辞世の短歌というものを検索していたら、2005年3月、乳ガンの転移で享年34歳で他界した歌人、宮田美乃里さんのこれにぶつかった。病床の写真があるだけになんとも言いようのない、暗澹(あんたん)とした気持ちになった。専門医ですら治せない病苦である。そしてすでに逝去されている。助けてあげることができないだけでなく、慰安の言葉一つかけてあげられない。
だから何をどう書くべきかと迷い、茫漠(ぼうばく)たる気分をもてあましていたのだが、数日前から大江健三郎の東大仏文科の恩師、フランス15、6世紀、ルネッサンス当時の人文科学、主にラブレーとモンテニューの足跡を学問された、渡辺一夫の評論集『狂気について』(岩波文庫)を読み進めていた。 枕頭(ちんとう)で読んでいた箇所が「不幸について」であった。その中に――(前略)生物のなかで、人間だけが己の死の必然を知る唯一のものということが考えられるならば、おそらく不幸を感じる唯一の生物はやはり人間であろうと思われるのです。――(前略)つまり、生きていながら、即ち生命体の恒常ないとなみが続けられていながらも、それを客観視して、このいとなみの終焉ないし中絶を考え、死の概念を捕らえるのかもしれません。死は別としても、我々が不幸だと感ずるのは、我々の生命体の恒常ないとなみが阻害され、一時中断された場合、それを客観視したときに抱く感情でしょう。――
実際この通りであって、宮田美乃里さんの遺された短歌、辞世の歌を読みながらも言葉を発することができないときは、〈以(もっ)て瞑(めい)すべし〉という、つまり安らかにお眠りくださいという意味合いの言葉を胸に呟けばいいのだが、死イコール眠りと想ったことのないぼくには、このような便利な言葉も使えない。 一度全首を流し読みしたが、いまは一部、二部と丹念に読んでいるところである。悲痛な魂の記録を読んであげることしかできない。
不幸という言葉のなかには矛盾とか不合理という判断も含まれているかもしれない。
ぼくは高校生の頃からあるいは小学高学年の頃から、早死にをすると決めてかかっていた。父親が敗戦後間もなく肺結核で亡くなった。四国の山奥の貧村から東京に出で慶應義塾の理財家を卒業、三井財閥系の商社マンであったが36歳で死んだ。ぼくはそんな父親を尊敬もしていたし、とても父親を超えることはできないという精神の脆弱(ぜいじゃく)な若者であった。父親の歳を超さないうちに死ぬだろうと予測していた。 結婚をし子どももいたので、そのための用心と生命保険を三本も加入していたのだが、36歳を超えても死なない。うろたえて腹違いの姉に電話して父親の死んだ歳を確認すると、あんたお父さんの亡くなった歳くらい覚えておきなさい、42、男の厄年、おばあちゃんが嘆いて、近所の神社の石段を毎晩お百度参りし、井戸水で水浴びしていたのを覚えています、とこっぴどく叱られた。そうか42歳までは死ねないのかと受話器を下ろしてから思ったのだが、その42歳を超えていまだに生きていることを考えると、死にたくないと病床で思っていた宮田美乃里さんの希望と、いつ死んでも構わないと思っているぼくとの選別を、神仏は間違っているのでないかと、その不合理を考えないわけにはいかない。
このことは彼女の事態だけでなく、これまでも身代わりになって先に死んであげたいと思った個人が何人か記憶にあるが、先に病没、事故死している。 それにしても辞世の短歌というものは、検索では戦国武将とか太平洋戦争での特攻隊の若者の辞世の短歌がヒットする程度で、ぼくが想っているような歌はなかった。唯一宮田美乃里さんの短歌にヒットしたが、病床の写真と遺作に暗然となった。
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