夕食の時間がくるまで各自部屋で休憩することになった。宮本と慶子は部屋に戻ると、宮本からシャワーを浴びた。出てくると慶子が街の散策途中で買った、ポテトとハーブ、スパイスを練り込んだポテトワダというスナックに、管理人から貰ってきたチャイを満タンにしたポットを窓際のテーブルに置き、ソファに座った。チャイというのは、紅茶を煮出しながら砂糖とミルクと生姜等を混ぜたインド式ミルクティーで、日本のように熱くしない。少し昼寝するつもりだったので、バスローブの恰好でウーティ湖を眺めていたら、競走馬のような馬に跨った二人の英国人が道を通って行った。
インドの夏の避暑地としては絶好地のようだが、年末ではひとの賑わいもなく、退屈な街だった。それでも行楽目的でない宮本と慶子には、思索のための静寂のひとときであった。
慶子も赤いバスローブに体を包んで出て来ると、向かいのソファに腰を下ろした。
「それ、おいしい?」
「チャイに合うよ」
「こういう空気のいいところに来るとお腹空くでしょ」
「チェンナイは車の排気ガスが臭かった」
「そうね」
「彼のさっきの話、わかった?」
「全然わからなかった」
慶子は笑った。
「あれはヒンドゥ語の単語だった」
「違うわ。アラビア語かな? でもどこかで耳にした気もするの」
「そうなの。だけど難しい説明だ」
「まあね、初めて聞いてわかる話ではないけど、ぼちぼちわかってくるわ」
「体から光を出す」
「白狐も光るわ」
「辰狐、光り輝く狐か……托枳尼だね。つまりぼくらが彼らの秘儀をマスターしたら、托枳尼の神通力、これがあれば滅びつつある地球を変えられるということだ」
「あのねェ、ウルミラさん、三宮でヒンドゥ語の教室やってたんだって」
「そうなのか。だから日本語喋れるのだ」
「ご主人ほどではないけど」
「彼らね、日本に来る前はイギリスに居たんだって。彼女はイギリス生まれなの。私より二歳下で、ご主人は五十七歳。日本に十三年間居たんだって」
それから二人はベッドに横たわった。宮本は眠ろうとしたが、なかなか眠りに落ちなかった。瞼の辺りは疲れていたが、頭は白熱の篝火が炎上していた。二千メートル以上の高地だから、脳に変調を来しているのか。そんなことを考えていたとき、ふと艶めかしい女の声が聞こえた。しかし耳を澄ますと聞こえなくなった。幻聴だったか……。昨日の朝、コーチンを出るとき空を仰いだら幻聴があったが、あれと同じ現象なのか……と考えを巡らせていると、また低い女の声が聞こえた。
慶子の声かと思って隣のベッドを眺めると、彼女は向こう側に顔を向けて寝入っているようだった。
――空気が薄いのかも、それで幻聴を……。
あぁぁぁぁぁあてぇぇぇぇぇ……。
――あの悲鳴は?! 何処から聞こえてきた?
自分の幻聴とも思えず、湖の見える窓に視線をやった。窓ガラスの向こうに女の顔が、おそらくウーティ湖に沈められた女が……と妄想したが、女の顔は映っていなかった。そして女の声も消えていた。
――そうだ、黒魔術だ。もしかしたらここは黒魔術の館ではないか。あの男は黒魔術師かもしれないぞ。
黒魔術とは、呪術で悪霊などの力を借りるなどして相手を呪う術だ。宮本は、もしそうだとしたらこれはとんでもないことだ。悪霊を呼び出すことと、自らが魔多羅神であることとは、まるで異なることだ。
宮本は三十年ほど前に読んだ、小説『エクソシスト』のことを思い出した。あれは本当にあった話だ。
一九四九年アメリカのメリーランド州マウントレーニアに住む十四才の少年、ジョン・ホフマンに起こった事実だ。ある日突然、寝室から不思議な物音が聞こえた。その後変事が次々と起こった。花瓶や皿が宙に浮いた。机が勝手に動いた。ポルダーガイスト現象だった。悪魔は少年の体を完全に支配した。体に悪魔の言葉がミミズばれとなって浮かんだ。血が吹き出した。家族は彼を神父に預けた。しかし神父は悪魔祓いの専門家でなかったので、悪魔を追い払えなかった。悪魔祓い師に頼んだところ、三ヶ月後に悪魔を追い払うことができた。その間、少年は何も覚えていなかった。
五芒星が黒魔術、いや違う筈だ。
――それにしてもあの悲鳴は?
それから二時間ほど眠り、慶子に肩を揺すられて目覚めると、慶子は夕食用にと服を着替えていた。
「よく眠った。何時?」
「七時」
「あのね、インドに来てから幻視なかった? たとえばそこの窓に人影が映るとか」
「窓に人影? どういうこと?」
「たとえばだけど、そこの湖に日本人の女が沈められていたら、ぼくたちに助けを求めないかな」
「日本人の女のひとが?」
「インドは日本女性の憧れの国でしょ、だから一人旅してるでしょ。野原でスカートまくっておしっこしたり。こっちは長距離バス旅行が多いから、女性はトイレに困るよね。このことはいいとして、たとえばレイプされた後、湖に沈められるとか」
「ああそのこと。そんなことは幻視しない。だけどあなたには言わなかったけど、変なものを幻視したわ」
「どんな?」
「あなたと私が並んで埋められていたの。なんだか砂地のようなところに」
「え! いつのこと? ぼくも視たよ……あれはいつだったか……そうか、日本に居るときだ」
「私は昨日のことよ。こっちに来るバスの中でうとうとしかかったので、窓の外を見ようとすると窓ガラスに映っていたの。話すとあなたが心配すると思って言わなかったけど」
「ああー、言ってくれなきゃ……きみの幻視がぼくたちの運命の危険防止の判断材料になるのだから……どういうことかな、砂地に埋められているって? このことは彼らには黙っていよう」
インドの夏の避暑地としては絶好地のようだが、年末ではひとの賑わいもなく、退屈な街だった。それでも行楽目的でない宮本と慶子には、思索のための静寂のひとときであった。
慶子も赤いバスローブに体を包んで出て来ると、向かいのソファに腰を下ろした。
「それ、おいしい?」
「チャイに合うよ」
「こういう空気のいいところに来るとお腹空くでしょ」
「チェンナイは車の排気ガスが臭かった」
「そうね」
「彼のさっきの話、わかった?」
「全然わからなかった」
慶子は笑った。
「あれはヒンドゥ語の単語だった」
「違うわ。アラビア語かな? でもどこかで耳にした気もするの」
「そうなの。だけど難しい説明だ」
「まあね、初めて聞いてわかる話ではないけど、ぼちぼちわかってくるわ」
「体から光を出す」
「白狐も光るわ」
「辰狐、光り輝く狐か……托枳尼だね。つまりぼくらが彼らの秘儀をマスターしたら、托枳尼の神通力、これがあれば滅びつつある地球を変えられるということだ」
「あのねェ、ウルミラさん、三宮でヒンドゥ語の教室やってたんだって」
「そうなのか。だから日本語喋れるのだ」
「ご主人ほどではないけど」
「彼らね、日本に来る前はイギリスに居たんだって。彼女はイギリス生まれなの。私より二歳下で、ご主人は五十七歳。日本に十三年間居たんだって」
それから二人はベッドに横たわった。宮本は眠ろうとしたが、なかなか眠りに落ちなかった。瞼の辺りは疲れていたが、頭は白熱の篝火が炎上していた。二千メートル以上の高地だから、脳に変調を来しているのか。そんなことを考えていたとき、ふと艶めかしい女の声が聞こえた。しかし耳を澄ますと聞こえなくなった。幻聴だったか……。昨日の朝、コーチンを出るとき空を仰いだら幻聴があったが、あれと同じ現象なのか……と考えを巡らせていると、また低い女の声が聞こえた。
慶子の声かと思って隣のベッドを眺めると、彼女は向こう側に顔を向けて寝入っているようだった。
――空気が薄いのかも、それで幻聴を……。
あぁぁぁぁぁあてぇぇぇぇぇ……。
――あの悲鳴は?! 何処から聞こえてきた?
自分の幻聴とも思えず、湖の見える窓に視線をやった。窓ガラスの向こうに女の顔が、おそらくウーティ湖に沈められた女が……と妄想したが、女の顔は映っていなかった。そして女の声も消えていた。
――そうだ、黒魔術だ。もしかしたらここは黒魔術の館ではないか。あの男は黒魔術師かもしれないぞ。
黒魔術とは、呪術で悪霊などの力を借りるなどして相手を呪う術だ。宮本は、もしそうだとしたらこれはとんでもないことだ。悪霊を呼び出すことと、自らが魔多羅神であることとは、まるで異なることだ。
宮本は三十年ほど前に読んだ、小説『エクソシスト』のことを思い出した。あれは本当にあった話だ。
一九四九年アメリカのメリーランド州マウントレーニアに住む十四才の少年、ジョン・ホフマンに起こった事実だ。ある日突然、寝室から不思議な物音が聞こえた。その後変事が次々と起こった。花瓶や皿が宙に浮いた。机が勝手に動いた。ポルダーガイスト現象だった。悪魔は少年の体を完全に支配した。体に悪魔の言葉がミミズばれとなって浮かんだ。血が吹き出した。家族は彼を神父に預けた。しかし神父は悪魔祓いの専門家でなかったので、悪魔を追い払えなかった。悪魔祓い師に頼んだところ、三ヶ月後に悪魔を追い払うことができた。その間、少年は何も覚えていなかった。
五芒星が黒魔術、いや違う筈だ。
――それにしてもあの悲鳴は?
それから二時間ほど眠り、慶子に肩を揺すられて目覚めると、慶子は夕食用にと服を着替えていた。
「よく眠った。何時?」
「七時」
「あのね、インドに来てから幻視なかった? たとえばそこの窓に人影が映るとか」
「窓に人影? どういうこと?」
「たとえばだけど、そこの湖に日本人の女が沈められていたら、ぼくたちに助けを求めないかな」
「日本人の女のひとが?」
「インドは日本女性の憧れの国でしょ、だから一人旅してるでしょ。野原でスカートまくっておしっこしたり。こっちは長距離バス旅行が多いから、女性はトイレに困るよね。このことはいいとして、たとえばレイプされた後、湖に沈められるとか」
「ああそのこと。そんなことは幻視しない。だけどあなたには言わなかったけど、変なものを幻視したわ」
「どんな?」
「あなたと私が並んで埋められていたの。なんだか砂地のようなところに」
「え! いつのこと? ぼくも視たよ……あれはいつだったか……そうか、日本に居るときだ」
「私は昨日のことよ。こっちに来るバスの中でうとうとしかかったので、窓の外を見ようとすると窓ガラスに映っていたの。話すとあなたが心配すると思って言わなかったけど」
「ああー、言ってくれなきゃ……きみの幻視がぼくたちの運命の危険防止の判断材料になるのだから……どういうことかな、砂地に埋められているって? このことは彼らには黙っていよう」
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