗(はぎききよう)
湯所(ゆどころ)は白足袋穿いて按摩かな
寒菊や鶏(にわとり)を呼ぶ畑のすみ
行春(ゆくはる)や母が遣愛の筑紫琴(ちくしごと)
夕立のすぎて若葉の戦(そよ)ぎ哉
新らしき電信村も菜種道


を見ても非凡な句とも思えませんが、学友とこういう俳句を競い合う環境は、当時の一般の貧しい暮らしを想像すると、恵まれた階層の中に放哉はいたことになります。こういう恵まれた環境で育った坊ちゃん、嬢ちゃんが後年堕ちるところまで堕ちていく経過が少しは推量できます。

幼少年少女にに恵まれ、さらにその延長線上の人生を歩いてしまうと、放哉の場合は朝鮮火災海上保険会社支配人の地位までですが、おそらく結婚した女性も良家の娘だったのでしょう、こういう風に進んでしまうと、彼は一般の庶民レベルが羨望するような暮らしを、すでにしてしまったことになります。そしてこうした暮らしそのものが放哉という秀才には何の人生上の価値も産まなかった。ここから彼の苦悩が始まり、妻との諍(いさか)いも想像できます。どんどん酒に溺れ、「あーおれはこんな暮らしは捨てる」と家庭を飛び出し、一燈園に住み込む。しかし一燈園も彼が思っていた以上に人間関係は煩わしく、転々と諸方の寺に。寺を移転するたびにますます彼は作句以外の何物にも関心がなくなり、気力も衰えてきます。一般人としての生活もできなくなってきます。そして縋るようにして辿り着いたのが、小豆島の西光寺奥の院の南郷庵。

庵の様子については放哉自らが随筆「島に来るまで」で述べていますので、それを引用しておきます。

庵は六畳の間にお大師さんをまつりまして、次の八畳が、居間なり、応接間なり、食堂であり、寝室があるのでず。其次に、二畳の畳と一畳ばかしの板の間、之が台所で、其れにくつ付いて小さい土間に竈(かまど)があるわけでありまず。唯これだけでありますが、一人の生活としては勿体ないと重ふ程であります。庵は、西南に向つて開いて居りまず。庭先に、二タ抱へもあらうかと思はれる程の大松が一本、之が常に庵を保護してゐるかのやうに、日夜松籟潮昔を絶やさぬのであります。

東南はみな塞つて居りまして、たつた一つ、半間四方の小さい窓が、八畳の部屋に開いて居るのであります。此の窓から眺めますと、土地がだんだん低みになつて行きまして、其の間に三四の村の人家がたつて居りますが、大体に於て塩浜と、野菜畑とであります。其間に一条の路があり、其道を一丁ばかり行くと小高い堤になり、それから先が海になつて居りますので、茲は瀬戸内海であり、殊にズッと入り海になつて居りますので、海は丁度渠(みぞ)の如く横さまに狭く見られる丈でありますけれども、私はそれで充分であります。此の小さい窓から一日、海の風が吹き通しに入って参ります。それ丈に冬は寒いといふ事であります。

大松の北よりに一基の石碑が建つて居ります。之には、奉供養大師堂之塔と彫んでありまして、其横には発願主圓心禅門と記してあります。此の大松と、此の碑とは、朝夕八畳に座って居る私の眼から離れた事がありません。この発願主圓心禅門といふ文字を見る度に私は感慨無量ならざるを得ん次第であります。私より以前、果たして幾人、幾十人の人々が、此の庵で、安心して雨露を凌ぎ且つはゆっくりと寝させてもらった事であろう。それは一に此の圓心禅門といふ人の発願による結果でなくてなんであろう。圓心禅門といふ人は果たしてどんな人であったであらうかと、それからそれと思ひにひ耽るわけであります。

やっと安住の地に疲労困憊の身体を休めることができたのですが、読んでわかるように庵の構えは分限者の海浜の別荘といった雰囲気で、放哉、望外の終焉の住処です。もし私であってもあとパソコン設備がセットしてあり、クーラーと冷蔵庫と洗濯機と電子レンジがあれば、一人暮らしができそうです。

省みて子供の頃から貧乏で育つと、自分の眼前には羨望の的ばかり。あのような仕事をしてみたい、偉くなりたいとも思い、あのような家を建て、楽しい暮らしをしてみたいとも思う。捨てるものよりも得たいもののほうが多い、こういう気持ちだと放哉のように何もかも捨ててまっしぐらに堕ちていくというふうにはなりにくいのです。逆にやれるだけのことはやってみなければという向上心に結び付きます。この辺の心構えが坊ちゃん、嬢ちゃん育ちとは異なるのではないかと想像します。

貧乏人ほど見栄を張りたがりますが、元々の金持ちは見栄を張らないとも言われます。金持ちは物を大切にし金を使わないが、貧乏人ほど物を粗末にし粗末な物を次から次ぎと買ってしまう。貧乏性ほど物を捨てにくいが、金持ちは平気で人に物をやる、案外これらに近い心理が、放哉に無自覚に働いていたのかもしれません。

大正十四年八月一日、京都瀧岸寺より井泉水に差し出した葉書には、

淋シイ処デモヨイカラ、番人ガシタイ。
近所ノ子供二読書ヤ英語デモ教ヘテ、タバコ代位モラヒタイ。
小サイ庵デヨイ。
ソレカラ、スグ、ソバニ海ガアルト尤ヨイ

とあります。

放哉がなぜかような暮らしに惹かれたのかは後日の考察としまして、最後に枕頭の紙切れに書かれていました最後の句を載せておきます。

春の山のうしろか烟が出だした

金子みすゞ(3)

2007-01-31 11:16:19 | 俳句・短歌と現代詩
米国のベトナム戦争以後、帰還兵のなかに精神の異常の見られる人が多くなり、このことが拍車をかけたのだろう、日本でも精神医学の急速な進歩を促す結果となった。

精神医療が一般にも普及、と同時に今日の日本の社会構造のなかで精神の悩める人々が急増、青少年のなかにはリストカットという神経障害が深刻である。

それだけにもしかしたら自分は神経症に陥っているのではないかと、気軽に神経科の専門医、あるいは「○○クリニック」といった病院での診断を受けられる風潮にもなってきた。

ときは大正時代、精神医学、精神医療の分野は、いまほど発達も普及もしていなかった。一般の人にとってはこういった方面の情報すら入手できない時代である。したがって自分が神経症を負っていることなどは本人も肉親も気付かなかった。もっともあまりにもひどいときは世間体をはばかって、家の中に座敷牢を造作、隔離していた家もあったようだが。子供の頃であったが、白壁の土蔵に閉じ込められ、登校することもなくそこで生活していた、年長の子供のいたことを私は記憶している。

このような時代に育った金子みすゞの精神はどのようなものであったか。彼女は二十六歳で自殺していることを記憶しておきたい。

みすゞの生まれたときの家族構成は父、母、祖母、兄の五人家族だが、のちに弟が生まれている。父は彼女の三歳の時に死去、弟はその一年後に下関の上山家に養子に出され、母は彼女の十六歳の時に兄とみすゞを残したまま再婚。二十歳まで彼女は仙崎で祖母、兄との三人暮らしであったが、二十歳の時に母の嫁いだ上山家に移り住み、義父、実母、弟と暮らすようになる。

概略、こうした環境の中でみすゞは生育し青春時代を過ごしている。私は矢崎節夫氏の著書を読んでいないのでなんとも明確なことは言えないが、みすゞが死に至るまでには謎が隠蔽されているのではないかと想像している。

高遠氏の著書の中での指摘であるが、みすゞが直接的に母をテーマにした詩は少ないそうである。また亡き父、祖母、兄の少年時代は愛情を込めて詠んでいるが、母と弟のことは屈折した思いを込めて詠っているそうである。

読者はこうした事実を踏まえてみすゞの詩に触れていったほうが、みすゞの詩の真実に迫れるのではないか。

私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面(じべた)を速くは走れない。
私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように
たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。

この詩について高遠氏は以下のように述べておられる。

『この詩はみすゞが娘を出産した約一年後に作られたものと思われる。比喩は詩の生命なので、この詩にも比喩が使われていると考えれば、小鳥は夫、鈴は娘の比喩だと容易に読み取れる。その頃のみすゞの生活状況は悲惨だった。夫は義父と絶縁された為、実家の熊本へ一時みすゞと共に身を寄せたが、そこでも受け容れられなかった為にまた下関へ舞い戻り、食料玩具店を始めるのだが、その頃夫は遊郭に入りびたり、その為に彼女も発病する。みすゞは生活費もままならず、実家にも頼れず、乳呑み子をかかえた彼女が家に寄りつかない夫に対し、家族愛を懐疑的に詠んだのがこの詩である。』――引用『詩論 金子みすゞ』

なぜ高遠氏がこの詩を採り上げたかといえば、この詩が教科書に掲載されているからである。この詩が教科書掲載に適切な詩であるかに疑念を持たれ、教育関係者に再考を促しておられる。

私は高遠氏の指摘はもっともな見解ではないかと思う。私は「みんなちがって、みんないい。」は、その前のどことなくネガティブな色合いの比喩と付き合わせてみると、なかなか曲者の表現だな、と感じている。一見、各自の個性尊重を表現しているように見えるのだが、はたしてそうなのか、という疑念が残る

明治・大正・昭和の日本史を通読して、みすゞがこの詩を詠った頃の社会に、一般人の「個性尊重」の思想と言葉は標榜(ひょうぼう)されていたのか、社会風潮になっていたかである。ノウである。確かに大正十一年には「元始、女性は太陽であった」で著名な平塚らいちょうらによる女性自身の解放運動が、大正デモクラシーの風潮のなかであったが、この運動自体は女性差別の解放、女性の社会進出への自覚が目的のものであり、「個性尊重」の思想にまでは行き着かなかったのではないか。まして下関に住んでいたみすゞの脳裏に、女性解放や「個性尊重」の思想が自覚されていたかどうかははなはだ疑問である。もし女性解放だけでも自覚されていたのなら、なぜ彼女は自分の詩の才能を見出してくれた西條八十を頼って上京しなかったのか。上京の衝動に駆られておかしくない年頃であった。この辺の事情について矢崎氏の著書は触れておられるのだろうか。

私は(1)と(2)でみすゞのそれぞれの詩の最後の二行辺りの表現をそのまま素直に受け取っては、みすゞの真実には迫れないのではないか、大きな過誤を残すことになるのではないかをさりげなく指摘したのだが、この詩においても「みんなちがって、みんないい。」を個性尊重の表現とは思えないのである。やけのやんぱちに投げ出したニュアンスを視る。高遠氏が言及しているように「家族愛を懐疑的に詠んだ」のかもしれない。あるいは私がみすゞの詩を幾篇か読んで実感する、投げ遣り偽装表現かもしれない。ただその投げ出し方が実に巧い。だから真実を惑わされやすい。この辺に天性の詩人感覚がある。

このような疑義の残る詩を教科書に掲載し、教師は子供に何をどう教えるのか。みすゞの詩の真髄に迫っている教師は、教えることに戸惑うであろうし、逆に生半可な知識しか持たない教師は、子供に間違ったことを教え込んでしまう危険性がありはしないか。

私は一概にこのようなみすゞの詩を教科書に掲載すべきではないと言及しているのではない。高校生の教科書であれば、こうした詩を教材に教師と生徒でデスカッションでもすれば教育効果は深まると思うが、小学生の教科書に採択されていることが適当なのかどうかである。

と、このようなことを書いてみたが、私はこの詩にも無意識ではあっても偽装癖のついた金子みすゞの哀しみの心境を視てしまう。

私は心的障害を背負った女性を幾人か知っているが、共通していることは案外強がりに生きようとしていることである。ときには他者を攻撃する言辞を弄(ろう)する。攻撃こそ傷心への防御である。その強がりに私は彼女たちの哀しみを視る

みすゞの詩篇に他者を攻撃するような詩はみられないと思うが、彼女の詩篇にはこれに代わるニヒリズム、自己放擲、投げ遣り偽装表現が底流していたのではないか。

◆金子みすゞの詩
詩集の館

金子みすゞ(2)

2007-01-31 11:05:35 | 俳句・短歌と現代詩
矢崎節夫氏の金子みすゞ発掘に係わる経緯を書いた著書を読んでいないので、根拠のあることはいえないが、発掘の発端になったのが以下の詩であったことを何かで読んだことがある。それでここに採り上げてみた。

大漁
朝やけ小やけだ
大漁だ
大ばいわしの
大漁だ。
はまは祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
いわしのとむらい
するだろう。

詩の読み取りは様々な解釈がなされる。様々な解釈を誘う詩ほど膨らみがあってよいともいえる。矢崎氏は「大漁」の何処に瞠目されてみすゞ発掘の発端に繋がったのかわからないが、おそらくは「いわしのとむらい/するだろう。」でひっくり返ったのではないだろうか。

金子みすゞは大正時代の詩人である。海の魚介類が大量死する環境汚染という言葉には無縁の時代である。このような時代に「いわしのとむらい/するだろう。」といった視点を持ち得た若き女性詩人がいたことに衝撃を受けるのは当然であろう。

時節柄タイミングのいい詩を発見したことになる。

しかしこの詩が環境汚染に係わる詩でないことは大方の知るところであろう。人にとって大漁であれば、魚群仲間にとっては大層な弔いになることに、みすゞは思い至ったのであり、当然な表現といえばいえるが、大正時代にこのような視点を獲得していた詩人は稀有であっただろう。

が、私はこのことを言及したいために「大漁」を持ち出したのではない。(1)に掲載した以下の詩と比較してどうだろうか。

「帆」
港に着いた舟の帆は、
みんな古びて黒いのに、
はるかの沖をゆく舟は、
光りかがやく白い帆ばかり。

はるかの沖の、あの舟は、
いつも、港へつかないで、
海とお空のさかいめばかり、
はるかに遠く行くんだよ。
かがやきながら、行くんだよ。

どうも「いわしのとむらい/するだろう。」と「海とお空のさかいめばかり、/はるかに遠く行くんだよ。」は、みすゞの胸中の波長は同類のものではないか。つまり「いわしのとむらい/するだろう。」の表現を想起したときのみすゞの心情は、魚の大量死に悲しみの目を向けているのではなく、'''自己の胸中に潜んでいる「死への思い」が、このような形で浮上したのではないか'''。

「いわしのとむらい/するだろう。」とぽんと言葉を投げ出せる詩精神は、通常の詩人にはみられないことではないか。常日頃から胸中に「死」を育てていたみすゞのニヒリズムを前提に推察しないと、このキレの良さは納得できない

みすゞの詩がすべてニヒリズム、ネガティブな作品であるわけはないだろうが、以下の作品はどうだろうか。彼女は最後の節で自己否定している。死を育てる人間の言葉は、常日頃から自己否定の影を帯びやすい。

お花だったら
もしもわたしがお花なら、
とてもいい子になれるだろ。
ものが言えなきゃ、あるけなきゃ、
なんでおいたをするものか。
だけど、だれかがやって来て、
いやな花だといったなら、
すぐにおこってしぼむだろ。
もしもお花になったって、
やっぱしいい子にゃなれまいな、
お花のようにはなれまいな。

しかしながらそれがためにみすゞはしょげしょげしたタイプの女性かというとそうではなく、繊細でもあり理知でもあり、なによりも気丈夫なタイプではなかったか。一九三十年三月十日の夜、カロチンを服毒して自殺する寸前まで、きりぎりの思いで気丈に生涯を生ききったのであろう。夫により詩作を禁じられ、その上に愛娘を奪われては、彼女に何が残ったのであろうか。絶望以外の何もなかった。この世の中は生と死しか選択肢はない。

生を絶たれれば死を選ぶ、潔い処世の精神を保持していたがゆえにニヒリズムが顔を覗かすが、それはひねくれたニヒリズムではなく、一種の悟りのように思える。釈迦の思想も健康なニヒリズム(無常観)である。

金子みすゞ(1)

2007-01-31 10:47:38 | 俳句・短歌と現代詩
矢崎節夫氏によって発掘され、5、6年前にはブームとなった金子みすゞの詩群のなかで、私の気に入っている一篇が以下であります。

「帆」
港に着いた舟の帆は、
みんな古びて黒いのに、
はるかの沖をゆく舟は、
光りかがやく白い帆ばかり。

はるかの沖の、あの舟は、
いつも、港へつかないで、
海とお空のさかいめばかり、
はるかに遠く行くんだよ。
かがやきながら、行くんだよ。

この詩は小説創作の基本を説明するのに実に具合のいい詩である。もちろん詩には韻律とか内在律といったリズム感が不可欠なので、小説と同列ではないことは承知のことであるが。

一節の「港に着いた~白い帆ばかり。」は、みすゞが目視して実感したことの描写である。二節に入ってみすゞは描写を屈折させて自らの主観をさりげなく投げ出している。この詩の中には小難しい解説も説明もない。

これが詩や小説を創作するときの基本態度である。

「港に着いた舟の帆は、/みんな古びて黒いのに、」にはみすゞの不幸な境遇が反映されている。その気持ちを「はるかの沖をゆく舟は、/光りかがやく白い帆ばかり。」と切り替えるのが、みすゞのさまざまな詩の特徴である。視点の転換によりこの詩を読む読者に想像の余白を残す。みすゞの詩作の巧みさであり、みすゞファンにとっての魅力であろう。

この巧みさがみすゞの天性の資質からのものであるかどうか、ここを検証していくのがみすゞ研究者にとっての魅力であろうが、私はみすゞ研究者でないのでそこまでは探求しない。

小説創作もこのようなものでないかと思うのが、日頃小説創作に腐心している私の持論である。描写でもない説明文かメモ書き程度のことをだらだらと書いて、それを小説創作と誤解している諸氏、小説風体裁の中で人生論めいたことを得々と展開している諸氏、このみすゞの一篇を味読し、詩とは、小説とは本来このようなものであることを認識してもらいたいと思う。

この詩は一節だけでは詩にならない。二節があって詩として存在する。このことは小説でも同様で、文章による現実描写だけでは写真芸術やビデオ映像に勝てないし、それだけでは小説として成立しない。やはり小説にも二節が不可欠となる。

二節の「海とお空のさかいめばかり、」と「はるかに遠く行くんだよ。」。ここはみすゞの曲者精神が象徴されている箇所で、単純な読み取りはできない。みすゞの深層心理の深遠な部分が、このような形でふっと浮遊したと読みとっている。「はるかに遠く行くんだよ。」と書いてあれば、不遇のみすゞがそれでもなお明るい未来に夢をかけて生きているように思えそうだが、「海とお空のさかいめばかり、」という一見投げ遣りな、それでいて写実的表現と繋いでみると、はたしてこの詩が明るい方向に向かっているかどうかはあやしいものである。

この短詩から私はいろいろなことを思索し、想像する。小説とてプロの佳作、秀作ともなれば何気なく書いてあるように見えても、そこに作者の深い計らいが隠されている。それを読みとれるかどうかは読者の鑑賞眼による。人生とは、愛とはこれこれである、とわかりやすく力説したものは、小説といえないものが多い。

小説も一節の描写は修練していれば修得していけるものだが、二節が難しい。ここに作家の過去から現在までのすべての経験、体験、これらからもたらされた心境が総動員されるからである。そして総動員をかけられない人は、いくら創作していても佳品一つ創作できないかもしれない。

みすゞの場合は、それを表現しうる詩人であったということである。

付け加えると、この詩は暗い境遇の中にいるみすゞが、その境遇に負けまいと自分の将来に光り輝くものを視ようとした詩と解釈すると、そこには大きな過誤があると思われる。教科書掲載はその過誤を犯したまま、みすゞの詩を掲載しているのではないか。よい子を育てるのが教科書の目的であるから。

みすゞは決してよい子ではなかった筈だ

ただこの一篇の詩にもみすゞの哀しみは見て取れる。私はこの詩に、むしろ人生を投げ捨てたみすゞの諦観を読みとってしまう。みすゞの詩篇に明るさが見られるときは、それはみすゞの偽装ではないか、そう疑って読むほうが、真のみすゞに迫れるのではないか。私はこの詩を読んでも明るい未来に向かって、と鼓舞されるような気持ちにならない。私は「はるかに遠く行くんだよ。」を天上の蓮の花園の仏の世界のように受け取ってしまう。

ここでみすゞの詩とは無関係であるが、以下のことについて私なりの感想を述べておこう。

高遠氏は著作『詩論 金子みすゞ』の最終章「金子みすゞを童心詩人と呼ぼう」―金子みすゞの最後―で、かなり熱っぽくみすゞの自殺について、多少の共通項があるということで林芙美子の生き方と比較して述べられているが、果たして著書のタイトルから見ると、ここは蛇足ではなかったか、少なくとも詩論から逸脱した項目ではなかったかという疑問が残った。

論建ての動機を「金子みすゞが時代と社会に負けて死を選んだのではなく、自分に負けて自殺したと言うことを論証」するためと述べておられるが、「時代と社会に負ける」とか「自分に負ける」という固定観念そのものが、今日の精神医学の発達、青少年や女性の置かれている複雑な状況から鑑みて、いかにも古びたアナクロニズムなものでないか。したがって帰結する論法はお粗末な比較論、晩年を全うした林芙美子との比較である。勉強の出来る子供と出来ない子供を並べて、出来ない子供に出来る子供のあれこれの努力を並び立てて諭すようで、私は強者の粗雑な論理ではないかと、たいへん違和感を覚えた。これでは筆者は本当にみすゞの境遇、心情に思い至っておられるのか疑問を禁じ得ない。

年譜によるとみすゞは《昭和三年(一九二八年 二十五歳)三月、島田忠夫、商品館にみすゞを訪ねるも、上新地の自宅に病臥していて会えず。十一月号の『燭台』に《日の光》、『愛誦』に《七夕のころ》が掲載。この前後に、夫より詩作と手紙を書くことを禁じられ、以後発表作なし。同じ頃夫より淋病を移され、体調を崩し始める。 昭和四年(一九二十九年 二十六歳)春、下関市上新地町百十九に移る。この夏から秋にかけて、三冊の遺稿集『美しい町』、『空のかあさま』、『さみしい王女』清書(一組は西條八十に、もう一組は正祐に託す)。夏、四回目の引っ越し、下関市上新町二千四百四十九。この後病の床に伏している。九二十六月日付の葉書に〈朝雑巾がけをすこししたら、また五日やすみました〉とある。秋、遺稿集の清書終わる。十月より、娘ふさえの言葉を採集する、『南京玉』を書き始める。》とある。

薄幸な育ちのみすゞは、それでも詩作を頼りにひたすら生き抜こうとした。みすゞにとって詩作と手紙を書くことを禁じられことは、自らの人生を閉ざすことに等しい。このときの絶望感を、『さみしい王女』の巻末手記で次のように書いている。

巻末手記
――できました、
できました、
かはいい詩集ができました。
我とわが身に訓(をし)ふれど
心 をどらず
さみしさよ。
夏暮れ
秋もはや更けぬ、
針もつひまのわが手わざ、
ただにむなしき心地する。
誰に見せうぞ、
我さへも、心足(た)らはず
さみしさよ。
(ああ、つひに、
登り得ずして帰り来し、
山のすがたは
雲に消ゆ。)
とにかくに
むなしきわざと知りながら、
秋の灯(ともし)の更(ふ)くるまを、
ただひたむきに
書きて来し。
明日(あす)よりは、
何を書かうぞ
さみしさよ。

ともかく当時も現代も自殺を上記のような一面的捉え方は、私には笑止でしかない。

みすゞは生涯に五百十二篇の作品を遺した。この中で矢崎節夫氏が遺書と思える詩に以下を揚げておられる。全集の一番最後に書かれている、「きりぎりすの山登り」。これが自分に負けた弱い女の詩であろうか。したたかな詩である。

きりぎっちょん、山のぼり、
朝からとうから、山のぼり。
 ヤ、ピントコ、ドッコイ、ピントコ、ナ。
山は朝日だ、野は朝露だ、
とても跳ねるぞ、元気だぞ。
 ヤ、ピントコ、ドッコイ、ピントコ、ナ。
あの山、てっぺん、秋の空、
つめたく触るぞ、この髭に。
 ヤ、ピントコ、ドッコイ、ピントコ、ナ。
一跳ね、跳ねれば、昨夜見た、
お星のところへ、行かれるぞ。
 ヤ、ピントコ、ドッコイ、ピントコ、ナ。
お日さま、遠いぞ、さァむいぞ、
あの山、あの山、まだとおい。
 ヤ、ピントコ、ドッコイ、ピントコ、ナ。
見たよなこの花、白桔梗、
昨夜のお宿だ、おうや、おや。
 ヤ、ドントコ、ドッコイ、ピントコ、ナ。
山は月夜だ、野は夜露、
露でものんで、寝ようかな。
 アーア、アーア、あくびだ、ねむたい、ナ。

もしみすゞの自殺に触れるのであれば共通項云々ではなく、芥川龍之介、有島武郎、太宰治なども共に論じる別タイトルの著書を一冊お書きになるのが妥当ではなかったか。同様な辛苦を嘗めただれそれは晩年を全うしたのに、みすゞはこの程度の不遇に負けて自殺したのか、と批判することは詩論にとっても、みすゞの詩業にとってもなんの益もないことではないか。

こういう詩を創作するみすゞは、すでに死を内包した詩人であったということである。みすゞの冥福を敬虔に祈ることのみが、みすゞへの愛ではないかと私には思える。いつの日かみすゞの墓前に詣ることがあれば、私は一輪の白い花を手向けたいと思う。

十代から三十代辺りの女性群にみすゞブームがなぜ湧き起こったか。この辺のことも考察してみると面白いと思うが、このブームの根底には昨今、傷心を抱いて神経症になったり、引き籠もっている女性群が多いことと無関係ではないように想像している。「春」を早く知りすぎた少女、親による言葉や暴力での児童虐待、幼児期における性虐待を負った女性が辿る道筋は無明である、空虚が広がる。彼女たちはみすゞの詩を読むことで癒されたのではないか。こうした女性群にとってはみすゞの詩群は癒しの詩となった。傷心の女性同士が交感しうる詩がみすゞの詩群であり、時節柄タイミングよく矢崎節夫氏はみすゞを発掘したのである。

金子みすゞについて少し書いてみようかと思ったのは、高遠信次氏から氏の著作『詩論 金子みすゞ』を寄贈していただき、一読させて貰ったからである。最終章の一部の項目に異論は持ちつつも、この著作は高遠氏が正直な人柄を吐露しつつ、金子みすゞの詩の真実に迫真していこうと努力された、好感の持てる内容である。

万葉の歌

2007-01-12 00:23:14 | 俳句・短歌と現代詩

大伯皇女(おおくのひめみこ)は大来皇女とも記す。天武天皇の皇女、母は大田皇女。大津皇子(おおつのみこ)は同腹の弟になる。十三歳の時、伊勢斎宮に召(め)され、翌年伊勢に下る。十三年間斎宮(いつきのみや)として奉仕する。

大津皇子の説明は以下にあるが、悲劇の皇子として知られている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E7%9A%87%E5%AD%90


 

磯の上に生ふる馬酔木(あせび)を手(た)折らめど見すべき君が在りと言はなくに

うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟背(いろせ)と我(あ)が見む


この歌は大津皇子が謀反の疑いで処刑され、二上山(ふたかみやま)に葬むられた時に詠んだ歌とされている。

 

上の歌は「岩のほとりの馬酔木を手折ってあなたに見せたいのに、だれもあなたがこの世に在るとは言ってはくれない」。下の歌は「この世にいる私は、明日から二上山を弟と思って生きていこう」。

 

弟を喪った姉の哀しみがよく表れている。馬酔木は三月上旬頃、白とピンクの花を咲かせる。おそらく大津皇子も花を愛でる性質の持ち主であったのだろう。とくべつに「あー悲しい」と詠ってはいないが、場面が形象化されたなかにそれが表出している。


神風(かむかぜ)の伊勢の国にもあらましを何しか来けむ君もあらなくに

見まく欲(ほ)り我(わ)がする君もあらなくに何しか来けむ馬疲るるに

 

大津皇子の亡き後、大伯皇女が伊勢の斎宮より大和に上る時に詠った歌。上の歌は「伊勢にいたほうがよかったのに、なんのために私は大和に上るのであろうか。弟のいない大和に」。下の歌は「私が見たいと思うあなたはもういない。どうしてやって来たのか、馬が疲れるだけなのに」。


弟思いの姉である。そんな心理が形象化されている。ほかにもある。

 

我が背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁(あかとき)露に我が立ち濡れし

二人ゆけど行き過ぎかたき秋山をいかにか君が独り越ゆらむ


上の歌は「弟を大和へ帰すというので、この場に夜が更け暁まで立ち尽し、私は露にびっしょり濡れた」。下の歌は「二人でも越えるのに困難な秋山を、どのような思いで弟は越えるのだろうか」。

 

この時期、大津皇子はすでに我が身の危険を感じていたのかも知れない。ひそかに伊勢神宮に出掛けた。その折りの大和に戻るときの場面である。

 

弟思いの彼女だが、いつまでも弟を喪ったことを、嘆き悲しんでいる女ではない。14歳から伊勢神宮に出仕しており、「何しか来けむ馬疲るるに」と詠えるしっかりとした現実的な性格の持ち主であった。

 

ついでに詩文に秀でた大津皇子の歌を見ておく。

 

経(たて)もなく緯(ぬき)も定めず未通女(をとめ)らが織れる黄葉(もみち)に霜なふりそね

あしひきの山のしづくに妹待つと我が立ち濡れぬ山のしづくに

大船の津守(つもり)が占(うら)に告(の)らむとは兼ねてを知りて我が二人寝し

ももづたふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ

 

順に歌の意味を書いておくと「横糸もなく、縦糸も定めず、少女たちが織ったもみじの錦に霜よ降らないでくれ」、二首目は石川郎女(いしかわのいらつめ)に贈ったもので「あなたを待つとて、山の木々の下に佇んで、私は雫に濡れたよ。山の木々から滴り落ちる雫に」、三首目も同じく石川郎女に宛てた物である。このとき大津皇子と草壁皇子(くさかべのみこ)は同じ女に思いを寄せており、結婚したいと思っていた大津皇子は、津守連通(つもりのむらじとほる)に占って貰った。「津守の占いに露顕することは前以て分かっていて、それでも私たちは二人寝たのだ」、最後のは辞世とされる歌で「磐余の池に鳴く鴨を見るのも今日限りで、私は死ぬのだろうか」


こうして万葉の歌を見てくると、有史以前の壁画と同じく我が国の和歌においても形象がなされている。形象は人類普遍の精神的な営みであることがわかる。

 

なお日本最古の漢詩集「懐風藻」に大津皇子の辞世の漢詩「五言臨終一絶」が収められている。こちらのほうに死ぬ前の心境がよく出ている。皇子が子どもの頃に育った訳語田(わさだ――奈良県桜井市戒重)の家で詠んだ。

 

金鳥臨西舎(太陽が西に沈む)

鼓声催短命(時を告げる大鼓の音に短命を顧みる)

泉路無賓主(死出の旅には客はいない)

此夕離家向(夕刻に家を出て、私はどこに向かうのか)

 

草壁皇子の母親、皇后鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ、後の持統天皇)が皇位を草壁皇子に継承させたいために、大津皇子の謀反をでっち上げた節が資料から読み取れる。

 

大津、草壁の父親であった天武天皇自身、大海人皇子であったとき、兄の中大兄皇子(天智天皇)との皇位継承問題で、兄の疑惑を避けるために吉野に難を逃れた。このときの経験か壬申の乱を治めてら天武天皇となったとき、高市皇子、大津皇子、草壁皇子と天智天皇の子の川嶋皇子、施基(しき)皇子、皇后らを連れて吉野へ行幸した。このとき天武は六人の皇子たちに、力を合わせて世の中を治めることを約束させた。皇子等を抱きしめ、「母は違うが同じ母の子として慈しむ」と言った。このときのことが鵜野讃良皇女の記憶に残り、逆に大津皇子の悲運を招いたとも考えられる。

 

天武天皇も大海人皇子のとき、兄の天智天皇の寵愛を受けたとされる額田王( ぬかたのおおきみ)に横恋慕し、後に妃(きさき)にしている。十市皇女を生んだ。同じようなことが石川郎女を巡って草壁と大津のあいだに起こった。

 

大津皇子が石川郎女に贈った、

あしひきの山のしづくに妹待つと我立ち濡れぬ山のしづくに

の返歌が、

我(あ)を待つと君が濡れけむ足引の山のしづくにならましものを

 

意味は「私を待っているあいだ、あなたがお濡れになった。その山の雫になれたらよいのに」である。


平安朝の紫式部の雅(みやび)な宮廷文化が、花開くずっと以前の時代に、貴族に限られるとはいえ、日本民族にこのような優雅な文化があったことに、ぼくはいつも驚嘆する。このことに引き替え、男女ともに高等教育なるものを受け、マイハウスにはテレビ、冷蔵庫、洗濯機、マイカーのある現代、兄が妹を、妻が夫を殺してバラバラに解体する殺伐とした世相と文化は、一体何なのか。


鶴野佳子さんとの出会い

2007-01-10 00:08:08 | 俳句・短歌と現代詩

ヒトとの出会いには不可思議と思われることが起きるときがある。偶然と言えば偶然なのだが、そうとも言い切れないような偶然もある。この場合は必然と呼んだりするが、男同士の場合は相手がすでに功成り成し遂げた人物であれば、その人物との邂逅が自分の立身出世となることがある。木下籐吉郎(後の豊臣秀吉)と蜂須賀小六(後の徳島藩藩主)、織田信長との出会いは、籐吉郎にとってまさにそういうものだった。これが男女のあいだでは微妙な事になりかねないが、歌人鶴野佳子さんとの出会いは、そのほうの感度は鈍くなっている年齢でもあり、また男女のあいだに〈真の友情〉という付き合いがあってもいいではないかと考えていた時期だけに、微妙な事も起こらずに至(いた)っている。

 

しかし男のこういう言葉こそ信用がおけないこともある。時折嶋岡晨訳『エリュアール選集』を読み返すのであるが、詩人エリュアールの晩年の写真が数葉掲げてあり、そこにはエリュアール夫婦とピカソ夫婦が一緒にくつろいでいるのもある。羨望の眼で眺めているのであるが、どちらも妻が若い。3、40は年下に見える。エリュアールは1949年生涯最後の恋愛をし結婚。54歳のときのこと。そして56歳で亡くなっている。ピカソはエリュアールより年上と思えるが妻は20代でないか。つまり男女のことは相手が年上であろうと年下であろうと、男のやることは事これにかぎっては信用できない。ただしぼくの恋愛歴は年下でなく年上に弱いので、ピカソのようなことは度外視してある。しかしこれも当てにはできない。こういうことは自分で自分が信用できないから、始末に悪い。

 

男のぼくが言うのだから間違いは少ないが、読者に誤解なく書いておくと、歌人鶴野佳子さんとの付き合いは、爽やかなものである。だいたいお会いしたのは三度である。一度目はキティ・キャラクターの展示会場、二度目は三宮。三度目はこの島で。

 

先日の「短歌を食わず嫌いであった訳」で書いたが、学校を出てからというもの現代短歌に近付いたことが1998年までなかった。小説と現代詩、文藝評論は哲学、心理学の書物と並べて愛読、下手ながら小説と現代詩は若い頃から創作してきた。しかし現代短歌は歌人木俣修著『短歌の作り方』を書棚に並べてあっただけで、まるでこの世界のことはわかっていなかった。木俣修は北原白秋門下。『短歌の作り方』はよくできた入門書である。

 

98年必要あって京都駅地下の書店で眼に付いた総合短歌雑誌二冊、取り急ぎという思いで求めた。角川書店発行の「短歌」と短歌新聞社発行の「現代短歌」、どちらも五月号であった。帰路の新幹線車中で「現代短歌」をめくっていると、初めのほうの頁に――in 嵯峨野 鶴野佳子――という見開き頁があり、連作10首が大きな文字で載っていた。この短歌に眼が吸い寄せられた。というのも嵯峨野はぼくにとっての〈まぼろしの里〉であり、ぼくは二十歳の頃から〈嵯峨野病〉に罹(かか)っていた。

 

落柿舎  高一の頃

 

とうとうやってきました。

 

十数年の歳月は

あなたを霞の里へとみちびきましたか。

けむり色の青葉の伏した小倉山をみつめ

あるかもしれないわあの向こうにと

すいこまれて行ったあなた。

渡月橋に白いコートが微笑みました。

あなたの背後に

哀しみのような歓びのような

愁い色の二月の雨が

やさしく冷たく降って。

 

中之島の図書館からの帰路

装飾と喧噪の夜の街を

有島武郎の煩悶を

太宰治の絶望を

切れ長のまなざしであなたは語った。

ある女子校のチャコールグレーのブレザーで

そして来春奈良女子大を受験すると。

二つ年下のぼくはそのとき

自分の黒い革靴を重たく感じていた。

 

きょうも二月の雨がそぼ降っています。

あなたのまぼろしの里を追って

竹畑の小路(こみち)を落柿舎へと

歩いてみます

あのときの革靴を濡らして。

 

このような有様であるから、東京から関西に戻ってきた頃から一人で足繁く嵯峨野に通っていた。まぼろしの里に消えた女人探しであるが、この世にいないのであてどなく彷徨(さまよ)う。それに五月雨の頃であるから、出掛けるタイミングが難しい。

 

人生の探し物を終わったとき、そのヒトのロマンチシズムの終焉(しゅうえん)である。そうなるとあとは俗物的欲求だけになり、情緒も気品もなく、野卑な、退屈な人生になりはしないか。

 

桜満開と紅葉の時期もいいが、小雨降る梅雨時に当てもなく物思わし気な顔で、人通りの少ない竹畑の小路を散策するのが気に入っていた。脚が疲れると甘党のお店で善哉を頼む。こういう心境は何歳になっても変わらずである。だから鶴野佳子の短歌にすぅと気持ちが引き寄せられた。どの歌もぼくのその頃の心境にぴったり馴染んでくる詠い方であった。観念と抽象が強すぎると惹かれなかったであろう。ここにその10首を再掲しておく。

 

in 嵯峨野      鶴野佳子

 

人力車を茶髪の青年が曳きゆけり嵯峨野坂道しぐれ茶屋角

野々宮の絨毯苔に起伏あり小暗き緑かがようみどり

落ち椿さがの野々宮縁結びあてのはずれし御籤をむすぶ

蓑笠を吊るはあるじの在宅中 落柿舎はいま花霞して

小柴垣の小径にふいに線路ありたちまち車輌がトンネルに消ゆ

祗王寺の虹の窓より暮れ残る苔の庭辺の馬酔木の白さ

棄てられし祗王のさだめに重ねては散る花をみる吉野窓より

うすべにの猩々袴咲く庭に祗王の若き悟りが痛し

仏御前の水晶魚眼伏し目がち時隔てなお十七歳にて

清盛にあらずも女を捨つるらん世を隔つとも花開けども

 

まるでぼくの嵯峨野散策の行動がそのまま眼前に映し出されているようで、真実アッと驚いた。一語一語が見事に切り立っており、それがために韻律もよかった。「ふーん、こういう歌人もおるのやな」と、胸中唸っていた。

 

とくに気に入ったのは、

人力車を茶髪の青年が曳きゆけり嵯峨野坂道しぐれ茶屋角

小柴垣の小径にふいに線路ありたちまち車輌がトンネルに消ゆ

である。

 

上の歌は嵐山の渡月橋付近でよく見られる光景であるが、〈嵯峨野坂道しぐれ茶屋角〉のリズム感がよい。短歌の調べには嫋々(じょうじょう)としたものもあるが、鶴野佳子の歌はこうした調べでなく、一つ一つの言葉が屹立(きつりつ)したかのような調べである。小説の文体は大別すると志賀直哉風と谷崎潤一郎風があるが、鶴野佳子の抒情短歌は志賀直哉風といってよい。凛とした精神を裡(うち)に秘めていないと、志賀直哉風は難しい。

 

下の歌は嵐山に出掛けてこの場所に立たないとわからない歌。ぼんやり歩いているとすぐに通り過ぎてしまう光景であるが、この場所が在る。線路より高見で、そこから見るとトンネルの口の開いているのが一目。ぼくは竹畑を散策しているとき、此処(ここ)に来ると立ち止まる。子どもの頃から京都経由の山陰本線の汽車に何度か乗ったことがある。冬休みを過ごすための、妹と二人きりの松江への旅。物寂しい旅だった。嵯峨野を散策し始めてから、初めて「あー、あの頃夜汽車でここを走っていたのだな」と気付かされた。大阪駅を夜の10時過ぎ母親に見送られて出ると、松江には翌朝6時に着いた。ぼくのこころの影を見抜かれたようで気に入っている。

 

総合雑誌の歌人の名前を見ても知らない人ばかりであった。ぼくが知っている歌人といえば、いっとき話題になった俵万智くらいだから当然である。

 

その後ぼくも下手ながら作歌に励むことになるが、拙作を紹介すると、鶴野佳子の上記の作品との符合を理解して貰えるかもしれない。恥ずかしながらである。

 

十五夜の名月眺む桂川逢瀬の胸にそれぞれの月

月高し瀬音高鳴る桂川月のみぞ知る逢瀬の夜半

ぴょんぴょんと踏み石を跳ぶ汝(な)のしぐさ秋空高くをなごの幸か

秋袷(あきあわせ)塩瀬の帯をゆったりときみがかをりは嵐山(らんざん)を行く

娘にと「良縁」結ぶお守りをきみと詣りし野宮(ののみや)神社

梅雨どきの二度きみと来し嵯峨野路の石榴(ざくろ)の花は雨空を切り

なみなみと青葉広がる祗王寺(ぎおうじ)の暗き仏間に汝と座す刻(とき)を

小倉山きみと詣でし二尊院(にそんいん)青き楓は雨と睦みぬ

 

明治以降の歌人の作品を、とくに現代歌人の短歌に目を通しておかないと作歌も始まらないと、あちこちのホームページを散策しては、歌人の短歌を集め、これを平成太郎の館の「歌集・句集の館」に収録する作業に入り、この折りに――in 嵯峨野――を収録しておいた。その後のことであるがある日、メールが飛び込んできた。鶴野佳子とあり、収録しておいたことのお礼であった。本当はこちらから通知しなければならないことだが、鶴野佳子さんがパソコンを触っていることも、メールアドレスも知らないので通知のしようがなかった。大変に驚いた。

 

短歌にチャレンジしてみようかと思い、それで短歌の総合雑誌を購入、頁を開くと気に入った作品に出合った。その歌人からのメールであった。不可思議な感動。そしてその後、鶴野さんからご自分の歌集『人魚の鱗』や会誌「うた野」を贈呈して貰った。このことがご縁で平成太郎の館に「うた野」の会のホームページを開設させて貰った。ここに『人魚の鱗』を歌集体裁で掲載してもある。

http://www.tulip.sannet.ne.jp/nah01433/hei4/turuno.html

 

三宮でお会いしたときは、「うた野」の田鶴雅一氏とご一緒。三人で新神戸駅横のハーブ園にロープウェイで上り、散策した。いい思い出になっている。

 

鶴野さんの服装は上下ともにジーンズであった。年齢よりはずっと若やいだ容姿であったが、それでも結構派手なジーンズ姿に、ぼくは最初眼が点になった。しかしぼくの母もそうだったので違和感はない。実のところ、ぼくは普段ジーパンを穿いていることが多い。肌触りが好きだし気楽でいい。いまは外出時上着もジーンズで、お会いしたときの鶴野さんと同じ恰好である。とにかく気持ちの若い歌人。まだまだ元気なままデジカメ持って、あちこち歩かれ、歌を詠って貰いたい。

 

日本の国を今一度潤いのある国にしていくには、変な教育論をぶったり読んだりするよりも、老若男女(ろうにゃくなんにょ)、国民が短歌に親しみ作歌すればいい。潤いとか情緒、あるいは優しさ、気品、倫理観といったものは、理屈だけでは本当の物にならない。論理的言葉にならない真実という物がある。それは芸術という創作によって、こころに響かせていかなければ、本当の人間にならないのではないか。

 

ただしこのことに注釈を加えておくと「論」というものは、言葉を多分に論理的に用いるが、言葉は非論理的にも用いる。詩・短歌・俳句、呪術の言葉はその表現形態から見ると、非論理的表現を性格として有する。しかし非論理的であるが故に万物の生命の働きを表現しうる。鑑賞する側は作品が放つ波動によって論理的表現では得ることのない、我々にとって価値ある生命のリズム・韻律、さらに形態を知覚、新たな経験、体験に覚醒する。絵画であれば言葉でなく線・色彩を用いる。

 

逆説的であるが非論理的表現に論理を視ることが、芸術であると言及してもよい。

 

比喩的であるが、正月のお節料理の黒豆、光沢のある黒い豆を一粒口に含むと、甘い、まろやか、ふくよかなどの言葉で賞賛するが、この賞賛は黒豆固有の物ではなく、口に含んだヒトのそのときの体調とか心理と渾然一体となっている体験である。「甘い!」という感動は、論理的には説明しがたい表現であるが、個々の人との経験、体験に直線的に直結する論理を有しているのである。

 

このことを経験、体験するのに短歌づくりは、さほどお金もかからない国民的芸術である。

 

この島にも訪ねていただいた。

 

こういうご縁であるが、不可思議なご縁であったと感じている。


2007-01-08 00:08:15 | 俳句・短歌と現代詩

日本の風土には桜が似合う。梅林で梅の花を愛(め)でるヒトもいるが、梅見は鑑賞であって、花見ほどの花と人間との一体感は見られない。


 


桜と梅との大きな違いは匂いである。梅は芳香があるが、桜にはほとんど感じられない。それゆえ梅はどことなく押しつけがましさがあり、梅の木の下で酒を呑んで興じることをしないのは、このためではないか。次に桜は一輪ごとの美しさもあるが、むしろ数え切れないほど重なり合って咲き誇る姿の美しさを愛でるが、梅の花は桜ほど密には咲かないので、一輪、一輪を全体と捉えて鑑賞する。したがってこのことからも桜の木の下は、一つの夢幻の世界ともなり酒を助けにその世界に彷徨うことができるが、梅の木にはこの雰囲気はない。押しつけがましさがないにもかかわらず、人々は桜の花に誘われる。梅よりも人間との関係の深いのは当然でないだろうか。


 


先年福井県武生(たけふ)市味真野に薄墨桜の大樹を観に行ったことがある。花筐(はながたみ)公園内の奥深い山の谷を隔てた斜面に、樹齢600年の大樹が天空に向かって孤独に聳えていた。背広に革靴という恰好では近くに寄れないので、花の姿をよく観察できなかった。辺りをぼやっと霞がかかったように、薄墨色に染めていた。能芸の世阿弥作「花筐(はながたみ)」の題材になっている。筐は竹で編んだ籠のこと。



「花筐」のあらすじは、味真野の豪族男大迹(おおど)王(後の第26代継体天皇)の元に都(京)より使者が到着する。武烈天皇の後を継ぐべく都へ向かった皇子は、味真野に最愛の女性照日ノ前を残したまま出掛ける。その後恋慕のあまりに照日ノ前は京に向かう。逢うことは叶わず、家来から男大迹皇子から預かった手紙と愛用の花筐(花籠)を渡される。手紙に涙した照日ノ前は花筐を抱いて、一人寂しく郷里へと帰って行くという悲恋物語。



男大迹王が味真野に自らの手で形見として植えたのが薄墨桜。



悲恋物語と説明したが、能の演目はほとんどが物狂い(幻想)であるから、「花筐」もドラマチックな展開を見せる。



能を完成させた世阿弥は、ぼくが渡来人秦河勝をモデルにして創作した『魔多羅人』の子孫でもあるらしい。夢幻の境地を舞う能の精神は、異国からのものでないかと想えるところがある。



自作長編小説『断崖に立つ女』は武生で修行した女能面師がヒロインなので、薄墨桜を一度は見ておきたいと、知人の車に同乗して出掛けた。



桜といえばやはり西行法師の歌を外すわけにはいかない。西行ほど数多く桜を詠った歌人はいない。よく知られているのが死期迫ってきた頃に詠ったとされるこの和歌。



願はくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃


 


西行は佐藤義晴(のりきよ)という名で鳥羽院守護の北面の武士(平清盛も北面の武士)であった頃、鳥羽院中宮待賢門院璋子(たまこ)を思慕した。西行はその忘れじの面影を〈薄紅の桜〉として詠った節がある。二人にとって禁断の恋であった。この辺のところは辻邦生の小説『西行花伝』に詳しい。ほかにも名歌があるが、ぼくの好みで選んでおく。吉野山に何度上ったことか。


 


吉野山雲をはかりに尋ね入りて心にかけし花を見るかな


思ひやる心や花にゆかざらん霞こめたるみ吉野の山


いかでわれこの世のほかの思ひ出でに風をいとはで花をながめん


散る花を惜しむ心やとどまりてまた來ん春のたねになるべき


この春は君に別れの惜しきかな花のゆくへを思ひ忘れて


花を見る心はよそに隔たりて身につきたるは君がおもかげ


花見ればそのいはれとはなけれども心のうちぞ苦しかりける


花に染む心のいかで殘りけん捨て果ててきと思ふわが身に


佛には櫻の花をたてまつれわが後の世を人とぶらはば



多情多感な作家であった岡本かの子(画家岡本太郎の母)も桜の歌を多く詠んでいる。一時期夫(漫画家岡本一平)と若い愛人を同居させるといった、破天荒なことをやってのけている。



桜ばないのち一ぱいに咲くからに生命(いのち)}をかけてわが眺(なが)めたり


淋しげに今年(ことし)の春も咲くものか一樹(ひとき)は枯(か)れしその傍(そば)の桜


ひえびえと咲きたわみたる桜花(はな)のしたひえびえとせまる肉体の感じ


しんしんと桜花(はな)ふかき奥にいつぽんの道とほりたりわれひとり行(ゆ)く


咲きこもる桜花(はな)ふところゆ一(ひと)ひらの白刃(しろは)こぼれて夢さめにけり


ひんがしの家(や)の白かべに八重(やへ)ざくら淋漓(りんり)と花のかげうつしたり


ミケロアンゼロの憂鬱(いううつ)はわれを去らずけり桜花(さくら)の陰影(かげ)は疲れてぞ見ゆれ


桜花(はな)あかりさす弥生(やよひ)こそわが部屋にそこはかとなく淀(よど)む憂鬱
かなしみがやがて黒める憂鬱となりて術(すべ)なし桜花(はな)のしたみち



薄紅の桜の下に立つとなぜかしら夢幻の境地に誘(いざな)われる。暮らしのなかで自然と強いられている緊張感を解き、総身をゆだねてみたい妖しい気持ちになる。幽玄なフェロモンを漂わせているのでないか。


 


桜には様々なポジティブアクション(積極的な働きかけ)の相乗効果が隠されている。桜を詠った歌人は現代の歌人を含めて多数いる。桜だけを詠った歌集を編めば、こうしたことの一端をうかがい知ることができるだろう。



万葉の時代は桜より中国から渡来した梅のほうに人気があった。『万葉集』に梅の出てくるのは118首あるが、桜はその三分の一しか出ていない。桜が人気を得たのは9世紀前半の嵯峨天皇の頃で、以後桃山時代に、豊臣秀吉が吉野と醍醐(京都)で盛大な花見を催した。また3代将軍家光が上野の寛永寺に吉野の桜を移植、隅田川河畔にも植えた。8代将軍吉宗は飛鳥山を桜の名所にした。こうしたことから日本各地に桜の名所が広がっていった。


 


花より団子、お酒を愛でる人たちもいるが、総じて桜は年が明けると日本人はいつ咲くかと待ち望む花になっていった。そして桜のあとに田植えが始まる。軍国主義の時代は武士道精神を持ち出し散る潔さを強調されたが、本来は田植えを迎える平和な生産の花ではなかったか。


 


一方、坂口安吾の『桜の森の満開の下』は、次のような書き出しで始まり、桜の妖しさを記している。これも一つの見方である。




 桜の花が咲くと人々は酒をぶらさげたり団子(だんご)をたべて花の下を歩いて絶景だの春ランマンだのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です。なぜ嘘かと申しますと、桜の花の下へ人がより集って酔っ払ってゲロを吐いて喧嘩(けんか)して、これは江戸時代からの話で、大昔は桜の花の下は怖しいと思っても、絶景だなどとは誰も思いませんでした。近頃は桜の花の下といえば人間がより集って酒をのんで喧嘩していますから陽気でにぎやかだと思いこんでいますが、桜の花の下から人間を取り去ると怖ろしい景色になりますので、能にも、さる母親が愛児を人さらいにさらわれて子供を探して発狂して桜の花の満開の林の下へ来かかり見渡す花びらの陰に子供の幻を描いて狂い死して花びらに埋まってしまう(このところ小生の蛇足(だそく))という話もあり、桜の林の花の下に人の姿がなければ怖しいばかりです。



人気のない夜桜の下に一人で立っているのは、気分のいいものではない。首を吊った女の死体が垂れているのではと想うことがある。



ぼくは吉野山の眠りを誘うような山桜が好みだが、女人高野の境内で眺めた八重桜も美しかった。ほかに嵯峨野の広沢池近くの枝垂れ桜、見事な咲きっぷり、妖艶であった。



西行法師でないが、桜の苑(その)をさまよっている最中に事切れるのが、ぼくの夢であるがそう巧く行くものかどうか まだ判然としない。もう少し片付けなければならないことがある。



前に女能面師をヒロインにした長編小説を創作したと書いたが、能に素人のぼくが能を題材に載せるのはなかなか危険なことで、『薪能』、『剣ヶ崎』で芥川賞を受賞した立原正秋すら「面をかぶる」と書いて叩かれている。面はかぶるものでないらしい。一言亡き立原を弁護すると、作家は小説で能の専門書を書いているわけでないから、「面をかぶる」と書いたからといって批判するには当たらない。小説は一般庶民が使う言葉を駆使する。批判者は逆に小説とは何かがわかっていない。なまじその分野の専門家は、他の分野に対して言わずもがななお節介を焼いてしまうところがある。


 


それはそれとして『断崖に立つ女』は、そろそろ読み直して改稿しないと締めが足りない気がする。


日本民族の韻律

2007-01-06 00:13:13 | 俳句・短歌と現代詩

最初に以下を紹介。


 



● 序文


 序一  アメツチノ  ヒラケシトキニ    天地の    開けし時に


        フタカミノ トホコニヲサム   二神の    と・ほこに治む


        タミマシテ  アマテルカミノ   民増して   天照る神の


        ミカガミオ タシテミクサノ      御鏡お    たして三種の


        ミタカラオ  サヅクミマゴノ      御宝お        授く天孫の


        トミタミモ  ミヤスケレバヤ      臣民も        身安ければや


        トミガヲヤ  シイルイサメノ   臣が祖       強いる諌言の


 序二   オソレミニ  カクレスミユク    恐懼に        隠くれ棲みゆく


        スヱツミノ  イマメサルレバ   末裔の        今召さるれば


        ソノメグミ  アメニカエリノ   その恵み   天に帰参の


        モフデモノ  ホツマツタヱノ    献上品       秀真伝の


        ヨソアヤオ  アミタテマツリ   四十紋お      編み奉つり


        キミガヨノ  スエノタメシト     君が代の   末代のためしと


        ナランカト オソレミナガラ    ならんかと  畏れみ乍ら


        ツボメオク コレミンヒトハ     つぼめ置く  これ見ん人は


 序三   シハカミノ ココロホツマト   『しはかみの    心 秀真と


        ナルトキハ ハナサクミヨノ    成る時は   花咲く御代の


        ハルヤキヌラン          春や来ぬらん』


        イソノワノ マサゴハヨミテ    『磯の輪の   真砂はよみて


        ツクルトモ ホツマノミチハ      尽くるとも    秀真の道は


        イクヨツキセジ          幾代尽きせじ』


        ミワノトミ ヲヲタタネコガ    ミワの臣      大田田根子が


        ササゲント フモミソヨトシ    捧げんと   二百三十四歳


        ツツシミテヲス          謹しみてをす


 


上記は古代史『古事記』、『日本書紀』よりも古代に書かれたという『ほつまつゑ』の序の一部である。引用は以下のHPに依る。ご覧のように全文五七調、序三は五七五七七になっている。


http://www1.ocn.ne.jp/~hotsuma8/index.html


 


古代史研究の学者のあいだでは『ほつまつゑ』は、いかさまで古代史研究の資料にはならないと無視している節がある。宮内庁は『ほつまつゑ』の存在を認めることは、現天皇家の系譜にとっておもしろくないことで、黙視している。神社本庁も同歩調である。従来からの古代史学説が記紀と『古語拾遺』の三書の研究成果を根拠にしていては、真の古代史は不明であるというのが、『ほつまつゑ』研究者の主張である。


 


かつて社会派推理小説作家松本清張が、晩年は古代史にチャレンジ、新説を打ち立てていったときもアカデミックな学者のほとんどは、清張の主張を無視したのに似ている。ぼく個人は『ほつまつゑ』をどう理解すべきか、まだ判断するに至っていないが、『ほつまつゑ』をご存じない読者に、その存在を事実として述べるにすぎない。


 


関心は内容が五七調あるいは五七五七七になっていることにある。実はこの事実も記紀以前の古代にこうなっていたのか、記紀以後の作為なのか推理の分かれるところであり、記紀以後の作為となると『ほつまつゑ』は記紀を脚色した古文書ということになる。


 


ぼくが葬り去れないのは五七調のリズムである。発声言語としてみても、ひじょうに精神の凛々(りり)しく凝縮した音韻を感受する。このことは後の万葉集に通じる。


 


古代においては五七調の調べによって、国家形成を計っていったのではないか。国家形成には先ず言語の統一、統制が少なくとも為政者になければ、国の基(もとい)を成さない。そして日本民族の精神を支えているのがこの五七調の調べによる神話の世界と、後に渡来する仏教ということになる。


 


神話その物は支離滅裂な観念の、一定の形を持たない集合体であるのは、どこの国の神話でも同じこと。また宗教的真実も超自然的、超合理的であるが、非合理的ではない。理性だけでは宗教の神秘には入れないということであり、こうしたことは五七の調べについても言えることである。たんなる五、七ではない。この調べを感受できない精神では、たとえ日本人であっても日本民族の伝統、文化、風土に触れることは難しい。


 


同様なことは外国語、英語やフランス語、中国語についても言えることである。


 


今日でも五七調は短詞系文学の語調であるだけでなく、広告のキャッチフレーズのリズムでもある。日本民族はこの韻律にドボ浸かり、DNAの構成の一部を為しているのではないかと想像するほどであるが、現代人は戦後英語などの外国語を大衆レベルでも採り入れてきたので、言葉の乱れ、つまりは精神の乱れをきたしてきたのではないか。


 


かといって鎖国社会には戻れないのだから、この現実の中で理性と知性を伸ばし、しっかりした倫理観を国民一人一人で築いていくことにしか、方法はないだろう。しかしこの場合も日本語教育として、中学生から五七調文学や古典に積極的に取り組ませておかなければならない。下手な教師に学ぶと眠たい授業になるが、それでもいいのである。潜在意識として韻律は軌跡を留める。


 


『ほつまつゑ』を紹介したHP開設者の弁に今日の短歌(たんか)を和歌と解釈しているところは、ぼくとしては納得しかねる。開設者自身が国学者でも和歌、短歌研究の専門家でもないので、余分な解説であろう。国学者の一般的説明としては、和歌に、短歌(みじかうた)、長歌(ながうた)、旋頭歌(せどうか)などが含まれているとなっているが、この説明でいいのではないか。そしてこうした倭(わ)の歌の中で、五七五七七の五句形式を従来から和歌、短歌(たんか)と呼んできた。だが五七五七七を意識的に短歌として確立したのは、正岡子規以後のことではないかと思っている。


 


こうしたことを考えると、われわれ日本人はこの韻律(調べ)からは逃れられない。となるとこの韻律を活かす生き方の中に、日本人の未来はあるのでないか。このことをほとんどの日本人は忘れて、欧米文化に溺れているのではないか。国際化というのは各国の民族の特徴を混ぜてゴッチャ煮することではなく、それぞれの国の固有の韻律や文化を土壌とし、ここに科学の進歩を節度を保って移植していくことではないか。そうすれば日本の将来に独自の希望が視えてくる筈だ。


 


明日のことを思い煩(わずら)うな、と主張する人がいることは知っているが、人間は、回想に生きるより、また、現在の経験に生きるよりも、はるかに多く、疑惑と恐れ、未来についての不安と希望のうちに生活している。人間は決して、明日のことを思い煩うな、という勧告に従うわけにいかないし、従えない。刹那的な生き方にどんな健全性があるだろうか。未来に生きることは健康な人間性にとって不可欠なことである。


 


さらに言及すれば未来についての理論的観念――あらゆる人間の、高級な文化活動の前提である観念――は、それはたんなる期待をはるかに超えたものであり、人間生活の命令になっているのではないか。そしてこの命令は、人間の直接の実際的必要をはるかに超越している。これが人間のシンボル的未来である。今のところこのシンボル的未来を語っているのが予言者、つまり宗教ということになる。けれども既成の宗教に依拠しなくても我々は、民族の言葉をよく認識し、この言葉で一人一人が独自のシンボル的未来を志向することは可能であるし、そうしなければならないのでないか。


 


短歌に、現代詩に各自がどのようなシンボル的未来を探求していくか、このことこそ芸術における表現行為である。



 ぼくはなにゆえ日中は太陽が地球を照らし、夜は月が照るのか、このことを沈思する。太陽による恵みと月による安らぎ、究極の処ではこのことの中にシンボル的未来が、一人一人に与えられているのであるが、このことに気付かず、傲慢な姿勢で日を過ごしているヒトも少なくはない。


短歌を食わず嫌いであった訳

2007-01-05 00:14:24 | 俳句・短歌と現代詩

意識的に短歌を読み始め、作り始めたのは8年ほど前のことで、ある事情があったからである。文学創作に取り組んだのは20代半ばからであったが、現代詩を少し創作する程度で、小説を本格的に作り始めたのは30代に近付いた頃であった。この頃も創作よりは哲学、心理学の書物を読書しているほうに充足感があった。


 


現代詩は世相への主張ぽいものを創っていて、恋愛詩には興味がなかった。短歌よりは蕉風俳諧(芭蕉の俳句)に興味があった。だから8年前までは短歌にことさら見向きをしなかった。理由を少し考えてみると高校生の若気のいたりもあるのだが、与謝野晶子『みだれ髪』の熱情的な歌――やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君――や石川啄木『一握の砂』の、


 


東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる


 


頬(ほ)につたふ
なみだのごはず
一握(いちあく)の砂を示しし人を忘れず


 


の感傷に辟易(へきえき)した。このときのぼくの心理を分析すると、思春期特有のものである。その頃のぼくの感情世界は異性への性欲とかセンチメンタルな情動が発火しやすくなっており、揮発性暴発の危険を回避するには、情動表現を遠ざける傾向にあった。シンプルに表すとこういう短歌世界にのめり込みやすいので、逆にそれを避けたのである。短歌を読むのであれば代数の計算、幾何の証明問題を解くことにエネルギーを傾けておるほうが賢明であった。換言すると太宰好きが無防備に太宰文学にのめり込むと、太宰のような生き方を選択しやすくなるのと似ている。それで短歌の世界は見て見ぬふりをしてきた。


 


横道に逸(そ)れるが、正月明け早々禍々(まがまが)しい女子短大生バラバラ殺人が報道され、21歳の次男が「妹に『夢がない』などとなじられ、殺してのこぎりや包丁を使って首や手足を切り取り、ゴミ袋に入れた」と犯行を供述した。ぼくの年齢では想像できない非人間的犯罪が家庭内で昨今勃発しているが、事件の原因が妹になじられたことのみにあるのなら、そのときの激情を回避する手だてが現代の青少年にないことを痛感する。先日「狂気について」を執筆したが、人間心理の狂気を常日頃から認識しておれば、主観を制御する心理トレーニングを実行することもできたであろう。今日の義務教育が自己を客観視するトレーニングから遠ざかっていることにも一因がある。


 


現在のぼくは与謝野晶子、石川啄木の短歌を再認識しているが、関心の向く短歌となると抒情性や感傷性の色濃くない作品である。


 


それでやむなく(事情があってということだが)「短歌人」という全国的規模の結社の会員となって、作歌の手ほどきを受けることにした。五七五七七は理解していても、ぼくの作った物が短歌なのかどうかその判断すら不確かな未熟さであった。歌人に、はい、これは短歌になっております、と指摘して貰わないと不安であった。しかしなあ……与謝野晶子や石川啄木のような詠い方のヒトに指導されると、拒否反応がでるかもと案じていた。


 


毎月15首ほど作って郵送すると、このなかから幾分ましと思える歌を歌人の高瀬一誌氏が選んで、結社誌に載せてくれる。高瀬一誌氏が「短歌人」の代表蒔田さくら子と並ぶ大幹部であることは、結社誌を眺めていてわかったが、斎藤茂吉ほどの歌人であるかがわかっていなかった。指導して貰うかぎり取りあえずは一流の人物にと密かに願っていた。それで角川の「短歌」、短歌新聞社の「短歌現代」といった現代短歌の総合誌を数冊買って来て通読したら、高瀬一誌氏が「短歌現代」に〈歌誌月旦〉というものを載せていた。毎月発刊される歌誌を数冊ピックアップして批評。これなら相当の歌人で評論家であると想像、一安心した。


 


そうなると今度は高瀬一誌氏の歌風なるものが気になる。見本に郵送されてきた「短歌人」(1998 6)の同人1中の氏の作品をご紹介する。この時点では高瀬一誌氏がぼくの作品を見てくれるとはわかっていなかったが。


 


電線のゆきつくところ大いなる森を駅名「森林公園」と称す


わが顔に力があらずと真昼間電車の人は語ったか


あめ降らぬ 部屋の隣はシヤチハタのスタンプ台使う人ならん


水を汲み死人の口へ運ぶかな八王子人形かんたんならず


階段を上がって生まれし姪の子は金太郎様と名付けられたり


電灯を消し忘れたのではなかったな人間ふたり立ち上る見ゆ


解剖が終わったあとから坊屋三郎髪のふさふさ残ってしまう


船団をこの頃はみたことがない さみしさびしの女が飲みぬ


おしろいの花咲くところゆく北京のバスは解放という


 


読み終えて、短歌へのぼくの既成概念が打破された。これも短歌か……しばらく唸っていた。この歌人ならぼく向きと思った。その後二年間高瀬氏に従(つ)いて作歌に励んだ。この頃に「現代短歌人」のブログに時折出てこられる、歌人鶴野佳子さんとお付き合いするきっかけがあったが、このことは後日執筆。


 


高瀬氏はぼくが事情あって作歌から離れた後、一年後に逝去された。ご好意に創作で何一つ報いていないのが残念。


 


神戸新聞の短歌の選者である歌人米口實氏が、高瀬一誌氏のことを「眩」47号に書いておられるので引用させて貰った。ここに出てくる歌人辰巳泰子さんとも多少の縁があった。電話を二度ほど頂戴した。


 


これを読んでぼくは高瀬氏の壮絶な時期にお世話になっていたことを知った。大阪で一度お会いしたのがぼくにとっての多少の慰めである。




高瀬さんの遺歌集など


 


 高瀬一誌さんが亡くなって「短歌人」が追悼特集を組んだのは去年の12月号だった。そしてこのほどその遺歌集『火ダルマ』が送られてきた。感慨、ひとしおである。
 彼が咽頭癌で入院したのは1194年の3月だった。そして2000年の秋には内臓転移で入院手術ということになる。それから翌年の5月12日の死去まで、壮絶な闘病生活があった。この歌集の初出一覧を見るとその歌は『スミレ幼稚園』以後のもの、1996年の「短歌人」6月号から始まる。それはもう彼が病因を意識してから2年後のことになると思う。すでに、その初期に
  断つという音のいろいろ分析をつくしてガンの音がのこりぬ
  横転でも回転でもいいが死に顔はこうときめた男だ
がある。そして、歌集の終わりのころの
  旨き茶があり 旨き茶もなし眠れば別れ別れぞ
まで、彼はまっすぐに死に顔を向けて生きて来たのだと思う。
 高瀬さんの歌は一般には異色だと思われて来た。意識的に定型を外した律調、極端に場面を省略する手法、そして日常に素材を採りながら日常現実からさらに深層に嵌入してゆく主題の置き方、すべてが旧来の歌壇の常識となった情景描写という方法からは隔離されていたのだ。それは濃縮されれば詩としてはエピグラム(箴言)に近いものになってゆくだろう。
 彼の『スミレ幼稚園』から作品を引く。
  さんざんあそんだあとでこの水さいごは水に喰われてしまう
  この金亀虫の死ぬふりはまず足の動かし方からはじまりにけり
  天才は眠らせておけ 斎藤茂吉の首に雪はふるもの
 私はこういう作品に高瀬さんの短歌の完成度を見ていた。そもそも近代短歌は事実を切り取るというところから逃れることが出来なかった。その場合、事実をとりまく現実の諸条件を切り捨て、省略することが如何に困難であるかということは多くの短歌作法書のいうとおりである。高瀬さんの短歌はいわばその対極にあった。もうこれからの歌壇に彼のような作者は登場しないだろう。
 死に顔を向けて生きる、と言えば私には最近、とても辛い経験があった。今年の4月21日、「短歌朝日」の創刊5周年の記念パーティが東京会館であった時のことである。編集スタッフの市原克敏さんが会場の入り口近いところにぽつねんと立っていた。まるでお客のようである。「どうしたの」と声を掛けると「ちょっと出先から来たものですから・・」という返事が返って来た。何か会合でもあってそれに出席したのか、とふと思っていた。それから、突然の彼の死を知ったのは辰巳泰子さんのホームページだった。5月7日がお通夜、8日が葬儀だったという。あまりにも急な死に方であった。
 ながらみ書房の及川さんと電話で話していて、彼の死因を聞いて愕然とした。その日も彼は病院から会場に来たのだった。その時の彼の顔色は黒ずんでいて今から考えると不審を持ってもよかったのだ。彼もまた死に顔を向けながら生きていた一人だったのか。
 人間は否応なく死ぬ。死ぬことが運命づけられているのだから、われわれはそれから目を背けるべきではない。(下線は喜多)


 


◆高瀬一誌の短歌
http://fss926sei.hp.infoseek.co.jp/takase.pdf