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喜多圭介のブログ

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魔多羅神30

2008-09-16 19:25:14 | 魔多羅神
 五章 托枳尼天



「やはり兄貴はどっかおかしいな。啓治が頻繁に京都にでかける、と言っとったが。隠し女がおるのと違うか。俺には隠すことないんやで。兄さんのいまの境遇としておってもおかしゅうはないのやから」
 弁当を食べている翔平が気軽な顔で言った。
「隠してない。おらんのや。自分史のような小説を執筆するのに、学生の頃に出かけておった京都のあちこちがいるのや。その場所に立ってるといろいろと当時のことが連想されて役に立つ。日帰りでは落ち着かんからな、一泊して帰るだけや」
「そうか、そんならええのやけど。佐代子さんに居所だけは教えといてや。行き先でバタリといったら厄介やから。親父も学会にでかけた先のホテルで心筋梗塞やったから」
「うん。お前も肥えてるから気いつけな。まだあんたに倒れられるのは具合がわるい」
「英恵がスイミングプールに行かんかと言うのやけど、考え事のほうが多いので、そんな時間がとれん。前から話している外科、整形外科、脳神経外科の拡充、まだ決心つかんか。建設費も高うつくので、早めに北側の敷地の整備だけでもしておいたら、病棟は一、二年で完成する。いつまでも外科治療のときに神戸大や阪大に搬送するのがな……向こうが協力的なのに不満はないけど、こっちの若手が口惜しそうにする。内科と外科が連携するのが理想やからな。祖父さんも親父もやらんかったことだけに、兄貴が慎重なのはわかるが、啓治が若いうちにならやれる。俺にしてもあと十年ほどしかない。気力のあるうちでないと、大仕事はやれんでな」
「うん、わかってる。あと半年、年末までに決断する。それまで待ってくれ」
「そうか半年な。ええクリスマスプレゼントを啓治にしたってくれ」
「お前の元気なうちにと考えてる」
 水曜日の今日だけ宮本にも医師らしい仕事が廻ってくる。午前十時から午後三時までの四時間ほど、初診患者の診察を任されていた。そのときの宮本の診察結果に基づいて次回から、精神科、心理室、神経内科の担当部医のほうへ廻される。心理室というのは宮本の診察だけでは詳細が把握できないときに廻されるところで、各種の心理検査と心理療法を担当している。四名の職員を配置してある。
 宮本は翔平の言ったことを両方とも考えながら、初診病棟の廊下を歩いていた。五メートル先を佐川晴美が白の半袖ナースウェアに白のパンツ、いつもの爪先の隠れた白のサンダルで急ぎ足で歩いていた。彼女は心理室の医員だった。医長は宮本と同じ臨床精神医学を専門とした五十代女性だった。あとの二名は佐川同様に精神科一般の医師だった。
 佐川が慶子と同じ四十代で、結婚していることを思い出した。いつもきびきびした態度で心理検査を担当していた。それが背後から眺めていると、はち切れそうな肉感のヒップの揺れに表れていた。すると魔多羅神がむくっと拝殿の仏像のように力強く立ち上がったので、宮本は慌てた。こういうことはここ三、四年起こらないことだった。慶子のマンションに月二回泊まるようになってからの現象だった。
 もっとも不意に目覚めた魔多羅神は、ここが拝殿ではなく病院であることに気付いたかのように、すぐさま元の姿に戻り、うたた寝かふて寝をしてくれるので、胸を撫で下ろした。
 宮本は自分が元気になったことを確認し、診察にも以前になかった新鮮な気持ちで臨んでいた。
 佐川が先に歩いているのは、初診患者の多いときは二人で担当するためだった。水曜日以外の初診患者の診察は、心理室の医長と佐川が担当していた。
 最初の患者は二十二歳の女性だった。一人の患者に対応する時間は十五分平均であった。時間をオーバーしないように、診断項目が三十ほどあるマニュアルがある。マニュアル通りにやっていると、だいたい時間通りに終わる。だがときには半時間ほど掛かる患者もあった。
「喫茶店でウェイトレスとして働いてるのだね」
「はい」
 ほとんど俯いて、視線を合わそうとしない。始終両方の掌を合わせ、ぎゅっと握りしめたりする。
「人前で緊張するのだね」
「はい」
「どんな風に緊張します?」
「対人恐怖症なんです」最近の患者は医者より先に自己診断するのが特徴だ。悩んだ末、本などで知識を得ている。
「対人恐怖ね、どんな状態になりますか」
「顔がこわばったり、お客さんの眼が見られなくなったり……眼のやり場に困っておどおどしたり」
「掌に汗は?」
「かきます」
「いつ頃からそうなったの? 最近というのではなく、幼稚園の頃からのことを思い出してみて」
「中三の頃からです。担任との進路相談の面接のときからです」
「そう。お父さんやお母さんの前では起こらないですか」
「起こりません。お姉ちゃんといるときも起こりません」
「担任の先生のときからね。進路のことについていろいろと聞かれたんだね」
「はい」
「全部答えられた?」
「いえ、自分をどうしたらいいのか、そのときわからなかった」
「そうだね。中三では自分の進路ははっきりしないでしょ」
「そう」
 初診患者を診る部屋は、どの部屋も宮本のアイデアで、隠しカメラで患者の姿と声が記録されるようになっていた。医師は記録をとらない。応対に集中する。このことだけで診察結果を書くときもあるし、確認したいときはビデオで姿やら声を再生する。記録された映像と音声は、心理室の担当医が観てから抹消することになっていた。
 とにかく女性患者が多い。鬱病、双極性障害とも呼ばれる躁鬱病、パニック障害、リストカットと呼ばれる手首自傷症候群、解離性障害、過換気症候群、虚偽性障害、摂食障害、依存症、テクノストレス、と病名を挙げれば何でもありの現況だった。
 アルコール・薬物依存症、アルツハイマー病、老年期の呆け、てんかんなどもある。
 それに宮本クリニックは、震災後遺症の患者を多く抱えている。震災後十年を経過していても、真夜中に当時の恐怖に脅えたり、子供を庇って死んだ母親の声に、ハッと目覚めたりする震災遺児の患者が通院している。
 宮本は医学生の頃、祖父・父と続いた事情もあったが、精神医学を、人間心理を知る最先端の学問と考え、関心を抱いた。人間心理を知るには通常の人間を観察するよりも、そこを損傷している患者と関わり、治療の中で異常心理を考察することこそ、人間心理把握の早道と認識した。そのために臨床や専門的な研究をやってきた。
 このことに昭和五十年、一九七五年辺りまでは、満足すべきものであった。ある評論家が一億総白痴化宣言をするテレビ普及時代もあったが、まだ人間の異常現象は顕著でなかった。精神病院に来る患者は、よほど頭が狂っているかアル中くらいのもので、華々しい分野ではなかった。
 だが、やれ開成高校だ、灘高だ、ラ・サールだと、一部の教育ママに騒がれ、その後の東大合格熱が高まった頃から、しだいに親子がおかしくなってきた。そして所得のゆとりから一般家庭にまで、猫も杓子も現象が広まった。
 学生運動の衰退や高度経済成長後のバブル崩壊を経た今日、精神病・神経症患者は日増しに急増、いまでは個々の患者の病気と捉えるよりも、人類破滅現象と見るほうが、欧米や日本では妥当、適切でないかと思われるようになった。
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魔多羅神29

2008-09-16 12:21:35 | 魔多羅神
 こういう場面で女の内面がどうなっているのか、あの当時は漫然とセックスしていたので、侑子の精神世界を掴もうと努力したことがなかった。というより宮本の脳裏に、侑子の気持をいたわる意識が浮かんでこなかった。肝腎なところで、汽車を乗り換えてきたことに、イギリス、フランス、中国のポルノブックを読んでいるときに気付いた。とくに女優シルヴィア・クリステルの美貌と姿態でも話題になった『エマニエル夫人』は、宮本のお気に入りの一冊となった。
 宮本は日本のポルノ雑誌は読んだことがなかった。いや中学生のとき、一時貸本屋で借りる常連であったが。貸本屋のオバちゃんは、どうしてこんな賢そうな子が、こんないやらしい雑誌に興味があるのかという顔であったが、この中学生に好意を持っていたので、新刊が入るたびに新聞紙に包み、念を入れて輪ゴムで包装が開かぬようにして、はい、来たよ、と手渡してくれた。が半年も経たないうちに宮本は飽きた。不潔を嫌悪し、女性を痛めつけるシーンに憤りを覚えて読まなくなった。自分が卑しい人格に成り下がると思った。この点、外国のポルノは美的であった。
「よかったわ。あなたは冬の太陽、そして私はグレーの冬の海。冬の海の上に厚いちぎれ雲が、次々とゆっくり流れてる。すると、雲間から白熱の陽が裾拡がりに海に放射する。海は見る間に銀色に白熱する。海面は一瞬にして歓喜に細波立ち、恍惚を伴った歓喜が内へ内へ浸透してくる。だけど太陽はすぐに雲間に隠れ、海面は元通りに戻る。だけどすぐさま陽は白熱を海に放つ。強い光、私は歓喜して魔多羅神様と悦びの声を上げる。そうあなたのペニスは魔多羅神と化して、私を突き上げる。ああ私は銀色に炎上する……私はこんな風になっている。前の主人では感じたことのない光景なの。あなたの魔多羅神が恋しい」
「そうなのか……ぼくもね、ワイフのときには感じなかった、エッチな猛々しさというか、異常な感覚に駆り立てられた。人格が変わっていた。きっとあのお経のせいだ。聴いている意識はなかったが、ぼくの胸を掴まえて離さない。寺詣りすると線香の匂いが服にも付く、そんな感じだ。そしてそのときのきみの肉体は、インドの異端の神々、シヴァ神とかカーリー女神だ。カーリー女神はぼくを喰わえ貪っている。まるで充ちることのない餓鬼だ」
「私、そんな風になっているの」
「背中も額も首筋も汗でべっとりじゃないか。内股もべっとり蒸れている」
「怖いくらいの歓喜。体の骨がバラバラよ」
「いまのきみの表情は女子高生のようだ。皮膚が艶めかしく若やいでいる」
「高校生と経験あるの?」
「ないよ、比喩だよ。ぼくもきみのシヴァ神が恋しい。ああまたそんな気分に囚われていく」
「私もよー」
 艶めかしい悲鳴だった。
 ――あいはく・せいせいく・しほさい・いっせいしさいしゅ・せいせいく・しほさいけんせいせいく・しほさいてきえっ・せいせいく・しほさい……
 二人は真実なる智慧の理趣の経に導かれ、究極の真理を索めて、再び抱き合った。宮本の魔多羅神は萎えることを知らなかった。慶子の秘境の奥から性なるオアシスの泉が滾々と溢れ出て、その作用で魔多羅神は何度も怒張することはあっても、萎えることがなかった。
 ――あい・せいせいく・しほさい・まん・せいせいく・しほさい・そうげん・せいせいく・しほさい・いしたく・せいせいく・しほさい……
 宮本は精神科医として蓄積した知識が、十七清浄句の経で粉砕されていくのを意識した。性の祝祭の中で、これはいったいどういうことだ、と呻いた。
 ――こうべい・せいせいく・しほさい・しんらく・せいせいく・しほさい・しょく・せいせいく・しほさい・せい・せいせいく・しほさい……
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魔多羅神28

2008-09-15 18:11:25 | 魔多羅神
 宮本の体の隅々から、先程の気怠さは吹き飛んでいた。それどころか瑞々しい青春の気に満ち溢れていた。忘れ去っていたものがよみがえった。いや侑子のときには感じなかったぎらぎらした欲情が、体を駆け巡っていた。
 宮本は侑子に死なれたあと、自分の朴念仁であったことを思い知らされた。今日まで女との経験はなかったが、性戯については、古書店に積んであるビニ本や棚の高いところに置いてある江戸時代の枕絵の画集を、何万もの金をはたいて購入、体位四十八手を眺め、これは無理だ、これなら行えそうだ、という研究にも余念がなかった。侑子とのことでは、女とのセックスを知らなすぎたのだ、ただ重なっていただけだ、という後悔が本業の知識と合わせてセックスへの知識を蓄積していた。ただそれを一度も実践していなかったし、宝の持ち腐れのまま死ぬことになっても、それは仕方のないことだと考えていた。
 慶子と巡り逢ったのは僥倖にほかならなかった。
 青年のような気概で慶子をベッドに倒すと、重なった。
 キスだけに十分はかけよう、いや口だけなら十分でもいいが、あちこちとなると二十分は必要だ。二十分はかけよう、と脳裏で呟いた。頭の隅々まで熱く燃えていたが、冷静でもあった。この辺が若い頃とは違っていた。
 バスローブを剥ぎ取られ、素っ裸同然の慶子は、宮本にされるままになっていたが、宮本の耳には慶子が声に出さないで何かを言っている気がしたが、先ず自分の行為に熱中していた。時折……様と聞こえてくる気がした。
 キスの行為だけであったが、慶子はほとんど忘我の状態で譫言を呟いていた。宮本はそれが気になり始めた。慶子がこのまま狂ってしまうのではないか、と思えたので、一度行為を止めて体を離し、休憩に入る振りをした。すると一、二分で慶子は旅先から戻って来たかのように、眼を開けて宮本を見つめた。
「何か喋ってたよ」
「え! ほんと?」
「聞き取れなかったけど言っていた」
「恥ずかしい!」
「恥ずかしいことはないよ。ちょっと喉が渇いた」
「ミネラルウォーターかコーラーがあるわよ」
「冷蔵庫に?」
「私、取って来る。コーラーでいい?」
 宮本が頷くと、慶子は起き上がり、バスローブを纏って出て行ったが、グラスにコーラーを満たして戻って来た。
 二口ほど飲むと、もう一口口に含んで、そのまま慶子と唇を重ねて、慶子の喉に流し込んだ
「おいしい?」
 と訊ねると、慶子は黒髪の頭を上下にこっくり動かした。
「きみ、知ってる。インドで遺体を焼くところあるでしょ、ガンジス川のそばで」
「ヴァラナシのこと? ベナレスとも呼ぶけど」
「医学生の頃にそこに行ってみたいと思ったことがある」
「私、行ったわよ。結婚前だったけど、大学生のときに友だち五名と」
「へェ行ったことあるの」
「学部が宗教文化だったでしょ」
「じゃあガイドして貰えそうだな」
「行きましょう」
「川のそばで遺体を焼くなんて凄いことだね。見物してるひとも大勢いるわけでしょ」
「そう」
「気持悪くない?」
「周囲の人たちが平然としてるから、そんな感じはしない。川を流れている死体もあるのよ、その横で向こうのひとは水浴したり、口を濯いだりしてる」
「流れている死体って?」
「子供とか妊娠してる女のひとは水葬」
「どうして?」
「子供は穢れがないということ。妊婦の場合もお腹の子には穢れがないから。あともう一つは毒蛇に噛まれて死んだひとも水葬。焼いて灰を川に流すと毒が散布するからだって」
「ふぅーん、そうなのか。しかし凄い光景だろうな」
「連れて行くよ」
 慶子は宮本をじっと見つめ、熱っぽい瞳を輝かせていた。
 宮本は再開とばかりに横たわろうとすると、慶子が、スタンドの脇にリモコンが置いてあるの、取ってくれる、と言った。これのこと? と、手に取って慶子に手渡した。慶子は突起したボタンの一つを押した。
 ベッドの足元のほうから、お経が微かな声音で聞こえてきた。
「何?」
「『理趣経』十七清浄句の部分」
「ああこれが……女性の声だね。さすがに妖しげな抑揚のお経だな」
「四十代の尼さんのCD、ずっとエンドレスで流れるの」
「そうか、これをBGMに男女交合の妙なる恍惚に到達するということだね」
「これはヒンドゥー教の『カーマ・ストーラ』という性典の写真集なの。フルカラー版」
 慶子はベッド脇のテーブルに載っていた写真集を手渡した。
「説明はヒンドゥー語だけど、写真でわかるわ」
「豪華な写真集だね」
「性戯だけを扱っているのでなく、男の求愛を拒む人妻とか人妻を誘惑する方法とか自分の妻を他人の誘惑から守る方法なども書かれているのよ」
「ふーん、面白い内容だな」
「それに美女の条件についても。インドでは蓮女というのが最高なの。神々の世界から降り立ったかのような風情の女性のことで、ヨニ、女性器のことなの、はほころびかけた蓮のつぼみにも似て、愛液は開きたての百合の花の香りを漂わせるとか。二番目が芸女で蓮女ほどのデリカシーはないが、乳房は大きく、腿のやや太めの女性。愛液はかぐわしい密の香りがする」
「細かい区別があるのだね。カースト制度の国だからな」
 宮本は天井を向いた姿勢のまま、ページをめくった。インドの美男美女の性戯がリアルだった。
「ああインドの枕絵だな」
「『理趣経』を聴きながらそれを見るの」
「そうなの」
「ヒンドゥー教は性的欲望は神の力に繋がるとして否定しないの。歓喜を極めれば極めるほど、宗教的歓喜に至るの。だから性戯も豊かなの」
「ぼくも肯定するな」
 宮本は慶子に試みたくなった。
 慶子の裸身は骨格が人間並みでないのが、考えられないほどのアクロバットなあられもない姿態で、悲鳴に近いよがり声を立て続けた。両脚を限界に近いほど開いて、両方の足の爪先を背中に回したときは、まるでインドのヨガの行者の恰好だった。恍惚とした慶子の顔は、眼を瞑っているでもなく、開いているでもなく、うっすらとした細目で、その奥が白眼だったので白狐に似ていたが、白い裸身は法悦境の嵐の空中で、龍の背に立った観世音菩薩のようであった。
「どんな感じだったの?」
 宮本は四十八手のいくつかを試みた。
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魔多羅神27

2008-09-15 09:38:09 | 魔多羅神
 慶子はソファ近くに積んであった書籍に挟んである、二枚の写真を宮本に手渡した。
「魔多羅神だけのは比叡山。子供二人が踊っているのが日光輪王寺のもの。予備知識がないと別に何というものでもないですけど」
「いやどちらも妙な雰囲気があります。淫靡なものが伝わってきますよ。魔多羅神を真ん中にして左右で子供が踊っている絵も、見れば見るほど脳裏に印画されそうだな。艶めかしいというのとも違う。誘い込もうとしている気配が漂っている。うーん、女性でもこういう絵に興味を持つのだね」
「妖しくそそのかされるというか」
「実物を見たいね」
「研究者でないと見せてくれないでしょ」
「二人で行けば見せてくれますよ。そのうち行きましょ」
「食べてからゆっくりと」
「そうだね」
 喋りながら、ゆっくりと食べ、ゆっくりと飲んだ。食べ終わると宮本はソファに移動してくつろいだ。本を開いていた。その間に慶子は食卓を片付けてから、風呂に入る用意をした。
「ちょっと入ってきます。もしお疲れでしたら寝室のベッドに。枕元にスタンドがあります」
「わかりました」
 慶子は裸身を湯に沈めると、先程の大胆な思いとは異なり、胸の裡が昂ぶり、気持がそわそわし始めた。
 ――もうベッドに入りはったのかな? まだ早いな。テレビを点けないひとやから、きっとソファで本を読んではるわ。まだ九時前やのに。
 私のこと、中年の変な女やと思うてはるかな。そんなことないな。私に好意持ってはる。だけど、あー、ぜんぜん冷静になられへん。ほんまに辛いわ。まるで子供や。抱かれた途端に心臓がパクパクするのと違うやろか。そっと抱いてくれはるわな。
 妙に恥ずかしなってきた。花も恥じらう四十二歳やからな。まるで夢見てるようや。二月の雪の高野山で出逢って、もうこんな風に、まだどないにもなってないけど、なるんやな。魔多羅神の仕業やろか。
 あら、また二童子が眼の裏で踊ってる。
 ――シシリシニ・シシリシ。ソソロソニ・ソソロソ。
 また聞こえてきた。
 ――シシリシニ・シシリシ。ソソロソニ・ソソロソ。
 なんやの、あんたたち! 私を唆して。私は淫乱と違うわよ。
 でも今夜は麦とろとステーキ食べたんで、乳首まで立って体も精が漲ってる。あのオバさん、面白いこと言いはった、物の考えは体から出てきます、やて。そうかもしれんな、セックスしたなるのも体が考えてることや。女もセックスを止めてしまうと廃用性萎縮で膣の老化が進むよ、と女の先生が言うてた。前立腺肥大、前立腺ガンなどの病気を誘発しやすいって脅かすしな。ほんとのことやろか。閉経してからでも、せんとあかんそうや。
 そらしたいけどな、もう長いこと、七年間か、セックスの経験ない、不安になって当然よね。
 バスタブの中での独り言が長かったせいで、湯中りしてしまい、気分が悪くなり、急いで髪と体を洗うと、バスローブを着けて居間に現れた。すると宮本がソファに背筋を伸ばしたままの恰好で、本を読んでいるのを見た。
「起きてらっしゃたのですか」
「ええ『理趣経』の現代語訳を読んでました。面白いね。空海の考えがよくわかりました。たしかに原文は漢字を眺めても意味を取ることは、ぼくにはまったく無理です」
「私もです。あのコーヒーか紅茶をどうですか」
「紅茶にしてください」
 慶子はキッチンで紅茶を淹れた。
「ミルク入れます?」
「はい、ミルクティーに」
 自分のも作るとカステラを切ってトレーに載せ、二人分をソファの前に運び、小さなテーブルの上に置いた。慶子は少し離れて、宮本の横に腰を下ろした。
「ああ砂屋のカステラ。好物なんですよ」
 宮本は嬉しそうに笑みを浮かべた。
「大学のお友達が先日長崎にでかけまして、お土産なの。宮本さんは甘党?」
「アルコールはひとと飲むときだけ。まあ甘党、だけど甘すぎるのは駄目。このカステラは色も香りも口当たりもいいです」
「よかったわ、好物があって」
 慶子は眼を細めて、気持を和ませた。
 湯上がりの体まで融解しそうな心地だった。
 ――やはりこのひとと一緒にこうしているのが幸せだわ。
 宮本の暖かい雰囲気に包まれていた。
「ぼくはこれまで親鸞のほうを読んでまして、経典を読んだのは『歎異抄』とこれだけです。親鸞のことはいろんな宗教学者や文化人が書いた本を読むだけでしたから、意味がわからないことはなかったですが、経典はなかなか難しいですね」
「そう。一字一句の解釈にも背景がわかっていないと、読み違いをしますから。私の場合は、それをどう人間心理に結びつけていくかを考察しなければならないでしょ」
「慶子さんの仕事だものね」
「最近の切れる児童の問題、長崎の少年、少女のことにしても、教育者だけでは考察の難しいことだらけで、宮本さんのご専門の精神医学や脳科学、心理学などの広範な分野の専門家が参加しなければ解決しにくくなっています」
「MRI、磁気共鳴画像化装置やPET、陽電子放出断層撮影ですけど、こうしたものを活用して、脳の働きを画像で視覚的に捉えることが可能です。脳に刺激を与える時期によって脳の発達に変化があることが明らかになってきてます。まだ働きの解析が進んでいない脳内の神経伝達物質の解明も急がれます」
「宗教学の世界にも異分野の参加が必要です」
「魔多羅神の解明については、ぼくが慶子さんを助けるということです。解明が進んでまとまれば慶子さんの名前で出版してもよい。ぼくは余命短いと思っているから、世間に名を残す必要もないが、慶子さんにとっては助教授、教授への階段の追い風になることは間違いないです。このことも愉しみの一つです。なんだかむずむずした愉しみがあります」
「まあ余命短いなんて、そんなこと言わないでください。私と一緒に十年でも二十年でも人生を愉しみましょう」
「ありがとう、ありがとう。そのお気持ちだけで感激です」
 そう言うと宮本は慶子のほうへ体を寄せ、ぐいと慶子を抱き寄せた。慶子は素早く眼を閉じて接吻を待つように上向いた。頬に熱気を感じたかと思うと、唇が重なった。最初は静かに探り、そして一気に烈しく、そのために慶子はソファから転げそうになった。
 唇が離れると、可愛いひとだ、と宮本は小声で言った。すると慶子の両眼がパチリと開き、潤んだ黒曜石の瞳で、ニコリと微笑み、お慕いしてます、と可愛い女子高生を想わす顔で、宮本の耳元で、甘ったるく囁いた。
 また唇が重なった。慶子は骨を抜かれたイカのように、体が柔らかになり、頭頂から足先までにひろがった昂奮で、身を投げ出さんばかりになった。
「ベッドに行きましょうか」
 と言って、宮本は自分から立ち上がり、そして慶子を立ち上がらせようとした。慶子は逆らうこともなく立ち上がると、肩を抱かれたまま自分のほうから寝室に歩んだ。頭の隅で、ああ私の魔多羅神様、と酔った気持ちで呟いていた。

魔多羅神26

2008-09-14 13:46:48 | 魔多羅神
     *

 ぶらぶらと歩き、途中で喫茶店に入ったりしたので、四時過ぎにマンションにたどり着いた。
「お風呂の用意をしますね」
「はい」
「それまでソファにくつろいで、そこいらの本や写真集を見ていてください。古書店で見つめた物や大学の図書館から借りてきた物です。密教関係の物は新刊では見つかりません」
 宮本はそれらを見る前に、少し眼を閉じて一休みしていた。慶子はバスルームから出てきた。
「お疲れになりました?」
「そうでもないけど、眼が疲れました」
 瞼を閉じたまま応えた。
「宗教は表ではいろいろなことを説いています。魂の中の闇を完全に拒否しているものもあれば律法を守って闇を封印しているものもあります。闇など最初から無いことを悟れというのもあります。陰が極まれば陽に転じ、陽が極まれば陰に転じる永遠の法則を悟れと説くもの。そんな中で密教は光と闇の両世界で生きる方向を示しているのです。どう考えたってひとの心には闇の存在があります。闇は闇なのです。その闇とも愉しく生きていく、密教の秘儀とはそういうもんです。ただ無学文盲は間違った解釈をしてしまうので、広めないだけです。宮本さんはお医者さんだから仕事としては闇を解明したくなる。だけど闇は闇として認めたほうが楽です。闇との共存」
「そうだね」
 と、宮本は素直に返事した。
 慶子はもう一度バスルームに姿を消しながら喋った。
「もう一杯になったかな。湯に体を沈めると気持ちよくなります。このことを素直に認めているから気持ちいいのです」
「たしかにね」
 出てくると、はい、どうぞ、と促した。
「パジャマと下着も置いてありますから」
「ありがとう」
 宮本はクリーム色のバスタブに脚を伸ばして、体を横たえた。慶子が言ったように気持がくつろぐ。眼を瞑る。それからおもむろに考える。
 ――今夜は慶子のベッドで眠ることになるだろうな。それが自然の成り行きだし、一緒に寝なければ慶子にどう思われることか。
 うんざりしているのではなかったが、どこか体の隅々が気怠い。意欲的な気分でなかった。深い溜息を吐いた。長いあいだ、女体に遠ざかっていたので、女体そのものが現実的なイメージとして結実していない気分だった。迷子になってしまいそうだった。それに自分の物が機能するのか、機能すると思うがこれも怪しい気分だ。
 大河内山荘の坂道で一瞬燃えた、あの情欲はどこに消えたのか。それを探すのも面倒な気持だった。
 侑子と暮らしていた頃も、こういうことにはエンジンの掛かりが遅いほうだった。ツインのベッドだったせいもあるが、気付いたら一か月間なにもしなかったこともある。
 慶子は慶子で、フライパンで特上の松阪肉を焼きながら思案していた。料理のほうはにんにく、タマネギをすり下ろして、ポン酢とフライパンに残った脂を混ぜてソースは出来上がり。あとはフライパンでもやしと茹でたほうれん草を炒め、枝豆を添えて、白ワイン一本用意するだけだった。
 ――あのひとにはどこか少年みたいな純真さがある。子供の頃からひとの醜い面に触れることなく育ちはったんや。魔多羅神のことに眼がきらきらしてた。探求心も旺盛。一緒にどこでも行ってくれそう。今夜きらきらした気持で私を抱いてくれるやろか。もしソファで寝はったら、夜中に思い切って素っ裸で襲ったろ。
 一回上手いこと行ったら、あのひとも私も気が楽になる。こんな緊張をせんとすむ。ボリュウムのあるテキやし、麦とろ三杯食べはったし、精つくわ。私のほうはとっくについてる。そうや『理趣経』のCDを準備しておかなあかん。あれ聴きはったら、きっと効き目が倍増するわ。
 結婚は私も考えてない。あのひとと二年でも三年でも、あのひとの寿命尽きるまでお付き合いできたらええだけ。ちょっとでもあのひとを支えられたらそれで充分。あのひととあちこち旅行するのを楽しみにするのや。あのひとが死んだら、そのあとはオールドミスのまま生きるつもり。
「いいお湯でした」
 と言って、パジャマ姿の宮本が、薄赤く上気した顔で出てきた。
「いい匂いだな」
「出来上がりましたから」
「何から何まで気をつかわせてしまって」
「そんなこと。私、楽しんでやってます」
 慶子は食卓に紙ナプキンを敷いて、ナイフとフォークを並べた。それから大皿に載せたステーキを運んできた。最期にワインとワイングラスを置いた。慶子も椅子に腰を下ろした。
 宮本のグラスにワインを注ぐと、その瓶を宮本は取って、慶子のグラスに注いだ。
「ご苦労様」
 と、宮本が言うと、慶子もまた「お疲れでした」と言って、互いにグラスを近付けた。
「美味い」
 一口飲むと、宮本はフォークで枝豆を刺した。
「桜はどこも散ってましたね」
「そうだったね。でも何処もかも青葉繁れるでよかったです」
 宮本はステーキを切り分け始めた。
「楽しかったですわ」
「ぼくも……女の人と一緒にいる気持を長いこと忘れてた」
「病院には女性のかたが大勢おられるでしょ」
「看護師、仕事だと楽しくはならないですよ。美味しい肉だ」
「よかった」
「お昼の麦とろもうまかったな」
「またでかけましょ」
「うん」
 宮本はグラスを空けた。
「注ぎますわ」
 慶子は瓶の口を差し出した。
「魔多羅神ってどんな顔?」
「持ってきますわ」
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魔多羅神25

2008-09-13 22:55:35 | 魔多羅神
 四章 理趣経



 車を渡月橋近くの駐車場に預けると、野宮神社から大河内山荘に向かって散策した。この辺りになると観光客と修学旅行生で混雑していた。野宮神社は縁結びの神様で、女子中高生がはしゃぎ声を上げてお守りやお札を買っていた。二人は中に入らずに、両側に民芸風の店や小さな食事処の並んでいる路を、店先を覗きながら歩いた。
「宮本さんは構えないというか磊落な人柄ですね。名誉院長さんだと後ろに反り返ったプライド丸出しかと思っていましたが、前にお逢いしたとき、そうでなかったので安心しました」
「そんな時期もありましたが、プライドはひとに見せるものでも話すものでもないと、いつの頃から思うようになりました。薬師寺金堂を復興した高田好胤さんへの誤解を解いてから、変なプライドはまやかしやと」
「テレビによく出てひとを笑わせるお坊さんですね」
「修学旅行生に何の話をしていたのかわからんのですが、ここでも笑わせていた。吉本の芸人かと思うほど僧侶らしくなかった。それが最初は不快でした。僧侶は僧侶らしくしろと。だけどこのひと、般若心経を巻紙に写す「百万巻写経」を発願し、一般大衆を相手に百万巻の写経を勧進し、自ら全国行脚しはりました。見事に成功し、金堂は昭和五十一年やったか復興しました。このひとがやるまで一般のひと相手の写経は、どこの寺院もしてなかった。それが今では大きな寺院は金儲けのためかどうかわからないけど、皆真似てます。このひとこそ本物の僧侶やったと気付かされました。ぼくだけではなく大勢に誹られてました。それからぼくも気持の中では裃脱ぎました。プライドなんてなくていい、外見の見栄や言葉でなく、信念の実行、行動こそほんまもん、真実のひとです。好胤さんは成功しましたが、たとえ成功せんでも信念で行動するひとを評価するようになりました。好胤さんは誹られることは信念へのこやしやと。この言葉にぼくもそれまでの頭叩かれました。考えてみると僧侶らしくとか男らしく女らしくと、〈らしく〉で人物を認識するのは間違ってます。あの復興は大変なもんです。復興資金が十億円。それをゼロから写経勧進で成し遂げたんですから」
「ひとは見かけや言葉でありませんもの。私、偉そうにしてるひと、嫌い。表向きは偉そうにしてなくても、家で奥さんや子供に当たり散らすひともいますが、私、すぐに正体見抜きます」
 宮本は大河内山荘入口で入場券を買った。抹茶券付である。
 緩やかな坂道を上った。背後から先に上って行く慶子の後ろ姿を眺めた。きょうはずっと車を運転しなければならなかったので、下は動きやすいアイボリーのストレッチパンツ、上はワインレッドのVネックセーターに、腰までも届かない軽そうなジャケットを着ていた。肉感的な腰の動きがよく見える。じっと見ていると、これまで一度も覚えなかった情欲が、不意に立ち昇った。
 ――麦とろの効き目か……
 慌てて視線を空に向けた。緑の樹林の繁みから青空の破片が散らばっていた。
「ここは何度か来てます」
 と、宮本は慶子に言った。
「私も学生を連れてよく来てます。でもいまの学生は大河内伝次郎という俳優を知らないですから、竹畑散策の休憩場所として」
「ぼくも休憩だけです。中を歩くと広いですから。竹畑の眺められる休憩所に腰を下ろして、抹茶とお菓子を戴くだけです」
 屋根付の休憩所に並んで腰を下ろした。眼前に竹畑が間近に眺められた。
「広隆寺で拝みました半跏思惟像も弥勒信仰と関係がありますのかな」
「あー、丁寧に説明するととても長くなりますが、かいつまんで話しますと、朝鮮半島との関わりです。秦一族が新羅の出であることは前に話しました。これも必ずしも新羅ということでもないのですが……半跏思惟像は新羅で六世紀後半から七世紀にかけて、弥勒信仰として広まりました。聖徳太子の時代で、聖徳太子の命で建立した七寺のうちの六寺は半跏思惟像を本尊としています。当時新羅には花郎道という組織がありました。呪術的試練をほどこして、戦士を訓練する青年結社です。美貌の男子を霊をつかさどる者として、花郎と呼び、花郎を弥勒と見立ててのリーダーとして忠誠を誓わせることで、新羅国家の宗教的秩序の統一を図ったんです」
「そうでしたか」
「弥勒信仰そのものも奥が深く、またゆっくりとご説明します。それに秦王国が日本国内にあったとか、弥勒信仰の前身のミトラ教まで探るともう呪術的世界です。魔多羅神の秘儀もミトラ教の呪術の影響の元で完成しました」
「ますます謎めいて、二人で探訪することが増えましたな。となると日本の密教の秘儀にミトラ教が関わっていることになる」
「その通りです。渡来人というと朝鮮半島の民族、百済とか新羅を考えますが、中国の漢民族、さらにペルシア、今のイラン辺りのイスラム系の人たちまで、日本に渡ってきたと想像できます」
「それで慶子さんは秦の始皇帝の子孫説、それともユダヤ人説?」
「ユダヤ人説なの。弓月王国の一部が南インドまで流浪して、そこに長く定住した後、何かの事情でコモリン岬から陸沿いの海の道を通って、赤穂に来たのでないかと想像しているの」
「インドを南下したということやね」
「何年もかけての事よ。弓月王国が紀元一、二世紀の国でしょ、十分史実と符合するわ。それに日高正晴というかたが御本に書いておられることだけど、日向の諸縣君牛が播磨の鹿子水門に来ているの。君牛だから牛族でしょ」
「何時のこと?」
「『古事記の』中の「応神紀」に書かれているの」
「コモリン岬は何処に」
「南インドの最南端」
「ふーん、退屈のしようがないほど面白くなってきた」
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魔多羅神24

2008-09-13 14:21:20 | 魔多羅神
「『続日本紀』の大宝元年(七0一年)のところに、神社名が載っているからそれ以前から祀られていたの」
「そうなの」
「もうお昼ですから三柱鳥居だけ観ましょう」
「そうだね」
 木立に囲まれた中にそれは在った。神の池は渇水しており中央部に、三角に組み合わされた鳥居が立っていた。
「ある学者の説では原始キリスト教の絶対三神「御父と御子と聖霊」を象徴していて、景教の遺物ではないかと言われているの」
「さっきの話のネストリウス派の?」
「いい物を見せて貰った」
 空腹を覚えたので宮本は腕時計を見た。十二時二十分だった。
「大覚寺は二、三度来て庭園を眺めた記憶があるので、見学を飛ばして食事に出掛けますか」
「ええ」
「平野屋は鮎料理でしたね。精の付く料理が食べたくなったな。川魚は精がつかないでしょ?」
「そうですわね、風味を食べますので。するとお肉?」
「この前すき焼だったから、山芋のような物を食べさせるところはないですか」
「嵯峨野にあります。自然薯のとろろ汁や麦とろ、ジャガイモやサツマイモの天麩羅、ほかにイカと小芋の甘煮や蓮根、ゴボウの煮物、蒸し饅頭も」
「ああそういう物がいいな。広隆寺の仏像を見たら秦河勝が乗り移った気分。力強くなるものが食べたくなりました」
 と言って、宮本は照れ臭そうに笑った。
「やはり何かをお感じになりました?」
 慶子は宮本の顔を覗き見た。
「ええ」
 慶子が案内してくれた店は、車で走って五分ほどの広沢池近くだった。和風の門構え、前庭に松と桜の老樹をあしらった老舗のようだった。慶子は大学の同僚と数回利用したことがあると言った。和服に白足袋の仲居が、二階の和室に案内してくれた。そこから広沢池が眺められた。
「落ち着いた店ですね」
「観光客よりも京都の年寄りがよく来てるみたい」
「高いところからだと広沢池がよく見える。葦が侘びしく繁ってる」
「この辺りは古の感じが出てます。新千載集だったと思いますが――いにしえの人は汀に影たへて月のみ澄める広沢の池」
「いい歌だな。鮒とか鯉がいるのでしょ」
「養殖してると思います。お料理に鯉の味噌汁が付きます」
「今日もいいところを案内して貰った」
「お食事のあとで竹畑を少し散策してみます?」
「お願いします。秦河勝はこの辺りを歩いたでしょうな」
「秦一族の頭領ですから」
「聖徳太子で思い出しましたが、浄土真宗の親鸞が比叡山を下りて、法然に帰依するきっかけになったのが、夢枕に聖徳太子が現れたとか。だから慶子さんに幻視があってもおかしくはない」
「そうでしょうか」
「慶子さんはある種の霊感が強いのでしょ」
「でも魔多羅神が現れたりすると少し複雑。エッチな神様だから」
「エッチね。英雄色を好むとも言いますから」
「そういえばナポレオンや徳川家康の顔は、魔多羅神に似てます。ナポレオンの肖像画の顔の感じはふくよかでしょ。翁顔なんです」
「じゃあ魔多羅神がナポレオンになったかも」
「あり得ます。魔多羅神の化身として」
「色だけ好むのは凡人だけど、この二人は偉業を成し遂げましたからね」
 話していると仲居二人が、お待ちどうさん、と言って、部屋に入ってきた。そして座卓に料理を並べ始めた。
「とろろとお出汁はこちらのほうからお好きなだけかけておくれやす。コンビニに置いてある卵は薬漬けの雌鶏の卵どすやろ、生卵で使えませんけど、この卵は大原の地鶏どすから安心して混ぜてください」
 しっかりとした顔立ちの年寄りが説明した。
「自然薯なども大原で」
 と、宮本はたずねた。
「食材は大原や高尾や鞍馬のほうの農家と契約してますねん。卵と鶏肉は毎日早朝に仕入れますねん。鯉はそこの池で養殖したもんどす」
「新鮮なのはええね」
「体に精つきますよってな」
「やはり精がつきますか」
「土の中で育ったもんは大地のエネルギー、お陽さんのエネルギーをたっぷり吸ってますやろ。子供に即席のもんばかり食べさせると、いずれ男はんもおなごも子が作れんようになりまっせ。週刊誌にセックスレスの夫婦とか書いてあったけど、元から精のない体しておいやすのや。物の考えは体から出てきますねん。麦とろはよろしおす」
「なるほど。ええ話してもろた」
 宮本は慶子の顔を眺めて微笑んだ。
「そんならごゆっくりと」
「物の考えは体から……ちょっとした哲学や。ぼくとこの患者でも胃弱のひとは、景気のええことは考えよらん」
 世捨て人のような考えに陥りがちな宮本は、自戒する口振りで呟いた。
「京都の年寄りはしっかりしてます」
「歴史的なんやろな。とくに民衆レベルは貴族と武士の顔色窺って生きてきてるから、根っこのところがしぶとい」
 二人は座卓の料理に眼を楽しませ、ゆっくりと味わっていた。
「鯉の味噌汁もええ味やな」
「小芋も美味しい」
「さっきのオバさんの話でないけど、昨今ますますおかしな人間が増えてきてます。憂うべき状況です。おとなが少女を買う、少女は親の言うことも聞かずに売春。教師、大学教授や僧侶までが買う、盗撮。少年、少女による殺人。親殺し、子殺し。集団自殺。そのくせに癒しなんて言葉だけ何の目当てもなく広まってる。日本人が狂ってきとるとしか思えないです」
「幼児、小学生からのしつけ、道徳教育で収まるでしょうか」
「そんなことでは収まらない。脳がおかしくなっているとしか思えない。脳機能は大雑把に言うと情動機能の辺縁系とそれを外側から包んでいる大脳新皮質、それと小脳です。新皮質は記憶、運動、行動の司令室みたいなところです。このうちの辺縁系、感情をコントロールする機能がおかしくなっている、涸れているとしか思えない。物事の一部分を全体と捉えて衝動的に行動しています。大学教授がセクハラや少女売春。発覚すればそれまでに築いた地位や名誉、あるいは家族の幸せが吹っ飛んでしまうという判断ができない」
「テレビゲームなどの影響はありますか」
「大いにあります。こういうことを言うと若者は反撥しますが、やはり大脳生理学的見地で客観的に分析しないと駄目だ。脳の構造に前葉前部という箇所がありましてね、テレビやテレビゲームの類は、ここを退化させてしまう。すでにこういう研究が進んでいます。テレビやテレビゲームにも想像力を必要とする物はありますが、これはどこまでも受け身の想像力であって、自ら必要として創り出す想像力とは異なります。自ら創り出す想像は前葉前部を発達させるが、受動的な姿勢の物は駄目だ。自己以外の人間に対する人間的な情や自然から感受する情緒といった物が退化します」
「NHKがやっている幼児向け番組などはどうですか」
「あれも毎日観ているようでは弊害がある。外で遊ばせる、外を歩かせることです」
「私はテレビは調べ物の目的に合う番組があるときとか観ないの。ゆっくりする時間もありませんし」
「それでいいです。ぼくもめったに観ない」
「青少年の殺傷事件、たとえば家庭内暴力とかホームレスのかたがたへの暴力なども、前葉前部の退化に関係してます?」
「なんというかな、自分を含めてだけど生き物を生命ある物として観る力が退化するのでしょう、だから集団自殺現象を含めて、いのちの破壊行動を気軽にやってしまう。育ててくれた親や一緒に育ってきたきょうだいのいのちすら、ちょっとしたはずみで破壊してしまう」
「私の大学でも不気味な学生がいますよ。仏教に関心を持っていることが不思議に思えるような学生」
「いまや子どもだけでなく、五十代未満は危ないし、また主体性の乏しい生き方をしてきたら、六十、七十でも危ないな」
「人妻の不倫というのも多いようです。ご主人がとくに嫌いということよりも、心にぽかっと開いた空白感を充たすためにというような。見つからなければご主人とも暮らしていく。不倫なんて二、三年続いたら終わりがきますから、また元に戻ってしまう」
「夫にしたらたまったものじゃない。家族のために働いているうちに、妻は他の男と快楽を貪っている」
「大学の同僚にも何人かいます。ご主人がおられるのにご主人のセックスに満足できず、何人もの男性と肉体関係のあるひとが。話を聞くとご主人はしても自分の欲望さえ満たせば、すぐに眠ってしまう、だからそのひとは不完全燃焼の状態で悶々とするのだと」
 宮本はそのとき侑子との苦い過去が脳裏をよぎった。侑子もそうだったかもしれない。
「だから辺縁系に潤いを与え、本来の人間性を恢復させなければならないと考えているのです。癒しとは辺縁系に水を供給することです」
「どうやってそのお水を?」
「その鍵があなたの研究対象の『理趣経』に隠されているかもしれない」
「私も実はそういう方向性をもって勉強しているところなんです」
 宮本は今日の殺伐とした世相について、漠然と考えていたことを慶子に喋っているうちに、確かに『理趣経』に解決の鍵があるような気分になってきた。しかし多弁になりすぎたと思い、慶子を見やった。そして話題を変えた。
「弟がうるさく再婚せいとせき立ててます」
「再婚を?」
「だけど厭です。子育ても済んでるのに、いまさら普通の夫婦には魅力を感じない」
「私もです。主婦になってもすることないみたいで、骸になるような気がして」
「骸か、そうやな。そらぁパートナーは欲しい。たとえばこうやって食事する相手とか、病院の仕事外でお互いに関心あることを喋られる相手とかわね。だけどそれは夫婦という形態でなくてもいい」
「そうですわ。亡くなられましたが、女優の乙羽信子さんと監督の新藤兼人さんもそうでした。とても羨ましい関係」
「そうでしたか。どちらも芸術家同士というか」
「だからしっかりとした関係を結べた」
「ぼくはあと何年生きるかわかりません。病院のほうはバトンタッチできてます。そうなると残されたいのちは、家庭を営むことよりも別なことに使ってみたい」
「私もそう思います。当面はお話しした『理趣経』に」
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魔多羅神23

2008-09-13 09:40:00 | 魔多羅神
「死と破壊をつかさどる神です。墓場に住み血を好んで飲むのです。インドでは死、破壊は新たなる生、再生、豊穣の神になります。仏教では厨房を守る神となります」
「そういえば子供の頃、祖父の古里の農家の竈の近くに小さな土人形の大黒を祀ってありました。真言立川流がなぜ髑髏を祀っていたか、わかってきた」
「髑髏が信仰やエロスに関わる例は、ヨーロッパにも多くあります。それに魔多羅人とか白狐には北斗七星や髑髏が付き物なの。学生の頃にインドの写真集を見ていて、インドに行きたいと思ったの。インドにはシヴァ神をはじめとして異端の神々が存在しておる。カーリー女神なんて凄い。カーリーはシヴァの妻だけど、がりがりに痩せた青っぽい体、上半身は裸、しおれた乳房は剥き出し。首には、生首、あるいは髑髏を数珠繋ぎにした首飾り、腰にも生首が揺れてる。目は血に飢えて血走り、蛇のようにちろちろと舌を出す。たいていはシヴァを踏みつけている。そういう実物を見たいと思って。だけどインドに出掛けたら、戻れなくなるのではという怖れがあったの」
「魅入られる危険な国だね。しかし慶子さんとなら行ってもいい。あなたは予兆の幻視があるから、ぼくが判断して危険を回避できる」
「近い内に行きましょう」
「生き甲斐が増えてきた」
 宮本はにこっと笑った。
 外に出ると、慶子は元来た参詣道を先に立って歩き始めた。
「この先に上宮王院太子殿と講堂がありますから、ちょっと建物だけ眺めてみましょう」
「講堂には何が」
「国宝の阿弥陀如来が祀られてます」
 松の樹木の疎林に、白壁と黒っぽい柱の講堂がひっそり建っていた。ここには観光客が訪れていなかった。
 講堂の左手の石畳を奥に進むと、屋根の横に広い建物があった。
「ここが上宮王院太子殿。聖徳太子像が祀られてるの」
「秦河勝と聖徳太子の強い関係を示す建物だな」
「内部を観ます?」
「いや建物だけでいい」
 宮本は先程五十体近い仏像を見て、やや疲れていた。
 宮本は助手席に乗り込んだ。
「車で直ぐそこですから、大酒神社に廻ります」
「秦の始皇帝を祀ってある神社ですね」
「ええ、ほかに弓月王と秦酒公。元々は広隆寺内に祀ってあったのが、明治の神仏分離で移されてしまいました。少し離れていたので行かなかったのですが。広隆寺内にはほかにいさら井という井戸があります。いさら井はイスラエルに通じているという説もあります」「なるほど、秦一族のイスラエル説ですな」
 道路端に車を停めると、すぐの鳥居から石畳を進んだ。こんもりした濃緑の杜の中に身を潜めるようにして、社殿があった。
「神社といっても日本の皇国史観から外れた神社だから、片隅に追いやられた印象があるな」
「ええ、この神社の由緒書によると、――当社は、延喜式神名帳葛野郡二十座の中に大酒神社(元名)大辟神社とあり、大酒明神ともいう。
 「大辟」称するは秦始皇帝の神霊を仲哀天皇八年(三五六年)皇帝十四世の孫、功満王が漢土の兵乱を避け、日本朝の淳朴なる国風を尊信し始めて来朝し此地に勧請す。これが故に「災難除け」「悪疫退散」の信仰が生れた――とありますから」
 慶子はいつも用意してある大学ノートを読み上げた。
「后の代に至り、功満王の子弓月王、応神天皇十四年(三七二年)百済より百二十七県の民衆一万八千六百七十余人統率して帰化し、金銀玉帛等の宝物を献上す。又、弓月王の孫酒公は、秦氏諸族を率て蚕を養い、呉服漢織に依って絹綾錦の類を夥しく織出し朝廷に奉る。絹布宮中に満積して山の如く丘の如し、天皇御悦の余り、埋益と言う言葉で酒公に禹豆麻佐の姓を賜う。数多の絹綾を織出したる呉服漢織の神霊を祀りし社を大酒神社の側にありしが明暦年中破壊に及びしを以て、当社に合祭す。
 機織のみでなく、大陸及半島の先進文明を我が国に輸入するに力め、農耕、造酒、土木、管絋、工匠等産業発達に大いに功績ありし故に、其二神霊を伴せ祀り三柱となれり。今大酒の字を用いるは酒公を祀るによって此の字に改む。 広隆寺建立后、寺内、桂宮院(国宝)境内に鎮守の社として祀られていたが、明治初年制令に依り神社仏閣が分離され、現在地に移し祀られる。現在広隆寺で十月十日に行われる、京都三大奇祭の一つである牛祭りは、以前広隆寺の伽藍神であった当社の祭礼である。
 尚、六〇三年広隆寺建立者 秦河勝は酒公の六代目の孫。
 又、大宝元年(七〇一年)子孫秦忌寸都理が松尾大社を創立、和銅四年(七一三年)秦伊呂具が伏見稲荷大社を建立した。古代の葛野一帯を根拠とし、畿内のみならず全国に文明文化の発展に貢献した。秦氏族の祖神である」
「じゃあ秦一族はやはり中国の秦の始皇帝の子孫ということになりそうだな」
「それがそうとも言えないの。応神天皇の二八三年に弓月国の「ヤマトゥ」から来たという説もあるの。弓月君の名前は、新撰姓氏録では融通王と呼ばれていて、天山山脈の北のバルハシ湖に流れるイル川の上流にあった弓月国の「ヤマトゥ」から来たと」
「ほう」
「東京文理化大学の学長に就任したこともある佐伯好郎という人物の説ですが、秦一族はネストリウス派のユダヤ人であったと。ただしこれには時代考証的には矛盾もあり、批判されていますが」
「そのネストリウス派というのは?」
「キリスト教の一派。ネストリウスという人物が五世紀のコンスタンチノープルで、イエスの母を「神の母」と呼ぶことを反対したことによって追放されたの。この人達は東方のペルシャに伸びていって、さらに西域、中国に侵入したの。中国では景教と呼ばれましたた。唐の時代には景教の教会を大秦寺と呼んでました。司馬遼太郎さんの『兜率天の巡礼』にこの辺のことが書かれています。ペルシャからインドの東海岸経由で播州赤穂の比奈の浦に着岸した秦一族氏は景教徒であったと。そしてこの地にダビデの礼拝堂を建てた。大闢と呼んでいたと。中国語でダビデは大闢なんです。これが比奈の浦の大避神社で、境内に井戸があって「いすらい井戸」というなどと書かれています」
「広隆寺のいさら井と同じだな」
「そうです。宗教にあって水は浄めの聖水ですから」
「この前、秦河勝が厩戸皇子の没後は蘇我入鹿の圧迫を受け、赤穂に落ちのびた話がありましたな。河勝にとって日本の中での故郷となると赤穂になりますやろ」
「ええ、秦一族は迫害の歴史を負っているわね。だから日本に住み着いてからも秦河勝以外は、政治の中枢には参加しないで宗教・芸能・産業分野に進出する。隠れキリシタンのように」
「なるほど面白くなってきた。六代目の秦河勝にしても魔多羅神という隠れた側面があるということだな」
「あともう一つ観て貰いたいところがあるのです、蚕の社なんです。車で直ぐです」
「蚕の社というと?」
「正式な名前は木島坐天照御霊神社なの。蚕ですから養蚕なんです。養蚕の起源は中国の紀元前の殷代と言われています。秦一族が日本に養蚕技術を持ち込み、財力を蓄えたのです。さらに注目すべき事は本殿横に小さな神の池があって〈元糺の池〉と呼ばれているの。不思議なことにここに鳥居を三つ組み合わせた形の鳥居、三柱鳥居があるの。これを観ていただきたいの」
「鳥居を三つも組み合わせた……観てみたいね」
「ちょっと離れてますが近くです」
 二人は車に乗り込んだ。
 三条通りに面した道路脇にでんと大きな鳥居が立っていて、鳥居を潜って直進すると、交差点に出た。その近くに車を停めた。蚕ノ社は木立の中に在った。
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魔多羅神22

2008-09-12 06:29:09 | 魔多羅神
 東寺と同じく取り留めもなく境内の広い寺だった。白い石畳が伸びている。観光客が入っているわりには、閑散とした気配だった。
 昔訪ねたことがあるのかないのか、宮本は辺りの景色を眺めてもはっきりしなかった。
「木立が高くて若葉が鮮やかだ」
「そうですね」
 五十体以上の仏像が安置されている新霊宝殿に入った。
 天井の高い堂宇の内部に、仏像群が照明に浮かび上がっていた。
 最初に秦河勝の木像を眺めた。
「きりっとした勇ましい顔だね」
「表向きは武人でしたから」
 宮本は弥勒菩薩半跏思惟像と対い合った。じっと眺めていると、これまでほかの仏像を拝観して感じたことのない、霊力が体に浸透してくるようだった。膝で曲げた右足を、円形の台座に腰を下ろした左脚に乗せている。頬杖をつくかのような右手の細い指。前屈みの静かな眼差し。清楚な顔。どこから眺めても美しい。美しいが何かしら魔力を放っている。
「広隆寺が二度火災に遭って伽藍などの建物が焼失したのですが、この弥勒菩薩やほかの仏像はほとんど残ったの」
「不思議だね。魔多羅神のなせる業かも」
 厩戸皇子から秦河勝が賜ったそうだが、いかに厩戸皇子が彼を信任していたかが感じ取れるし、それだけ秦河勝が大人物であったことが窺いしれた。
 隣に小さめの弥勒菩薩がある。小さめは憂い顔の泣き弥勒である。
「指の恰好が変わっているでしょ」
「そうだな」
「この寺に弥勒があるのも意味ありげなんです」
「弥勒に特別な意味でも?」
「少し話が飛びますけど、インド・イランの古代神話に太陽神ミトラ、ミスラとも呼びますが、これを主神とする宗教があり、ローマ帝国で、紀元前一世紀より五世紀にかけ、大きな勢力を持っていた宗教です」
「ミトラという神ですか」
「はい。この神を信仰した宗教がミトラ教」
「このミトラ教と弥勒に何か繋がりでも?」
「ええ。弥勒はサンスクリット語でマイトレーヤと呼びます。マイトレーヤは、友情厚いとか慈悲深いという意味があります。マイトレーヤとは、ミトラ、ミスラの別名なんです。だから弥勒は、神の名前ミスラが仏教では弥勒に転用された可能性があります」
「なるほど」
 宮本は泣き弥勒を見つめながら頷いた。そして、
「それじゃ魔多羅神とも無関係ではないということですか」と言った。
「そうなんです」
「またペルシアが発祥とされているゾロアスター教では、ミトラは太陽神として重要な役割を担ってます。ゾロアスター教は拝火教とも言います」
「拝火教?」
「太陽神ですから、火を拝むの」
「外国の映画で観た気がするな」
「拝火教のシーンは映画になってますね。日本でもお水取りの行事にゾロアスター教の影響があるという学者もおります。作家の松本清張の『火の回路』という小説では、飛鳥時代の日本にゾロアスター教が伝わっていた、と。斉明天皇は拝火教の信者だったと。それに飛鳥の酒舟石は、神酒ハオマを製造するためのものであったとお書きです」
「ハオマ?」
「これについても松本清張の『眩人』という歴史小説にも出てくるのですが、どうも大麻もしくはそれに類した麻薬でなかったかと思われます」
「ほほう。ますます興味深くなってきた。こうしたことがすべて魔多羅神に結び付いてくるということだね」
「インドにもハオマに似たソーマというものがあって、ソーマ祭というお祭りがあります。薬草を石ですり潰して液汁を搾り出します。絞り出した物を羊毛で作ったフィルターで濾してから、木の樽に入れて発酵させた物を牛乳や蜂蜜と混ぜて飲み、暫く宗教的なエクスタシーを体感するのです」
「麻薬類は案外早く日本にも入ってきたかも」
「おそらく秦一族によって」
「斉明天皇は厩戸皇子が亡くなってあとでしたな」
「うる覚えですが、およそ四十年後」
「まだまだ秦一族の子孫が暗躍していたかもしれない」
 二人は少し移動した。眼前に大きな千手観音像や不空羂索観音像など三体が立っていた。一体は損傷が激しく腕が肘から無くなっていた。痛ましい感じだ。千手観音は二メートル以上ある。宮本は四十二本の手が何を持っているかを確かめた。如意輪、数珠、蓮華、鎌、弓、葡萄……。
「慶子さん、串刺しの髑髏を」
「おわかりになりました。三十三間堂にもあります」
「真言立川流は髑髏を祀った。やはり髑髏にも意味が?」
「そうです。私、三重県度会郡大内山村にでかけたことがあります」
「そこに何かあるのですか」
「頭之宮四方神社が。御祭神は第五十代桓武天皇の後裔、唐橋中将光盛卿の御神霊を主祭神としてますが、川から流れて来た髑髏を祀ってあります」
「ほほう、髑髏をね」
「七福神の大黒様をご存知ですね。大黒天はインドの神で、マハー・カーラと呼びますが、マハーが大きい、カーラが黒いという意味です。憤怒相で、肌は黒く、手が六本、頭に五個の髑髏を冠のようにかぶった恐ろしい姿です」
「凄いね」
 宮本は太鼓腹の恰幅のよい翔平を思い出して、胸の裡で苦笑した。
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魔多羅神21

2008-09-12 00:37:37 | 魔多羅神
     *

 二週間経った。
 宮本が病院の自室で白衣に着換えていると電話がかかってきた。
「はい、宮本ですが」
「両角です」
「ああ慶子さん」
「私、視ました。宮本さんを」
「ぼくを? 何処で?」
「明日十時過ぎに阪急松尾駅から出て来られる宮本さんを」
「明日のぼくを視たのですか!」
「そうなんです。大学に出かける車の中で。一瞬目の前の光景が変わって……とても怖かった。顔の血の気が退きました、交通事故に遭わないかと」
「そりゃ危ない!」
 宮本は現実の出来事として応答していた。
 壁に掛かってあるカレンダーを見た。明日は土曜日だった。
 その夜、啓治達との夕食時に、明日京都で一泊すると伝えておいてから、早めに布団に潜り込んだ。だが眠れなかったので、書棚から芥川龍之介全集を取り出して、枕元の明かりで『好色』を読んだ。これは『袈裟と盛遠』ほどには面白くなかった。
 芥川は才気がありすぎる。古典に材をとってこれだけの話に仕上げた才能は買うが、一つ一つの物語を結末まで構想しておいて、読者に、はい、どうぞ、お召し上がりください。味はどうでしたか、という勿体が見えすぎて、どうも面白くなかった。
 芥川の時代はこういう傾向の小説も多かったのだろうが、いま一つだった。自分が知りたかった好色の意味は、この物語になかった。前に読んだ夏目漱石の『夢十夜』のほうが幻想的で、色艶があった。
 ――ぼくは好色なのかどうか。
 侑子とのセックスは、なんだか訳のわからないうちに通りすぎてしまった感じで、気付いてみると啓治という息子が出現していた、という実感しか残っていなかった。だから自分が好色かの判断は、留保されたままだった。
 ――女にも好色はあるのか。
 患者の中にはそんな女の話もあった。しかしそのとき、宮本は精神科医として、たんに女の性の悩みとして耳を傾けていたので、好色という風には捉えていなかった。宮本に好色の概念がなかった。
 ――それにしても松尾駅から出てくるぼくを視るなんて、ほんまのことやろか。しかしあの声は真剣そのものやった。脅えていた。
 慶子が宮本を誘うのに、嘘を吐く必要はなかった。誘われたら出て行くし、実は明日慶子に逢ってもいいと、二、三日前から考えてもいた。この思いがテレパシーとなって、慶子の頭脳の霊的部分に反応したのかもしれない。
 神経細胞のニューロン間で信号をやりとりするために必要な物質は、神経伝達物質と呼ばれており、五十種類以上の神経伝達物質が確認されている。しかしその働きが解明されているのは二十種ほどである。残りの三十種の中に、特定の人物の想念を感じ取り、それを映像化するものがあっても奇妙なことではない。
 精神活動の面で重視される物に、ガンマーアミノ酪酸、通常ギャバと呼ばれている物やドーパミン、ノルアドレナリン、セロトニンがある。
 ドーパミン、ノルアドレナリン、セロトニンを、モノアミン神経伝達物質と呼んでいる。モノアミン神経伝達物質は、情動に大きな働きを起こし、多数の脳内の部位に大きな影響を及ぼすことが知られている。
 人間は何らかの刺激を受けると大脳でまず解析し、その後海馬に送られる。海馬からパペッツの回路と呼ばれる各部位をめぐる流れに乗り、そこで感情が生まれる。生まれた感情はふたたび大脳に取りこまれ、長期の記憶となる。
 感情を支配しているのは、脳内の神経伝達物質だ。心とはそこで生まれた感情の総称で、胸部にあるわけではない。心がそんなところにあれば、外科医は胸郭にメスを入れることはできない。
 残りの三十種が解明されないかぎり、ひとに何が起こっても不思議なことではない。
 翌日十時二十五分に松尾駅に着いて、駅前に出ると、慶子がマイカーから出て手を振っていた。前に逢っていたときは神秘的という気配はなかったが、薄化粧の、感情をあらわにしそうもない一重瞼の冷静な顔に、とくに黒曜石のような強い意志の瞳に、霊的なものを感じた。やはり謎めいた女だという印象を受けた。
 同乗すると慶子は車を動かした。
「真っ直ぐ広隆寺に行かれます? そこに魔多羅神である秦河勝像があります」
「行ってみたいな。電話の話は驚いた」
「私もですよ。最初は魔多羅神かと思いました」
「ぼくが魔多羅神!」
 つい頓狂な声を上げた。
「だって魔多羅神ってちょっとエッチだけど穏やかな表情なんです。マンションに戻ったら写真をお見せしますわ」
 慶子はちらっと宮本を見て笑った。
「広隆寺は一度行ったことがあると思うのだが、どんな寺だったか思い出さない。歳のせいか昔のことをよく忘れている」
「お歳じゃありませんわ。お若いのに……大きな寺です。太秦ですからすぐ着きます」
「東映の映画村のあるところだね」
「はい。広隆寺のあとは嵯峨野、嵐山を巡ります?」
「お任せします」
「広隆寺を拝観したあとは、大覚寺に行って、一時頃にお食事に鮎料理の平野屋をご案内しますね。江戸時代からの創業です」
「古い店があるね」
「作家のかたたちもよくお食事に。瀬戸内寂聴さんなども。蛍が綺麗なところです」
「何処にあるのです」
「化野念仏寺の近く。保津川などで捕れた天然の鮎を塩焼、雑炊、お造りなどに料理されます。コースはお高いので、空腹にして行かないと、残すと勿体ないです」
「広隆寺が秦河勝、すなわち魔多羅神の寺ということですね」
「ええ」
「これから暇ひまに慶子さんと魔多羅神巡りしましょ。比叡山も日光東照宮にも出掛けましょ」
「嬉しいですわ」
「人生は生き甲斐がないと駄目だ」
「ほんとにそうですわ」
「再婚なんてたいして意味がない」
「何ですの?」
「いやまた食事の折にでも」
 広隆寺前の道路を隔てた駐車場に車を停めた。観光バスが数台並んでいた。
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