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喜多圭介のブログ

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魔多羅神50

2008-09-25 20:44:54 | 魔多羅神
 夕食の時間がくるまで各自部屋で休憩することになった。宮本と慶子は部屋に戻ると、宮本からシャワーを浴びた。出てくると慶子が街の散策途中で買った、ポテトとハーブ、スパイスを練り込んだポテトワダというスナックに、管理人から貰ってきたチャイを満タンにしたポットを窓際のテーブルに置き、ソファに座った。チャイというのは、紅茶を煮出しながら砂糖とミルクと生姜等を混ぜたインド式ミルクティーで、日本のように熱くしない。少し昼寝するつもりだったので、バスローブの恰好でウーティ湖を眺めていたら、競走馬のような馬に跨った二人の英国人が道を通って行った。
 インドの夏の避暑地としては絶好地のようだが、年末ではひとの賑わいもなく、退屈な街だった。それでも行楽目的でない宮本と慶子には、思索のための静寂のひとときであった。
 慶子も赤いバスローブに体を包んで出て来ると、向かいのソファに腰を下ろした。
「それ、おいしい?」
「チャイに合うよ」
「こういう空気のいいところに来るとお腹空くでしょ」
「チェンナイは車の排気ガスが臭かった」
「そうね」
「彼のさっきの話、わかった?」
「全然わからなかった」
 慶子は笑った。
「あれはヒンドゥ語の単語だった」
「違うわ。アラビア語かな? でもどこかで耳にした気もするの」
「そうなの。だけど難しい説明だ」
「まあね、初めて聞いてわかる話ではないけど、ぼちぼちわかってくるわ」
「体から光を出す」
「白狐も光るわ」
「辰狐、光り輝く狐か……托枳尼だね。つまりぼくらが彼らの秘儀をマスターしたら、托枳尼の神通力、これがあれば滅びつつある地球を変えられるということだ」
「あのねェ、ウルミラさん、三宮でヒンドゥ語の教室やってたんだって」
「そうなのか。だから日本語喋れるのだ」
「ご主人ほどではないけど」
「彼らね、日本に来る前はイギリスに居たんだって。彼女はイギリス生まれなの。私より二歳下で、ご主人は五十七歳。日本に十三年間居たんだって」
 それから二人はベッドに横たわった。宮本は眠ろうとしたが、なかなか眠りに落ちなかった。瞼の辺りは疲れていたが、頭は白熱の篝火が炎上していた。二千メートル以上の高地だから、脳に変調を来しているのか。そんなことを考えていたとき、ふと艶めかしい女の声が聞こえた。しかし耳を澄ますと聞こえなくなった。幻聴だったか……。昨日の朝、コーチンを出るとき空を仰いだら幻聴があったが、あれと同じ現象なのか……と考えを巡らせていると、また低い女の声が聞こえた。
 慶子の声かと思って隣のベッドを眺めると、彼女は向こう側に顔を向けて寝入っているようだった。
 ――空気が薄いのかも、それで幻聴を……。
 あぁぁぁぁぁあてぇぇぇぇぇ……。
 ――あの悲鳴は?! 何処から聞こえてきた?
 自分の幻聴とも思えず、湖の見える窓に視線をやった。窓ガラスの向こうに女の顔が、おそらくウーティ湖に沈められた女が……と妄想したが、女の顔は映っていなかった。そして女の声も消えていた。
 ――そうだ、黒魔術だ。もしかしたらここは黒魔術の館ではないか。あの男は黒魔術師かもしれないぞ。
 黒魔術とは、呪術で悪霊などの力を借りるなどして相手を呪う術だ。宮本は、もしそうだとしたらこれはとんでもないことだ。悪霊を呼び出すことと、自らが魔多羅神であることとは、まるで異なることだ。
 宮本は三十年ほど前に読んだ、小説『エクソシスト』のことを思い出した。あれは本当にあった話だ。
 一九四九年アメリカのメリーランド州マウントレーニアに住む十四才の少年、ジョン・ホフマンに起こった事実だ。ある日突然、寝室から不思議な物音が聞こえた。その後変事が次々と起こった。花瓶や皿が宙に浮いた。机が勝手に動いた。ポルダーガイスト現象だった。悪魔は少年の体を完全に支配した。体に悪魔の言葉がミミズばれとなって浮かんだ。血が吹き出した。家族は彼を神父に預けた。しかし神父は悪魔祓いの専門家でなかったので、悪魔を追い払えなかった。悪魔祓い師に頼んだところ、三ヶ月後に悪魔を追い払うことができた。その間、少年は何も覚えていなかった。
 五芒星が黒魔術、いや違う筈だ。
 ――それにしてもあの悲鳴は?
 それから二時間ほど眠り、慶子に肩を揺すられて目覚めると、慶子は夕食用にと服を着替えていた。
「よく眠った。何時?」
「七時」
「あのね、インドに来てから幻視なかった? たとえばそこの窓に人影が映るとか」
「窓に人影? どういうこと?」
「たとえばだけど、そこの湖に日本人の女が沈められていたら、ぼくたちに助けを求めないかな」
「日本人の女のひとが?」
「インドは日本女性の憧れの国でしょ、だから一人旅してるでしょ。野原でスカートまくっておしっこしたり。こっちは長距離バス旅行が多いから、女性はトイレに困るよね。このことはいいとして、たとえばレイプされた後、湖に沈められるとか」
「ああそのこと。そんなことは幻視しない。だけどあなたには言わなかったけど、変なものを幻視したわ」
「どんな?」
「あなたと私が並んで埋められていたの。なんだか砂地のようなところに」
「え! いつのこと? ぼくも視たよ……あれはいつだったか……そうか、日本に居るときだ」
「私は昨日のことよ。こっちに来るバスの中でうとうとしかかったので、窓の外を見ようとすると窓ガラスに映っていたの。話すとあなたが心配すると思って言わなかったけど」
「ああー、言ってくれなきゃ……きみの幻視がぼくたちの運命の危険防止の判断材料になるのだから……どういうことかな、砂地に埋められているって? このことは彼らには黙っていよう」
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魔多羅神49

2008-09-25 18:34:38 | 魔多羅神
 夕食は一階の食堂で宿泊者は食べることになっているが、その夜は四人だけだった。驚いたことにチューリヤーまでが黒のワンピースを着用していた。胸には堂々とした五芒星が飾られていた。ワンピースの下にズボンを穿いていなかったので、宮本には珍奇に映った。そして首に金色の五芒星を飾ったネックレスを付けていた。
 料理は管理人の妻と娘がテーブルに並べた。チキンの挽肉のドライカレー、鶏肉とジャガイモのチキンスープ、ポテトボールフライ、焼きたてのナンだった。
「五芒星国際本部はカジュラホにあります。インド国内には五箇所のジョイフルセンターと多くのコミュニティールーム、三箇所の保養所があります。ここは保養所の一つです。世界各地にジョイフルセンターが一箇所ずつとコミュニティールームがあります。リーダーとなる五芒星人はインド国内は総裁を含めて二十三名、国外は百四十名あまり。私もその一名です。会員は数多くいますが、五芒星人は修行者であると同時に指導者です」
「ぼくたちはどういうことに?」
「あなたたちはゲスト。ゲストの中から選ばれたひとが五芒星人になります」
「ああそういうことに」
「あなたには努力して貰って五芒星人の資格を得て、日本のリーダーになって貰うのが、私の希望」
「よくわかりました。とにかく日本はひどい状況です」
 デザートとしてマンゴーのアイスクリーム、ニルギリティが出た。
「日本には熾盛光法という秘法がありますが、知ってるか」
 と、チューリヤーは二人の顔を見つめた。
「台密の四大法の一つです」
 と、慶子は言った。
「熾盛光法の熾盛光とは、熾盛光仏頂尊の毛孔から放たれた光。災いを除き福をもたらす。熾盛光仏頂がもっともすぐれている。我々の秘法もこれとよく似たところあります。五芒星人は霊視力を備えてます。数か月以内の子供は、ひとのヨクセン体に属する活動的な力強いエネルギーに充ちている。しかし成人するにしたがってヨクセン体はほとんど喪われている。純真無垢イコールヨクセン体だが、ヨクセン体に熾盛光を放射しないと、全知全能は働かない。我々の秘法、秘儀はヨクセン体に熾盛光を放射すること」
「精神という意味とは違うのですね」
 宮本は意気込んで訊ねた。
「違う、違う。光です」
 と、チューリヤーは強い語調で言った。
 翌日、冷たい霖雨が降っていたが、チューリヤーのガイドでウーティの街を散策した。南インドに来て、これまでのむっとする暑さを拭い取った寒さを初めて覚えた。そのせいもあって、雨に光った路上も、街の建物も活気が見られなかった。
 街の建物はほとんどが白っぽい二階建て、一階の上にやたら貼り付けてある看板が汚らしく映った。軽井沢や白樺湖畔を知っている宮本の眼には、ウーティの街は雑然としているだけで、別荘地としての成熟が見られなかった。人間に対して空々しく、親和力に欠けた街に見えた。英国人が自分たちの都合の良い部分だけを開発、その後インド人に譲った結果、落ち着きを喪ってしまったのかもしれない、と考えた。
 キリスト教の教会が眼に付く。慶子がチューリヤーに訊くと、クリスチャン人口は85%だと言った。
 エリザベス女王も訪れたことのある植物園に入った。チケット売場は人だかりだった。チューリヤーが、こっちに来い、と手招きした。宮本は、入場券? と思っていたら、門番は四人をすんなりと園内に通してくれた。五芒星はこの植物園に出資しているとかで、フリーパスは当然という顔をチューリヤーは見せていた。
 広い敷地だったが、宮本の眼にはとくにどうという植物園に思えなかった。雨が降っていることもあって、ひと当たりぶらぶら巡ると、外に出た。
 昼食は一時半から、近くのホテルのレストランで採ることにした。インドは男性が食べてから女性という風になっているが、チューリヤー夫妻はまったく気にしなかった。それどころか食事中にフォークとナイフも使ったりするので、夫妻に関しては食事は右手だけは当てはまらなかった。
 相変わらずウルミラは、にこやかな表情で一人楽しんでいる様子だったが、慶子とは喋っていた。宮本が聞き耳を立てると、彼女は日本語で話していた。
 昼食後はウーティ湖のボート乗り場近くまで歩いた。観光客のバスが近くに停まっていたが、相変わらずの雨で、湖面は寒々としていたので、ボートに乗る姿はなく、辺りを歩いているだけだった。四人は戻ることにした。
 部屋で服を着換えてからリビングルームに行くと、暖炉に薪が焚かれていて、暖かかった。この部屋の家具は、チョコレート色の英国風のものばかりで、どれもどっしりと落ち着いていた。四人は暖炉の傍のソファに腰を下ろした。
 チューリヤーは、部屋の家具にマッチした顔を宮本に近付け、時折威厳のある鼻髯を上下させ、厳粛な口調で静かに語り始めた。彼の喋り方は熱が籠もると、喋っているというよりも書いている風になるので、堅苦しい。それに意味もとりにくい。
「密教もそうだが、最も肝腎の部分は文によらず五芒星導師による口伝と秘儀にある。書物には書かれてはおらず、口伝と秘儀にある。そうすることで国家弾圧という難を回避してきた。また我々にはヨクセン体の光というものはあっても、像を拝むということはない。強いてあるとすれば五茫星形、ペンタグラムです。ペンタグラムは光の叡智、霊的な聡明さの象徴であり符号。ヨクセン体は肉眼では見えない。ヨクセン体を見るには、霊視という方法が必要。ヨクセン体は肉体の創造主。ヨクセン体には五つの主だった流れがある。寝た恰好で足を広げ、両手を広げると、この五つの流れに従うことになる。流れは五茫星形、ペンタグラムになる。このことが重要」
 宮本は頷くように聴いていたが、医師としての知識が邪魔して、内容がさっぱり理解できなかったが、なんとなくわかったような気分になった。
「ヨクセン体は体外にも放射される。よくひとは彼女にはオーラーがあると。そうです、これはヨクセン体の体外放射のこと。ビョウテキ体はヨクセン体のさらに上のレベル。ビョウテキ体は情動の担い手で、魂の体験はビョウテキ体に依存している」
 ――ビョウテキ体?
 またわからない言葉が出てきた、と宮本は胸の裡で思った。
「あなたたちはいまこの世界に大変なことが起こっていることを、理解しているか。視えてますか。おそらくわからないと思う。だが五芒星導師たちには視えている。霊視のスクリーンに映っている。本当に恐ろしいことだ」
 ――何が起こっているというのか。イラクで英米軍に対する大暴動?
 管理人の娘がトレーにコーヒーセットをのせて、暖炉の近くのテーブルに運んで来た。この娘もなかなかの美貌だと宮本は思った。娘も首に金色の五芒星を飾ったネックレスを付けていた。
「人間の肉体は最も古く最も複雑な要素。ヨクセン体はそれより若い。ビョウテキ体はもっと若く、もっともっと若いのはカンギで、悟りだ。肉体は四つの銀河系を通じて発達してきたという、長い発展段階を持っている」
 ――四つの銀河系?
 チューリヤーは、宮本の怪訝な顔に気付いて、難しいですか、と白い歯並びを覗かせて笑った。
「今日、人間は肉体とヨクセン体とビョウテキ体と自意識を持っている。自意識がビョウテキ体に働きかけ、知性と道徳が浄化するとビョウテキ体はテキエツあるいはカンギになる。このことは今のところ始まったばかりだが、将来実現すると人間がビョウテキ体全体に置換し終えたとき、ビョウテキ体は物理的に輝く。ビョウテキ体は光の種子を持っている。この光は空間世界へと、人間の影響を受けた、発展と絶えざる形成へと流出していく。そして現在の地球は、そのとき新しい惑星に変容する」
 ――地球の変化にまで関わる? ますますわからないぞ。
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魔多羅神48

2008-09-25 14:43:03 | 魔多羅神
     *


 宮本は二十七日早朝、怪訝な顔で空を見上げていた。不思議な気分だった。
 昨日は快晴の青空だった。今朝の空も天気は良さそうだが、低いところに薄墨で刷いたような黒雲が、次から次へと棚引いていた。雨雲というのでもなかった。地上から無数の魂のようなもの、いやうっすらと灰色がかった人影にも似た、両手を頭上に開き、両脚を開いた形であるが、それが宮本の眼に視えたような、あるいは気のせいかもと思案していると、すると今度はどこかで泣き叫び、絶叫する声が頭脳の周りでわんわんと聞こえ、それらすべてが、どんどん天空に昇天していくのだった。
 ――何だろうか、この阿鼻叫喚は? 幻覚と幻聴……
「不吉な空ね」
 空を見上げていた慶子が呟いた。
「何か見えるかい」
「ええ、沢山の人の形のような薄雲が」
「ぼくにも見えるんだ、これは何だろうね」
 慶子との昨夜の秘儀は濃厚であったから、その疲労が残ったのかもと思い、気を取り直して、急ぎ足で進むチューリヤーとウルミラのあとに随いてバスターミナルに向かった。これからコーチンの街を出て、ウーティへバスで行くことになっていた。
 ウーティまではやく五、六時間の行程だった。バスの腰掛けはゆったりとしたクッションで、車内にビデオも付いていた。
 昨夜の秘儀がよかったのか、慶子はまったく空模様を気にすることなく、ヒップを上機嫌に弾ませ、浮き浮きしていた。発車前に慶子が売店でコーヒーを四人分注文した。出てきたのはミロだったのよ、とはしゃいだ。ついでにパウンドケーキも四人分買った。
 バスは結構混んでいた。早速ビデオにセクシーな顔と姿態の女が映り、インドの歌を次々と歌い始めた。それが三十分ほどで終わると、コメディタッチのドラマが始まったが、宮本にはさっぱりわからなかったので、先程気にかかった空を眺めた。不吉な空模様は減じていて、水色が拡がっていた。それにひと安心して睡眠不足を補うために、瞼を閉じた。
 座席で疲れた体をうつらうつらさせているうちにコインバートルに到着した。バスターミナルでウーティ行のバスに乗り換えた。あと百キロ先のウーティへ向かってバスは、巨大な大蛇が蛇行した跡のような山道ををゆっくり上っていく。かたわらを乗用車、バイクが排気ガスを吐き出して、どんどん走り去っていく。インドの車はほとんどがディーゼル車だ。車窓から外を見ていると風がないのか、排気ガスが地を這って大気が褐色に染まっている感じだった。
 だんだん涼しくというよりは寒くなってきた。山の斜面に茶畑が展がる。ウーティはニルギリ山地にあり、ここの紅茶は日本でもニルギリティとして有名だ。
 海抜二千メートル以上のところにある、山と森と湖の街で、元々英国人が避暑地として開発したので、あちこちが英国風である。しかし避暑地のわりには車とバイクの音に騒然としていて、空気が汚れていた。
 五芒星の保養所は広いウーティ湖近くの、車が通過してしまうだけの森の中にあった。別荘が散在していたが、売却中、という木札が、ドアのところにぶら下がっているものが目立った。保養所は黒ペンキ塗りの、いかにも五芒星に似つかわしい、陰に籠もった気配濃厚な外観の、三階建て木造だった。玄関ドアの上に金色の五芒星のマークが浮き彫りになっていた。
 しかし一歩内部に入ると、廊下の壁は深紅、壁の一画に暖炉のあるリビングルームは濃緑で、宮本はやや面食らった。
 インド人の管理人夫婦とその娘らしい三人が出迎えた。夫のほうは背が高くて屈強な体格、どこか獰猛さを秘めた男であったが、妻は小柄で地味な顔立ちの女だった。二十歳前後の娘は父親に似たのか、豊満な体に野性的な若さが漲っていた。三人とも黒のワンピースに黒のジャケットの姿であった。ジャケットの右胸のところに、小さな五芒星が金糸で刺繍がしてあった。
 三人はチューリヤー夫妻とは面識があるらしく、親しげに応対した。四人は先ずそれぞれの部屋に案内された。チューリヤー夫妻と宮本達の部屋は、どちらもウーティ湖の眺望の利く三階にあり、チューリヤーの説明では貴賓待遇の五芒星人以外の使用は禁じられており、三階は二部屋しかないとのことだった。
 一般待遇の五芒星人は、二階の手狭な四部屋を利用することになっているらしい。管理人の家族はこの建物の外に棟続きの平屋があり、一家の生活はそこでしていると話した。このことからみてもチューリヤー夫妻は、五芒星のなかで重要人物のメンバーらしいことが、宮本たちにわかった。
 宮本はあてがわれた十畳サイズの部屋の壁が、濃緑一色なのにも驚いた。窓の内外が森であった。片側の壁に寄ったところにツインのベッドが並び、ウーティ湖を見下ろす窓近くに応接セットのソファとテーブルがセットされているだけで、テレビも電話もなく、これまで宿泊したホテルよりはずっと殺風景だった。さいわい入口近くにシャワー・トイレの設備が付いていた。
 壁の額にヒンドゥ語と英語で箇条書きに書かれた物が掛かっていた。慶子はそれを読んでいた。
「五芒星の光と書いてある。一、額に触れてアテェー、二、右胸に触れてエイワス、三、左胸に触れてマルクト、四、右脚に触れてヴェ・ゲブラー、五、左脚に触れてゲドゥラー、 六、性器に触れて五度オチャー・コオメー・コソソ・シンラク」
「どういうこと?」
「呪文のようだけど、わからない」
 宮本は窓からウーティ湖の湖面を眺めながら、五芒星と六芒星はどう違うのだろうか、と言った。
「私もこの辺のことになると研究してないのでさっぱりなの。六芒星はソロモン王家の紋章でダビデの星、ダビデの星はイスラエルの国旗でしょ」
「なるほど、そういうことか」
「伊勢神宮の灯籠には、菊の紋章と六芒星が刻まれている」
「ほんと? どういうことなのか」
「五芒星については、本で読んだんだけど、淡路島の伊弉諾神社、丹後半島のところの丹後一宮の元伊勢、滋賀の伊吹山、伊勢内宮、紀州の熊野本宮を結ぶと五芒星になる。この五芒星の中心に平城京があったの。ほかにも不思議なことがいっぱいある。安倍晴明神社は五芒星。安倍家の家紋は 五芒星で晴明〈桔梗印〉と呼ばれてます」
「驚いたね」
「チューリヤーにいろいろと教えてもらいましょ」
「それを期待している。できれば五芒星秘儀も」
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魔多羅神47

2008-09-24 20:49:36 | 魔多羅神
 インド特有の匂いの立ち籠めた満席の館内で、宮本はちらっとチューリヤーとウルミラを眺めた。二人は楽しそうな表情で観劇していた。
「カタカリはケララ州のここが本場なの。いまやっているのは有名な叙事詩マハーバーラタの〈ドゥッシャーサナ殺し〉という演目」
 慶子は宮本の耳元で囁いた。
「何を遣り取りしてるかわかる?」
 宮本も小声になった。
「わからない。マラヤーラム語のようね」
「ヒンドゥー語ではないのだ」
「ケララ州独自の言葉。でも筋書きは本で読んだから少しわかる」
「けっこう激しい踊りだね」
「戦いの場面だから」
「あの仮面のような顔を見ていると、騒々しさは違うけど能舞台を連想した」
「そうね、能は世阿弥によって完成されたけど、猿楽・田楽が発展したものでしょ。猿楽・田楽はこんな風なものでなかったかしら」
「前にたしか秦河勝は能の先祖とか言ったね」
「ええ。秦河勝と秦氏安の名前が文献に出てくるわ。氏安は猿楽を吉上という下級の近衛宮人と。能面も古い物を見ると、たとえば鉢巻男とか雷とかはインド的な容貌ね。それとねマラヤラム語はユダヤ・マラヤラム語といって、ケララに住むコーチン・ユダヤ人の言語なの。興味深いでしょ」
「ほう、ますます秦一族のコモリン岬からの渡来説濃厚だな。となるとこの地でぼくたちが探している秘儀が行われていることが裏付けられるな」
「私もそんな予感がしているの」
「五芒星国際本部はユダヤ人の組織かも」
「私、チューリヤーの言っていたこと疑っていたの。インドは外国人をたぶらかすひとも多いから。でもこの芝居観ているうちに本当のことだと考え直した。理由はあなたの想像通り、ユダヤ人の組織だと思ったからなの。それにチューリヤーはヒンドゥー教をよく思ってなかったでしょ」
「じゃあ秘儀は信憑性がある」
 宮本は胸の奥に漂っていた不安が拭われた。そのことで気持ちが晴れ、ストーリーはわからなくても、役者の大げさな顔の表情と動作に退屈することなく、いっとき笑って過ごした。
 とくに宮本は、自分の人生にこんな愉快なひとときが、これまであっただろうか、とふと思った。苦労もしなかった代わり、父親の言いなりに小学三年生頃から医者になるための道、進学塾に通い、東大合格率の高い私立高校に入り、東大合格は見込み薄だったので、地元の国立大の医学部を受験、合格。ただこれだけのことでこんな風な極彩色の世界に足を踏み入れて、笑いに興じたこともなかったと、慶子のかたわらでしんみりと自らを省みた。
 慶子との南インドの旅は刺激に充ち、もう薬臭い、病院の建物を見る気がしなくなっていた。このままずっと慶子とインドを旅していたい気持だった。がその一方で、自分は日本を救わなければならない責務がある。なんとしても迷える子羊たちに、魔多羅神の根本理念と実践、つまり秘儀を指導していかなければならない。どうもそれはチューリヤーの話していた五芒星人の五芒星秘儀のなかに、すべてのことがあるように思えた。半年かかっても構わない。このことを修得して帰国したい。
 オウムの麻原なんとかもチベットか何処かで修行、座蒲団に座したまま、宙に飛ぶという奇天烈なインチキを宣伝していたようだが、宙を飛ぶことくらいは雨蛙だってやる。五芒星秘儀は、ダビデの六芒星秘儀を進化させたものと言っていた。宮本は観劇中に小声で慶子の耳元にたずねた。
「ダビデというのはダンテと同じ時代の人物かい?」
 途端に慶子はくくっと膝を抱えるような、下向きの恰好で笑いをこらえた。
「ダンテはドイツのゲーテが書いた『神曲』に出てくる人物なのよ。森で迷ったダンテはヴィルジリオという導師と地獄を降りていくの。漏斗状の地獄を経て地球の中心を通り抜け、それから南半球の島へ出るの。南半球だからインドの何処かの島ってこともあるわね……そうそうダビデは古代イスラエルの二代目の王。旧約聖書の『サムエル記』『列王記』に登場するの」
「そうだったのか。ぼくは精神医学の知識しかなくてね。慶子さんがいるので助かるよ。旧約聖書の時代に六芒星秘儀があった。それを五芒星人が五芒星秘儀に進化させたのか。すでに世界各地にリーダーが活躍しているようだが、日本にはいないのか……ぼくがやらざるを得ないなァ」
 宮本は薄暗い館内で、一人頷いた。
「ゲーテのことは高校の授業で少し習った気がする。少し読んでみたいな」
「『若きウェルテルの悩み』、『詩と真実』、『ヘルマンとドロテア』、『ファウスト』なんてのがあるわよ。『ファウスト』には――人間は常に迷っている。迷っている間は常に何かを求めている――という言葉があるわ。今の日本人のことを言っているみたい」
「ゲーテはすでに予言していたのだなァ」
「こんなことも――自由に呼吸することは、人生を孤独にしない――と」
「ぼくらはいま自由だ。慶子さんと一緒だから全然孤独でない」
 宮本は慶子がこんな頼り甲斐のある女なら、白狐であっても柳美里であってもそんなことはどっちでも構わないと、つくづく思った。それに秘儀の最中に慶子や柳美里や白狐の区別など不要だ。しばらく混乱したがそれも収まっている、と魅惑の女、ウルミラをちらっと横目で眺めた。
 ――あの女はほとんど喋らないな。笑みをうっすらと浮かべて、ぼくを見つめているだけだ。どういう教養の女だろうか。
 インドの女は、とくに既婚者は、日本の女に較べるとずっと厳格なきまりの中で暮らしているようだった。慶子が話してくれた。孫が生まれるまで一人で外出するべからず。家の窓から外を覗くべからず。昼間は家の屋上に上がるべからず。マンガルスーツ、ネックレスのことだが、夫が生存中は外すべからず。〈べからず〉が多いそうだ。
 とにかく家族ぐるみで妻であり嫁を囲い物にして、夫以外の男との接触を避ける。夜女一人で歩いていることはないそうだ。もし歩いている女がいれば、男どもに売春婦かレイプOKと見なされるらしい。このことを知らない日本の若い女が、何人も誘惑され、レイプされたそうだ。
 インドの男はかなり強引なようだ。さすがに自分の国の女は、きまりを守って暮らしていることを知っているので手を出さない。その代わりに外国人に手を出す。憧れだけで一人旅している日本の女は、イチコロで堕ちるそうだ。
 ――もしかしたらインドの男どもはぼくと同じように、ペニスを魔多羅神あるいはシヴァ神と認識しているのかもしれないな。
 しかしこれらのこともよくよく考察すると、インド女は淫奔だからではないか、と宮本は期待の眼差しで、またもウルミラの横顔を一瞥した。宮本はこれまで女を物欲しそうに見ることはなかったが、南インドに来てから、女を見る眼が変わりつつあることに気付いていなかった。
 翌日、四人はバックウォーター・ビレッジ・ツアーに出掛けることにした。水郷のことをバックウォーターと呼ぶらしい。説明では約六時間の行程で、途中の水辺の村々を訪問しながらのクルージングであった。舟は嵐山の保津峡下りの舟と似ており、屋根が付いていた。そして舳先と艫に褐色の膚の二人の船頭が立っていて、竹竿を操るのも保津峡下りと同じであった。
 舟はのんびりと波を切って行く。寒天色の波の静かな広々とした水郷で、見渡すかぎり周囲は緑鮮やかな椰子の森が連なっていた。小舟の上から、ほとんど裸の男が釣りをしていた。かと思うと椰子の葉を山盛りに積んだ舟が行き交った。
 こちらの船頭は保津峡下りの船頭より忙しい。途中で停まったところで、椰子の木に猿のようにするすると登り、ココナッツの実を腰の鉈で地面に切り落とし、ジュースや実をサービスしてくれるのだった。マーッマラプラムに出掛けたときにも、路上で女が同じ事をやっていた。
 村の子供たち三人が石組の岸辺から、こちらにあどけない姿で手を振っていた。そのかたわらで娘が洗濯をしていた。その村に上がると、女たちが椰子の繊維を紡いでいた。紡いだ物はロープやマットになるらしい。この村ではこのような仕事で、女達が生計を支えているようだった。
 インドの女は農村でもどこでも男よりよく働く。朝早くから共同の井戸で水を汲む。インドのミルクティーとも思えるチャイを用意する。家の周りを柄の短い箒で、腰を屈めて掃除する。大きな盥に牛の糞を集める。これに水を混ぜた物を布に着けて床や壁に塗り着ける。慶子の説明では、殺菌作用があって蠅が寄って来ないということだった。家の外壁にも丸くなった物が貼り付けてある。これは燃料として使うらしい。
 朝食の用意一つにしても、早朝から途方もない時間を掛けて作り、食べる時間は八時間半か九時頃だ。朝食の次は洗濯。そのうちに昼食の準備。昼食の後に床掃除して昼寝。昼寝のあとはティータイム。それからまた夕食の用意。食べるのは八時か九時。床掃除をして寝る準備。
 宮本は慶子から農村の女の暮らしのサイクルを聞いたとき、それじゃ女の愉しみはセックスくらいしかないね、と感想を述べた。
「子供が出来るでしょ、女の子だったら始末することもあるのよ」
「どうして?」
「インドは結婚するとき、女のほうが男の家に財産を持って行かないと駄目なの。二、三人女の子かいると、貧しい農家は潰れてしまうもの」
「それで人身売買もあるんだな」
 四人がバックウォーター・ビレッジ・ツアーに出掛けているとき、午前八時直前にスマトラ沖に発生したマグニチュード9・0の巨大地震は、ちょうど午前十時過ぎにインド、スリランカ西岸に茶褐色の大津波となって、海岸にいた人々や沿岸の村々に襲いかかったのであった。だがアラビア海に面したコーチンの水郷で舟遊びをしていた宮本達には、毛ほども津波の影響は及んでいなかったし、そのニュースも伝わっていなかった。
 知らぬが仏とはこのことだった。
 宮本はもしかしたら魔多羅神、托枳尼、白狐に護られていたのかもしれない。魔多羅神は死をもたらす暗黒神であると同時に法悦境という愉悦や現世利益をもたらす福神でもある。托枳尼のほうはヒトの精気を吸い尽くすので、魔多羅神ほどの福神ではないが、それでもいかなる願いであれ、六ヶ月以内の願いであれば、たとえば人妻が一億円の保険金を夫に掛けておいて、死ね! と願うならば叶えられるのである。これを托枳尼の六月成就の秘法という。白狐にしてもそうで伏見稲荷は何のご利益があるか、商売繁盛、受験合格の神でもあり、祈祷料五千円よりは十万円のほうが効き目がある。五百円のお守りは子供騙しにすぎない。
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魔多羅神46

2008-09-24 14:28:24 | 魔多羅神
「おう、あなたたちは六芒星を知っていますか。それはお互いにハッピー。五芒星人は世界中に存在し、六芒星秘儀を凌駕した五芒星秘儀を行い、隠然たる力を揮って世界を支配しつつあります。しかし残念ながらあなたたちの国には指導者がいません。あなた達の国の首相が、欧米諸国やアジアの国々から見ても理解されがたいことを、時々発言したりするでしょ。そのことは五芒星人のリーダーたるべき人格者の不在と無関係ではないのです。私は日本を離れるとき、日本にリーダーを養成できなかったことが、とても残念だった。それもあの邪教、オウムのせいなんです。オウムの事件で日本人がオカルト的なことに警戒し、後退したからです。連合赤軍事件で日本の学生運動が後退した、同じ現象、日本人の付和雷同的民族性です」
「ぼくは精神科医ですが、今の日本はアメリカ並みに、精神病院と刑務所がいくつあっても足りないというべき有様です。それでぼくは病院は弟や息子に任せておいて、日本人の異常精神を治療ではなく、予防する哲理と秘儀を見つけたいとインドに来てみました。秘儀については彼女が専門ですので、彼女を支援する形で」
 宮本はボスゴリラが胸を叩いて、自分を誇示する気分に充たされた。
 宮本はこれまでの人生で、一度も感じたことのない燃える気概に有頂天だった。今こそ自分の出番なのだ、と胸の裡で叫んでいた。
「あなたの行動こそ五芒星秘儀の扉を開ける鍵です」
 チューリヤーは宮本とは逆な態度、沈着冷静な口調で厳然と応えた。
「それでどうすればいいのでしょうか」
 と、慶子は訊ねた。
「理解して貰うだけでも四、五日は必要。私たち夫婦は新年をウータカマンド、ウーティとも呼ばれていますが、そこの五芒星の保養所で三日間楽しく過ごすために出掛ける途中です。ここにも明日もう一泊しますが。もしあなたたちにウーティに来ていただければゆっくりとお話できます」
 慶子はどうしましょうか、という表情で宮本の表情を窺った。
「二十七日にチェンナイからの帰国予定でしたが、ビザは半年間有効ですので、あなたがたのお邪魔にならないのでしたら、ウーティで滞在可能ですが、あなたはどう?」
 宮本は慶子の顔を見た。
「私は一月の五日頃に日本に戻れば、大学に支障はでませんが、あなたの病院のほうが……」
「病院はぼくがいなくても大丈夫。折角いいかたたちとお知りあいになって、また改めてインドに来るとなるとそれのほうが大変だよ。じゃああなたさえよければ、三日か四日に帰国しましょう」
 コーチンはアラビア海に面する港町で、インド有数の国際貿易港である。コーチンの中心は本土にあるエルナクラムだが、内海を隔てたところのフォート・コーチン、マッタンチェリー、ウィリングドン島、ボルガッティ島なども含まれている。島々は車でも移動可能だが、フェリーが航行している。
 エルナクラムのホテルに泊まることにした。
 ケララ州の言葉はマラヤーラム語で、街のひととの会話は準公用語の英語に頼らざるを得ない。南インドに着いたときはマリーナ・ビーチで広大な宇宙観に浸り、インド人にアイデンティティは不要でないかと思ったが、言葉が十六、七もあるということは、各州ごとに人々はアイデンティティを築いて暮らしていることだと思いいたった。
 そうなると今度はヒンドゥ教自体の統一がなく、秘儀の実態すら存在しないのではないかという疑問が、宮本の頭に浮かんだ。宮本は慶子を介してチューリヤーにたずねた。
「私がヒンドゥ教徒でないのはその不統一のためもあります。今日のヒンドゥ教は政争、戦争のためのもの。だが私がヒンドゥ教徒でない根本の原因は、インドは私の故郷でないということです。私はイギリス人に犯されたインド人の母の腹から生まれた。国籍はインド、インドの学校にも通った。だが私はインド人でありません」
 チューリヤーは不快そうに言い捨てた。
「インドに住んでいてヒンドゥ教徒でないというのは、生きづらくありませんか」
「面従腹背ね」
 チューリヤーは冷たい眼で笑った。そして、
「あなたは仏教徒ですか」
 と、宮本の眼を見て言った。
「ぼくだけでなく日本人の魂は神仏混淆であり自然崇拝、その場に応じて仏教徒であったりなかったり、そして無神論であったりします」
「ヒンドゥ教も自然宗教。しかし戒律は厳格。生まれながらにしてヒンドゥ教徒であり、カーストの義務を遵守し、神々の祭祠を忠実に行わなければならない。しかし私は八歳のときから母とイギリスに渡りイギリスで育った。精神は無国籍。だからこのような精神はない」
 と言って、ニヒルに笑ってから「至福の人生とは何か」と、交互に宮本と慶子に顔を向けた。
「……さあ?」
 と、宮本が困った顔で慶子を見ると、チューリヤーは、
「宇宙とのセックス」
 と本気とも冗談ともとれる風に言ってから、ワハハと大笑いした。
 するとこのことに対して慶子が、
「私もそう思います」
 と積極的な口調で応じたのだった。
 チューリヤーは意味ありげな眼差しで慶子を見つめ、
「宗教は至福を招かなければならない」と断言した。
 夕方はチューリヤーの誘いに応じて、カタカリを観に行くことにした。
 カタカリは十七世紀頃成立したケララ州の伝統的な舞踊である。音楽や舞踊を取り入れた劇で、ヒンドゥ教の神話、物語を伝承しているとのことだった。『ラーマーヤナ』『マハーバーラタ』などの神話や、ヴェーダを題材とした舞踊劇。男性のみによって演じられる。
 舞踊劇といっても台詞はなく五百以上もあるという、手によるジェスチャーと、顔の表情によって物語を表現する。眉や眼、顔の筋肉をそれぞれ部分的に動かすため、技巧的に非常に繊細。足の爪先で立つ姿勢も独特。衣裳もユニーク。顎の横を紙で補強して広げたり、化粧も緑、黒、白と役柄によって極彩色に塗り分け、歌舞伎、中国の京劇にちょっと似ていた。
 舞台で頭に奇妙な恰好の帽子を被り、横に大きく膨らんだスカートを穿いた二人の役者が鐘とシンバルを持って歌うように遣り取りしており、背後に別な二人が横長太鼓や縦長太鼓といった楽器の鳴らしていた。台詞の遣り取りのようであったが、宮本にはさっぱりわからなかった。
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魔多羅神45

2008-09-23 18:58:01 | 魔多羅神
 七章 スマトラ沖地震


 宮本は南インドを初訪問して以来、オレンジ色や赤や緑、紫、黄色、金色のサリーを身に纏った既婚女性に眼を留めても、パンジャビスーツを着た若い女性を眺めても、どの女も宮本の眼底には托枳尼や白狐に映って、自分が人間界にいるような気がしなかった。そして具合の悪いことにその托枳尼や白狐が、どれもこれも美人であることだった。
 インドの女は額の髪の生え際、ちょうど分け目のところにシンドゥールという赤い粉を着け、眉間にビンディーというシールを貼っている。さらに両耳と鼻の左に付けたピアス、これがいけない。これで托枳尼や白狐でないかと疑ってしまう。とにかくインドの女はいろいろな装飾品を身に付けているので、どこやら人間離れして見える。
 こういう欠点はあるものの、日本美人と較べるとインド美人は桁が違う。日本には、たとえば柳腰美人とか清楚な白百合美人と形容されるのがいるが、インド美人の前では柳腰も清楚な白百合も吹っ飛んでしまう。
 ――どうしてこうも妖艶な女が多いのか……。
 日本人離れした顔立ちの慶子だけは、インド女と較べても遜色がない気がした。それは深紅の薔薇か深紅のダリアほどの差違であった。宮本は若い頃は白い花に目が留まったものだが、加齢するにつれて強烈な原色系の花を好むようになっていた。インドに来てこの原色系の女が多いことに瞠目した。
 しかし少女はいけない。どの少女も瞳が美しいが、その美しさにすでに人生の不幸を体験してしまったような、深い哀しみを湖水のように湛えている。この少女を自分の人生を投げ出して救いたいという誘惑に駆られる。宮本がこれまで貧困国を訪れなかったのは、こうした少女に遭遇してしまわないかという恐れからだった。今回やって来られたのは慶子と同伴だったからである。二人の女を両手にぶら下げるだけの気力はなかった。
 さすがミスワールドを輩出する国だけある。容貌だけでなく姿態が悩ましい。
 六十歳の宮本は、これまで美人と思える日本人女性を見てきている。自分の病院の女医、看護師のなかにも二、三人はいると思っているが、彼女たちと部屋や廊下ですれ違っても頭がクラクラすることはなかったが、インドに来てからはインド女の妖しいエロチズムの発散にずっと包まれていて、酔ったような精神状態だった。そんな宮本を怪訝に思うのか、慶子は時々、疲れたの? と声を掛けてくるのであるが、疲れてない、と応えた。正直なことを喋ると慶子が嫉妬するだろうし、いまのところ宮本は慶子に満足していた。
 テーブルを挟んで、いま宮本の前に腰を下ろしている、ウルミラ・マトンドカールという慶子と同年齢か二、三歳上の、この既婚女性の妖艶かつ知的な魅力は、どこから生まれてくるのだろうと、宮本は先程から柔和な顔を前の男女に向けたまま思案していた。オレンジ色のサリーを着た彼女は、夫よりはずっと色白で、日焼けした日本女性と変わらなかった。
 その横にいるのがチューリヤー・ワーレーという女の夫だった。
 シャワーのあとで一度レストランで見かけたインド人夫婦の夫が、日本のことを訊きたいからと丁重な言葉でテーブルの同席を求めた。宮本は一瞬戸惑って、慶子の顔色を窺った。慶子がにっこり微笑んだので、どうぞと返事したのである。
 額は広く、眉は濃く、太い鼻髯、黒褐色の精力的な顔に銀縁眼鏡を掛け、白いワイシャツに赤いネクタイ、上下黒の背広姿で、テーブル越しに慶子と話をしていた。頭髪、鬢や黒い鼻髯に灰色が混じっていたので、それなりの年齢のようだった。宮本は自分とそんなに違わないだろうと想像した。
 話が宮本と慶子が南インドを訪れた目的に及んだ。
「真言立川流、おー知ってます。タントリズムのこと。煩悩をそのまま解脱へ飛翔するための神秘力として、積極的に活用しようとした。日本密教では煩悩即菩提という。これはインドのタントリズムにその原形があり、男女の性的結合を象徴するマイトゥナ、あるいはミトナと呼ばれる、男女の性交合像がカジュラホにはたくさん残っている。カジュラホはデリーの南東約三百五十キロにある小さな町。九世紀から十三世紀にかけて中央インドで強大な勢力を持っていた、チャンデーラ王国の都として栄えたが、ここで左道タントラが行われていた。カンダリヤー・マハーデーヴァ寺院には、男女交合、天女、動物像などの彫刻が、寺院の外側と内側に八百七十二体ある。その数と性描写のおおらかさに眼を瞠るよ。その後のインドはイギリスの支配下にあったので、彼らの悪評価によってタントリズムは次第に地下に潜った。この地下化が密教の原因ね」
 チューリヤーは流暢な日本語を話した。それもそのはず、彼は関西の外国語大学で、長年に渡ってヒンドゥ教とクリシュナ信仰を講義しており、二年前に退職して帰国したと自己紹介した。
 宮本と慶子はコモリン岬のカニャークマリで一泊したあと、翌日はケララ州のコーチンまで行き、そこで一泊後、コーチンのレンタル会社に車を置き、列車でチェンナイに戻り、二十七日のフライトで帰国する予定だった。
 岬からコーチンまでは、車で十時間の長旅だった。ケララ州に入ると風景は、緑の椰子の木の樹海である。細い水路が網の目のように連なる水郷地帯が、どこまでも展がっていた。
 コモリン岬のホテルのバーで、チューリヤーに話しかけられたのだった。お互いに自己紹介したあと、彼から南インドの印象をきかれたりして、しだいに話題は、宮本たちの目的であるヒンドゥ教の秘儀に絞られていった。チューリヤーは異常な熱意で話し始め、私たち夫婦はカジュラホにある五芒星国際本部組織委員で、とっくにヒンドゥの秘儀を超越しており、五芒星人であり、五芒星の秘儀、五芒星儀式を行っていると話した。
「そういう組織があるのですね」
 慶子をチューリヤーを真正面に見て、念を押した。
「世界の各地にある支部の本部です。名前は言えないが名誉委員は、世界各国の首脳クラスの人物です」
 突如宮本が慶子に向かって声を張り上げた。
「きみーぃ、あのときぼくに説明してくれたよね。太秦の広隆寺の近くの大酒神社と木嶋神社に寄ったとき、大酒神社の祭神は始皇帝・弓月王・秦酒公だと。日本書紀によれば雄略天皇十五年に秦造酒に秦一族の諸氏を統括するよう勅命があり、宮廷に秦の諸氏から集められた献上物がうずたかく積まれたことから「禹豆麻佐」の姓を賜ったと。秦酒公は秦河勝であり、魔多羅神」
「ええ、その通りよ」
 慶子は宮本の頭に血を上らせた顔に驚き、慌てて頷いた。
「そして現在では大酒となっているが、昔は大避または大闢と表していた。大闢は中国ではダビデを意味するから、この神社はユダヤの王を表していると」
「そうなの。秦氏のルーツと目される中央アジア周辺にはミトラ教という教えがあって、最高神であるミトラ神は、牛の頭を持つ神として伝えられてるの。広隆寺の牛祭、魔多羅神が牛に乗って練り歩き、奇妙な祭文を読み上げて走り去る摩訶不思議な祭。多くの研究家はこの祭をミトラ教信仰の名残と考えてる。ミトラ神はインドで容姿を変えて、やがて弥勒信仰へ変貌するの。広隆寺の至宝といえば弥勒菩薩像でしょ」
「次に寄った木嶋神社は正式名は木嶋坐天照御魂神社で、この神社は全国でここだけという三本柱の鳥居で知られ、三柱鳥居は、△と▽の合成で六芒星、ダビデの星になると説明してくれたよね」
「あ、それでチューリヤーの話に素っ頓狂な声を上げたのね」
「そうだよ。五芒星と六芒星、一個多いだけだよ。魔多羅神の秘儀はこれに繋がってくるのだよ」
 宮本は体を震わせるほど、落ち着きなく昂奮していた。
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魔多羅神44

2008-09-23 13:28:56 | 魔多羅神
「切ない話ね。もしかしたら両角慶子という狐もこうした情のある雌狐かも」
 と、英恵は応じた。
「おいおいお前までそんなことを言ってどうする」
 翔平は呆れ顔で手を振った。 
「霊感がピピっと。それにもっと怖いことがあります。松尾神社の位置と比叡山の位置を結ぶと、松尾→木嶋神社→御所→下鴨神社→比叡山と寅申線上に沿って並びます。神社の氏子さんが話してくれました。寅申線というのは、京都や奈良の緯度は夏至の太陽が寅の方位から昇り、冬至の太陽が申の方位に沈みます。古い神社や寺の配置に使用されています。ほぼ四十五度線。御所というのは現在の御所ではなく、平安時代の御所の位置だけど。比叡山には天台密教の魔多羅神を祀ってます。魔多羅神は御所、木嶋神社、松尾大社に威光を放ちます。木嶋はかいこのやしろとも呼ばれて秦氏に関係が深いのです。そして松尾大社から伏見稲荷と。現代人の思考にありえないことが、現に〈在る〉のです」
「ふぅーん、こりゃ参った」
 翔平はなおも唸り続けた。
「渡来人というと朝鮮半島経由と思いがちですね」
「中国大陸から直接海を渡ってというのもあったでしょうが、たいていは朝鮮から北九州や山陰地方へ」
「だから顔かたちも朝鮮民族か漢民族をイメージするでしょ。だけど私は秦一族は、ペルシアから中国大陸、朝鮮半島を流浪してきたペルシア人でないかと想像してます」
「ペルシア人かぁ……おそらく当時は髭面だからペルシア人でも中国人でも朝鮮人でも、顔にそんなに違いはなかったかも」
「髪の形と色は違ってたでしょうけど」
 そこへフロントのインド人が慇懃な物腰で近付いて来た。
「総領事館からのお電話です」
 素早く翔平は立ち上がって、フロントに向かった。しばらく話し込んでいたが、戻って来ると、兄さんたちを見かけた日本人女性がいる、と震える声で叫ぶように言った。
「それ何処なの?」
 英恵が頓狂な声を頭から発した。
「ウータカマンド。チェンナイから西へ六百キロの高原の避暑地だ! 三十一日に見かけたと!」
「どうしてそんなところに出掛けたの?」
 英恵は怪訝な口振りだった。
「わからん。植民地時代にはイギリス人の避暑地だったらしい」
「ダージリンの紅茶で有名」
 生方珠子が言葉を添えた。そしてしばらく視線を宙に彷徨わせた。
「それとだな、さっきフロントの責任者が言っとったことやが、このホテルでインド人夫婦と見られる男女と親しくなっていたそうや。クリスマスもこの二人と一つテーブルで談笑していた。責任者の想像やが、その夫婦連れとウータカマンドに出掛けたようや」
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魔多羅神43

2008-09-22 19:32:02 | 魔多羅神
「ええ、白狐を想像してしまうって。大江山の鬼退治の安倍晴明という人物、ご存じありませんか」
「知ってる。夢枕獏の小説『陰陽師』を前に読んだ」
 翔平はこたえた。
「私ミステリーは読まないのですけど、若い女性に人気のベストセラー小説って聞いたので読みました。晴明はひとと狐の子供なんです。安倍保名が、狩で追われた狐を助け、その後葛の葉と名乗る美しい娘と恋に落ち、子どもを授かるのですが、葛の葉こそ保名に助けられた狐の化身なんです。狐はひとと交わるのです」
「生方さん、それ物語でしょ」
 英恵が口を挟んだ。
「でも昔からの伝説には真実が含まれてますわよ」
「兄貴が狐と?」
「人間と狐が交わる話は多いですよ。『日本霊異記』などに」
「いくらなんでも兄貴が狐と交わるなんて……」
 翔平は苦笑混じりの顔で、信じられないといった口振りだった。
「若い頃ですけど国立博物館で托枳尼という女神像の絵をみたことがあります。白狐の背に跨った仏さんです。白狐と托枳尼は同じなんです。何をするかわかりません。大学の常勤講師にだって化身しますわよ」
「だとしてもなぁ、科学の発達した現代社会では、とても受け入れられないよ。啓治たちにはこの話は聞かせられない」
「不穏な話は隠そうという心理が働きますでしょ。昔から秘すところに真実があるのですよ」
「ふぅーん」
 珠子が真剣な表情で話すので、翔平はやり切れないなぁといった顔で海を眺めた。
 翔平夫婦と生方珠子が、チェンナイの旅行社の社員が運転する車で、五百キロを超える長旅、はるばる最南端のコモリン岬まで来たのは、ここで二人が死んだと考えてのことではなかった。
 二人が死んだ場所は、チェンナイとコモリン岬間、それもチェンナイ寄りか、もしくはマリーナ・ビーチではないかと想像していた。それでも二十四日朝に、コモリン岬に向かって出発し、二人がこの岬に立ったことは間違いないという強い気持が、翔平夫婦と珠子に働いたためである。三人にしてみれば周平が死ぬ間際に、どのような風景の岬に佇んでいたのか、それを知ることは周平の冥福を祈ることに通じていた。
 二時間ほどそこに佇むと、その夜は丘に立つ被害の少なかったホテルに泊まり、翌朝に発ち、強行軍の走行で午後五時前に、チェンナイのホテルにたどり着いた。三人とも泥水でも流し込んだかのように、疲労が体の隅々にひろがっていた。お互いにしばらくは物を言う気力もなかった。夕食までのあいだ、それぞれの部屋で休憩をとることにした。翔平はシャワーを浴びると、まだ車に揺れている感じの残っている体を、ベッドに横たえた。そしてそのまま一寝入りした。
 ごそごそと何かをしていた英恵も傍らのベッドに横たわった。
 夕食の時刻にレストランに行くと、生方珠子が先に来ていた。
「お疲れでしたでしょう」
 と、珠子は英恵に声を掛けた。
「ぐっすり眠ってしまって主人に起こされました」
 と、英恵は笑った。
「生方さんは疲れませんでしたか。よく走りましたね」
「私は車から景色を眺めるのが好きなので、まあまあでした」
 ココナッツクリームで煮込んだチキンカリー、野菜入りピラフ、タンドール料理の盛り合わせを一皿、キング・フィッシャーという口当たりのよいビールをオーダーして、先ずビールで乾杯した。
「各国からの支援団体の人たちが働いているのが眼についたな」
「北欧からも来てるのね」英恵が言った。
「寒い国から暖かい国に来て、クリスマス・年越しをプランしていた人たちが、波に呑まれたからよ」
「ほんとに周平院長さんと両角さんは何処におられるのか……」
 珠子が案じる口調で言った。
「うん、お狐さんの神通力で助かっていればいいのだが」
「院長さん、周平院長さんからインド行の話があったとき、両角さんのお住まいが松尾大社の近くと言っとられましたね」
「はい」
「佐代子さんから狐顔のことを聞いたとき、おや? と思ったのです。私、京都の生まれですから松尾大社の故事来歴は知っています。この神社と伏見稲荷は強い関係があるんです」
「伏見稲荷ってお狐さんの?」
 英恵が訊ねた。
「お狐さんでなくて、私たちの眼には見えない白狐なの。眷属といって神様の一族のような資格を与えられており、托枳尼の跨る狐がそのまま稲荷神の眷属となっている。そしてこの神社は秦伊呂具によってご神体を鎮座したのね。松尾大社を祀った秦忌寸都理の弟。聖徳太子の時代の渡来人秦一族、聖徳太子のブレーンだった秦河勝に繋がっていく。そして秦河勝は魔多羅神という呪術神」
「魔多羅神?」
「魔多羅神の説明はのちほどしますが、ということになると伏見稲荷の白狐が、松尾大社を往来していたと考えてもおかしくはない」
「そして両角慶子に化身したと」
 翔平は強い視線で問うた。
「ええ」
「現代でも?」
「そうとしか」
「いくらなんでもそんなことあり得ないでしょう」
 翔平は憮然とした顔だった。
「現代人の思考ではあり得ないのですが、たとえば今回の津波被害をどう思われますか。津波被害が起こる前でしたら、私がスマトラ沖に地震が起こって津波で十八万人の死者・行方不明者が出ると言っても、そんなことはあり得ないと、だれも相手にしない。でもあり得ないことがあり得たのです」
「ふぅーん」
「生方さんの仰ることわかるわ。私もあり得ると思う」
 英恵が真剣な顔で言った。
「ふぅーん」
「唸ってばかり。それでお兄さん、その托枳尼に取り憑かれたのよ。ねェ生方さん。案外こういうことって女の勘が働くのよね」
「けなげなお狐様もいるのよ。陰陽師安倍晴明にかかわる話ですが、狐が三年間人間と夫婦の契りを結んでいるうちに晴明が生まれたの。母狐は子が生まれたので――恋しくば尋ね来て見よ信太の森のうらみ葛の葉――という歌を残して、夫や子から姿を消したの。成人した晴明がこの一首を思い出して、信太の森を尋ねると神殿があったので、ひと目母に逢いたいと祈願すると狐が現れたのよ。そして私が母ですよと告げてから、未練を残してはいけないと思って、また消えたの」
 と、珠子はしみじみとした口調で語った。
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魔多羅神42

2008-09-22 14:48:53 | 魔多羅神
     *

 翔平の視線の先に、岩礁の島があった。島そのものがヴィヴェーカナンダ記念堂であり、巨大なヴィヴェーカナンダ像であった。空は水色、海は紺青に染まり、何事もなかったかのように静かに展がっていた。
 ――奈良の大仏が立ち上がるとあんな風かな……。
 翔平は現実的なことが考えられなくて、海に立つ前方の巨像を眺めながら、そんなことを想った。
 翔平がコモリン岬に立つのは、これが初めてだった。
 一月七日に啓治夫婦とカップラーメンとペットボトルの箱詰め、缶詰類、二三日分の衣類だけを荷造りして、急遽チェンナイに駆け付けた。十二月二十六日の地震と大津波で、市内はまだ落ち着きを取り戻してはいなかった。
 市内の至る所で道路が寸断されていた。海面は黄褐色に濁り、海岸沿いは広範囲にわたり樹木がなぎ倒されていた。眼に付く貧しい人家は、ガリバーの足に踏みつけられたように、屋根が地面に投げ出され、潰され、黒い木材が辺り一面に散乱していた。至る所で、自動車やバイクが積み重なっている光景を眼にした。
 さいわいホテルはチェックインできたが、海岸近くのホテルは六メートルの高さの津波に襲われ、死者が出ていた。ホテルの従業員の顔色も生気がなく、茫然自失に近い様子で泊まり客の応対をしていた。
 二十六日が日曜日であったことから、海岸沿いの教会が津波に浚われ、大勢の子どもの犠牲者が出たことを、ホテルに宿泊していた日本人の青年に教えられた。彼はユニセフの仕事をしているのだと告げた。
 人々の血走った眼と汚れた顔、顔、顔の怒号と喚声と泣き声の、マリーナ・ビーチに立ったときは、まだ死体が夜のうちに海から渚に打ち上げられたりして、三人はその惨状に息を呑んだ。刻一刻死者が増えていく状況だった。なにものかへの怒りは、理不尽という一言に変わり、三人の胸に止めどもない激情が衝き上げた。
「ひどい、ひどいわ。お義父さん、お義父さんは何処にいるの!」
 と、啓治の妻の佐代子は、長身を塵芥や汚物の砂浜に折り曲げてしゃがみ込み、烈しく泣きじゃくった。
 そのときは一週間滞在したが、チェンナイは混雑と混乱と喧噪が交錯していて、とても周平と両角慶子の行方不明の手がかりを得るどころでないと知り、いったん帰国した。
 十日後の再訪で翔平は、妻の英恵、生方珠子と一緒に岬に立っていた。コモリン岬に立ったのは、周平が二十三日にマドゥライのホテルから投函した絵葉書に、明日はコモリン岬のホテルに宿泊すると書いてあったからだ。
 海面は紺青色に戻って、大地震など起こらなかったかのように、広々とうねっていた。
 インドの聖地を三つ挙げるとすれば、ヴァラナシ、ラーメシュワラムのつぎにこの土地を挙げるインド人も多い。ヴィヴェーカナンダ記念堂の建つ島を除くと、変哲もない漁村という風景であるが、インドで朝陽と夕陽を眺められる場所はここだけであったし、ここにはヒンドゥーの人々の沐浴場、ガートがあった。翔平の立っているところからも、眼下の海辺に集まるインド人家族が眼に付いた。
 スマトラ沖地震、世界を震撼させた大津波被害以来、二十五日以降の周平と両角慶子の足取りが杳として掴めていなかった。チェンナイの日本総領事館との何度もの電話応答で判明したことは、二十四日朝に、マドゥライからコモリン岬に向かって出掛けたところまであった。
 二人がクリスマス・イヴの夜を、カニャークマリのホテルで過ごしていたことは、フロントに顔写真を見せて確認した。今夜は同じホテルに泊まることにした。
 二人から日本総領事館にも日本の家族にもなんの連絡も届かなかったが、語学の達者な両角慶子が随いていてくれるので、翔平夫婦、生方珠子、啓治夫婦は、まだ生存の望みを抱いていた。
 今回は珠子が被害地に連れて行ってくれ、と翔平に涙ながらに懇願した。
 一回目は啓治夫婦と一緒に五日間チェンナイ周辺の、まるで芥溜めのように家屋の破片や木材の散らかった海岸線を歩いて廻り、被害の大きかった場所に立ち寄っては、佐代子の流暢な英会話で、宮本の顔写真を何枚も現地の人たちに見せた。話はお互いに通じなかったが、それでも写真を見つめただれもが、二人に逢った覚えがないという意味の否定的な顔をした。
 十八万人を超える死者・行方不明者という報道の中で、現地では生存者捜索よりも、被災地域への支援、復興をどう進めるかにウェイトが移っていた。翔平たちにしてもこうした趨勢は致し方ないことだと思った。地震発生から二十日以上経過して、生存しておればとっくに連絡がある筈である。それがないのだから、二人の生存率はかぎりなくゼロに近くなる。
「生方さん、兄の様子に八月頃から変化ありませんでしたか」
「一度お若くなられました、とご本人に申しあげたことがありますが」
「気付かれてましたか。ぼくもその頃からだったかな、どうも兄の様子がおかしいと薄々感じていたのですが、普通の話はできていたし、内容がおかしいということはなかったので、そのままにしていたのですが……だがどことなく違うなとも」
「私はいいほうに受け取っていました。どういうことです?」
「痴呆、アルツハイマーの初期症状というものでもなかったが、兄の脳内に何か変化が起こっていたのではないかと」
「周平院長の脳に障害があったということですか」
「そう」
「あの女性、両角さんとお知り合いになったことに原因が?」
「どうなんでしょう、女性と知り合ったことが原因なのかどうか……だけど何かが違う印象だったなぁ」
「急に分裂症に襲われ、幻覚やら幻聴の症状が出るのでしょうか」
「兄の場合は急でもないかも……神経の繊細な質だったから。母親が交通事故死したときも、そのことを聞いてからの二、三日は、記憶が飛んでね」
「そんなことがおありだったとは……」
「その後すぐに我に帰りましたが……侑子の自殺もこたえていた。ぼくら夫婦には平気な様子を見せていたが、いつも煩悶し、侑子に問いかけていたと思います。だからちょくちょく高野山に上った。そうやって一人で煩悶することは独り言となり、しだいに幻覚、ひどくなると幻聴もあるからね」
「……よく高野豆腐のお土産を頂戴しました」
「いつの頃かわからないけど、高野山で両角慶子と出逢った。きっと何かあったんだろうな……その頃から少しずつ狂い始めたのかも」
「お兄さん狂ってたの?」
 英恵がちょっと驚いたといった口調で反問した。
「診察したわけでないから……」
 翔平は渋い表情でこたえた。
「啓治さんたちがお二人を関空にお見送りしましたね」
「そうでしたね」
「佐代子さんとの内緒話だから、本当はこんな話はしないほうがいいのですけど、私にも気懸かりがありますので話します。佐代子さん、私に電話してきて、私、両角慶子さんに好感が持てないと。お義父さん、インドから戻って来たらあの女性と結婚するのかとたずねられました」
「気だての優しい佐代子さんが、そんなきついことを」
 英恵が言った。
「私は両角さんってどんなかたか知らないですし。それでどこが気に入らないのかときくと、日本人離れしたとても美人で知的な女性だけど、正面を向いているときの顔は魅力的だけど、何気なく視線をかたわらに投げたときのお顔が、狐顔なので嫌だって」
「狐顔?」
 英恵は驚いた顔になった。
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魔多羅神41

2008-09-21 18:29:47 | 魔多羅神
     *

 シャワーを浴びた宮本は、高台のホテルの五階の窓から、海上に浮かぶヴィヴェーカーナンダ岩に立つ巨大像と記念堂を眺めていた。特別感動する風景でなかったが、ヒンドゥー教徒にとっては巡礼の聖地の一つだった。二つの島の一つに向かって小船が白波を蹴立てていた。観光客用の渡し船のようであったが、宮本は渡るに及ばないと思った。
「何観てるの?」
 シャワーを浴びた慶子がバスルームから出てきた。
「はるばる遠くに来たなと思ってね」
 バスローブを纏った慶子は、髪をタオルで拭きながら近付いてきた。
「あなたとインドの最南端に立っているなんて、感無量」
「高野山の霊宝館で出逢ったときは、まさかこんなところに来るとは予想してなかった」
「不思議なご縁だけど、必然的、運命的ね」
「そうなの?」
「あとで考えたことだけどあなたのお寺が龍光院でしょ」
「そう。父親の里が高野山麓の学文路だから、檀家寺を龍光院にしたらしい。父親の父親が四国の出だからその関係かも知れないが」
「龍光院は前に説明した真言立川流に関係してたのよ」
「それ本当のこと?」
「ええ、立川流を邪教と批判した側の書き物、いま名前思い出せないけど、それには龍光院方の本有思想を邪流、邪法、邪見だとするするところにある、ってことが書いてあったわ。龍光院の先師源照、円定房は下野に流されて邪法を相伝すとか。それと龍光院の裏山に瑜祇塔があるの知らない?」
「知ってる。何度か宿泊しているから、裏庭の背後の山の上に立っているのが見える。どんな意味があるかは知らないが」
「いつものノートを持ってこなかったから詳しくは説明できないけど、これも男女和合の信仰のシンボルなの」
「ふぅーん……そうなの」
「だから魔多羅神を探求していた私とあなたは、必然的な出逢いだったのよ。私は魔多羅神に逢いたかった、そこへあなたが現れた。あのとき私は男漁りをしていたわけでない、あなただってそうでしょ」
「そう。女が欲しいと思ったことはない」
「そんな二人がこうなったのだから、運命的であり必然的なのよ」
 慶子はうっとりとした表情になっていた。
「立川流は玄旨帰命壇に魔多羅神を御本尊としていたね」
「そうよ」
「龍光院は空海が高野山に上ったときに、自分が寝泊まりする処として真っ先に建て、高野山開発のプランを練った。由緒ある寺だから瑜祇塔があるのもなんとなくわかるけど、龍光院が髑髏を祀ったり托枳尼に関係した立川流と関係があったとはね……灯台もと暗しだな」
 宮本は新宗教設立の根本の縁に触れた思いがした。
 ――幸先がいいぞ。
 胸の裡でこう呟いた。
「夕食には早いけど、レストランで冷たい物でも飲みますか」
「そうしましょう」
 レストランは欧米人を三人、インド人夫婦を一組見かけただけで、まだ閑散としていた。若いインド女性のウェイトレスにビールを持ってこさせた。
「カニャークマリには海岸以外に観るところあるかな」
「寺院とキリスト教の教会があるくらい。夕陽と朝日を眺めるとこね」
「もうすぐしたら陽が沈むね」
「ベランダから眺めましょ」
「そうだね」
「来るときの車ひどかったわね」
「うん、スピード出して走るので、上下左右に揺すぶられて」
 宮本は先程からインド人夫婦の夫と思われる男が、時々、こちらを見ているのに気付いた。威厳のあるインド紳士であったが、なぜこちらを見ているのかわからなかった。チェンナイに着いたときからインド人の民衆の視線をよく感じたので、それほど気にはならなかったが、紳士風にじっと見られるのは初めてだった。
「夕食まで部屋から夕陽をを眺めます?」
 慶子の言葉に宮本は腰を上げた。
 部屋に戻ってベランダに立つと、静寂のアラビア海に陽が沈み始めていた。沐浴する海岸に何人もの黒い人影が小さく見えた。冬の海面に一筋の金箔の帯が眩く海岸まで延びていた。
 ――ここから魔多羅神である秦河勝の先祖が、日本に向かったのか……。
 宮本はそのことを感慨深く思った。
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