喜多圭介のブログ

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尾崎放哉(2)

2007-02-02 15:36:26 | 俳句・短歌と現代詩
放哉と並び称される自由律、放浪俳人山頭火の句と比べると放哉の句には「一人」という表現が異常に多いのです。このことは山頭火以外の俳人に比較しても割合は多いのではないかと推察します。代表句の一つは、

せきをしても一人

です。この句については、川端康成の最後の作品『隅田川』に、つぎのような場面がでてきます。東京駅の通路で不意に、街頭録音のためのマイクをつきつけられるところです。

「季節の感じを、ひとことふたことで言って下さい。」
「若い子と心中したいです。」
「心中? 女と死ぬことですね。老人の秋のさびしさですか。」
「咳をしても一人。」
「なんと言ひました。」
「俳句史上最も短い句ださうです。」

この場面を書いたときの川端の心境はよくわかります。「若い子と心中したいです。」という「若い子」にはひっかかりますが、川端の晩年の作品だけでなく初期の作品『伊豆の踊子』から考えても、川端には少女嗜好がありました。しかしながらあの鋭い禽獣の眼光ではいくらノーベル賞受賞の文豪とはいっても、少女どころかおとなの女性も彼には近付きがたかったでしょう。

子供の頃から肉親の愛の薄かった川端の孤独は、彼の容貌によってますます悲劇性を増し、不可解な自殺で孤高な人生の幕を下ろすことになりました。最晩年に川端は放哉の孤独、「一人」について思案していたことがわかります。

放哉が「一人」を表現した句を、調べた範囲で掲載しておきます。

須磨寺時代

雨の日は御灯(みあかし)ともし一人居る
高浪打ちかへす砂浜に一人を投げ出す
一人のたもとがマツチを持つて居た
一人つめたくいつ迄籔蚊出る事か
こんなよい月を一人で見て寝る
曇り日の落葉掃ききれぬ一人である
こんなよい月の夜のひとり
たつた一人になり切つて夕空
淋しいぞ一人五本のゆぴを開いて見る

小浜・小豆島時代

一人分の米白々と洗ひあげたる
臍(へそ)に湯をかけて一人夜中の温泉である
大根ぶらさげて橋を渡り切る一人
きせるがつまつてしまつたよい天気の一人である
縁に腰かけて番茶呑む一人眺めらる
土瓶がことこと音さして一人よ
寝ころぶ一人には高い天井がある
夜がらすに蹄かれても一人
人の親切に泣かされ今夜から一人で寝る
どうせ一人の夕べ出て行くかんなくづの帽子
御佛の灯を消して一人蚊帳にはいる
さゝつたとげを一人でぬかねばならぬ
山かげの赤土堀つて居る一人
一番遠くへ帰る自分が一人になつてしまつた
蚊帳のなか一人を入れ暮れ切る
昼も出て来てさす蚊よ一人者だ
一人の山路下りて来る庵の大松はなれず
たつた一人で活動館から出て来た
芋畑朝の人一人立てり
ふなうた遠く茲にも閣いて居る一人
青空焚きあぐる焚火大きくて一人
ぺたんと尻もちついて一人で起きあがる
海を見に山に登る一人にして
昼月風少しある一人なりけり
島の人等に交り自分一人帽子かぶつて居つた
夫婦で見送られて一人であつたは
一人呑む夜のお茶あつし
一人の道が暮れて来た
又一人雪の客が来た
一人住みてあけにくい戸ではある
海風に筒抜けられて居るいつも一人
月夜風ある一人咳して
咳をしても一人
墓地からもどつて来ても一人
一人でそば刈つてしまつた
一人豆を煮る夜のとろとろ火


数ある「一人」句の中で私の好きな句を以下に選んでみました。

たつた一人になり切つて夕空
淋しいぞ一人五本のゆぴを開いて見る
臍(へそ)に湯をかけて一人夜中の温泉である
土瓶がことこと音さして一人よ
一人の道が暮れて来た
海風に筒抜けられて居るいつも一人
月夜風ある一人咳して
咳をしても一人
墓地からもどつて来ても一人


ほかにも以下のような「一人」の句はありますが、これらは放哉「一人」という意味ではありませんので、考察の脇に置いておきます。

なぜか一人居る小供見て涙ぐまるる
人一人焼いた煙突がぼかんとしてる夕空


それにしても凄まじい数の「一人」句ではありませんか。このことは放哉の何を表しているか、ここを考察するのが、ここでの当面のテーマです。

放哉は中学時代、鳥取県第一中学校の第三学年頃から短歌や俳句をつくるようになりました(明治30ー35)。一高時代(明治35ー38)、大学時代(明治38ー42)、以後数多くの作句がありますが、「一人」という表現が表れるのは、須磨寺の寺男をやっていた頃からです。

尾崎放哉(1)で放哉の略歴を書きましたように大正十二年(1923)三九歳の十一月に妻と別居、京都市内左京区鹿ヶ谷の西田天香が主催する修養団体、一燈園に入り、以後「一人」暮らしを始めます。大正十三年に一時期須磨寺の寺男になりますがすぐに辞めています。

「一人」と表現していても一句、一句詳細に吟味すれば「一人」の意味は、たんに自分一人という人数を表したものではないということに気付くはずです。

とくに代表句の、

せきをしても一人

の「一人」は実に象徴的な表現で、この「一人」には放哉そのものが不在という大変な意味合いがあります。よくぞここまで極めたものだと感嘆し、息を呑んでしまいます。

ここでふと思い出すのが、浄土真宗開祖、親鸞聖人の、

親鸞は弟子一人(いちにん)ももたずさふらふ。

です。本願寺教団は浄土真宗中興の祖蓮如の時代から今日まで我が国一大勢力の念仏集団でありますが、開祖親鸞は「弟子一人(いちにん)ももたず」であった。弟子を持たないということは親鸞「一人」であったということです。

親鸞「一人」でなければならなかったのです。このことが親鸞にとって弥陀の本願への必要条件であったのです。このことを補強しているのは、これも『歎異抄』中の有名な文章、以下です。

たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。善導の御釈まことならば、法然のおおせそらごとならんや。法然のおおせまことならば、親鸞がもうすむね、またもって、むなしかるべからずそうろうか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。

私は高校生の頃に間違った解釈をしながらも「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。」と、陶酔したように口ずさんだものです。つまり『歎異抄』の毒気に当てられたのです。

さて親鸞の「一人」とは何を象徴しているのでしょうか。私の解釈は親鸞→法然→善導→釈尊→弥陀、すなわち親鸞=弥陀という強い自覚の「一人」です。人数の一人ではないのです。同じ事が、

せきをしても一人

にもあります。この句の「一人」は放哉であって放哉でない、放哉=弥陀の境地に辿り着いていたのではないかと思われます。この境地に至って放哉は救済され、弥陀の本願に至っていたのです。

放哉は、大正十四(一九二五))年十二月二日、南郷庵からの島丁哉宛の手紙で、「俳句は宗教である。」と以下のように書いています。

放哉ハ俳句ハ詩ト同時二宗教也ト中シテ居リマス 於茲、非常二苦心スルノデアリマス、何故と申スニ、自分ノ人格ノ向上二連レテ私ノ句ガ進歩スルヨリ外二ハ私ニハ途がナイノデアリマスカラ自己ノ修養ニツトメナケレバナリマセン ソコデ句作リガ私ニハ、大問題トナッテ居ルノデアリマス。

また飯尾星城子宛の大正十四年九月十四日の手紙には、

俳句は詩であり、宗教である筈であります。私の句は、ですから、「こんな事をしたり、考へたりして居るのは果たして自分だらうか? 平生の自分はコンナ事をやつたり、考へたりすることはナイ筈なのだが、而し事実やつてる、シテ見ると矢ッ張り自分は自分なのかな? ナンダカ分からなくなって来たゾ、自分なのか、自分でないのか、どうだらう? 其呆然として、自己が「空」になつてゐる端的の表現と思つて下さればよいのです。

この心境は仏教でいう「梵我一如」の世界。『歎異抄』の「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐる」であり、「弥陀の本願」であります。この弥陀の本願が放哉の身上に成立していたのです。