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喜多圭介のブログ

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魔多羅神20

2008-09-11 14:43:40 | 魔多羅神
 二人はテーブルの前のソファに、向かい合って腰を下ろした。翔平の大学当時の友人が、信楽焼を趣味に焼いていた。翔平は熱湯のジャーで、ティーパックのほうじ茶を信楽焼の大振りの湯呑みに注ぎ、両手に持って運んできた。
 三歳違いで容貌は似ているところがあったが、体型はこれで兄弟かと他人が見たら思うほど、まるで違っていた。翔平は恰幅のある、七福神の大黒を髣髴とさせるタイプで母親譲りであったが、宮本は祖父、父親譲りの痩身だった。宮本はこうやって一緒に食事していると、あまりの違いが滑稽に思えてくることがあった。が性格は体型を裏切っていて、翔平は鈍重でもなく何事も鋭敏に判断し、迅速に行動する男だった。
「それで祗園か木屋町でええおなごでも見つかりましたかな」
 翔平は前から宮本の再婚を促していた。
「そんなんと違うのや。東寺の仏像を見てきたのや」
「おなごでなく仏像ですか。近頃、兄さんはますます抹香臭なってきたのと違いますか。あれでっせ、いまは男も平均寿命が七十五歳を超えてます。兄さんかってあと十五年、人生楽しめまっせ。それを兼好法師のように一人で暮らしはるんですか」
「吉田山でぶつぶつ随筆書いてか。そらァちと侘びしすぎる」
「英恵がな、兄さんにええ女性世話すると息巻いてまっせ。教会の毎月のバザーを一緒に世話している女性。五年前にご主人亡くしはった五十二歳の女性でな、女学院の英文科出やそうな」
「神戸女学院か」
「そうや。結婚してからは主婦やったから、特別語学を活かしたわけやないけど、上品な才女で、いまは趣味のフラワー・アレンジメントの教室をやってはる」
「生花か」
「生花もそうやけどドライフラワーもしてはるので、フラワー・アレンジメント」
「そうか。まあ歳は五十二でも不足はないけど、フラワー・アレンジメントやと謎のない女性ということになるな」
「何ですか、その謎とは」
「謎のある女のほうが魅力あるやろ」
「あれぇ、いつからそんな贅沢なこと考えるようになったんですか。英恵に話したら腰抜かしますぜ」
 翔平は大柄な肩を揺すって笑った。
「なんや隅におけんことを思案してるな。どこぞにそないなおなご隠してはるのかいな」
「いや、そんなんはおらんけどな。あと十五年も生きなあかんとなったら、一緒にな、謎解きするひとのほうが退屈せんやろ」
「ますます困ったこと言いよるな。英恵には内緒にしとこ」
「侑子がな、あないな死に方しよったのはな、ぼくがな、あれと一緒に謎解きせんかったからや」
「ふうーん」
「違う言い方すると、同じ汽車に乗ってなかったということや。最初は一緒の汽車に乗っていたかもしれん。しかしいつの間にか二人とも違う汽車に乗り換えてたんやな」
「言うてることわからんこともないけど、もう侑子さんのことは卒業しなさいな。啓治も立派な医者になってるのやで」
「あんたがちゃんと育ててくれて感謝してる」
「そないな話と違います。再婚ですがな」
 翔平はじっと宮本の眼を見て、釘を刺すように言った。
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魔多羅神19

2008-09-11 07:36:28 | 魔多羅神
 三章 秦河勝


 宮本クリニックは、祖父の代から続いている精神科・神経科病院で、阪神間ではよく知られている。当初は宮本精神病院であったが、息子の啓治がクリニックとしたほうが、患者やその肉親に印象がいいという提案で改名した。いずれ息子に引き継いで貰わなければならないので、啓治が意欲を出してくれる病院名であったほうがいい、と宮本は思った。
 父も医者、宮本の姉は医師ではないが、名古屋の同業の医師のところに嫁いでいる。弟の翔平も医師、一人息子の啓治も医師という、医者一家である。祖父と父はどちらも七十に手の届かないうちに、脳溢血、心筋梗塞で亡くなった。
 宮本は短命の血族と思い、自分もあと四、五年で急逝するのではないかと予感していた。 三階建ての横に伸びた白亜色の病院は、新幹線の走る山麓寄りにあり、南向き病室からは神戸港が一望できた。北側は山になっていたが、モダンな造りの別荘が散在している。病院に近い部分の森林一帯は、病院の地所だった。
 息子夫婦と同居している二世帯住宅は、病院の近くにあった。歩いて十分たらずの距離だった。
 六十歳になるまでほとんどこの地で過ごした。変化の少ない、環境の良い場所で育ち、侑子が死んでからは、自分が苦労らしい苦労を経験しない温室育ちであったと痛感している。
 祖父は和歌山県高野山の山麓、学文路の貧農の出、地名やら弘法大師の影響で医者となる向学心を燃やし、苦学したようだった。宮本は小学校のときから勉強はそこそこにでき、経済的に苦学することはなく、すんなりと結婚し、いまに至っていた。
 仕事については興味があると言えばある、という心持ちであった。自分なりにはいまでも専門書籍、医学雑誌に眼を通していたが、昂奮を覚えるほどの感興は、これまでの人生で一度もなかったような気がする。弟の翔平の眼には、宮本は温厚、フラットな人格に見えた。
 翔平は中学から大学までは剣道をやっていたが、宮本はとくにスポーツに情熱を傾けることはなかった。忙しくなった翔平のいまの趣味は囲碁で、囲碁は三段か四段のレベルだった。病院内でも暇な時間を見つけると同僚と碁盤に向かっている。しかし宮本は読書に時間を費やし、頼まれた医学に関するエッセーを執筆する程度だった。
 何の疑問もなかった自分の生き方に、手応えを感じなくなったのは、侑子の自殺以後のことだった。いつの間にか、夜は枕元で宗教関係の本に親しむようになった。
 京都から戻った翌朝の昼前、宮本は窓際に立って、遠くに霞む白濁した色の神戸港を、ぼんやりと眺めていた。灰色を雲底に染めた白雲が空を賑わし、ゆっくりと北上していたが、のどかな風景だった。
 胸の中で、両角慶子の話した予知能力を反芻していた。
 ――予知能力はあらかじめ危険を察知し、その危険を避ける行動を採るところまでを指すのか、あらかじめ危険を察知するだけでもいいのか、どうなんだろう?
 予知能力は人間にも動物にも、あるいは植物でさえ持っているかもしれないという、知識はあった。
 脳は歩行運動を始める前に、歩行に関連する動作のメンタルなプランを立ててしまうことが、以前から神経科学者のあいだでは知られている。脳は歩行のために用いる神経細胞をあらかじめ活性化させ、即時に足を動かせるようにする。足をより効率的に動かせ、足以外の動作、同時に手でボールを投げるとかも可能になる。しかしこれを予知能力と考えてよいのか。
 慶子の場合は幻視がある。彼女はぼくが曼陀羅展示室に入る以前から、展示室の右手に立っているぼくを見ていたのだ。
 そうだ、いまは幻視の伴う予兆にかぎっておこう。でないと思考が煩雑になりすぎる。しかし幻視する例は、これまでも患者の中に多かった。
 ある女子高生の患者のことである。
 ――夜中にふと目覚めると、だれかがドアを開けて入ってくる足音が聞こえた。その子は、鍵をかけたはずなのにと訝って、ベッドを起き上がろうとした。だが体が金縛りにあって動けなかった。
 侵入者の顔は数学の教師だった。ひどく怖い顔だった。ベッドのかたわらに立つと、いきなり私にかぶさって、首を絞めてきた。恐怖で叫ぼうとしたが、一言も声が出ない。しばらくすると教師は不意にあきらめ、部屋から出ていった。すぐに眼が醒めた。いまの出来事は何だったのだろうと飛び起き、ドアの鍵を確かめてみたが、鍵はかかっていた。先生、あれは何だったの? ――。
「数学は好きですか」
「いちばん嫌な時間。全然わからない」
 強迫観念という思春期によくある幻覚を見たんだね、と応えたのだが、これを予知能力とは言わない。幻視、幻覚だ。予知能力は危険回避の行動まで含める筈だ。
 夢もまた内容によっては予兆の一種であろう。二十歳を過ぎた青年は、両親を殺す夢を何度も見、眼が醒めたときには額や首筋が汗染みている、とややおどおどした神経質な眼で説明した。
「子どもの頃、ご両親は厳しかった?」
「サラリーマンの父親は仕事一途で家のことに無関心だった。母親はいつも家に居たが、学校から帰宅するとすぐに勉強、勉強のの話しかしない、母親の心が冷たい感じで、ぼくはいつも脅かされている気がする」
「学校友だちと関係は巧く行っていた?」
「大勢でなかったけど、二、三人の友だちとは喋っていた」
「家族関係がホットよりはクールな雰囲気だった?」
「姉・妹を含めてクールで、なんか家族の繋がりがなかった」
「朝食、夕食などは一緒にして、そのときみんなで喋らないの?」
「父親が早く帰宅したときは一緒かな。週に一、二回は。テレビ観ながら食べるから、あんまり喋らんかった」
「両親を殺す夢の中にはお姉さんや妹さんは出て来ない?」
「出て来るときもある。恐怖に引き攣った顔で叫んだりしていて。なんか部屋の中が血だらけで、なにがどうなっているのかわからんけど、ぼくが金属バットで寝てる両親を殺したのは間違いないと思う」
「幻視しているのだね」
 慶子は弟の溺れ死ぬとこまでは幻視したが、救えなかった。
 今日では総合失調症と呼んでいるのだが、つい先だってまでは分裂症と呼んでいた。分裂症には幻覚、幻聴がある。しかし慶子が分裂症とは考えられなかった。宮本は眼を細め、正午前の陽光に鋭く反射している、銀板のような海面を眺めて思った。
 内通してある隣室のドアが開いて、いつもの保温式弁当の収まったバッグを手にぶらさげて、翔平が白衣姿で入って来た。宮本の保温式弁当は啓治の嫁の佐代子が、毎朝用意してくれた。啓治の物もだが、啓治は別室で若い同僚たちと食べた。病院内には食堂・売店があったが、医師も看護師たちもほとんど弁当持参だった。
「京都の桜は満開だったかね」
「咲いてた」
「昨夜三宮に飲みに出たが、こっちも生田川は満開の夜桜や」
「あそこも綺麗に咲くな」
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魔多羅神18

2008-09-10 07:17:29 | 魔多羅神
     *


 慶子は寝室のダブルベッドで、乳首の立った煩悩の体で悩ましい悶々の夜を過ごした。
 宮本があのようなことを言うとは、意外だった。情欲にぎらぎらした男性でないことはわかっていたが、二人が一緒に寝ることは自然な成り行きではなかったか。しかし――ワイフのことで一度失敗しているぼくとしては――と言われてしまうと、納得しないわけにはゆかなかった。自分を大切に思ってくれている真情が胸に響いた。
 それにしてもなんとも我が身が侘びしく、やるせない。男に魅力のない女になってしまったのだろうか。いやそんなことはない。宮本は魅力を感じてくれていた。しかし抱こうともしないで、さりげない態度だった。――ワイフのことで一度失敗しているぼくとしては――は、私を避ける口実ではなかったのか。そうも思えない。
 慶子は眼が冴えていた。このままでは眠られない。体に情火が点ってしまった。自然と片手の指先が真新しいショーツの下に滑り込んだ。
 宮本は隣室で物音も立てずに眠っていた。
 慶子は独り寝の秘儀に耽り始めた。CDで憶えた『理趣経』の十七清浄句を、抑揚をつけて酔ったように唱え始めた。
 ――せいっせいほうせいせいくもん・そい・びょうてき・せいせいく・しほさい・よくせん・せいせいく・しほさい・しょく・せいせいく・しほさい……
 顔を火照らせて、淫らに陶酔していった。瞼の裏に魔多羅神と踊っている二童子の画像が現れ、二童子の踊りがしだいに烈しくなり、狂った様で乱舞した。その中央に魔多羅神が奇妙な笑顔で立っていたが、その顔が宮本の顔とだぶった。
 ――あいはく・せいせいく・しほさい・いっせいしさいしゅ・せいせいく・しほさいけんせいせいく・しほさいてきえっ・せいせいく・しほさい……
 慶子は白い体を反り、白い太股を痙攣させ、即身成仏に上り詰めようとした。
 ――あい・せいせいく・しほさい・まん・せいせいく・しほさい・そうげん・せいせいく・しほさい・いしたく・せいせいく・しほさい……
 しかし駄目だ。肉体の快楽に過ぎない。涅槃の恍惚ではない。額にも背中にも汗一つ掻かない。淫欲熾盛の境地にたどり着かないうちに、果てた。
 虚しかった、虚しかった。希望の見出せない虚しさの、波間に漂うばかりだった。
     *

 翌朝九時前に宮本を助手席に乗せると、阪急の松尾駅に向かった。雲一つ浮かんでいない青空がひろがっていた。
 JR京都駅まで乗せて行くと言ったら、高槻で急行に乗り換え十三で、神戸線に乗るからいい、と断られた。
「今度来るときは阪急に乗ります」
「松尾駅から歩いて十五分でマンションです」
「慶子さんと一緒に曼陀羅の勉強をしたら、生きている張り合いになる。こんな年寄りで良かったら、いろいろと教えてください」
 丁寧な口調で話したあと、ワイフに駆け落ちの末に自殺されたぼくは、これ以上女性に迷惑を掛けたくないと思って臆病になります、と自省めいたことをぽつんと呟いた。
 静かな駅舎の前で宮本は降りた。この時間だと乗客の姿は少ない。
 構内に吸い込まれていく宮本の背を、車の中から眺めていた。途端に慶子の胸に突き上げるような寂しさがこみ上げた。助手席のウインドーを下げると、毎月一、二度来てください、金曜日の夜に電話してくれたら待ってます、と懇願する思いで叫んだ。
 宮本は振り向き、了解したように片手を挙げた。

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魔多羅神17

2008-09-10 06:45:05 | 魔多羅神
 ――シシリシニ・シシリシ。ソソロソニ・ソソロソ。
 自分が童子になっていた。
 丹念に体と髪を洗い、極上の下着を身につけ、パジャマ姿になると、ドライヤーで髪を乾かし、簡単にスキンケアをしてから居間に入った。宮本は椅子に座っていた。
「お飲みになりました」
「ハムは少し戴きましたが、アルコールは慶子さんの出るのを待っていました。ぼくは一人のときは飲まない」
「そうだったんですか。すみません」
「気にされなくて結構ですよ」
「それじゃ私も少しお相手します」
 慶子は二つのグラスにスコッチを注ぎ、ミネラルウォーター、氷を加えた。
「ありがとう」
 グラスを合わせた。
「一人で飲まれるのですか」
「疲れたときの寝酒。ビールは飲まないのですが、ウィスキーかブランデーを少し飲んでから寝ることがあります」
「いつも一人というのは侘びしくない?」
「それは侘びしいです。でもいい男性を見つけられなくて。なんだかこの歳になると面倒な気持もあって」
「まだ若い。どこかにいないかな、いい男が」
「初々しい恋心は二十代までですね」
「若い頃はひとによっては恋心イコール性欲という面もある」
「そうかもしれませんね。私の年齢ではなんだろうか」
「臨床医の診断としては、満たされたいという思い。性欲よりもっと深いかも」
「即身成仏」
「うーん、成仏してしまったらつまらない」
「アハハ、そうですね。一回切りで終わってしまって。生き返らないと」
 慶子の胸は笑ってもどきどきが収まらなかった。
「あのう、寝室のベッドで眠られますか」
「いや、先程のところでいいです」
「狭いし、一晩だとお疲れになりますよ。寝室はダブルです」
「そんなところで寝たら慶子さんを抱いてしまう」
「あら……でも怒ったりしません」
「いやよしておきます。こちらで寝ます。あ、誤解しないでください。慶子さんはぼくには魅力があります。だけど今日ここに来たのは、まったくのアクシデント。そうでない日のほうが、ぼくとしては気持がすっきりします。ワイフのことで一度失敗しているぼくとしては、気楽な気持であなたを扱いたくないのです」
 宮本は慶子の心を傷つけてはならない、と慶子の表情を読む眼差しだった。
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魔多羅神16

2008-09-09 15:05:19 | 魔多羅神
「月明かりで蒼白く見えると思いますが、そこです。いまはコンクリートですが、そこで流れをせきとめ、水量を高めてから西岸へ流して、川水路を通して田畑に引き入れてるのです」
「見えます。これがそうですか」
 宮本は橋桁の下を身を乗り出して眺めていた。
「観光客のかたはほとんど知らないでしょうね」
「残念なことだ。こういうことを知っているだけで、朝鮮半島の人々への認識は相当変わるのだが」
「平安時代初期の八一五年に編纂された『新撰姓氏録』には、秦氏は秦の始皇帝の末裔、という意味の記載があります。秦氏の祖先の活躍は応神天皇の時代に始まり、雄略天皇の時代にも祖先が活躍したという伝説があります。歴史的な活動が顕著に認められるのは、推古天皇の頃の秦河勝からですが、この秦河勝が私が探求しています『理趣経』に絡んできます」
「ほう『理趣経』にね」
「河勝は芸能神でもあるのです。能楽の世阿弥は『風姿花伝』で、猿楽の祖は秦河勝であると書いてます。観世弥、世阿弥親子は秦河勝の直系子孫だと思います。秦一族は蘇我、物部ほどには日本の歴史では知られていないでしょ」
「そう言えばそうですね」
「一つの理由は秦氏が技術、芸能集団であって、当時の天皇中心の権力闘争から身を退いていたこと。二つは日本書紀に記載されていますが、秦河勝は推古天皇十一年、六〇三年に寺院を建立しました。山城最古の寺院で、広隆寺のことです。このことで厩戸皇子から仏像を、弥勒菩薩半跏思惟像を賜りました。これが国宝第一号の仏像です。このことから見てもわかるように、彼と厩戸皇子の繋がりはとても深い。つまり彼は厩戸皇子の治世の有能な行政官だったのです。仏教の推進者の一人でもありました。だから厩戸皇子一族が蘇我氏に滅ぼされると、秦一族も歴史の表舞台からは消えていきました」
「なるほど、慶子さんの話を聞きながらぼくもちょっと考えたんだが、ぼくたちは『理趣経』にしても魔多羅神のことにしても、現代人の思考で考えている。しかし平安時代やそれ以前の時代の高野山、比叡山、この辺りの山岳にしても、それに京都の北の鞍馬山、あそこは魔王尊が本尊だ。こういった時代の山岳に住んでいる人々、男女と真言密教、天台密教との関わりには、平坦な盆地であった京都、奈良の民衆、それに公家や僧侶とは、まったく異なった生活様式、秘儀といったものがあってもおかしくはないと想像されるのです。そしてそれは多分にエロチックなもの、とても盆地の人たちには口外しようのないものではなかったかと推察できる。だから真言にしても天台にしてもこの部分は秘密にせざるを得なかった」
「宮本さんもそのようにお考えになりますか」
「ええ。いまの秦河勝の話にしても朝鮮半島からの渡来人、それも芸能神ということになれば、意味はもっと深くてシルクロードに繋がっていて、インド、チベット、ペルシャあるいはエジプトにまで繋がっているかもしれない。正倉院宝物のなかにも、木画技術がエジプト発祥であるという物があると、正倉院の解説書か何かで読んだことがある。そうなると秘儀の意味は全人類的な真実となるのではないかな」
「そうなんです。私もそう思っているのです。そしてその真実とは法悦境、人間の真実の歓喜です」
「ぼくの専門で言うと、ベーター・エンドルフィンつまり脳内モルヒネ分泌の全開ということになますね。これは生半可な悟りではありませんね。いやはやぼくの年齢でエロスの極地に近付いても何もならないのだが、慶子さんの学問の研究に刺激されてしまった」
 宮本は慶子に顔を向けて笑った。
「そんなことはありませんわ。谷崎潤一郎には『鍵』、川端康成には『眠れる美女』があります。二人とも晩年の作品で、宮本さんはこのお二人よりも、ずっとお若いじゃないですか」
「そうですか。慶子さんはこうした研究を学生さんにも講義されているの?」
「いえ、『理趣経』の世界はまったく個人的研究ですし、まだ中途半端なものです。妖しい魅力に取り憑かれてますの」
「お嬢さん育ちだそうだけど、妙な道を研究するようになりましたね」
「アハハ、お転婆娘の気持が荒んできたせいですよ。もしかしたら私の本性が剥き出しになってきたのかも。宮本さんに診断してもらわないといけませんわ」
「医者として患者の診断はできても、個人付き合いの診断は誤診するだろうね。女性のことはわからないな。それはそうと今夜ぼくがあなたのところに泊まる羽目になりましたけど、予兆がありましたか」
「私の予兆は最初のきっかけのときに働きますので、何て言ったらいいか、ドラマの進行中は滅多に視ることはありません」
 慶子は宮本を雌豹の瞳でじっと見つめていた。その瞳にも月の光が映っていた。
 十時過ぎにマンションに戻って来た。
 慶子は厚めのロースハムをフライパンでバター炒めにしてから皿に載せると、脇にレタス、ミニトマト、胡瓜を置いて、テーブルに運んできた。それからスコッチの瓶とグラス、ミネラルウォーター、氷の用意をした。
「よろしければ先に召し上がっていてください。シャワーを浴びてきます。テレビ点けましょうか」
「いいです、滅多に観ない。窓の外を見てますから」
 慶子は宮本の使った湯を温めて、その中に体を沈めた。子供を産んだことのない慶子は、乳房に弾力があり、瑞々しい体だった。首まで浸かって沈思黙考の顔付であった。横たわっている白い体を眺めた。醜い体型でないと思った。
 ――寝室のベッドで一緒に寝てくれるのかしら?
 そう思った途端、乳首がピンと立ち、しだいに胸の動悸が速まってきた。欲望はあったが、離婚以来、セックスは皆無だった。
 ――あんたはずっと一人だったものね。
 体に呟いた。
 魔多羅神と踊っている童子の画像が眼に浮かんだ。
 ――シシリシニ・シシリシ。ソソロソニ・ソソロソ。
 小声で歌うように口にしてみた。
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魔多羅神15

2008-09-09 10:34:23 | 魔多羅神
 宮本は神妙な顔付で黙って食べ始めた。しかしそのうち、ぽつんとした口振りで、「ワイフは七十年代初めだったかな、岸洋子の〈希望〉という歌をカセットテープでよく聴いていました」と言った。
「希望という名の あなたをたずねて」
「そう。最近、この歌の意味がわかりかけてきた」
「そうですか」
「ワイフは結婚してからも何かを追いかけていたのですね」
「それで汽車に乗られたのでしょうか」
「だと思います」
「でも淋しい結末ですね」
「ぼくも最近は終わりのない旅をしているような気分です」
「宮本さんはロマンチストですね」
「このことにもっと早く気付いておればよかったのですが……もう遅いですね」
「そんなことはありませんわ」
「父親の後継いで医者になって、ワイフとは見合い結婚。苦労知らずの育ちだった」
「お見合いでしたの」
「父の学友の末娘とね。ワイフが死ぬまでは夫婦としても、何の疑問も抱かない人生だった。それが間違いだった」
「私も離婚するまでは、ただ勉強好きなお嬢さんでした」
「そうですか……おいしいな、お代わりをください」
 宮本は慶子に茶碗を差し出した。
「息子の嫁はこういう和え物は作れないな」
 しんみりした口調だった。
「夕食後嵐山にでかけません」
「ああ嵐山、いいね」
「車で十分ほどで渡月橋に着きます。今夜は月夜ですから綺麗です」
「近いんだな」
「お店はほとんど閉まってますが」

     *

 夕食後、慶子の運転で、桂川に添って渡月橋に向かった。車の往来はすっかり減っていた。渡月橋近くの十字路のメインストリートの土産物店はどこも閉じて、路上に、春の月光がほんのりとひろがっているだけで、人影もなかった。
「森閑としてますね」
「観光客は京都市内のホテルに泊まりますから」
 二人は橋の上に影を落として中程に進み、その場に佇んだ。黒々とした壁がのしかかってくるように、小倉山が迫っていた。
 保津峡から流れて来る瀬音が高かった。月光の欠片がきらきらと輝いていた。
「速い流れですね」
「夜はとくにそんな感じがします」
「よく来るの?」
「いえ、女一人だと怖いので」
「そうだね、車に連れ込まれる事件があったな」
「嵐山、嵯峨野もですが、厩戸皇子のブレーンであった渡来人の秦河勝に深い関わりがあります。秦一族の頭領なのですが、彼こそ魔多羅人なのです」
「厩戸皇子とは聖徳太子のことですね」
「はい、ですが聖徳太子は百年後の文献に出てくる名前で、聖徳太子は実在したかという議論が歴史学者にあるくらいです。また聖徳太子架空の人物で、秦河勝の影武者でなかったかという説もあるようです」
「聖徳太子が秦河勝であって魔多羅人?」
「兵庫県赤穂郡坂越町というところに、大避神社があります。秦河勝の没した土地です。ご神体は翁面と猿田面の二面が、一対になっているらしいのです。その翁面が魔多羅神であり秦河勝と言われています。中沢新一の著した『精霊の王』には、金春禅竹の書いた『明宿集』の内容を、中沢風に口語訳しています。それによると――河勝はまた始皇帝の生まれ変わりと名乗っているので、ますます「翁」であることは疑いがない。そういうお方であったからこそ、猿楽の道を創始されることになったのであろう――と」
「秦河勝がなぜ赤穂に?」
「厩戸皇子に肩入れしてましたから、太子没後は蘇我入鹿の圧迫を受け、赤穂に落ちのびたようです」
「ふうーん、翁イコール秦河勝か……」
「そして魔多羅神ということに」
「興味深い話だ」
「嵯峨野を含めてこの辺を開拓したのは、渡来人の古代豪族秦氏なんです。古代朝鮮には、三韓時代といって辰韓・弁韓・馬韓が競い合っていました。この三韓の一つであった辰韓の国を倒して成立したのが、新羅です。秦氏一族は新羅の国から日本に渡来してきた人たちです。農耕、土木、治水、養蚕、機織りの優れた技術集団で、平安京以前に未開拓地であった嵯峨野に農業を広めました。大堰川に葛野大堰という堰を造り、この地域で灌漑を営んだことは、秦氏が高い技術水準を持っていたことを物語っています」
「なるほど」
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魔多羅神14

2008-09-09 07:01:37 | 魔多羅神
     *


「あら起きられました」
 居間で身動きするソファのきしみに、慶子はキッチンから振り返って宮本を見た。窓の外は真っ暗になっていた。
「何時です?」
 宮本は自分の腕時計を眼前にして確かめた。
「六時ちょっと過ぎてます」
 慶子は部屋の壁に掛かっている丸時計を見てこたえた。
「えらく寝てしまった」
「四時に戻って来ましたが、ぐっすりとお休みだったので起こしづらくなり、もう一度買い物に市内のほうへ行ってました。さっき戻って来ました。ご都合悪くなければお泊まりになってください。夕食の牡蠣雑炊の用意をしてます」
「ここは何処かと一瞬ぼんやりしてました。そんなに寝入っていたのか」
「ええ、枕を横抱きにしたような恰好で」
 慶子は自然と朗らかな声になった。
「泊まってはお邪魔でしょう。明日大学は?」
「十時の講義ですから九時半に出ればいいのですけど、宮本さんを京都駅まで送っていきます」
「ぼくは今日帰らなければならないということはないのだが……電話ありますか。嫁に電話しておきます」
「このケイタイ使ってください」
 慶子は携帯電話を宮本に手渡した。
「電話番号を言ってください。呼び出しますから……お出になりました」
 慶子の耳に若やいだ女性の声が残った。
「佐代子さん……そうです……そう、それでこっちで友だちとあちこち花見して少し飲んだら……はい、はい……それで京都に泊まることにした……うん、そう……明日午前中に直接病院に行くって啓治くんに伝えておいて……はい、はい、じゃあ」
 慶子はやりとりをキッチンで聞いていた。
「お風呂に入られますか」
「そうだな、入らせて貰おうか」
「お湯を張りますから、ちょっと待ってください」
 慶子はバスルームに小走りした。出てくると、Mですが、下着の上下とパジャマを買って来てありますので使ってください、歯ブラシと髭剃りも用意してあります、と言った。
「ありがとう」
「洗い物は洗濯機に入れておいてください」
 宮本が風呂に入っているあいだ、慶子は久し振りに料理に精を出した。
 牡蠣を二百グラムと中のはまぐりを十個買ってきた。出し昆布と菜の花一把、うども買った。酢味噌は西京辛子酢味噌を用意した。はまぐりの茹で汁は清し汁にするつもりだった。
 夕食を作りながら、慶子は頬がほころんだ。
 ――泊まってくれと言ったので、あのひとは面食らっているのではないか。
 牡蠣雑炊のほうはほとんど出来ていた。あとは溶き玉子を回し入れてから、五分切り三つ葉を散らしたら出来上がり。はまぐりのほうは小鉢に、うどを枕にしてはまぐりの身五個、菜の花を立てかけて盛り付け、西京辛子酢味噌を半掛けすれば終わり。
 昼がすき焼きだったし、ご酩酊だったから、夜は胃もたれのしない物がいいだろうと思い、市内の市場で用意してきた。宮本がとくにこだわりの顔を見せずに、泊まることを応諾してくれたことが嬉しい。喜びが弾むように動く慶子の手に表れていた。料理しながらふと主婦であった頃の自分を思い出した。
「いいお風呂だった。すっかり慶子さんにご迷惑をかけてしまった」
 と言いながら、宮本はパジャマ姿で、姿を現した。
「パジャマ合ってます?」
「ちょうどいい」
 宮本は食卓の前の椅子に腰掛けた。
「いい匂いがしてる。どこまで買い物に」
「北野天満宮の近くまで。市場がありますの」
「そうでしたか。正体なくしてよく眠っていました。ぼくは寝床が変わっても眠れる。自宅のほうが駄目。眠りも短くなってきました」
「すっきりされました?」
「ええ」
 慶子は小鉢を二つ運んだ。それから清し汁と雑炊の鍋、茶碗と並べた。
「ご馳走だな」
 慶子は向かいに腰かけて、男物の茶碗に雑炊をよそった。
「何もありませんが」
「どうも。戴きます」
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魔多羅神13

2008-09-08 13:54:16 | 魔多羅神
「ぼくが仕事にかまけていて、ぼんくらだったのです。ワイフは九歳下でしたから、もう少しかまってやればよかったのですが、その頃は気付きませんでした」
「……」
「難しいものですね、男と女の関係は」
「そのときのタイミングとかが」
「タイミングね、そうかもしれないな」
 慶子は立ち上がると、隣のドアを開けて中に入った。
「シャワーを浴びられますか。私のパジャマでよかったらありますが」
「シャワーも結構です。一休みさせて貰ったら帰りますから」
「そうですか」
 慶子は手ぶらで出て来た。
「私の寝室ですけどベッドでお眠りになりますか」
「あなたのベッドでは余計に眠れない」
 宮本は微笑んだ。
 すると慶子はソファの近付き、背もたれのロックを外した。
「こちらでどうですか。少し狭苦しいですが」
「それはいいな。じゃあちょっと横にならせて貰います」
 宮本がジャケットを脱ぐと、慶子がそれを手に取り、寝室の方に持って行った。それから枕を持って出てきた。
「これを使ってください」
「ありがとう。それじゃしばらく横にならせてもらいます」
 そう言うと、宮本はズボン姿のまま横になった。
「嵐山も近そうですね」
「橋を渡ったところに阪急嵐山線の松尾駅があり、次が終点です」
「今度来たときは嵐山を案内してください」
「土・日は大学がほとんど休みですので、いつでも電話してください」
「横になると楽になりました。歳だな」
「宮本さんもおつらい思いをされたんですね」
「ああ、ワイフのことですか。もうすんでしまったことですが……ぼくより妻が哀れで」
「ちょっと私、近くに買い物に行ってきますので、ごゆっくりお休みください」
 慶子は自分が居ては宮本が眠らないだろうと思い、近所の中年夫婦が営んでいる喫茶店で、一時間ほど時間をつぶすつもりで外に出た。
「ええ天気ですな」
 マスターが、入ってきた慶子に声を掛けた。
「お花見に最高ね」
「どっかおでかけどした?」
「東寺と東福寺」
「えらい南やな。東福寺は桜あれしまへんやろ」
「まだ散ってませんでした。青々したところも見たくなって」
「そうどしたか」
 マスターはいつものマイルドブレンドコーヒーを運んで来た。
「松尾大社はひとが多いでしょ」
「観光バスが」
 慶子はゆっくりと新聞に眼を通すことにした。視線は活字の流れをなぞっていたが、思いは宮本の妻の駆け落ち、自殺というショッキングな事柄を行き来していた。温厚、純朴な顔立の宮本が、そんな過去を背負っていたとは。若い妻はどうして宮本を捨て、別な男に走ったのだろうか。宮本が九歳上としても世間には、一回り、二回り歳上の男性と結婚している例は珍しくもない。女遊びする男性とは、到底想像できない。
 医者の妻であれば身分、経済は安定しているし、子育ても容易ではないか。それを擲ってまで放射線技師の甘言に操られてと駆け落ちしたのは、ミステリアスな、魔が差したとしか考えにくかった。
 慶子は窓から路上にひろがっている春の陽を見つめながら、魔の知識を思い出していた。魔が差すは英語では、誘惑に負けるということだ。放射線技師のどんな誘惑に負けてしまったのだろう。私が佐川孝之と結婚してしまったのも魔が差した、いやあれは単純に、私に男を見きわめる眼がなかったという未熟がもたらしたものだ。
 魔は魔羅の略で、人の心を迷わし修行のさまたげとなるもの。また僧侶の隠語として陰茎、男根を表す。
 また『央掘魔羅経』という大乗経典がある。その解説書で記憶に残っていた箇所を、ぼんやりと思い出していた。
 こんな場面があった。
 世尊は「それではアングリマーラよ、汝は不邪婬戒を護りなさい」と言ったら、アングリマーラは世尊に次のような詩でこたえたという場面だった。
「私は不邪婬戒を護らない。人妻といつも遊ぶ。旗のごとくに赴く先は娼婦の館、あらゆる女とも交わる。〈三昧〉の喜びが私の妻。〈三昧〉以外の法を喜ぶことが、人妻との交わり。勇敢にして真実を喜ぶことが私の息子、慈悲が私の多くの娘たち。空を私の家として、無量の波羅蜜を寝床とし、諸々の煩悩にかしずかれ、密意された秘密の教えを食す。私の庭園は諸々の陀羅尼であり、七覚支という華で飾られている。解脱智という実を結び、私の法語が樹木。これらは家住者たちの最大の娯楽、愚者の理解を越えており、賢者のみの自性の法である」
 ここに『理趣経』の中の十七清浄句や天台密教の魔多羅神の秘儀、真言立川流の髑髏本尊歓喜法に通じるものを、慶子は洞察していた。

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魔多羅神12

2008-09-08 07:01:49 | 魔多羅神
     *

 慶子がトイレから戻って来ると、二人は部屋を出た。忘れた帽子を慶子が、はいと言って手渡してくれた。やはり酔ったと思った。そして玄関で靴を履いて一歩足を踏み出したとき、一瞬であったが目の前が白くなり、意識が遠のき、出口の柱に右手を着いた。
「どうされました? 酔われた?」
 すぐに意識は戻ったので宮本は、大丈夫、少し酔いが回ったかな、と言った。
「ほんとに大丈夫ですか」と、心配の声をかけた。
 タクシーが待機していたので、乗り込んだ。
「気持ちのいい酒だったな」
 と、慶子を心配させまいと元気な声で言ったものの、体に脱力感があり、このまま新幹線に乗って大丈夫か、という懸念が頭をかすめた。
「もしよろしければ私のマンションで二、三時間横になってから、お帰りになられたらどうです。十五分も走れば着きますので」
「いや大丈夫、大丈夫」
「大丈夫でないご様子ですよ」
「酔ってるかな?」
「酔ってますよ。中瓶が空きました」
「あなたも呑んでたよ」
「私は一合ほどかな。とにかくマンションで休憩してからお帰りになってください。運転手さん、京都駅を変更して松尾橋に向かってください」
「松尾大社の前ですね」運転手が応えた。
「はい。橋の手前で案内します」
 宮本は眼をつぶっていた。居眠りしそうな酔い心地だった。
「今日は花に酔い、冷酒に酔った」と小声で呟いた。
「私も少し酔ってます。着いたら起こしますので、眠っていてください」
「春眠暁を覚えず」
「まだお昼ですよ」
 慶子はなぜか嬉しかった。そばに悪戯をしてべそを掻いている、子供を乗せている気分だった。学問的とはいえ、女の私としてはきわどい話を宮本にしたのだが、ふんわりと話し手を包み込む雰囲気が、宮本にあったから話せたことで、これまで大学内の同僚にも『理趣経』について研究していることは、口にしたことがなかった。人品卑しからぬ人物に外見は映っても、その実人品卑しい教授、助教授も多いなかで、宮本はその心配のない印象だった。そうでもなければわずか二度しか逢っていない宮本を、マンションに呼ぶことはなかった。
 宮本は気持ちよさそうに、すやすやと軽いいびきをかいて眠り込んでいた。
 マンションの入口に着いた。
「宮本さん、着きました」
 宮本ははっとした表情ですぐに目覚めた。外に出ると、ご迷惑かけてしまって、と言った。慶子は、そんなことありませんわ、とこたえた。入口でカードを差し込むとドアが開いた。中に入るとエレベーターのボタンを押した。
「八階建ての八階なんです」
「静かそうな環境ですね」
「上から眺めたらわかりますが、一方が道を挟んで桂川です」
 部屋のドアにキーを差し込んで開けた。
「どうぞお入りになってください。突き当たりのドアを開けてください。居間になってます」
「ありがとう」
 宮本はスリッパを履いてスタスタと進んだ。一寝入りして足取りが恢復していた。
「何かお飲みになります?」
「ミネラルウォーターがあればコップに一杯ください」
 慶子が冷蔵庫を開けていると、明るい景観ですね、と窓際に立って桂川のほうを眺めていた。
「あのこんもりとした森の赤い鳥居が松尾大社ですか」
「そうです。お酒の神様です」
「お酒の神さんですか」
「どうぞ、こっちのテーブルに」
 宮本はテーブルの前の椅子に腰かけた。
「いいところにお住まいですね」
「結婚したときに購入したのですけど、彼が慰謝料代わりに残して出たのです」
「そうですか。それでその彼はどうされたんですか」
「大学にもおれなくなって、退職後は郷里の静岡で予備校を経営しているらしいです」
「実はぼくのワイフは癌で死んだのではなく、うちの病院に勤務してました若い放射線技師と駆け落ちしまして、二年後に北海道で自殺しました」
「まあ……」
「その男も家庭持ちだったのですが、ワイフはどう血迷ってしまったのか……物静かな女でしたが」
「そうなんですか」
 慶子も宮本の向かいに腰を下ろした。
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魔多羅神11

2008-09-08 00:45:41 | 魔多羅神
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 慶子は大学の図書館で借りた藤巻一保著『日本秘教全書』の中にあった、掛軸を撮した写真を頭に浮かべていた。
 日光山輪王寺の掛軸に魔多羅神が描かれてあるが、なんとも奇妙な絵である。
 中央に鼓を持ち、歓喜躍動する魔多羅神、その前面に左右に爾子多、丁令多二童子像。
 比叡山の魔多羅神ほどはおどけていないが、やはり右手に鼓を持っている座像。鼓を打ちながら、謡を奏でている瞬間である。顔の表情は笑い、ユーモラスでさえあるが、淫靡な恍惚を漂わせている。玄旨帰命壇伝記に「されば、鬼畜の振舞いも仏果の荘厳も、心念舞楽の内にあり」と記してある。
 魔多羅神の前で踊る二人の童子は煩悩の象徴であり、それが、そのまま往生、極楽であるとする。男女和合による妙成就、すなわち、究極の本覚思想、煩悩即菩提・即身成仏である。
 ――魔多羅神、三道三毒の體也、二童子ハ業・煩悩、中ノ神ハ苦道也、中ノ神ハ痴煩煩悩也、……狂乱振舞ヲ表シテ歌ヲ歌ヒ舞ヲ舞フ也、……二童子ノ歌ヲ歌フニ、左ノ童子ノ歌ハ、シシリシニ、シシリシト歌フ、大便道ノ尻ヲ歌ニ歌フ也。右ノ童子ノ歌ハ、ソソロソニ、ソソロソト歌フハ、小便道ノソソヲ歌フ也、……。
 ソソは女陰を、シシは尻を意味し、淫欲を意味している。今日でも関西では、女陰のことをオソソと言う。しかしどっちも孔。そんならシシは男色の世界を表しているのかも。童子の名前も右が爾子多で左が丁令多である。この名前も意味ありげである。
 この掛軸はどう考えてもセックスの隠喩である。淫欲熾盛を象徴していた。二童子の舞が性交を表わし、摩多羅三尊は淫欲即菩提を象徴していることは明らかだ、と慶子は考えていた。
 魔多羅神が玄旨灌頂の本尊であることはわかった。
 慶子はこのことを知ったとき、真言密教『理趣経』の中の十七清浄句を思い浮かべ、一人戦慄に我が身を震わせ、感涙にむせんだほどだった。そしてその絵を見つめているうちに、身内に淫らな陶酔を覚え、ハッとなった。
「比叡山のほうの写真というのはどんな具合の物ですか」
 宮本の言葉に慶子は覚醒した。
「素材が何か写真ではわかりませんが、おそらく彩色された小さな土人形。御本尊に対して裏戸の神と呼ばれてます。背後から神通力を放射する根本的な存在だと思いますが」
「なるほど」
 慶子は、空いている宮本のグラスに冷酒を注いだ。
「すき焼きを食べながらあなたの話を聞いていると、実に酒が旨い。楽しい話だ」
「なんだか淫らなお話で」
「真面目な学問的話ですよ。しかしこういう事柄をあなた一人で研究するのは、困難なことが多いでしょう」
「交合一つとっても」
 慶子は意味ありげな眼で微笑んだ。
「それはそうです。実践が伴わないと空理空論の研究になってしまう」
 宮本はつい力んでしまった。
「脳の中ではどうなっているのでしょうか」
「快感を覚えると脳内からベーター・エンドルフィンを分泌します。一種のモルヒネと考えられる。通常脳内モルヒネと呼んでますが。脳内モルヒネをどんどん出させると、体全体におよんで気分を良くさせるだけでなく、老化を防止し、自然治癒力を高める効果がある」
「アドレナリンというのは?」
「人間は怒ったり強いストレスを感じると、脳から神経伝達物質のノルアドレナリンを分泌する。自然界にある毒物では、蛇毒につぐ毒性があります。神経を興奮させたり、不安、恐怖を引き起こしたり、痛みを感じなくするなどのはたらきがある。ストレスとの関係も深く、敵に出会った緊急反応の際に、自律神経の末端で分泌され、交感神経を刺激、血圧や心拍数を高める作用がある。ノルアドレナリンの一部が変化したものが、アドレナリンです。しかし脳内で分泌されれるのは微量ですから死ぬことはない。また体内で生産される物質は、毒であっても不必要な物質はないのです。危機が迫ったときに分泌する微量のノルアドレナリンは、意欲と生き残るために必須の神経伝達物質です」
「脳内モルヒネとか神経伝達物質が、『理趣経』の中の十七清浄句に関係があるのではないかと想像しているのですが」
「大いにあり得ます」
 またも口調に力が籠もった。
「だとしたら必ずしも真言立川流を、異端の邪教と排撃するのはおかしなことでは、という気もしてます」
「異端を排するときは、政治的な勢力争いが絡んでいることがあります。男女が和合すること自体は自然なこと。和合しないことこそおかしい」
 大皿にのっていたすき焼きの具がほとんどなくなった。慶子がトイレにたっているあいだに、宮本は両手を背後の畳について、少し酩酊気味に呑んだことを反省していた。久し振りに女性とゆっくり話したことで、これまでずっと沈潜していた気持に活気が戻っていた。そのために呑みすぎた気がした。あとはタクシーでJR京都駅に出て、新幹線に乗ってしまえばどうにかなるだろうと思っていた。腕時計を見ると二時前だった。

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