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喜多圭介のブログ

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魔多羅神40

2008-09-21 13:50:50 | 魔多羅神
 慶子は宮本の脚を開いたところに体を沈めると、舌と口を使って魔多羅神を崇め始めた。宮本は最初のとき、慶子のこの行為に驚いたものだった。妻の侑子にすら一度も求めたこともなければ侑子も求めなかった。だからそのとき、
「ぼくはこういうことをきみにして貰おうとは考えていない。なんだか男尊女卑というか女性を奴隷のように扱っている感じで嫌だな」
 と、腹部に顔を置いていた慶子に言った。
「あーらヒンドゥ教の性典『カーマ・ストーラ』という本にも書いてあることなのよ。口性交という項目が詳しく書かれているわよ。男性と女性に分けて」
「そうなの。驚いたな」
「男女合体の悟りは完全なる即身成仏、ヒンドゥーではカーマ、愛と官能の歓びを謳歌することでしょ。そのためにはあらゆる手を尽くすべきなの」
 慶子の説明でそれから以後の宮本は、慶子の行為に歓びを覚え、行為中の慶子の頭を両手で押し付けるほどだった。
 慶子のそれは魔多羅神を崇め立てまつるというよりは、おしゃぶりに近かったが。
 そして当然、宮本も慶子のシヴァ神の花園を崇め立つまつり、次に慶子が宮本の下半身に騎馬立ちして、疾駆する秘儀へと進行するのであった。
 インドに着いてからは夕食はカレー料理ばかり食べている。三宮にもインド料理を食べさせてくれるところがあり、宮本はちょくちょく出かけていたので、カレー料理には慣れていた。
 ホテルでの夕食は海老と野菜のマイルドな辛さのカレーにレモンライス、みじん切り野菜とヨーグルトを混ぜたサラダ、チャナ豆の香味野菜炒めをとった。アルコールは白ワインのフルボトルをオーダーした。
「カレー料理は悪酔いしないからね」
 宮本は慶子のグラスに注いで言った。
「私も体の調子がいい」
「昼間の秘儀は烈しかったな」
「ほんと?」
「カーリ女神や托枳尼の土地だから、霊能に感応するのが強いかも」
「あなたの魔多羅神様もパワーがひときわ強力になってる」
「そんな感じがする。ぼくは魔多羅神を自覚したから日本でも元気だけど、〈これ〉をペニスとしか認識しない日本人は、早晩インポテンツになる。ぼくの病院でもまだ二、三十代の男が相談に来る。勃起しないのは精神的におかしいのではないかと。たしかに欝症でなくても競争社会でストレスを溜めていると、元気を喪失するね」
 と言って、宮本は慶子に〈それ〉を握らせようと思ったが、ここがレストランであることに気付いた。
 宮本は近頃、頭の中が空白になることがあった。
「女性も同じだと思う。私には『理趣経』への悟りがあるから問題ないけど」
「魔多羅神が全人類救済の哲理、秘儀となる深遠な何かがインドにはある筈だ。一回訪問したくらいでは見つからないだろうが、二人でそれを見つけよう」
「ええ。もしかしたら秘儀というのは山岳地帯で護られているかも。高野山や比叡山のことを考えると」
「あるいは。だけど今回の旅も無駄ではないよ」
「そりゃそうよ。あなたとこうやって美味しいお料理を食べて、毎晩過ごせるだけでも」
「今夜もう一度秘儀をしよう」
「ええいいわ」
 慶子は瞳を蠱惑的に輝かした。
 その夜も二人は早めからベッドに潜り込み、衰えることなく果てしない秘儀に、それはまるでインドのエロスを司る秘儀の神々が、ベッドの廻りに馳せ参じてきたかのようであった。宮本は行為の最中に、仏陀の涅槃図を思い起こしていた。あのときも沙羅双樹の元に弟子やらなにやらが馳せ参じた。慶子は『理趣経』十七清浄句のCDを持ってきていた。性の祭の効果はなん増倍にもなった。二人は途中で休憩をとりながら、何度も繰り返した。真の随喜、歓喜、法悦境は、沙羅双樹の涅槃図そのものの極楽であった。何度も死に、そして再生した。そのたびに二人は若返り、無垢な稚児の世界へと向かった。
 知識、教養、虚飾、地位も名誉も金銭も財産も必要としない、極楽三昧の境地であった。「あまねくすべてを照らすもの、大日如来と一体になったのね」
 濡れ羽色にしっとりとなった髪の慶子は、額に汗を浮かべ、うっとりとした表情で、こう囁くのだった。
 宮本は、慶子の甘い囁きに魔多羅神、シヴァ神、カーリ女神や托枳尼も大日如来そのものであり、ああこれが胎蔵界、金剛界かと、二つの曼陀羅が眼に浮かび、慶子と最初に出逢ったときの、二月の霊宝館の一室の冷気と光景を懐かしむのだった。
 この先何が起ころうと、二人は手を握り合って、いや交合の法悦境で、極楽往生することを疑うことはなかった。男と女、地球上の原点はこのことだけなんだ、宮本がそう呟くと、慶子が、それ何? と宮本の胸に乳房を押し付けてのし掛かってきた。
「インドの人たちを見ていると、酷熱の地に男と女がいて、生きて死ぬ、ひとの生涯とはそれだけのことなんだと思ってしまう」と言った。
「そうね、大日如来は十七清浄句のあとにこうも教えておられる――なにがゆえに、これらの欲望のすべてが清浄なる菩薩の境地となるのであろうか。これらの欲望をはじめ、世のすべてのものは、その本性は清浄なものだからである。ゆえに、もし真実を見る智慧の眼である般若を開いて、これら一切をあるがままに眺めるならば、あなたたちは真実の智慧の境地に到達し、すべてみな清浄でないものがないという境地になるであろう――」
 と、慶子は言い、自ら頷くと、宮本の直立不動の魔多羅神を熱い掌に包み込んだ。
「そうなの。明日はコモリン岬のカニャークマリね」
「どの辺り?」
「インド最南端。ベンガル湾、インド洋、アラビア海の三つの海が出合うところ。素晴らしいと光景だと思う。それにヒンドゥーの人たちにとっては、有数の巡礼地の一つなの」
「六時間掛かるのだったな
「それくらい。バスで行きますか」
「それもいい」
 翌朝になると元気旺盛な二人は、インド人の聖地参詣と外国人観光客の混じったバスでコモリン岬に向かった。クリスマス・イヴだった。
 マドゥライの市街地を抜けると、基本的にはタール色の路上、脇にレンガ色の平らな地面と紺青の海、それに淡雪のような雲を棚引かせた水色の空が、二人の前に延々と続いているだけだった。
 インドの道路は舗装が薄いのか、日本の高速道路並とはいかない。表面が剥がれていて、助手席に乗っている宮本の体はドスンと何度も突き上げるように揺れた。だが炎天下を歩くことを思うと、車内はクーラーも効いていてずっと快適である。
 途中から日本でもお馴染みの風力発電の翼が、これもまた百碁、二百碁と続いていた。
「これだけ多いと壮観な眺めだな」
「タミール・ナドゥ州の電気を賄っているの」
 と、慶子は説明した。
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魔多羅神39

2008-09-20 20:28:29 | 魔多羅神
     *

 インド人はどうしてこうも路上にゴミを捨てるのかと呆れるほど、マドゥライの街も路上が汚れていた。バイクが雑然と並んでいる。物乞いも多い。こうしたことに慣れないと本当のインドの姿は掴めないと、宮本は思った。
 ミーナークシ寺院は街の中央部に、土からぬっと出た竹の子のような恰好で、明るい空に伸びていた。竹の子が二つと台形の盾のようなものが三つ、それらが街を圧して、でんと聳えている。
「あれは何?」
 宮本は盾の一つを指差した。
「ゴープラムといって塔門なの。ゴープラムが寺院を囲んでるの」
 東門に着いた。
 内部に入った。暗い道の両側に土産物店が並んでいる。
「ハロ、ジャパニ!」
 と、花髭を生やした店主から声が掛かるが、慶子はノーと手を振って先に進んだ。相手にすると付き纏われるからだ
 寺院内に入る前に靴を脱いだ。内部は裸足だ。
 日本人のバックパックの一人旅の若者やツアー観光のグループが眼に着いた。とくにバックパックの若者はインド各地を放浪してきたのか、北インド人と変わらないくらいに日焼けしていた。
 ヒンドゥーの神々や動物、聖者などが無数に極彩色で彫られていて、下から見上げていて圧倒される。日光東照宮のような彫り物が天にひろがっている。一つ一つの彫刻を下から見上げるだけで、何がなんだかわからないという印象で、宮本は眩暈を覚えた。宇宙的だ、と言葉を発することも出来なく、感嘆の息を呑むばかりだった。
 象の神様まで祀ってあって、インド女性が拝んでいた。
「凄いね」
「そうでしょ」
 あちこちで供え物の花や置物などが売られている。天井に色彩豊かな絵が展がり、眼を楽しませてくれる。また石柱一本一本に丁寧な彫り物が施されている。石柱に囲まれた神殿で、額の前に両手を合わせ拝んでいる男性がいる。あちこちで拝んでいる。場所によって外国人は神殿内には入れない。
「秘儀らしき物は見当たらないね」
「ええ、やはりひとの眼に触れない場所があって、そこで行われているのでしょ」
「やっているとしても夜だろうな」
 塔門の一門ずつが十キロ以上離れているので、そのたびにタクシーで乾燥した町中を走った。自転車、荷馬車、バスが走る。人力車も乾燥した道路を走る。極彩色看板、砂糖黍、バナナ、レモンを絞ったジュースを売っている露店などが眼に着く。貧困が乾ききった空気の中で、直射日光を浴びて騒然としていた。
 宮本は、これがインドなんだ、いやインドの一部だ、と思う。
 ミーナークシ寺院を一巡りするだけで宮本は疲れた。暑さのせいだ。
 寺院以外に観るところがあるようでないのが、南インドだ。先住民族の暮らし探訪に来たのでないから、ホテルに戻ることにした。昼食の時間だった。
 レストランで先ず青唐辛子と玉葱の唐揚げをつまみにビールを飲んだ。一息吐いてからライス付きのチキンチリーセットをオーダーした。
「お昼から何処を廻ろうか」
 慶子は思案顔で呟いた。
「真言密教、天台密教のことから想像しても、秘儀は山岳で行われているのでないだろうか」
「そうね……こんな喧噪の街ではなさそうね」
「部屋に戻ってシャワー浴びてから一眠りしますか」
 インドに来てから香辛料のきつい物ばかり食事しているせいか、宮本のあそこが怒張していた。
「そうしましょうか」
 慶子は頷いた。
 昨夜は疲れて慶子との秘儀は行わなかったので、きょうは昼、夜の二回行ってもいいと、宮本は密かに考えていた。
 部屋はトイレ・バス付きのツインだった。マドゥライは世界各地からの観光客の訪れるところだけに宿泊施設はピンからキリであった。
 順次シャワーを浴びると、二人はバスローブ一枚だけの姿で一つのベッドに横たわった。「明日は今回の最大の目的地コモリン岬だ」
「そうよ、秦一族が日本に渡来する出発地点、だけどコーチンからという想像も捨てきれないけど」
 慶子は宮本の脇腹にキスをしてから言った。
「コーチン?」
「ケララ州の、コモリン岬の近くよ。十五世紀の大航海時代はここが港町として栄えたの。マルコ・ポーロが上陸したのもここなの。それにここはアユールベーダというマッサージで有名。ベッドにスッポンポンになってマッサージして貰うのよ。だけどこれは観光客向けサービスで、もっと凄いことが行われている気がするの。あら魔多羅人様がお目覚めのようね」
 慶子は直立している魔多羅神を片方の手で掴んだ。
「最初にお目に掛かった頃から比べると、頑健な感じよ」
「そうかい」
 宮本も日々逞しくなって行くのを感じていた。
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魔多羅神38

2008-09-20 14:37:39 | 魔多羅神
 ベンガル湾沿いの小さな街だった。チェンナイよりずっと騒音が少ないので、宮本はほっとした気分になった。
 バス停から広々した平らなメインロードを歩いて行くと、〈アルジュナの苦行〉というシヴァ神を讃える壁画が、幅約三十メートル、高さ十メートル以上の規模の灰色の岩面に彫刻されていた。叙事詩『マハーバーラタ』の一場面、アルジュナの苦行を描いたもので、眼の高さのところに半月の牙の象が彫られてあった。
 街全体が緑の樹と灰色の巨石の遺跡の丘のようであった。そこから海岸に向かって目当てにしていた海岸寺院のほうへ、どんどん歩いた。店が連なっているが、ほとんどの店に石像を並べてあった。鬢から口の周りに白髯を短く生やした老人が、椅子に腰かけて二人を見ていた。数人の職人が石像を彫っている店も並んでいる。店先に値札を付けた石像が所狭しと置かれている。
「五百円か千円で買える値段よ」
「病院の庭に並べて置いてもよさそうだな」
「重たくって持って帰れないわ」
 黒髪を背中まで垂らした女が、屋台でパイナップルを売っていた。少し離れた路上でココナッツジュースを売っている女が、地べたの敷物に腰を下ろし、手に斧のような包丁を握って、ココナッツを割っていた。慶子は近寄って女と話し、割った物を宮本に手渡した。ストローが付いていた。
 二人は立ち飲みした。飲み終わった実はさらに細かく割ってくれたので、中の実を手で摘んで食べた。
「ヒンドゥ語で通じた?」
「タミル語」
「タミル語も話せる?」
「買い物程度なら」
 八世紀初頭に建造された海岸寺院に着いた。紺碧の空の下に破壊の神シヴァと守護神ヴィシュヌを祀る灰色の石造りの寺院が建っていた。世界遺産に登録されている。高野山にもある巨大な二基の墓石が青空に突き出した恰好だった。内部を見学できるようになっていた。
 内部に入ったが、石壁に細かな彫刻がびっしりと彫られていた。しかし秘儀の手掛かりになる物は見当たらなかった。
 海岸寺院の裏手は、隙間の空いた防風林の向こうに、ベンガル湾の海が広がっていた。少し距離があったが、海岸まで歩いてみた。
 十数名の若い女が、海に向かって佇んだり、波と戯れていた。
「サーリーと違う恰好だね」
「おそらく観光に来てる女子大生ね。独身の女性が着るパンジャビー。シャルワールという細いズボンとカミーズという太腿まである長袖との組み合わせなの」
 と、慶子は小声で説明した。
 二人はしばらくそこに佇んでいたが、タクシーの停まっているメインストリートに引き返した。ポンディシェリーに向かった。そこにきょう泊まるアナンダーインがある。
「ヴィシュヌ神というのはどんな性格の神?」
 宮本は車内で訊ねた。
「シヴァと並ぶ最高神。太陽の光を神格化したした神で、日光で話に出た天照大神、大日如来と同じ。カンボジァのアンコール・ワットもヴィシュヌを祀ってある。ヴィシュヌの妻がラクシュミで、仏教では吉祥天に化身してる」
「なにもかも仏教に絡んでいくのだなァ」
 四時過ぎに白亜色のアナンダーインに到着した。ここはマドゥライまでの中継として宿泊するためだし、車の中から街を眺めると、路上で牛がゴミを鼻先で漁っている汚い街で、秘儀をやっている雰囲気でなかったので、外に出ないことにした。それに外に出てもベンガル湾を眺めるくらいしか何もないと慶子は言った。
 部屋でシャワーを浴びて、気替えを済ませるとレストランに出掛けた。雰囲気のいいレストランだった。ポンディシェリーは元フランスの植民地だったので、フランス料理のメニューが豊富だったが、二人とも食べるよりも飲みたい気分だったので、シャンペンを一本と野菜がメインのミールスをオーダーした。
「明日出掛けるマドゥライはヒンドゥーの寺院が多いわよ」
「そこはどの辺り?」
「内陸に入るの。インド最古の都市のひとつで寺院の街。インド最大寺院の一つミーナークシ寺院がある。マドゥライの街はこの寺院を核にして発展してきたの。見るべき価値はある。マドゥライのホテルに一泊してから、翌日コモリン岬に出てもいいわよ」
「それでいい。ホテルに戻ったら今夜のことと明日、明後日の宿泊予約をしておいて」
「ポンディシェリーから車で何時間?」
「タクシーーで六、七時間」
「明日も強行軍だね」
「この街はアンタッチャブルが多そう」
「アンタッチャブル、触れてはいけないってこと?」
「カーストの第五階層、不可触民。ヒンドゥーの前のバラモン教、インドは北から侵入してきた肌の白いアーリヤ人が、肌の黒う先住民を支配して今日のインド社会を構成したでしょ。カーストは最初は四階層だったけど、さらにその下に第五階層を設けて、一、二階層への三、四階層の不満を逸らしたの」
「日本にも同じ発想がある。士農工商の下にもう一つ階層を作り、農工商の不満を懐柔した」
「大和時代からありましたよ」
「うん、古代からあった」
 翌日は六時間でマドゥライの街に着いた。まずTaj Garden Retreat Hotelに直行した。慶子の事前調査ではマドゥライは紀元前から栄えた街で、パーンディヤ朝が長く続き、女王国伝承が残されている。慶子の説明ではコモリン岬に近い女王国伝承のある都市には、秘儀が行われている可能性があるということだった。だからこの街に二泊して秘儀探しをする価値はあると。たしかに今日一日ではあちこちの寺院を巡ることは難しかった。
 中途半端な時間にホテルに着いたので、その日はタクシーでティルマライ・ナーヤカ宮殿だけを見学することにした。上部を支える太くて白い円柱が目立った。水色やオレンジ色のサリーを纏ったインド人女性の観光客が訪れていた。
「大英帝国時代のコロニアル調の建築様式に、モンゴル系のムガル帝国時代のサラセン様式がミックスした宮殿。破壊されたので残っているのは舞踏ホールだけなの。あとガンディ博物館が付属している」
「何世紀頃の物だい?」
「十七世紀」
「わりと新しいね」
 天井部分の彫刻が美しい感じだったが、取り立てて目を惹く物はなかった。ついでだからとガンディの肖像画や暗殺されたときに着用していた血染めのドーティなどを眺めた。
た」
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魔多羅神37

2008-09-19 22:42:01 | 魔多羅神
 六章 コモリン岬



 南インドの玄関口、タミール・ナドゥ州の州都チェンナイには、同日夜遅くに到着した。空港に降り立っただけで、夜にもかかわらず宮本は、むっとする匂いと暑さに体を包まれた。
「暑いでしょ?」
「日本の夏ってとこだね」
 空港の外に待機していたタクシーにすぐさま乗り込んだ。インドにはタクシーと似たものにオートリキシャが走っている。しかし不案内な旅行者にはメーターを使わず、高い料金を払わせることがあると言って、慶子は辺りをきょろきょろ見て、タクシーを探した。
 定額制のプリペード・タクシーだった。
「暑い?」
 と、三十代に思える青年が白い歯を見せて笑った。
「冬の国から来たから。日本語できるの?」慶子が言った。
「三年、日本で働いたことある」
 慶子は市街地北部のエグモア駅を告げた。エグモア駅周辺に予約しておいたホテルがあった。夜目にもかなり大きな白亜のホテルに見えた。ロビーも広く、高級ホテルの雰囲気だった。部屋も壁に額縁の絵が掛かり、モダンな明るさがひろがっていた。カーテンを開けると、窓の下にプールの水面が月光に照らされていた。
 東京から半日がかりで飛んで来たが、ホテルの内装やら部屋の様子が、日本のホテルと変わらず、南インドにいる気がしなかった。ただホテルの外に一歩出ると、自分の居るところが日本ではなく、巨大な空間のサウナであることがわかった。
 若い頃ならともかく、いまのぼくにはこの蒸し暑さはこたえる。秘儀探訪を長期計画にしておいてよかったと思った。それに最初から秘儀の手掛かりなどは得られない筈だ。今回は慶子との観光旅行のつもりであってもいい。まずこのホテルに二泊して、あとのプランを立てるという段取りもよかった、と思った。
 その夜は二人ともシャワーだけ浴びると、ベッドで秘儀を行うこともなく抱き合って眠った。
 翌朝、宮本はボリュウム一杯の拡声器の声で目覚めた。チェンナイに到着したときから、インドはやたら騒音が大きいと感じたが、うつらうつらした頭に朝の六時頃から拡声器の声が聞こえていた気がした。
 二人は朝食を終えると、宮本は帽子を被ってTシャツにコットンの半ズボン、サンダル履き。慶子のほうも袖無しのリボン付Tシャツに、ガーゼ素材の手首まで袖のあるシャツを重ね着した。下はパンツにサンダル履き、頭に麦わら帽子風なものを被り、近くのマリーナ・ビーチに出掛けた。こうした服装は「暑いし、安物でいいの」と言って、慶子が南インド旅行用にと、いろいろと組み合わせて着られるように揃えていた。
 やたら煉瓦色の建物が眼に付いた。
「匂うでしょ」
「日本にない匂いだな」
「私は今回で四度目だから慣れているけど」
「ぼくも今回の旅行に備えて、北野坂のインド人のレストランに何度も行ってたから苦にならない」
 オレンジ色のビーチは大勢の家族連れで賑わっていた。渚まで歩いて四、五分はかかる広い海岸だった。横は五キロくらいあり、海岸そのものが、貧しい漁師の人たちの暮らしの町になっている印象だった。自作した木造の家が並び、市場が並び、魚や野菜、果物が売られていた。庶民のエルネギーに満ちていた。
 インド人だけでなく、ヨーロッパや北欧、ロシアから来た白人家族も多かった。ビーチの中程に屋台がずっと数珠つなぎに並んでいた。雑貨屋、金物屋、風船割り、揚げバナナ、揚げ唐辛子の店、様々な貝製品の店、まるで日本の夏の夜店風景であった。砂浜が広いので片側だけに並んでいた。メリーゴーランドの廻っている施設、映画スターの等身大看板と一緒に写真を撮るコーナーもあった。そして渚では白波と戯れる人たち、ビーチに座って海を眺めている人たち。
 二人は砂地に腰を下ろした。
「日本の海岸風景とはだいぶん違うな。健全な家族、子供達の娯楽という感じだね」
「そうね、日常的に利用している感じ。暑い国だし水浴の習慣があるでしょ」
「ここで海を見ると空も海も宇宙そのもの。ぼくらは芥子粒だ。ベンガル湾が果てしもなく広大だ。だけど波が荒いな」
「ちょっと怖い。膝のところまでは入ってるけど泳いでいるひといない」
「泳げないよ。沖の方に引っ張られそうだ。ここでこうしていると宇宙空間に吸い込まれて消えていく」
「アイデンティティなんて考えていられないわ」
「ひとの生き死にが問題にならない。ヴァラナシでの水葬の意味が、ここに来てみてわかった気がする」
「どう考えたって日本しか知らない日本人は、貧弱な島国精神から抜け出せない。哀れな人たち」
「島国なりの精緻、細やかな民族性だが、この広大な宇宙からみるとどうでもいいような精神」
「こっちはスケールが違いすぎる。こういう国で発祥したヒンドゥ教や仏教が、いかに途方もなく大きなものを包括しているかって気がしない?」
「無数に足跡が着いてるけど、いったん波が上がると明日にはすべてが消えている。この土地の人たちはいつも無常を見ているってことだ。この海岸一つでこうだから、明日から何を感受するか怖いね」
 ビーチを離れると、二人は繁華街アンナー・サライある、スペンサー・ブラザという名前の大きなショッピングセンターに入った。インドの土産物が揃っていたので、買わずにぶらついた。冷房が効いていたので、暑さに弱い宮本は人心地付いた。
「神戸で見かけるインド人より黒いな。アフリカ人のようだ」
「南インドは北にアーリア人が入ってくる以前からの先住民族なの。ドラヴィダ人で崇拝する神もドォルガー女神、ヒンドゥー教は三神一体のシヴァ神、ヴィシュヌ神、ブラフマー神なんだけど、南インドはヴィシュヌ神でその生まれ変わりがドォルガー女神」
「東寺で眺めた顔が三つある夜叉神と似ているね」
「そうね。でもこっちは一神ずつ独立した体を持っている」
 ホテルに戻るとき、チェンナイの銀行に立ち寄った。宮本は現金、トラベラーズチェックで五十万円を持参していたが、自分が携帯している国際キャッシュカードが使えるかを確認しておいた。
 翌日はチェンナイ市内からタクシーで、両側に高い椰子の樹の並ぶ道路を、南へ約六十キロ先のマハーバリプラムまで走った。
 この日のうちにポンディシェリーまで出掛けて宿泊する予定だったので、慶子はそこまでの割増料金を交渉して、タクシーの運転手を雇っておいた。インドの長距離タクシー料金は、日本に比べるとずっと割安感があった。
 運転手は車内で眠っていると言う。
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魔多羅神36

2008-09-19 18:41:18 | 魔多羅神
     *

 新病棟建設の決断は予定を早めて、十二月一日、翔平、啓治、生方珠子を集めて行った。そして翔平が二日に各科の医長、医局員に、珠子が看護師に内示し、十日に翔平はマスコミに公表することになった。
 外科新設に必要な人材は、早めからの翔平、啓治の奔走で、阪大や神大を定年退職する、精神医学界では著名な名誉教授を招聘する内諾を、一年前に本人たちから得ていた。神大は宮本の、阪大は翔平と啓治の母校だった。外科病棟に必要な各科の看護師長は、その教授達に引っ張ってきて貰い、その他の看護師については珠子が、病棟完成までにあちこちの看護師学校に出向き、優秀な人材を確保することになった。新設後の手続き、医師会や保健所への届けなどは翔平がすることになった。
 十日には予定通り、翔平がマスコミ関係者を招いて公表した。
 そのあとで宮本は、翔平と生方珠子には病院で、啓治と嫁の佐代子には自宅で、南インド旅行を十九日から二十八日までの日程で行うことを打ち明けた。翔平と珠子には両角慶子のことを説明し、彼女同伴だと言ったので、皆は驚き顔であったが、すぐに笑顔を交えた顔で冗談口をたたき、了解してくれた。さすがに『理趣経』や魔多羅神の秘儀の源を探訪する目的は打ち明けなかった。
「体の調子は大丈夫だろうね」
 と、翔平は確認するように言った。
「以前よりずっと調子がいい。体もだが頭が異常に活発に働いている」
 と言ってから、なんだか以前のぼくでない気がする、と呟くと、翔平と珠子は、おのろけを聞かされたかのように腹を抱えて笑った。
 インドに出発する二日前に二人は、摩多羅三尊の掛軸の実物を見ておきたく、日光・輪王寺を訪ねた。写真で見たとき以上に奇態なものを、宮本はテレパシーのように感受した。二童子が舞っている姿を眺めている魔多羅神の笑顔が、なんとも卑猥だった。そして二童子の踊る恰好が、双方とも視線を足先の地面に向けて何かに憑かれているようだった。法悦境を索めて上り詰め、陶酔しているようにも見えた。
 実物の掛軸を見ることができ、宮本は満足した。
 そのとき掛軸の展示してある部屋で、その掛軸を見学に来ていた、背筋の伸びた背の高い古老に話しかけられた。黒の僧衣に白足袋、黒鼻緒の下駄を履いた、品のある顔立ちの僧侶だった。
「あんたたちもこの軸に関心がおありかね」
「はいちょっと」
 慶子が応えた。
「ほほう魔多羅神と知っておいでか」
「詳しくは知りませんが」
「若い頃に比叡山で修行したとき、魔多羅神を拝んだことがあるが、この軸を見たことがなかったんで、東北の寺から見に来ました。得体の知れぬ絵だ」
「そうですね」
「ありがたい神さんかもしれんが、あまり近付かんほうが無難ですな。魔多羅神は托枳尼天と同体とも言われておる」
「鬼子母神とも呼ばれている托枳尼とですか」
「よくご存じじゃな。どちらにしても死神だからのゥ。ところで『渓嵐拾葉集』を読まれたかな。天台の学僧光宗がまとめたもので、天台密教の諸事を著しておるが、そこに――相伝にいわく、天照大神が天下りなされたのち、天の岩戸に籠もられたというのは、辰狐の形で籠もられたのである。もろもろの奇獣の中でも、辰狐はその身から光明を放つ神なので、辰狐の形を現されたのである――とある」
「辰狐は托枳尼のことじゃございません? それじゃ天照大神イコール托枳尼ということに……このことは知りませんでした」
「辰狐は如意輪観音の化現でもあるわの。如意輪観音が手に持っているのは、宝珠、すなわち如意宝珠。真言の東寺の秘伝では、如意宝珠は仏舎利、つまり釈迦の遺骨じゃ」
「はあァ?」
「釈迦の本体は全宇宙的釈迦仏、密教の大日如来のことでな、そうなると托枳尼はまさしく大日如来の化身ということに」
「それじゃ大日如来と托枳尼と天照大神は同体ということに……」
「こんな話は中世の資料には枚挙にいとまがないほどある。わしは中世の歴史が好きでな、少し調べたりしておるのじゃ。托枳尼の存在は意味深いものがある。つまりのゥ、大日如来は表の力、托枳尼は闇の力、パワーなんじゃ。現代人の思考では闇の力は無視されておって、混乱を引き起こす元凶になっておるのじゃ。それにのゥ狐が人間と交わる話は日本のあちこちにあるでのゥ、狐は来ると寝るを掛けて〈来つ寝〉とも表されとる」
「来つ寝ですか」
「中国の古書『玄中記』に――狐は千年を経ると化ける術が大成して淫婦に化し、百年経った狐は美女に化けられる――と書いてあるのゥ」
「淫婦に」
「それだけ妖艶じゃということじゃ、あんたのように」
 古老の僧はじっと慶子を見つめてから、愉快そうにカカッと笑った。
「まあ……インドでは托枳尼は血塗られた神、夜叉神なんです。カーリー女神の従者です。夜に飛び回り墓場で集会を開き、時には死人を喰ったりします。夜な夜な男達と交わったりも」
「わしはそこまでは知らん」
 ――狐まで飛び出してくるとは……そして托枳尼はカーリー神の従者とは……そういえば慶子と柳美里は美人ではあるが、美貌の白狐に似ていないこともない。雌豹の眼と思ったが、本当は狐の眼かもしれないぞ。
 宮本は二人のやりとりを聞いていて、今回のインド行の前途に容易ならぬ気配を感じて、背筋に寒気が走ったが、とにかく東京での一夜を過ごすと、翌朝十九日に飛び立った。
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魔多羅神35

2008-09-19 14:38:13 | 魔多羅神
「ほう、それは一度見たいものだ」
「見るよりも実践ですわ。実践しないと女性はオルガスムスを得られないの。得られたときに自然に発する言葉が、逝くゥに象徴されているの。死ぬゥと叫ぶ女性もいますよ」
「そうか、そのときに脳細胞がエンケファリンとかエンドルフィンを分泌するんだ」
「それって?」
「ひとは死ぬ瞬間、苦しまなくて済むように、こういう快楽物質を分泌するんだね」
「知らなかったわ。やっぱり『理趣経』にあることは、大脳生理学で裏付けられるのね」
「しかし阿っ! 逝く逝くまでが『理趣経』とは驚いたよ」
「阿吽の呼吸って言うじゃない。皆さんは真実の意味を知らないで使っているけど。だから阿吽の呼吸に到達しないとか、どちらかしか到達していないセックスは間違ってるの」
「しかしそのたびに死ぬのかい?」
「だってお釈迦様だって悟りを開くまでに、何千回も死に、生まれ変わった末なのよ。生まれ変われないひとは凡愚のままで死ぬの」
「死んで生まれ変わるってことは、自分の運を試すことかもしれない……ぼくにはこれまでこういう機会が少なかった。運を試すように行動することがドラマかもしれない。世間で成功した人物は、子供の頃から自己変革、つまり一度死に、そして生まれ変わりを繰り返したんだな。輪廻転生やな」
「輪廻転生はヒンドゥー教徒の信仰ね。肉体の死後も霊魂は生き続けており、いったんは天上界に赴いて、祖先の霊に逢ったりしたあと、またこの世に生まれ変わる。このとき生前に善行を積んだひとほど、幸福な生まれ変わりになると信じているの。善行を積んだひとほど極楽に行けるという仏教とは違うわね」
「なるほどね。ところで阿吽だがね、ぼくの仕事でも阿吽が巧く行っていない患者、とくに三十代から五十代の女性が多い。初診段階では軽い鬱症状なんだが、ぼくのほうから誘導していくと、必ずと言っていいほど夫との性の不一致が診られるのだ。夫の浮気を知ってペニスを受け容れられなくなったという症状もあるが、いちばん多いのは夫が射精した後でも女性のほうは燻り続けている。これがしだいに高じて、いつも苛々して、夫や子ども、働き先での同僚とのコミュニケーションができなくなるという症状がある。なかには不倫願望が強まり、罪悪感を覚えたり、実際悪い男に誘惑され、挙げ句に金銭を強請られるケースもあって、このことが原因での神経症もある」
「そうでしょ、日本ではほとんどの妻が死ぬほどのオルガスムスを得られていないと思うわ。日本の男性って自分の欲望を満たせばそれで眠ってしまうのよ」
「そうだろうな。ここ十年近くで急増しているな。もっとも夫が不能とか早漏のケースも昔よりは増えているが。仕事のしすぎで性欲がないというのもあるがね」
「セックスのテクニックだけでも駄目なの、精神の結び付きというか信頼感、これが絶対に必要なの。あと一つは宗教的秘儀ね。女性は相手次第では成仏しないことが多い。。私はあなたとならする。夫婦で妻が先に老けて醜くなるのは、夫より即身成仏の回数が少ないからよ。横暴な夫をもったりするとそうなるわ」
「性戯と信頼と宗教的秘儀の三本柱ということか。この三本を明確に掲げた新宗教の設立が急がれるな」
 体位実践においては、濃霧の中を彷徨っているような宮本であったが、事後は回春著しく、少年よ大志を抱け! と小学校で担任からたびたび聞かされた名言を、つい叫んでみたくなるほど、頭脳は若々しく高揚し、胸は晴れやかであった。
 精神科医をやっていても、自分がその状況に陥らないことには、自分の精神世界は認識されないものだが、宮本は今の自分を、明治維新の倒幕の志士の気概に燃えている人物として意識していた。
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魔多羅神34

2008-09-18 19:25:04 | 魔多羅神
     *

 両角慶子と柳美里との相似に気付いた翌朝の朝方、厭な夢に目覚めた。宮本は総じて夢を見ない。いやひとは一晩に十や二十の夢を見ており、目覚めたときには一切記憶にないことを、精神科医としては知っていた。夢を見たというのは寝起き前の一つである。その一つが記憶に残った。
 宮本は地表から三十センチほどの地中に脚を伸ばし、仰向けに横たわっていた。眠っているのか死んでいるかは判然としなかった。どうも砂地のようだった。そしてそんなところに寝ている自分を、怪訝に見ているもう一人の自分の眼があった。
 宮本は病院の自室で自分史的小説を創作しているとき、ふと眼差しを机の近くの窓に向け、神戸の市街地や神戸港を所在のない顔で眺め、自分のこれまでの人生にはドラマらしい展開が、何一つなかったことに気付かされた。
 窓外の百日紅、夾竹桃のピンクは消えており、葉の繁みが寂しくなっていた。
 宮本が四十三歳のとき、父が六十五歳で急死した。母が交通事故死したのは、父の死のさらに十三年前、母が四十八歳のときだった。高速道路を車で走っていた母は、対向車線をはみ出して走ってくる居眠り運転のトラックを避けようとしてハンドルを切りすぎ、ガードレールに激突、トラックにも挟まれての即死だった。
 この二つの出来事と侑子の駆け落ち、自殺が宮本にとっては、大きなドラマといえばそうだが、しかしこれらの出来事も自らが主役のドラマではなかった。
 父親の急死で病院経営の苦労があったが、これも弟の翔平と生方珠子が、両脇から支えてくれたので、死ぬほどの苦難というものではなかった。だから小説を執筆していても、物心着いた頃からの淡々とした記憶を、平坦に書き綴っているだけで、小説らしい起伏がなかった。
 経済的な生活苦はなかったが、あまりにも思い出の少なかった人生行路だと、外の景色を見やって、ぼんやりと思うのだった。唯一高野山で知り合い、深い関係に陥った慶子との濃厚な逢瀬だけがドラマといえばドラマだった。
 アッと宮本は小さな声を上げた。
 ――オルガスムスに上り詰めたときの慶子の白眼がかった眼を、以前何処かで見た気がしていたが、ぼくは柳美里の眼を慶子に重ねていたのだ。いったいこれは?
 このことに気付いて、宮本は戦慄に近い衝撃を覚えた。
 ――何故だ!
 宮本はしばらく視線を宙の一点に据えて、沈思黙考した。
 ――そうか、珠子が貸してくれたあの四冊だ!
 慶子と出逢う半年ほど前に、珠子は柳美里の小説、小学館から刊行された『命』、『魂』、『生』、『声』を貸してくれた。どれもかなり分厚い単行本だったが、宮本は一気に読破した。どの表紙カバーにも雌豹のようなイメージの柳美里が、幼子と一緒に写されており、インパクトがあった。
 ――だから今度は慶子に、柳美里がだぶったのだ。
 宮本はやっと自分の心理変化に合点がいった。しかし合点はいったものの複雑な心境であることには変わりなかった。
 二週間に一度のわりで慶子のマンションに訪れるたびに、彼女は嬉々とした表情で宮本を出迎えた。車の中でも慶子は、インド行プランの段取りの進行状況を、熱っぽく喋り続けた。宮本は旅程のすべてのことを、慶子に一任し、当面の費用五十万円を渡しておいた。
 慶子は英会話が達者なうえに、日常会話レベルのヒンドゥ語は喋られる。旅行は個人旅行で、国内の旅行社にやって貰うことは、往復の飛行機の搭乗券、慶子が指名したホテルの宿泊予約程度であった。
 慶子は洋書専門店で、インド各地のヒンドゥ教寺院と仏像などの写っている写真集を次々と買い求めては、それをソファで宮本と開いてあれこれと説明した。
「十日間じゃとっても無理って感じ」
「広大な国だからな」
「南と北では何から何まで違うの。言葉だってベンガル語、テルグ語、マラティ語、タミル語と十五種類ほどあるわ。ヒンドゥ語を喋るのは、人口の三割くらいかな。主に北の方。だけど英語が準公用語だから、何処に出かけても何とかなる」
「夏は暑いだろうから、日本の十二月と二月くらいに分けて、年に二回出掛ける長期プランで構想したほうがよさそうだね。今回は南だけとか」
「そうね。そんな風にします?」
「きみさえよければ」
「じゃあそうしましょ。離れたところをあちこち廻ると、時間のロスも出るわ」
 旅行計画のほうは慶子の努力で順調に運んだが、宮本は慶子とのベッドで混迷を深めていた。魔多羅神とカーリー女神との逢瀬そのものは、なんの問題もなかった。逢瀬を重ねるたびに『理趣経』にある――男女が抱き合って満足し、すべてに自由、すべての主、天にも昇るような心持ちになるのも、清浄なる菩薩の境地である――の法悦境に、二人はより強く随喜、歓喜するようになった。魔多羅神とカーリー女神も、互いに相手を疑っている節は見られなかった。が、宮本の脳裏にある意識は、いま自分が抱いている女が慶子なのか柳美里なのか、その境界が混沌としているのだった。
 慶子と柳美里が宮本の脳内の別個の器に意識化されているのであれば、宮本としても区別して対応ができようが、そうではなく、カレーのルウとライスを一皿に入れて出され、ルウを一口味わってからライスを食べているのか、ライスを先に食べてからルウを味覚しているのか、あるいはライスにルウを掛けながら食べているのか、その逆なのかという、相当に深刻な事態で、精神科医としての長年の自己鍛錬があったのかどうか、本人も危ぶんだが、気が狂いそうに惑乱した気分に陥ることがあった。
 自分がどちらの女を抱いているのかわからないにも関わらず、魔多羅神はそんな煩雑な煩悩にはおかまいなく、――欲望が矢の飛ぶように速く激しく働くのも、清浄なる菩薩の境地である――を実践している。
 いずれかの女は絶えずよがり声を上げていた。そしてどちらの女も法悦境のクライマックスでは、阿っ! 逝く逝くゥ! とポルノ小説のようなことを叫び、それに即応して、宮本は思わず、吽、と唸って射精してしまう。すると魔多羅神までもが愉楽の中で、フーンという聖音を発する。
 あまりにも阿っ! 逝く逝くゥ! がポルノぽいので、事後慶子にたずねた。
「どうしてポルノ女優のような下品な芝居をするんだい、しなくてもぼくは満足だよ」
「違うわよ。自然に出るのよ。出ないと駄目なのよ。逝くはこの世からあの世へ逝くこと、即身成仏なのよ。このことはヒンドゥー教の歓喜天やタントリズムに表されていることですわ」
「タントリズムというのは?」
「男性と女性が結合することで宗教的法悦境、陶酔境を得る、エクスタシーのことですが、単純に結合してもそれは得られないので、ヒンズー教寺院にミトゥナ像があります。ミトゥナ像がいちばん多いのが、北インド、カジュラホにあるミトゥナ像、結合のテクニックの数々を表していますの」
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魔多羅神33

2008-09-18 14:33:58 | 魔多羅神
「借りてた本も返さなあかんし。柳美里の『家族シネマ』と『フルハウス』、今日の若者を知るのに役立ちました。家庭崩壊も深刻になってきたな。そのことで精神が傷ついた子供や若い人たちが、この病院に通院して来る」
「そうです。病院だけで対応できない状況です」
「一網打尽せなあかん」
「一網打尽にですか」
「そうなんや。個々に手を打っても焼け石に水。まあこの話はぼくの信念が確立したときに話することにして、長編を書くときのリズム感はどう考えたらええ?」
「詩や短歌、俳句にもリズムはありますから、小説にもそれがないと、読者の気持ちが付いてきてくれないってことあります。読んでて中途で投げ出してしまいたくなる小説は、文体にリズムがないと思います」
「書いてるほうもそうや。リズムに乗らんとしだいに書く意欲が湧かんようになる。いまのぼくはそれなんや。だらだら記憶にあることを書いているだけと違うかと思ってな」
「私の一作目の単行本『春の水盤』を書いたとき、同人会を主宰してはるプロのかたが言いはったことやけど、能楽には世阿弥の『風姿花伝』や『花鏡』に〈序破急〉という理論がある。それを読んで、構成するときに考えなはれと言われました。文章書くのに起承転結というのがあることは、知ってますでしょ」
「エッセー書くとき、念頭にあるけど」
「まあこれでも四部構成とか三部構成の長編書けますけど、私は〈序破急〉という考えに共鳴して、『春の水盤』を三部構成にしました」
「〈序破急〉にもそれぞれポイントがあるのやろ」
「はい、あります。これ私が説明するより明日『風姿花伝』と『花鏡』持ってきますから、読んでみはったらええと思います」
「そやな、貸して」
「そんなら明日持ってきます。それとこの新聞」
「〈しんぶん 赤旗〉やんか」
「組合の専従さんが読んでるのを借りてきました。柳美里さんへのインタビュー記事が大きくのってます。読んでみたら面白いかも」
「ああここやな……新作『8月の果て』な……面白そうやな。読んどくから明日まで貸りてもよろしいか」
「はいはい、よろしいですよ」
 珠子が立ち去ったあと、宮本は置いていってくれた紙面を読んでいた。新潮社から出た長編小説についての内容だった。
 ――原稿千八百枚……どないしたらこんな長い物が書けるのや。
 嘆息したくなる長さだ。
 宮本は、そうだったのか、と思った。一九三六年ベルリン五輪マラソンの金メダリスト孫基禎と、柳美里の母方の祖父梁任得は友人だったのか。孫基禎という韓国人が当時日本の代表として走ったことを、宮本は何かで読んで知っていた。梁任得も一九四〇年の東京五輪出場を有力視されたマラソン選手であった。そうか、柳美里は自分の母方の祖父を描くことで、これまでの既刊作品では書かなかった、自分のいろんな思いを書いておきたかったのだろうと思った。
 ――優勝したとはいえ、孫基禎の心中は複雑やったやろな。日本からは特別視されることもないし、当時の韓国人の心情からすれば裏切り行為みたいなもんやからな。
 こう思った途端、秦河勝や秦一族についても、日本の扱い方は同様でないかと気付いた。中・高校で学習する日本史で、秦河勝や秦一族を特記した箇所はなかった気がする。日本人めいた名前は説明しても、明らかに朝鮮半島からの渡来人とわかる人物については、特別の説明をしないのが、文部省のやり方なんだ。そのくせ朝鮮人・中国人でない人物については、ラフカジオ・ハーンのように持て囃すのだ。
 だがこれらのこと以上に気になったのは、大きく写っている柳美里の顔写真だった。一重瞼の眼のようだが、その眼の形と眉の形、小口の可愛い口元、だけど口元だけはクールな顔立ちにしては、艶めかしく浮いている。体型は胸元は薄いが、長く伸びた瓢箪で、体型を含めてまるで両角慶子と、うり二つに思えるほど似ている。そして柳美里の瞳も雌豹の丸い黒曜石だ。
 ――彼女は在日か……。
 宮本はこの発見に驚いていた。
 慶子が在日であっても宮本にはなんの偏見もなかったが、秦河勝との連想の中では、興味津々の意味をもつのであった。両角慶子――秦河勝――魔多羅神――宮本という繋がりは、宮本に逃れようのない運命的連鎖を、身震いを覚えるほどに認識させた。
 ――慶子とインドに行って来るぞ。
 そう呟いた途端、宮本は頭脳に気泡が立ち昇った気がした。二月に高野山の墓地の前で、侑子に語りかけていたときに、感じたものと似ていた。
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魔多羅神32

2008-09-17 16:31:54 | 魔多羅神
     *

 初診の時間が終わって自室に戻る途中、宮本は一号病棟の東端非常出口から外に出てみた。
 三階建ての一号病棟東端に院長室、名誉院長室が並び、二階東端には婦長室とナースステーションが並んでいる。一号病棟の東側が二号病棟で、病棟間はガラス張りの渡り廊下で繋がっている。二号病棟は精神科、内科、神経内科で、各階の中央に医局室と科ごとのナース室が並んでいた。
 夏の下旬である。南側に廻ると、百日紅の並木に、ピンク色の花が所狭しと咲き満ち、蝉の鳴き声が騒々しさの塊となって、頭上から降ってくる。視野の遙か前方に神戸港の海面が、靄がかって広がっていた。
 百日紅は父親の好きな花木だった。二号病棟の南側は夾竹桃の並木で、父親は夏に咲きほこるピンクの花木を好んだ。今になって考えてみると百日紅、夾竹桃が天竺、現在のインド原産であることに、十二月下旬、両角慶子と十日間のインド行をプランしている宮本は、奇縁を感じるのだった。
 翔平たちの計画は、一号、二号病棟の山手側に外科、脳神経外科を三号、四号病棟として建造したいということである。すでに宮本はその腹づもりができていたが、医局員、看護師への発表を十二月にし、来春四月からの工事着工を考えていた。建設会社の指名や交渉は翔平を責任者、啓治を副責任者とするつもりであった。
「周平院長さん、よう咲いてますな」
 不意に声が掛かった。総看護師長の生方珠子であった。
「この花が咲くと晋平院長さんを思い出しますわ。早いものやな、晋平院長さんと苗木を一本ずつ手植えしたのが、ついこの前のように思えて」
 懐かしそうに言った。
 生方珠子は宮本と同年齢で、京都出身である。ずっと独身を通している。周平、翔平ともに珠子を父の愛人であったと想像している。がたずねてみたことはなかった。珠子は若い看護婦当時からかたわら小説を創作していた。神戸の全国的にも著名な同人誌の同人で、彼女はもっぱら幻想小説の創作を得意とし、これまでに単行本を二冊出していた。
 宮本が自分史的小説に手を染めたのは、珠子による刺激が大きかった。同年齢ということもあり、宮本と珠子はよく文学について話した。喋るのは珠子のほうで、宮本はいつも聞き役であった。
「ぼくがインターンの頃やったやろ」
「はい、その時期です」
「父と珠子さんで、全部植えたのやろ」
「そうどす、一週間かけてぼちぼちと。楽しおした」
 独身を通したせいなのか、若い頃の色白美人であった顔立ちは、いまだに華やいでおり、そこに総看護師長としての落ち着きが物腰に備わり、珠子は五十歳を少し出た程度の女にしか見えなかった。看護学校を出た十八のときから父、周平の元で働いてくれた。若い頃から看護の手抜きもなく、勉強もこつこつとよくしていた。
「木はこうやって毎年元気に花咲かしてくれるけど、人間は儚いもんやな」
「でもそのひとを知っているかたが、この世におられるかぎり、死んだひとも生きてはります。それに知ったかたがおられんでも、小説とか詩とか歌や俳句、絵画などの芸術作品を創りはってたひとの場合は、作品を読んだかたの胸の中に再生するのと違いますか。芸術だけでもありませんが」
「そういう生き方もあるか」
「肉体は滅んでも魂は滅びまへんとか言いまっせ」
「なるほどな」
「どないしはったんです。えらい感傷的なこと言いはって」
「来春から新しい病棟建てることになる。この病院も姿を変えていきよると思ってな」
「院長さんからお聞きしてます」
「そうか」
「近頃お元気ですね。なんや若うなりはった気がします」
 宮本は珠子が人間観察の鋭い小説を創る女だけに、内心どきりとした。
「若なったか」
「ええ」
「大きな仕事せんならんと思ってるからやな。もう一がんばりせなあかんやろ」
「はい。晋平院長さんもきっと喜んではると思います。なんせ兄弟仲良うして病院を発展させはるのやから」
「二人だけでない。蔭で珠子さんが支えてくれるからや」
「おおきに。そない言うてもろて。涙でますがな」
 珠子は笑ったが、胸にジーンときたのか、目許を潤ませた。
「そうや、いつでもええから、お昼時に一遍ぼくの部屋に廻って来て」
「何の話?」
「自分史みたいな小説を書き進めているけど、構成がようわからんのや。二百枚ほど書いたけど、まるで平板な日記のようで、長編創作のこつを教えて欲しいのや」
「がんばっといやすのやな。明日の食事後に行かせて貰います」
 翌日、翔平との食事を終えて十五分ほど経つと、珠子がドアをノックした。翔平は院長室に戻っていた。
「こっちに来てんか」
 宮本は窓際近くの応接セットのソファに案内した。
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魔多羅神31

2008-09-17 13:37:52 | 魔多羅神
 すると宮本はしだいに個別の人間心理への興味が薄れてきた。精神医学として個別対応する時代は、過ぎたと思うようになった。近い将来患者だけでなく、治療に当たっている精神科医や治療をサポートする看護師までが狂ってくるのではないかと想像している。現に教育界では子供だけでなく、教師まで狂い始めている。
 もう個々への泥縄式対応では人類を救済することは不可能なのだ。かといって既存、新興の宗教でも、古典哲学でも駄目である。道は一つ、精神医学と宗教との結託しかない、と宮本はかねがね漠然と思っていた。
 海洋の蛋白資源としてのオキアミを、マッコウクジラが、大口を開けて胃袋に収めるように、今日の凡愚を、この中には政治家、経済人、学者、文化人などを含めていることはもちろんだが、こうしたオキアミを一網打尽する思想こそ、現代にあっては索められているのである。これが宮本の最近の心境であった。
 そのためには精神医学と宗教を融合する以外にないと、薄々気付いてはいたが、慶子に遭遇するまでは、仏教の密教の部分、とくに魔多羅神の秘儀を司ることとの連携には思い至っていなかった。
 実質的な総合病院としての内科と外科の連携を模索、熱っぽく協議している啓治や若手医師、その熱意のまとめ役として奔走する翔平たちのやることも、つきつめると個別対応にすぎない。これはこれで重要なことと認めつつも、宮本自身は精神医学だけの分野には情熱を喪失していた。契機となったのが侑子の駆け落ち、自殺であった。
 伝統ある精神科医の妻がこのようなことをしでかしたことは、それまでの宮本のプライドを、体ごと奈落の底に突き落とす出来事であった。その後の宮本は高野山の墓地に訪れては、侑子に煩悶の末の問いを投げかけていたが、骨となった侑子からは何の反応も返ってこなかった。広い墓地の周囲は高野山の緑が連なっている。それを遠望して、木霊の一つでも返ってくることを期待したが、これもなかった。宮本はますます無明を彷徨し、そのうちに空海や親鸞は、この無明をどう覚り、悟道に至ったのか、この思いに関心を向けるようになった。
 だがいくら宗教の本を読んでも曼陀羅を詳細に眺めても、確信を得ることはなかった。そんなときに高野山で両角慶子と出会った。そして慶子の教唆によって、自らのうちに魔多羅神の存在を自覚した。このことを認識するまでは〈あれ〉はたんに萎れた陰茎、小便を排出する以外には無用のペニスにすぎなかった。
 それが今ではどうだろう、こ奴は人格、いや神格を備えた神仏混淆の崇高かついやに生々しく艶光りした仏として、存在を明らかにする。粗末にはしたくないので、できれば神棚か仏壇に祀っておきたいが、切り離せないので常に携帯している。本当のところは慶子と逢うときだけ〈在ればいいのだ〉。妙なときにすくっと立ち上がるのは困る。
 もちろん慶子の〈あれ〉にしてもたんに〈あれ〉として在るのではなく、魔多羅神との逢瀬では、残忍かつ魅惑的な猥褻のカーリー女神と化身している。この女神達と歓喜して法悦の秘境で共存しうるのは、魔多羅神のみであることを、宮本は深遠な哲理として悟った。
 なにより確信を抱いたのは、この哲理が観念ではなく、唯物的であることだった。魔多羅神もカーリー女神も具象である。宮本は真理は具象にあると満足していた。やっと人類救済の光明を見出し、深々とした恍惚の感慨を覚えるようになった。
 魔多羅神の秘儀は、カーリー女神との逢瀬のみではないと想像し、事後、慶子に問うた。慶子は艶めいた皮膚の、うっとりとした顔でこたえた。
「私もそう思ってる。だって『理趣経』は十七段まであり、十七清浄句はその一段目よ。一段目でこれほどの法悦境の境地なのよ。十七段目まで悟るとどれほどの涅槃が実現するかわからないわよ。当然秘儀も十七あるかもしれない。それに『理趣経』のご先祖は弥勒信仰、ミトラ教よ。呪術的なミトラ教は紀元前二千年に中央アジアで、原始的なミトラ崇拝として発祥したの。それから古代メソポタミア文明と接触し、ミトラ教が完成する。ミトラ教の司祭団カルデアン・マギが誕生。アレクサンダー王朝のもとで、ミトラ教はギリシア化し その結果、西方ミトラ教が生まれて地中海世界全域に広がる。ローマ帝国の国教となる。その後この地域のミトラ教は、キリスト教が国教化されると、異端視される。一方紀元前五百年頃にインドに伝わり、仏教と融合して弥勒信仰を生むことになるの。だから魔多羅神の秘儀は、ここまで探っていくと豪華絢爛、多彩だわ。『カーマ・ストーラ』だけでは本当の宗教的歓喜は得られない。あれは一般向き啓蒙的性典で、もっと奥の深い秘儀が秘匿されている筈よ」
「それをどうやって探る?」
「やはりあなたが関心のあるインド、それからエジプト。この二つの国を訪ねないと見つけられない。一緒に行きましょうね。とにかく最初はインド。シヴァ神は男根を象徴でしょ。シヴァ系寺院では、本尊のシヴァ神がリンガの形で祀られているの」
「なるほどね。シヴァ神イコール魔多羅神となるわけだ。そうなると当然シヴァ神にも秘儀があることになる」
「そうなの。インドにはリンガ崇拝というものがあるわ」
「それは何?」
「百聞は一見にしかずだけど、リンガは、しるしという意味。男性のしるし、男根。シヴァ系寺院ではね、シヴァ神がリンガの形で祀られてるけど、十二柱のリンガが最高の威光を放つ。ドワーディーシャ・ジョーティル・リンガムという言葉があるけど、ドワーディーシャは〈十二の〉、ジョーティルは〈光り輝く〉の意味。だからこれを祀ってある十二の寺院は、最低見ないと駄目。だけどインド中にちらばっているから、訪れるだけで二、三年かかるわよ」
「わかった。魔多羅神のルーツに近付いてきた。きっと行こう」
 慶子は裸体でベッドから降りると、バスローブを体を隠して寝室を出て行った。しばらくするとトレーにミルクティーをのせて戻って来た。
「それに私、髑髏を買いたいの。何処かで売っていると思うわ」
「髑髏を?」
「だって真言立川流は、魔多羅神による髑髏信仰なのよ」
「魔多羅神と髑髏がどう関係するの?」
「信者は男女交合のオルガスムスのときの愛液を、髑髏に塗って拝むの」
「へぇ!」
「ね、秘儀の形態はいろいろとあるってことの証拠でしょ」
「日本は火葬だから髑髏を入手するには、昔の土葬を掘り返さないと無理だろうが、インドは水葬もあるのだから手に入りやすいだろうね」
「網で掬って売ってるひとがいるわよ」
「髑髏に漆を塗って飴色に光沢させたものがあるかもな」
「子供の物でもいいわ」
「慶子さんの大学はいつ長期休みになる? 冬休み?」
「そう」
「じゃあ差し当たり冬休みに、十日間ほどインド探訪に出掛けよう。中近東はイスラム過激派やら空爆で物騒だ。シヴァ神とカーリー女神の秘儀についても知りたい。夫婦なんだから秘儀がある筈だ」
「ええ、行きましょう。あなたと行けて嬉しいわ」
 慶子は眼を輝かせた。
「ところでソファでミトラ教の本を眺めてたら、孔雀の旗が描かれていた。説明を読んだら第一の天使アザゼルの旗印であるとあった」
「そうなの。アザゼルはメレク・タウス、クルド語で孔雀王と呼ばれ、ミトラの七大天使の筆頭に位置する大天使」
「うーむ、クルド語で孔雀王か」
 宮本は考える顔付きで応えた。
「イラク北部、トルコ東南部、イラン西部に広まっていたの。そしてね、このことがインドのマハーラーシュトラ州モールガーオンにある、モーレッシュヴァル寺院に繋がってるの。モールは〈孔雀〉、イーシュヴァルは〈主宰神〉の意味。つまり孔雀の王ということなの」
「魔多羅神とシヴァ神とミトラ教が一本の線上にきましたな」
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