アメージング アマデウス

天才少年ウルフィは成長するにつれ、加速度的に能力を開発させて行きました。死後もなお驚異の進化は続いています。

あいものがたり 第二稿

2017-01-15 05:26:19 | 伝奇小説
 今は昔、
 浅草に見世物小屋が有りました。隅田の河原にサーカスのテントのように建
てられていましたので、六区や仲見世などの繁華街から少し離れていました。
 この見世物小屋に、あいちゃんと呼ばれる誰にでも好かれる可愛い娘がおり
ました。

♪ 空にさえずる 鳥の声 峰より落つる 滝の音 大波小波 とうとうと
響き絶やせぬ 海の音 聞けや人々 面白き この一座の 出し物を
調べ自在に 弾きたもう 語るも自在に 演じたもう 我らが御手の尊し
  や

 夏の盛りの昼下がり、
 二畳ほどの呼び込み台で、口から先に生まれた河童の河太郎が口上をがなり
たてていました。
「ハイ、僕ちゃんからおじいちゃん、お嬢ちゃんからおばあちゃんまで、さあ
さあ寄ってらっしゃい見てらっしゃい。宇宙の神秘、医学の謎、世の中には不
思議な事がたくさん有る」 河太郎の傍らに佇んでいる愛くるしい娘、ようや
く肩位までしかなかった。
「例えば可愛らしいこの娘」
 屈み込むようにして娘の肩を抱いて、十人程しかいない客に見せる河太郎。
「クレオパトラか楊貴妃か、はたまた小野小町がこの娘と同い年のころ、こん
なに清純で美しかったでしょうか?」
 はにかみながら微笑んでペコリと頭を下げる娘、桜柄の小袖に紫袴、長い髪
をリボンで結ぶという、明治時代の女学生のような出で立ちで精一杯に笑顔を
続けている。
 左側にちょこんと座っている座敷童の女刀自(めとじ)。
 右側にはもう一人の 座敷童の身(み)刀(と)自(じ) 、この子もまたただただ笑っているい
るだけだ。
「親の因果が子に報い。なんてぇのは見世物小屋の決まり文句。この娘にはそ
んな生ぬるい言葉は当てはまらねえ! 涙なしには語れはしねえ。聞けば驚く
因果応報」
 屈み込んだ河太郎が娘にささやいた。「暑いから小屋にお戻り」
「いいの?」とばかりに見上げる娘に、河太郎は優しく頷いた。
 客にぺこぺこと頭を下げた娘。呼び込み台を降りて、小走りに小屋に向かっ
た。
 リボンを解く娘、その長い髪が小屋から吹いてくる冷風に巻き上げられ、美
しい項が陽光に煌めいている。
 娘を見送る河太郎が呟いた。「嫌だねえ、あんな清らかな娘を見世物にする
なんて」
「どうせ蛇女かたこ女だって言うのだろう」
 河太郎にヤジが飛んだ。
 客に向き直る河太郎、苦渋の表情を笑顔に変えて、
「悪いが外れだ。あの娘の故郷は奈良県は奥吉野、大峯山の秘境にあったが、
二千年の差別と迫害にあって、生き残ってのはたった一人」
「だからなんだってんだ!」
そいつは見てのお楽しみ。チャキチャキの浅草生まれのこの河太郎が保証する
ぜ!」
 拡がる嘲笑! 皆河太郎が田舎者だとは承知していた。
「自慢じゃねえが、うちの小屋には種も仕掛けもありゃあしねえ」
「ふざけるな,自慢してるじゃないか」
 纏袢纏にいなせな鉢巻きの若い衆が河太郎に嘲笑と声を掛けた。
「なあ、おめいらも聞いたろう?」
 男が左右の若い衆に同意を求めた。
「おいらも聞いたぜ」
「おいらもだ、聞き捨てにはならねえ」
 三人の若い衆の晒に血が滲んでいる。
「こいつはご挨拶じゃねえか、新門の若頭。八幡様のけえりですか?」
「あたぼうよ! 今年も本舎神輿は浅草が頂いたぜ」
「三社祭の時も新門組の兄さん方は、深川の連中を全く寄せ付けなかった。新
門組は浅草っこの誇りですぜ。・・・」
 頭をぺこぺこと下げて若頭に愛想笑いを送る河太郎が言葉を繋いだ。
「こんな趣向はどうです?」
「なんだい?」
「もし、もしもだが、種とか仕掛けとかが見つけられたら?! 木戸銭を十倍
にして返すってのは? どうでかす」
「面白え、乗った!」
 舞台袖に駆け込んだ河太郎が桶の水を頭から被った。
「これで生き返ったぜ! 小雪姐さん」と、傍らの年増の美女を見下ろして声
を掛けた。
「どうです? 入りは」
「ご覧の通りさ」
 幕間から客席を覗いた河太郎、散々の入りに溜息をついた。
「今日は八幡様の祭礼ですからね。みんな深川に行ったんでしょ」
「だろうね」
 色白の頬を微かに桃色に染め、大きく溜息を付く小雪。真っ赤な襦袢に雪の
結晶が鏤められた萌葱の浴衣が心に染みいるほど鮮やかだ。その白い息ととも
に寒気が拡がって行く。小雪は雪女だった。
「だけど、来寝麻呂目当ての芸者衆がぼちぼち集まってるよ」

「来寝様ーッ!」
 最前列の手古舞姿の深川芸子が黄色い声を上げていた。
「来寝麻呂!」「来寝様ーッ!」
 深川衆を取り囲むようにして、浅草の芸者達も負けずに黄色い声を上げてい
る。
「生娘みたいな声出すんじゃ無いよ。来寝様はあたしら浅草ッ娘のものさ」
「白塗りの化け物みたいな顔で騒ぐんじゃない」
 負けずにやり返す深川衆。

「あんな優男のどこが良いのかねえ?」と、小雪。
「姐さんにはね来寝様の素晴らしさが分からないの! 女にしたい程良い男つ
てのは来寝様のことさ」
 いつの間にか鎌鼬のかまおが小雪と河太郎の傍らで佇んでいた。
「来寝様」と、息も絶え絶えに呟くかまお。胸の大きく開いたシースルーのワ
ンピース、裾が膝から十センチは上がっていた。
「さてと、あたし達も一回りして客を集めて来ようかね」
 屈み込んだ小雪が、子犬のシロの耳元で囁いた。
「座長、良いですか。用意して下さいな」
 シロが小太鼓を首から提げて小雪を一睨み。
「駄目駄目、そんな可愛らしい姿じゃ」
 今度は、吽とばかりに口を真一文字に結んで、前足を力一杯に強ばらせる
と、身の丈七尺は超えようかの偉丈夫に姿をかえた。道中姿に白塗り、首から
大きなチンドン太鼓をぶら下げていた。
 チンチンドンドコ、座長のチンドン太鼓を合図に座員が集まって来て、それ
ぞれに用意を調えた。
 小雪はクラリネット、むさ火とけち火が三味線、おまんばあさんがアコーデ
ィオン、さこひめが龍笛、ピンクの忍衣装で身を固めているお軽が指笛、とい
う具合に。
「おい、かまお! 何をぐずぐずしてるんだ」
 河太郎の叱責にも澄まし顔で受け流すかまお。
「あたいは行かないよ。もうすぐ来寝様の出番じゃないか」
「お前は何時でも見れるじゃ無いか」
 かまおの頭をドつく河太郎、腰に蹴りを入れる。
 よろけるかまお、恨めしそうに河太郎を睨む。
「お前が主役だ、かまお!」
「分かりました・・・ヨ!」
 渋面を強ばらせながらもバイオリンを小脇に抱えたかまお、一同の後に付い
ていく。

 チンチンドンドコ。ジヤンジャンジャラジャラ、ピーピーピーヒャラ。
 チンドン太鼓を先頭に小屋から出て来るチンドン楽隊。バイオリンのかまお
が座長と小雪の間に割り込んで楽隊が完成した。バイオリンを弾きながら、か
まおが見事なカストラートで歌い出した。

♪ 空にさえずる 鳥の声 峰より落つる 滝の音 大波小波 とうとうと
響き絶やせぬ 海の音 聞けや人々 面白き この一座の 出し物を
調べ自在に 弾きたもう 語るも自在に 演じたもう 我らが御手の尊し
  や

さて、座敷童だけが残されたテントの前は閑散としていました。
 桜の木陰、緋色の紬で後神がテントの木戸口を見やっていました。一目で田
舎者と分かる親子が悩んでいたからです。
「母ちゃん、見たいよ」
 女の子の訴えに母親は溜息を付いて連れ合いを見ます。
「父ちゃん、おいら一生懸命勉強して一杯お金を貯めるから、花子に見世物を
みせておくれ」
「太郎、そんな先の事を言ってもしょうが無い。今、家は貧乏なんだよ」
 父親は財布の中を覗き込んで首を力なく振ります。
「東京見物だって清水の舞台から飛び降りるような気持ちで出て来たんだ」
「母ちゃん、やっぱり見たいよ!」
 愚図る花子の手を引いて歩き出す母親、父親も太郎を促して歩き出す。

 桜の木陰から姿を消している後神、木戸口に一陣の風とともに姿を現す。
 風に長い髪が乱れて、後頭に大きな眼が現れるが、慌てずに髪を整えると、
親子の後ろ髪を引いた。
 未練たらしく木戸口に戻って来る親子。
 後神は、出来る限りの笑顔を創って女の子に話しかけた。
「お嬢は幾つ?」
「花子、六つ」
「だったら問題無い。この小屋は十まではただ。僕は?」
「もうすぐ十五」と、胸を張る太郎。
「嘘だろう。どう見ても十にしか見えない。十までわただでで見られる」
「本当ですか?」
 母親が顔を輝かせた。
「どうか、二人を入れて下さい」と、後神に頭を下げる父親。
「それが出来ないんだ。大人が付き添わないと駄目なんだ」
「だったらあんた、二人に付き添っておくれな。後の遣り繰りははあたしがな
んとでもするからさ」
「だから、田舎者は嫌なんだ。良く考えてご覧、大人が二人で八十銭、あんた
ら親子は四人だろ? 四で割ったら二十銭、こんな計算も出来ないのかい」
「二十銭」と、財布を覗き込む父親る。
「分かったよ、十銭でいいよ。だけど条件が有る。弁当を四っ貰っておくれ。
売れ残って困ってるんだ」
 確かに弁当が山のように積まれている。だが、満席になる目論見だったか
ら、これでも足りない位だった。
 弁当が四銭、四つで十六銭、どう計算しても六銭の赤字になる。それでも後
神涼しい顔をして、耳を澄ました。
 風に乗って、チンドン楽隊の音が聞こえて来た。
「もうすぐ帰ってきそうだね」


 喜び勇んで客席に走り込む親子。
 舞台袖で河太郎が芸者達に責め立てられていた。
「速く幕を開けな」「来寝麻呂を見せておくれ」「早くしないと火をつけてし
まうよ」
 物騒な事を言う芸者までいた。
 新門の若頭が河太郎に声を掛けた。
「こんな入りじゃ、俺っちに払う二十円が出来ねえよな」
 額に汗を滴らせた河太郎が必死に良いわけををした。
「もう少し待ってくれ。直に客が一杯押し寄せる事になってる。大体、役者が
揃ってねえだ」
 幕間から優雅な腕が伸びてきて河太郎を引っ張った。

 舞台に佇んでいるさこひめ、笑顔で河太郎を見上げる。
「役者は揃った。さあ、始めようじゃないか」

 再び袖に現れる河太郎。悠然と客席を見渡して、自信満々で語り始めた。
「これからお見せしやすのは、義経千本桜四段目、道行初音旅。新演出でお贈
りいたします。歌舞伎座でもお目にかかれない代物だ。無粋な女形なんて出て
こない。静御前は優雅な美女さこひめ、源九郎狐は来寝麻呂だ」
 キャーキャー騒ぐ深川と浅草の芸者衆。
「隅から隅までズズィーット・・・ご覧下さりませ」

 丁度その時、チンドン楽隊が大勢の客を引き連れて帰ってきて、客席は忽ち
満員御礼。

 ゆっくりと緞帳が上がると、夜明け前の吉野が拡がっていた。
 満開の吉野桜の奥に連なる山々が霞んでいる。
 琵琶と事の哀しい連弾に乗せて謡が聞こえて来た。

 春はあけぼの 春はあけぼの やうやう白くなりゆく やうやう白くなりゆ
きて
 山はぎ少し明かりて 紫だちたる雲の細くたなびきたる

 曙に浮かび上がる満開の吉野桜。彼方の稜線が紫色に色づいている。

 さて、この小屋はサーカスも出来るようになっていて,綱渡りで使う太綱が
渡されていた。
 その太綱にお軽と先ほどの娘が座って舞台を見ていた。この二人は見た目の
年齢が近いこともむあって気が合っていた。もっとも、この娘に限っては人を
分け隔てなんか決してしません。誰にでも慈しみに満ちた愛を捧げるんです。
「なつかしい?」
 こくりと頷く娘。この舞台の吉野は書き割りなんかじゃ無くて、みんな本物
なんです。
「帰りたい?」
「ううん、だってもう誰も居ないんだもの。ほら、右の奥に霞んでいる山の向
こう側に有ったのよ」

 舞台では謡が続いていた。
 恋と 忠義は どちらが重い かけて思いははかりなや 忠と信のもものふ
に 君が情けと預けられ 静かに忍ぶ都おば
 微かに現れる静御前(さこひめ)。緋色の袴に小袖五つ衣、薄絹を身につけて
おり、とうてい白拍子静御前の道中姿には見えなかった。
 近づくに連れ、静御前の姿が確かになった
 跡に見捨てて旅立って つくらぬなりも義経の御行方難波津の 波に揺られ
て漂ひて
 今は吉野と人づての噂を道のしほりにて 大和路辿りて 吉野に来たり

 立ち止まって、辺りを見渡して溜息を付く静。
「ああ、我が君判官九郎様はいずこに。噂を信じれば、確かこの辺り」
 義経の形見とも言うべき初音の鼓を取り出す静。ポンと一打ち。
 静の前に姿を現す二人の武者。
「懐かしや忠信殿。もう一方は?」
「今巴御前と謳われし我が妹ございます」
 静が義経を偲んで鼓を二つ打つと,忠信と妹は膝を抱えてしゃがみこんでし
まった。二人の肩は涙で噎んで震えている。
 更に静が鼓を続けると、二人は悲しみの余り大地に両手をつき、もがき苦し
んだ。
「なんとしました? 忠信殿」
 恨めしそうに静を睨む忠信、両の眼が吊り上がってただならぬ形相に成って
いた。
「なんとその顔は・・・?! 忠信殿と思うたは静香の見間違い、何者である
か?」
「あなた様には到底隠し通せませぬ。そ、その初音の鼓は、我ら兄妹の父母の
革でつくられておりまする」
「なんと、父母の革とな。ああ痛ましや」
 妹武者が、たれ下げた静の初音の鼓にすり寄って、愛おしくも抱きすくめ
る。兄の武者はその妹を後ろから抱き支える。
 鼓を持つ手の力を抜く静。初音の鼓は妹武者の手に渡った。
「是非も無い、この初音の鼓はそなた達の物であるぞ」
 鼓に頬づりをした妹武者は、ポンポンポンと打った。
 忠信武者は鼓に合わせて舞い、飛び跳ねて父母との再会を喜んでいる。
 忠信が妹に駆け寄って鼓を受け取って鼓を打つと、今度は妹がんで飛び跳ね
た。
「忠信殿、忠信狐殿。今一度初音を我が手に。・・・せめてもの手向けにわら
わが曲を手向けようぞ」
 忠信狐から初音を受け取ると、管弦の合唱に乗せて鼓を打ち続けた。
 忠信狐と妹狐の歓喜の舞は弾けた。クルクルと忠を舞い、翼が有るがごとく
テントの天井を突き破る程にも飛翔したかと思うと、霞む吉野の彼方までにも
飛んでいった。

 万雷の拍手と歓声。鳴り止む事を忘れて、観客の興奮は最高潮に達した。

 舞台で鼓を打っていたさこひめも興奮していた。もう自分を抑える事など適
わず、本性を現した。さこひめの両肩から大きな翼が現れ、二人の狐に負けづ
に、羽ばたいて弾けた。

舞台狭しと、跳ね回る来寝麻呂姉妹、さこひめは思い余って吉野の彼方にま
でと羽ばたいてしまった。
 お囃子隊の連弾も弾けまくっている。

 観客は騒然と成っていた。というより、半狂乱になって酩酊状態です。
 新門の若頭も、唯々呆然と眺めるのみ。
「なんじゃこれは。種も仕掛けも分からねえ?!」
 種も仕掛けも有る筈など無いのです。来寝麻呂兄妹は本物の化け狐だし、さ
こひめは素戔嗚尊の妹で、神様の成れの果てだったのですから。

 狂乱の続く中、緞帳が下りてきました。
 アンコールをせがむ手拍子が沸き上がっています。

 来寝麻呂が客席後方からヒューッとばかりに緞帳の真ん中やや下手に着地。
 やんやの喝采! 
 来寝麻呂は恭しく客席に向かって礼を捧げた後、左側に両手をだしてヒラヒ
ラとさせると、妹がスーッと現れた。
 来寝麻呂姉妹は少し間を開けて、両手を下から上に突き上げてヒラヒラ。
 二人の間に、翼を羽ばたかせたさこひめが優雅に着地した。
 満面に笑みを浮かべた三人が手を繋いで反転宙返りすると、その姿はかき消
えていた。

 舞台裏では、あの娘が振袖姿に着替えていた。
 お軽が、長い髪を頭の上に束ねて行く。しなやかで儚いまでに美しい項を見
せる為です。
 側で小雪が佇んで溜息を付いています。
「若く見えるって良いね、得だよね」

 舞台袖で河太郎が口上を述べています。
「初音の鼓手ってのは、今の天皇陛下の始祖、桓武天皇の御代に造られたとい
うから、千年以上も前の事になる」
 ゆっくりと上がる緞帳。
「これからお贈りする出し物は、それから更に千年以上前が起源のお話。まず
は、ご覧じあれ!」
 舞台に拡がる吉野の風景。
 今度は哀しいまでに紅に燃える紅葉が連なっていた。
「おや? だーれもいないじゃ無いか」
 二本のスポットライトが上下左右に動き回って主役を捜し回るが、誰も見つ
ける事が出来なかった。
「駄目だねこりぁー。仕方が無い、皆おいらに手を貸しておくれ」
 お軽に小雪、さこひめや鎌鼬まで河太郎の後ろに並んだ。
「さあ、皆一緒に、声を併せて、一ィ、二ィ、三!」
 観客も一体となって、
「あいちゃーん!」
「アーイーッ!」
 舞台中央に現れるあいちゃん、はにかんで俯いています。
 客席の太郎と花子が声を合わせて、
「あいちゃーん!」
 嬉しそうに微笑むあいちゃん、凜として顔を上げ、少し首を伸ばして美しい
項を見せながら客席を見回しました。

 あいちゃんは客席の後方に佇む一人の学生を見つけると、頬は桃色に染ま
り、胸は張り裂けそうになりました。あいちゃんはその学生さんに恋をしてい
たのです。
 ドロドロドロとドラムのロールが不気味に響き。
 ピーピーピーヒャラ、笛が不安を客席の不安を募ります。
 あいちゃんは舞台袖の座員達に哀願の眼差しを送って、哀しげに首を振り続
けます。
 ドロドロドロ、ピーピーピーヒャラ。
 哀しいことに,心とは裏腹に、あいちゃんの首が反応してしまいます。その
美しい項が、少しずつ伸びて行きます。
 ドロドロドロ。
 二メートル、三メートル、そして十メートル以上も伸びて、客席を徘徊しま
す。
 阿鼻叫喚、残念ながら客席に恐怖の叫び声など上がりません。むしろ、皆喜
んで拍手喝采! それほどあいちゃんはここの常連に愛されていたのです。
 あいちゃんは舞台の奥で震える子犬に気がつき、その首が子犬(座長のシ
ロ)をめがけて襲います。
 キャイ~ンとばかりに鳴いたシロの首筋から真っ赤な血がしたたり落ち、あ
いちゃんは舌なめずり、その血はイチゴシロップの味がしました。
 アーイッと現れるからあいちゃんと呼ばれるその娘はろくろ首だったので
す。重ねて断言します。この一座にインチキは有りません。座員は皆本物の妖
怪でした。

 無事興業が終わり、一同はテントの前の縁台でのんびりと過ごしていまし
た。楽しそうに話し合う一座の面々の中であいちゃんだけは俯いて哀しそうで
す。
「あいちゃん、元気出しなよ」
 お軽があいちゃんを励まします。
「人の世に起きる事なんかにくよくよしたってしょうがない。あいちゃん、ご
覧よ綺麗じゃないか、蛍が光ってるよ」と、さこひめが言った。
 確かに辺り一面に蛍が光ってゆらゆらと飛び交っていた。
 あいちゃんはやっと顔を上げて蛍を見た。
「ほんとだ、キレイ!」
「綺麗だけどね」と、小雪がお軽の耳元で密やかに囁いた。「河太郎のいたず
らさ、こんな汚い隅田の河に蛍なんか棲めるもんか」
 小雪の囁きが聞こえなかったのか、お軽も蛍に喜んで、飛ぶ蛍と戯れだし
た。
 辺りを見回さこひめ。
「おや、おまあばあさんの姿が見えないね」
「今夜もかい、むさ火もけち火も付き合ってるみたいだね」と小雪。
 
 林の小道を急ぐ若い娘がいた。
 数人の不良が後をつけてていた。
 気配を感じた娘は歩みを早め、やがて小走りに走り出した。
「極上の獲物だ。逃がしちゃならねえ」と、不良達も走り出した。
 大木の陰から突然現れるおまあばあさん。
「おまんらの母じゃ」
 驚いて立ち止まる不良達。
「おまんらの母じや」
「ふざけた事抜かすな。俺っちのおっ母は、・・・男と逃げた」
「おいらは自慢じゃ無いが孤児だ」
「俺のお袋は二日前におっ死んだ」
「おまんらの母じゃ」
「おい、こんなきちがい相手にするな」
「そうだ、急がなくては逃げられてしまう」
 不良達はおまあ婆さんを残して、娘の後を追いかけた。
 遠ざかる不良達に呼びかけるおまあ婆さん。
「おまあらの母じゃ!」
 なぜか嬉しそうに微笑んでいるおまあ婆さん。

 急ぐ不良達の前に二つの人魂が現れて、おいでおいでとばかりに墓場のほう
に誘う。
 ジャンジャンジャラ、どこからともなく不気味な三味線が聞こえて来た。
 怯んで竦む不良達。
 人魂はだんだん数が増えて行く。
「てやんでえ。人魂なんか怖くねえぞ! だよなあ」
「あたぼうよ。人魂が怖くて浅草で悪さなんて出来るか」
 不良達はだんだん元気を取り返します。
「かまうことはねえ! とっ捕まえて見世物小屋に売り払っちまおう」と、匕
首を抜き放って人魂に飛びかかって来た。
 これには、人魂のむさ火とけち火の方が怯んで姿を消した。
「ざまあ見ろ!」
「さあ早く追いかけようぜ」
 娘の後を追う不良達ですが、残念無念、娘は我が家に逃げ込んでいました。

 ある夏の昼下がり、突然のにわか雨。
 あいちゃんは小さな神社で雨宿り、濡れた髪を手拭いで拭きながら、空を見
上げ、ますます激しくなる雨に溜息を付いた。
 カランコロン、高下駄で走る音が聞こえてきた。
 カランコロン、カランコロン、だんだん音が近くなった。
 耳を澄ましながら、あいちゃんは雨のカーテンの彼方を見詰めて、溜息を付
いた。
 あの学生さんに違いない、そんな予感がした。
 その学生さんが躓いた。が、かろうじて片足で立っていた。
 鼻緒の切れた高下駄に手を伸ばす青年、あいちゃんが走り寄って素早く手に
持った。
「危ないからわたしの肩につかまって」
 素直にあいちゃんの肩に左手を置く青年、娘を見詰めて首を傾げた。どこか
で合ったような気がしたのだ。
 手拭いを口で裂くあいちゃん、手際よく鼻緒をすげ替え、濡れた桐の板を自
分の袖で吹いて、青年の足下に片方の高下駄を置いた。
「有り難う」
 青年は両足でしっかりと立ち、見覚えのある娘を見詰めた。
 立ち上がったあいちゃん、青年の肩まで届かなかった。
「有り難う。濡れるから走ろう」
 青年はあいちゃんの手を握って走り、二人は神社の軒先に駆け込んだ。
 
 それから二人は時々遇うようになった。逢い引きなどとはとても言えない他
愛も無い物だったが、あいちゃんにとつては生まれて初めての至福の時でし
た。
「僕の名は健太郎」
「わたしはあいちゃんて呼ばれてるわ」
 健太郎青年は色々な話をしてくれたが、あいちゃんは何時も黙ってニコニコ
と微笑んでいた。青年は東大の三年生で二十歳だという。
「君は幾つ?」
 哀しそうに健太郎を見詰めるあいちゃん、答える訳にはいかないのだ。
「十五か六?」
「幾つかなんて覚えてないわ」
「可愛そうに、つらい事が有ったんだね」
 
 健太郎青年はあいちゃんの前では饒舌でした。
「戦争なんて絶対にいけない事なんだよ。早く戦争が終わって平和な世界が来
るといい」
「ほんとに戦争、終わる?」
 顔を曇らせる健太郎、彼はこの戦争が簡単に終わらず、日本が負ける事もし
っていたのです。
ある日、こんな事も言いました。
「あいは英語では自分自身のことなんだ。アイ、愛、藍、哀、・・・本当に良
い名前だね」

 ザツザツザツ、雨の神宮球場で軍靴の音が轟きね健太郎青年は学徒出陣して
しまいました。

 健太郎が出征して早くも一年が過ぎてしまいました。
 あいちゃんはこの一年間悩み続けていました。健太郎青年が無事なのか、ど
の戦場にいるのか? 知る術も無く、ただ悩み続ける事しか出来ません。
 ある夜、あいちゃんは何事かを決意して、座長のシロに相談しました。
「わたし、健太郎さんが無事なのか、どこにいるか知りたいんです。座長だっ
たら知っていると思って相談に来ました」
 シロは口を吽とばかりに一文字に結んで、あいちゃんを睨むようにして見詰
め続けるばかり。
「お願いです。教えて」
 あいちゃんはシロの顔を覗き込む為に跪きました。
 シロは今度はそっぽを向いてしまいます。
 あいちゃんの胸に不安が拡がります。座長は矢張り知っているんだわ、黙っ
ているのは何か悪いことでも有ったからかも知れない。
「座長! わたしどんなことでもちゃんと聴くから、お願い」
 あいちゃんは遂に泣き出してしまいました。
「教えてあげなよ」
「あいちゃんの健気な心に応えてあげたら?」
 頭上からさこひめと小雪の声が落ちてきました。
 二人を見上げたシロが微かに頭を下げて頷きました。
 立ち上がったあいちゃんは、さこひめと小雪を交互に見詰めて息を潜めてい
ます。
 口を開いたのはさこひめでした。
「あの学生さんは満州にいるよ」
「まんしゅう?」
「日本から出た事の無いあいちやんは知らないよね。ずっと北に有る国だか
ら、あたしも一度行って見たいと思っているんだ」と、小雪。
「健太郎さんは無事なの?」
「今のところはね」と、ぶっきらぼうに言い放つさこひめ。
「ソ連という大きくて強い国との国境の街にいるよ。ソ連はね今のところ日本
と戦争をしていないけどね、いつ攻めてくるか分かりやしない」と、言葉を繋
ぐ小雪。
「ソ連がその気になったら、関東軍なんて一網打尽で玉砕、なんの抵抗も出来
やしない。小娘をよってたかって手籠めにするような物さ」
 さこひめの言葉を聞いたあいちゃん、青ざめた顔でブルブルと震えていま
す。
「わたし、どうしてもそうなる前に、一目で良いから健太郎さんに逢いたい
の。お願い!」
 涙を浮かべてさこひめを必死に見詰めるあいちゃん。連れて行って呉れると
したらさこひめだと知っていたからです。
「連れて行っても良いけどね、後は知らないよ。先の事は自分で切り開かなけ
ればいけない。あいちゃん大丈夫?」
「はい、覚悟は出来ています。わたし大丈夫、がんばるから」
「ホントだね」と、少しかがんで背中の翼を拡げるさこひめ。
「しっかりと捉まるんだよ」
 さこひめの翼によじ登るあいちゃん、首をしっかりと抱きしめた。
「有り難う、さこひめさん」
「良いさ、ついでだからね。わたしの兄さんが今トルコにいるのさ。ちょっと
だけ寄り道してあげる」
「兄さんって?」
「人は素戔嗚尊と呼ぶけどね。本当は須佐の王だった人さ。大昔の事・・・」
 素戔嗚尊は新出奇抜で色々な場所に現れる。出雲はもちろん、京都や東京、
新羅(韓国)、そして西はトルコにまで出かける事が有る。
「兄さんに蘇民将来のお札を貰って来るからね」と、座長と小雪に言い残し
て、大きな翼を羽ばたかせた。
 あっという間に姿を消すさこひめとあいちゃん。

「すごい! まるで空を飛んでいるみたい」
 とんちんかんな感想を述べるあいちゃん。仕方が有りません、あまり速いの
で何も見えなかったのです。
 さこひめは新京の街にあいちゃんを届け、「がんばるんだよ」と言い残して
あっという間に姿を消した。
 不安に脅え、深夜の新京市街を眺めるあいちゃん。
「健太郎さんを探さなくては」と決意を改めましたが、その為には生きて行か
なくて成りません。
 エッ? どうしたかって? ご想像に任せます。可愛そうなので私の口から
は言えません。
 あいちゃんはこの新京の街で一年近くも生き抜きました。
 不思議な事が起こりました。あいちゃんと出会った兵隊さん達、前線に配属
されて意気消沈している兵隊、傷を負ったり、片腕を無くした兵隊も、皆心身
共に元気になるんです。だけど、大抵はまた傷を負って帰って来ます。
 あいちゃんは遂に健太郎青年を見つける事は出来ませんでした。
 怖れていた事が起こりました。千九百四十五年八月八日、ソ連がソ満国境に
進攻を開始したのです。
 瞬く間に関東軍は殲滅されました。
 この日、あいちゃんは大勢の日本婦人、天使のような看護婦や、白い衣装を
着て看護婦気取りの娼婦たちと街外れに立っていました。
 続々と撤退してくる日本の敗残兵を励まし、水や食べ物を与えるためです。
あいちゃんは、甲斐甲斐しく兵隊達に水や乾パンを与えながら、必死に健太
郎青年を探しますが、とうとう見つける事は出来ませんでした。

 八月十五日、終戦。
 その頃には浅草にはあの見世物小屋は有りません。
 座員はてんでんばらばらになって、多くは故郷に帰って行きました。
 もし、あなたが青森奥入瀬に旅をしたら、奥深くの大滝を訪れて下さい。
 ほら、聞こえて来たでしょう。

♪ 空にさえずる 鳥の声 峰より落つる 滝の音 大波小波 とうとうと
響き絶やせぬ 海の音 聞けや人々 面白き この一座の 出し物を
調べ自在に 弾きたもう 語るも自在に 演じたもう 我らが御手の尊し
  や

 かまおは河太郎と夫婦になっていました。
 もし、あなたが雪山の遭難で助かったとしたら、きっと小雪のおかげです。
エッ? シロはどうなったって? 
 あなたの街の神社の境内で、うんとばかりに口を真一文字に食いしばった、
吽形の狛犬を見かけたら、きっとシロです。
 あいちゃんは? わたしは知りません。でも、試しに呼んで見ましょうか?
 さあ一緒に声を合わせて大声で、・・・
「アイチャーンッ!」
「アーイーッ!」
あいものがたり・完

        2017年1月15日   Gorou

丘の上のマリア 終曲Ⅲ 311

2017-01-14 09:41:10 | 物語
三 三一一

 石巻の加藤一家は昼食を漁港のレストランで取っていた。
 母友恵が一家で外出するのは希な事だったし、妙にはしゃいでハイになって
いた。
 沢山並ぶ料理にも関わらず、友恵は次々と追加注文をする。
「お母様、僕そんなに食べられないよ」
「幸平は男なんだから、沢山食べなくちゃ」
 小学五年の孫に男という言葉を強調し、お婆様等とは決して呼ばせなかった。
「それにしてもお母様、いくら何でも多すぎますわ」
「いいのいいの、美味しいものは少しづつでいいから食べなさい」
 十二時半にこのレストランに来たのに、出たときは二時半を過ぎていた。

 紅いポルシェ911の前で立ち止まって海の方を見ている友恵。
「お母様、何なさっているの?」
「決まってるじゃない。綺麗な海。なんて素敵なんでしょ」
 どんよりとした空を映して海の色は灰色に濁っていた。
「お母様どなたか捜しているのですか」
「幸平に決まっているじゃない」
「幸平だったらここにいるわ」
「あらっ、じゃあ行きましょう。でも何処に行こうかね」
「もう帰りましょう、お母様」
 友恵の様子が今朝からおかしかった、妙にはしゃいでいたり、急に沈み込ん
だりしていた。
「帰りたいのね。帰っても誰も待っていないわよ」
「ここで待っていたら、誰かが来るの?」
「きっと来るわ」
 友恵を無視し、由美は運転席に乗り込んだ、幸平はいさんで後部座席に走り
こんだ。
 友恵はまだ海を見ていた。由美から見えないその顔が苦渋で歪んでいた。
「お母様、置いて行きますよ」
「まあ怖い、お前にもそんな怖い顔ができるんだね」
 渋々助手席に乗る友恵、まだ海を見詰めていた。

 海岸線を自宅へとポルシェを走らせる由美、何か胸騒ぎがして成らない。自
然といつもよりスピードが出しており、前の車と追突しそうになったりしてい
る。
「もっと、もつと、スピードを出しなさい。由美」
 友恵は今はもうはしゃいでいた。
 突然、何もかもが激しく揺れた。横に大きく二度三度と揺れたかと思うと、
今度は縦に揺れた。
 急ブレーキを掛ける由美。
 そこら中の車からブレーキ音が聞こえていた。
 由美の直ぐ前の車がハンドルを切り間違えてガードレールに追突した。
 三分の一ほど車体をガードレールからはみ出させてようやく止まった。
 危険を感じて車から降りる由美、他の車からもドライバーは皆、慌てて飛び出してきた。
「地震だ。車じゃ大事故起こしてしまう。自分の足で高台に逃げるんだ」
「これだけ大きな地震だから津波が起こるに違いない」
 由美も男達に同調して車を捨てると決めて、後部座敷の幸平を引っ張り出し
た。
「幸平。走るのよ力一杯に走るのよ!」
 助手席にいると思った友恵が見当たらなかった。
 由美は周りを見回して母を捜した。
 友恵は奇声を発しながらガードレールの向こう側で海を見ていた。
 走り寄る由美。
「お母様」
「見てご覧、由美」
 友恵の指さす先の港では一隻の漁船が外洋に向かっていた。その周りでは海
が渦巻き荒れ狂っていた。
「勇敢な船じゃないか」
「お母様、気を確かに持って下さい」
「わたくしは至って確かよ。やっと迎えに来たのよ」
「誰?」
「紗智子と地獄の亡者達さ。ホラッ!」
 母の見詰める海の先で津波が沸き上がっていた。
「お母様、お願い!」
 由美は母の身体を力の限り引っ張ったがビクともしなかった。
 由美を振り返って微笑む友恵、こんなやさしく安らかな母の顔は初めてだっ
た。
「いいの、私はこれでいいのよ。あなたと幸平はいきなさい」
 行けと言ったのか、生きろといったのか分からなかったが、由美は母を諦
め、幸平の手を引っ張るようにして夢中で掛けた。
 背後から大津波がものすごい勢いで迫ってくる。
 津波は奇声を上げて踊らんばかりにしている友恵を飲み込み、逃げ惑う人々
と由美と幸平に襲いかかって来た。

 真はそれが地震だと確信すると、直ぐ携帯を取ったが、全く繋がらなかっ
た。仕方が無いので山形警察署へと走った。
 こんな地震は初めてだった。千葉県の家族が無事なのか? 震源地が何処な
のか、まるで見当も付かなかった。
 すれ違う人々に手当たり次第に様子を聴いた。
 一人だけ情報を持っていた。宮城県を中心に未曾有の地震が発生したとい
う。それとて信憑性が分からなかった。
 山形警察署にようやく駆け込んで、警視庁の吉溝と連絡が取りたいと懇願し
た。
 蜂の巣を突くように混乱している署内で一人だけが冷静に真の話を聞いてくれ
たが、電話も携帯も全滅だった。
 無線で吉溝と連絡が取れたのは三十分後だった。
「何が起こっているんだ?」
「兎に角大変な事に成った。東北地方で途轍もない地震が発生して、大津波も
襲ってきた」
「頼みが有る。家族に俺の無事を伝えてくれ。それから山形警察で派遣される
救助隊に参加させて欲しい」
「相変わらず無茶を言うな。だが、お前のようにタフで経験豊富な野郎が加わ
るのは心強い」
 吉溝は署長を呼び出した。
「その男は吉川というタフガイだ。救助隊に加えて欲しい。彼が望む事は可能
な限り適えてやってくれ」

 署長の計らいで、真は災害救助ヘリに乗せて貰い宮城を目指した。が、その
夜は燃料補給やらなんやらで立ち往生し、石巻に入れたのは翌日の昼過ぎだっ
た。
 ヘリから飛び降りた真は、余りの凄惨な状況に言葉を失った、市街地は全て
瓦礫で埋まり、あちこちで壊れた車が転がっていた。いや、車だけで無く、漁
船までも瓦礫と成り果てていた。
 真は被災者の情報を集めるために赤十字病院に走った。
 病院に駆け込んだ真は、まるで野戦病院のように成っているのを見て呆然と
立ち尽くした。気を取り直し、側にいた看護士に被災者と負傷者のリストの在
処を聞いたが、まだ情報が錯綜して実態がつかめていないと言う。
 それでも何人かに食い下がったが、矢張り駄目だった。
 
 真は高台の加藤家を目指して掛けだしたが、障害物が多すぎて思うように進
めなかった。
 加藤家に辿り着いた時には、もう夕闇が迫っていた。
 ドアやガラス窓を叩いたがなんの反応も無かった。
 ガレージに車が無かった。昨日は家族で外出していたに違いない。

石巻港に戻った真は、地元の消防団員や自衛隊員に混じって瓦礫で埋まった
海岸の捜索をした。
 十才位の女の子が、ダブダブの防災服で瓦礫の下を、スコップで掘り起こし
ていた。
 側に屈む真。
「ここは危ないから、高いところに非難しなさい」
 真を無視して掘り続ける少女、口を真一文字に結んで、何事かを決意してい
るようだ。
「サイレンがなったら逃げるんだよ」
 少女はチラッと真を見てちいさく頷いたが、瓦礫の下を掘り続けた。もうこ
の少女の決意は誰にも変えられない。
 いざとなったら引っ担いでにげるだけだと思い、真は捜索隊に早足で追いつ
いた。
「いたぞーっ!」
 誰かが叫んだ。誰もが男の指さす先を凝視した。
 携帯電話を握った女性の手が瓦礫から伸びていた。
 男達が駆け寄り、瓦礫を取り除いて行く。女性の上半身が出て来た。
 誰かが女性の首筋に手を当て、誰かが息をしているか耳を口に当てて確か
め、誰かが脈をとった。が、誰もが項垂れた。すでに亡くなっていた。
 それでも男達はその婦人を瓦礫から取り出して担架に乗せた。
 その時サイレンが鳴った。津波が迫ってきたのだ。
 皆が高台目指して走った。
 ヘリの拡声器からの音が聞こえてきた。
「明日朝、わたしたちは必ず戻って来ますから、それまで頑張って下さい」
 何を言ってるんだ、嘘だ。バカヤロー! 皆死んじまうじゃないか。言いよ
うのない怒りが真に込み上げてきた。
 先ほどの少女が子犬の死骸を抱きしめて泣いていた。
「ゴメンねチイちゃん、ゴメンねチイちゃん」
 少女の耳にはサイレンが聞こえていないようだ。
 真は子犬毎少女をかき抱いて走った。ガツン!というような衝撃を感じた。
 子犬はリードで繋がれていたのだ。
 頭上を沢山の救助ヘリが飛んでいたが、どれもが山の方に向かってていた。

 赤十字病院は正常を取り戻しつつ有った。
 真は少女と子犬の死体を看護士に預けて、避難者と負傷者の名簿を貪るよう
に見た。どちらの名簿にも、加藤家の人々はのっていなかった。
 夜の間は避難所を出来る限り廻ろうと決意して赤十字病院を出た。
 表にいた消防隊員に真は声を掛けた。
「どうして、ヘリは引き上げるんですか?」
「夜間救助の為の設備が整っていないのです。赤外線カメラも熱探知装置も持
っていません。夜間活動はヘリにとって極めて危険なんです」
 何という欺瞞、国も県も、市町村も、余りにも怠慢である。真の憤りは悲し
みに代わった。

 五カ所の避難所を廻ったが、加藤親子の消息は掴めなかった。
 次の避難所で、真の体力も精神力も尽きてしまった。
 もう駄目だ、真は避難所の壁に凭れて座り込んだ。意識が朦朧としてきた。
 いつのまにか看護士が前に立っていた。
 屈み込んで、真に丸く白い握り飯とペットボトルを渡してくれた。
「ご苦労様。明日も頑張って下さいね」
 思えば、今日は何も口にしていなかった。握りを貪り、ペットボトルの水を
直接胃の腑に流し込んだ。
「何にも出来ない。何にも出来ないんだよ」
「みなさん良くやってるわ。今日は三十人もの命が救われました」
「もっと沢山の遺体が発見された。救えた筈の命が失われて行くんだ」
「とにかく少し休んで、明日からも皆で頑張りましょう」
「ああ・・・ああ、そうだ」
 呟きながら、真は眠りこけていた。

 由美は瓦礫の柱にしがみついて波立つ夜の海を漂っていた。
「幸平、眠っては駄目よ」
 右手で幸平を支えながら、必死で話しかけ、励まし続けた。
 雪が本降りになってきて、手足が凍えて自由が利かなく成ってきた。頭も眼
もぼんやりとしてきた。
 高台の寺のような建物が見えてきた。
 辺り一面が真っ暗なのに、その寺には薄らと明かりが見えた。妄想かも知れ
ない。
 由美は足をばたつかせて寺に向かった。
「幸平、助けて」
 幸平も足をばたつかせてくれた。

 長い長ーい時間だった、何度も諦めかけては気を持ち直し、ようやく寺の境
内の縁側にしがみついた。
「タスケテーッ!」
 幸平も叫んでいる。
「誰か、誰かいないんですかーッ!」
 住職らしい初老の男が出て来た。
「よく辿り尽きましたな。ここは高台に成っているのでもう大丈夫」
 心強い言葉で人心地が着いたが、悪寒で震えが止まらない。抱きかかえた幸
平の身体が氷のように冷たかった。
 畳がじめじめととしていた。直ぐ下まで浸水しているのだ。
「はやく服を着替えないといけません。さあ二階へ」
 住職は二人の背中を押しながら二階の一室に連れて行った。
「死んだ家内の物と息子の小さい時の物です。沢山重ね着為るんですぞ」
 由美は幸平の濡れた服を脱がせ、素早くタオルで拭い、服を着せ替えた。
「あなたも着替えなくてはいけません」
 こんな時にでも、女には羞恥心が有るのだ、少しおかしかった。
 由美の気持ちを察して住職は消えた。
 着替えを終えた由美は一息ついた。きっと助かる。きっと助かる。何度も言
い聞かせた。
「ママ、おなかすいた。もっと食べとけば良かったね」
「今夜一晩の辛抱、明日の朝には救助されるわ」
「お婆様も助かっているかなあ」
「ええ、きっと助かっているわ。お婆様なんて言ったらまた怒られるわよ」
 住職が又やってきた。
「さあ、こちらに」
 住職は囲炉裏のある広い部屋に案内してくれた。
 囲炉裏端に先客がいた。老婦人と孫らしき幼い女の子だ。
「二人とも今朝辿り尽きましたが、大分弱っています」
 その二人は毛布を被ったまま身動きをしなかった。生きている証は側に座っ
た由美と幸平をぼんやりながら見ている事だけだった。
 囲炉裏の火は心細い程小さく、火と反比例してもうもうと煙を吐いていた。
 住職が由美の前に、乾パンと缶詰を二つ置いた。
「これで終いじゃから大事に食べなされ」
「ご住職は?」
「わしならいつもたらふく食うておるから大丈夫じゃ」
 そう言って太鼓腹を揺すって見せた。
 由美は両手で住職を拝んで、何度も頭を下げた。
「有り難う御座います。有り難う御座います」
 少し照れた住職は、
「さて、薪でも捜して来ようかね」
 何かを叩いたり、ノコギリや斧の音が暫く続いた。

 震災から二日目の朝。
 誰かが慌ただしく走る音で眼を冷ます真、腕時計を見ると五時を回ってい
た。
 飛び起きた真がその避難所を出ると、テーブルにお握り弁当やペットボトル
が並んでいた。救援物資がようやく届いたのだ。
 港に行くと、昨日より三倍は救援隊の人数が増えていた。近隣からのボラン
ティアだ、続々と各県から被災地を目指しているらしい。
 真は日本と日本人も満更でも無いと偏見を改めた。
 今朝は無数のヘリが沖を目指して勇ましくも飛翔していた。
 十人程を引き連れて捜索を開始した。
 隊員達の言葉は多様だった。東北弁は勿論、関西弁、九州弁まで聞こえて来
た。どうやって辿り着いたのだろう? たまたま観光に来ていたのかも知れな
い。
 必死の捜索に関わらず、見つかるのは遺体だけだった。その度に二人の隊員
を避難所に帰した。
「隊長。どの避難所に向かいますか?」
「少し遠いが、赤十字病院に向かえ、あそこなら人手が足りてる」
 時間だけが過ぎていく、瓦礫の中を進むのは困難極まり無かった。油断すれ
ば足を滑らせて怪我をしかねない。
 この日の捜索も虚しさだけが残った。
 避難所に戻った真は、用意されていた弁当を貪るように食べた。美味い!
格段に品質が良くなっている。物資がどんどん届いている証拠だ。だが、この
物資も、今も瓦礫の中で救援を待ち倦ねている人々に届いてのこそだ。

 薪が殆ど無くなったので住職がまた消えた。
 今度はノコギリの音も斧の音も聞こえてこない。
 不思議にこの場では誰も自己紹介をしない。先に不安を抱き、というより
絶望している今、他人の事に等興味が持てないのだ。
 それでも、由美はグッタリとした老婆と孫娘をつついた。眠ったら死んでし
まうような気がしたからだ。まだかすかな反応があった。
 住職が薪を抱えて帰って来た。
 微かにともっていた火に薪を放り込むと、パチパチと音をたてて勢いよく燃
え上がった。
 住職は不思議な、そして優しく穏やかな表情で合掌した。
「有りがたい薪であるぞ」と言うと、何やら経を唱え始めた。
「摩訶般若波羅蜜多心経 観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五
蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不 異色色即是空空即是色受想行識亦復如
是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄 不増不減是故空中無色無受想行識無
眼」
 そこで経を辞めて首を傾げている。
「生臭でな、忘れてしもうた。うむ! 」
 住職は幾つかの経典も火にくべた。
「掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提薩婆訶 般若心経」
 唱え終えた住職が立ち上がって、耳を澄ました。
 微かにヘリの飛ぶ音が聞こえてきた。
「どうやら夜が明けたようじゃ、一仕事してくるか?」

 住職が消えて小一時間たった。
 ヘリの音は大きくなり、数もどんどん増えている。
 ペンキだらけの作業着で住職は帰って来た。
「どうして薪をくべなかったのじゃ」
「なんだか罰があたりそうで」
「なんの、道理が分からねば仏では無い」
 住職は次々と経典を火の中に放り込んだ。
「屋根に大きく、五人と書いてきたから誰かが見つけるじゃろう」
 だが、何時間経っても救助は来なかった。
 相変わらず元気な住職と、比較的体力を回復していた由美が屋根に登って手
を振り、叫び続けた。
 どのヘリも気づいて呉れなかったが、夕闇が迫った頃、近くのビル屋上の一
団が由美と住職に気付いた。
 一機のヘリが屋上の一団に気づき、確認のためそのビルに近寄っていく。
 男達は大きな身振りで一斉に寺の屋根をさしていた。それは自分たちよりあ
の五人の人たちを先に助けるべきだとでもっているように思えた。
 ヘリも気付いたようだ、ビルの屋上に救援物資を投下した後、こちらに向か
ってくる。
 住職と由美は下の三人を何とか屋根に運んで救援をまった。もう殆ど闇にな
っていた。
 救助隊員が降下してきて、最初に吊り上げたのは孫娘で、次が老婆だった。
「次は息子さんの番ですぞ」
 老婆を吊り上げるとき、その救助隊員は不思議な行動を取った。
 住職にリュックを投げて、敬礼をしたのだ。
 ヘリの拡声器から音が振ってきた。
「残念ですが、本機は夜間救助が出来ません。明日朝一番で必ず参りますか
ら、頑張って下さい。どうかご無事で。本当に頑張って下さい」
 その場に崩れ落ちる由美、幸平を抱きしめて泣きじゃくった。とても明日の
朝まで頑張る事など出来ないと思った。助かったと一度は思った気持ちが崩れ
ていった。
 リュックの中身を確かめている住職はヘリに向かって叫んだ。
「おい! 食べ物と飲み物だけじゃないか。どうやって寒さを凌げと言うん
だ。化けてやる。坊主の幽霊は怖いぞ!」
 ヘリに聞こえる筈も無い。機内では助けた二人を隊員が取り囲んで沈み込ん
でいた。二人とも息を引き取っていたのだ。悔しさで祈る事さへ忘れていた。
 この二人とて危険を侵して救い出したのだ。

 真はこの日からは陸上救援隊には加わらなかった。
 ひたすら加藤親子の情報収集に走り回った。万が一と思って加藤家に何度か
足を運んだが、矢張り無駄足だった。
 もはや避難所のリストなど信じなかった。避難者の間と被災者のベッドを確
かめ、遺体を見つけると、遺族かも知れないと嘘をついて顔を見せて貰った。
絶望が支配した。遭難者名簿にも勿論載っていなかった。
 こうしてまる二日虚しい時間を消費してしまった。

 由美の薄れ行く意識の中でヘリの音が轟いていた。近づいているのか遠のい
ているのか分からなかった。
 遠くに光り輝く場所があった。
 ぞろぞろと人々が光に向かっていく。いや、鳥たちも獣たちも、その光を目
指していた。
 由美も目指したが、幸平の手だけはしっかりと握り続けた。
 幸平が抵抗をしている。
 由美は幸平を見た。
「どうしたの?」
「ママ、駄目だよ、行っちゃ駄目だよ」
 周りの人々が心配して由美の顔を覗いた。何故か皆白衣を着ていた。
 その顔が、みな霞んで消えた。

 ぼんやりと、又見えてきた。
「お名前言えますか?」
「かとうゆみ」
「加藤由美さんですね」
「息子が、息子は何処です」
「あの子でしょ、ほら」
 看護士の視線の先で幸平が眠っていた。
「幸平さんは、あなたの息子さんは大丈夫ですよ」
 一人の看護士が、由美の手首の黒いタグをそっと外した。助かる見込みが無
いと思われていたのだ。
「加藤由美さん、あなたももう大丈夫です」
「お坊様はご無事ですか?」
「ええ、元気なお坊様でしたわ」
 由美は、微笑んでいた看護士の顔がやや曇ったのを見逃さなかった。
 床に直に寝かされていた由美はベッドに移され、幸平と並んで治療を受け
た。

 午後になると、ゾロゾロと加藤グループの重役達が見舞いに現れた。
 皆一様にお悔やみを唱えているいるようだが、由美の耳には届かなかった。
 誰もが由美が生きていて残念なのだ。折角鬼のような女帝が消えたというのに。
 由美は彼等の反応が見たくて、その一人に命じてみた。
「松涛の家は研究所にします。優秀な科学者を狩って来なさい。金に糸目はつ
けません」
「お嬢様、そのように手配致します。それよりもどこかの大学病院への移送手
続きを取りましょう」
 由美は傍らの懇意になった看護士を見詰めた。
 看護士は微笑みながら首を微かに傾げた。
「成りません、わたくしはここで治療を続けます」
「お嬢様」
「やめなさい、お嬢様などと、わたくしは小娘では有りません」
「では、どのように?」
「取りあえずは会長と呼ぶように。治ったら秘書室を作り、面接をします。社
外からも広く人財を求めるように」
 豹変した由美に、重役達は皆項垂れた。
 看護士は笑いを堪えきれずに眼に涙を浮かべていた。
 優しい眼差しを看護士に向ける由美。
 看護士もまた微笑みで返した。

 由美は堅く決意した。母に代わって女帝になると、女帝になって姉の遺志を
継ぐ。と。
 由美は姉紗智子の論文や意見書を読んだ事が有った。その時は理解出来なか
ったが、今は分かるような気がした。
 紗智子は言う、このままでは日本は滅んでしまう。原子炉を創るのに膨大な
年月と莫大な費用がかかるが、廃炉にするのにその数倍かかると。
 また、こんなことも言っていた。十メートルの津波が想定出来るのなら、最
低十五メートル、出来れば二十メートルの防壁を創るべきだと。
「お姉様、あなたは何故無駄に命をお捨てになってしまったの。今こそあなた
を日本が必要としています」
 由美は色々と思い出した。思えば松涛のソーラパネルや風車に温水プール
も、原子力に替わるエネルギーの研究をしていたのだ。
 たしか、災害用の水陸両用ロボットや小型無線ヘリなどの事も書いて有っ
た。
「わたくしはお姉様のようには成れない。だけど、お姉様の持てなかった力を
手に入れました。わたくしは鬼になり、お姉様の遺志を継いで見せますわ」

 真はこの日も加藤親子の消息を探し続けていた。
 早くも日が傾いている。
 夕陽の光で微かに浮かび上がる体育館のような建物が有った。
 もしかしたら避難所かも知れない。一途の望みをかけて走った。そのつもり
が思うように足が動かなかった。
 ようやく扉に辿り着いて、それを開けた。
 光射す夕日の向こうで、ベッドに半身を起こす女性がいた。
 その女性は両手でお握りを握りしめ、口には運ばずに眼を細めて真の方を見詰
めている。
 彼女からは真の姿が確認出来なかったに違いない。
 だが、真からはしっかりとその姿が見えた。
「よかった。本当に良かった」
         丘の上のマリア・完
              2017年1月13日   Gorou

丘の上のマリア 終曲Ⅱ 裁判長閣下

2017-01-12 02:32:14 | 物語
二 裁判長閣下

 2011年三月十一日、真は山形県地方裁判所の傍聴席にいた。御母衣恭平が裁
判長を務める法廷だったからだ。ケチなコンビニ強盗の事件だったので、簡単
に審議は終わった。

 槐の巨木の下で、真は彼を待っていた。その裁判長が帰宅の時にここを通る
のを調べ上げていたからだ。
 地方裁判所の横を歩いている男の姿が現れた。
 男はやや早足で歩いていたので直ぐに近くまでやってきた。
 槐の創る影で真の姿は彼からは見えなかったに違いない。
 男はなんの躊躇いも無く、裁判所から槐へと続く階段に足を掛けた。
 真は歩き出し、槐の影から姿を現した。
 男は突然現れた男の姿に足を止めて見詰めた。
 真は構わずに歩き続け、階段を上った。
 男も又足を進めて階段を下りてくる。
 すれ違う二人、チラッと真の顔を盗み見する男、それでも階段を下りて帰宅
についた。
 階段を上りきった真は、ゆっくりと反転させ、一段ずつ確認するようにして
下りていった。
 男が槐の影に差し掛かった時。
「裁判長閣下」
 振り向く男、御母衣恭平の右半身が影に隠れ、左半身だけが光に照らされて
いた。
 恭平は大きく黒いサングラスを掛けた眼で真に怪訝な眼差しを注いだ。見覚
えが無かったからだ。その左目だけがキラキラと輝いていた。
 真は階段の中程で立ち止まって、両手で大きくゆっくりと拍手をした。
「お見事! 裁判長閣下!」
 真は懸命に笑顔を創ろうとしたが、憎悪の為に醜く歪んだ。
 恭平も真顔で真を見続けていた。
「お忘れですか? 私はハッキリと覚えております。十年以上も前でした」
 記憶の糸を手繰り寄せようと、恭平は真を凝視と続けたが、どうしても思い
出せなかった。
「私に何かご用ですか?」
「ただ一言お祝いを言いたかっただけです。ある女性の代わりです」
「女性?」
「ええ、もうその人は直接祝いを言えないのでね」
「女性? 直説言えない?」
 何か思い当たったのか、恭平の様子が変わった、動揺しているのか? 身体
が小刻みに震えている。
 真は階段を下りきって恭平のすぐ前で立ち止まった。
「お祝いはもう一つ有ります。ご結婚お目出度う。そして、可愛らしい娘さん
を授かったそうですね。・・・お名前は?」
 苦渋の表情でようやく恭平は娘の名を呟いた。
「紗智子・・・」
「えっ! 聞こえないだよ。もっとハッキリと、もっと大きな声で、天国と地
獄にも届くようにね!」
「紗智子ーッ!」
「紗智子?」
 真は恭平の胸ぐらを掴んで耳元で囁いた。
「どうしてマリアにしなかったんだ」
「あ、あなたは誰さ」
「通りすがりの元刑事さ」
 恭平の胸ぐらを離し、真は背中を真っ直ぐにして凜として立った。
「御母衣恭平確保! と言いたいが、元刑事にはそんな権利は無い」
 放心して立ち尽くす恭平、今までに一度も罪を意識した事は無かった。初め
て後悔と罪を確信した。悪魔のようなマリアを清らかな紗智子の肉体から追い
はらい、彼にとっての聖女は永遠になった筈だった。
「御母衣恭平さん、あなたは完全に安全だ。当局は真犯人を捜そうとは思って
いないし、証拠も極めて曖昧だ。・・・あなたは誰からも裁かれる事は無い。
あなたの罪を裁けるのはあなた自身しかいません。裁判長閣下」
 その時、悩み藻掻く恭平の身体が激しく揺れて前のめりに倒れ込んだ。
 真も又、余りにも激しい揺れて尻餅をついていた。
槐の大木で憩っていてた鳥たちが一斉に飛び立った。
 大空には無数の鳥類が飛翔し、山に向かって避難して行く。
 倒れ込んだ恭平のサングラスが投げ出され。石畳で割れ散った。
 その破片の一つに恭平の醜悪な顔が映っていた。
「サチコーッ!」
 恭平は魂の限りを振り絞って絶叫した。
 鳥も獣も共に絶叫し逃げ惑った。
 大地が応え、轟音と激しい揺れが続いた。

    2017年1月12日   Gorou

坊ちゃんとベースボール

2017-01-11 21:08:01 | 文化
 坊ちゃんちーと言えばベースボールーですよね。
 漱石の【坊ちゃん】で、松山中学の生徒達は喧嘩に明け暮れていますね。だけど、彼等は野球も大好きだったのです。何故かというと、正岡子規の影響です。
 ある日、学生達が野球で遊んでいる時、東京から来た数人の書生(大学予備門)がやってき、学生からバットとボールを借りて野球を始めました。書生達のリーダーが正岡子規でした。
 子規は野球を好きになり、用語の和訳を沢山遺し、ベースボールの句も詠みました。

 久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬも
 九つの人九つのあらそひにベースボールの今日も暮れけり
 打ち揚ぐるボールは高く雲に入りて又も落ち来る人の手の中に
 今やかの三つのベースに人満ちてそゞろに胸の打ち騒ぐかな

これはほんの一部です。子規は幼名ノボルから野のボール、野球或いはノボルをこれらの句の雅号としました。
 
 彼自身も選手でしたが、その流れを受けた、東大野球部も開成野球部も凄く弱いのは愛嬌とでも言えば良いのでしょうか? が、松山高校と松山商業は全国でも名門中の名門です。
 さて夏目漱石は松山中の英語教師の経験を生かして【坊ちゃん】を書きました。子規の影響で俳句は書くようになった記録は残っていますが、野球をしたという事はとんと伝わって来ません。子規の事ですから,キャッチボールくらいには誘ったのに違い有りません。
 夏目漱石が小説を書いたのは子規の影響だったのです。子規の死後、まるで遺志を継ぐ様に沢山の名作を送り出しました。
     2017年1月11日    Gorou

丘の上のマリア 終曲Ⅰ 加藤由美

2017-01-11 01:25:02 | 物語
終曲
一 加藤由美
 
 暗い海底を彷徨っていた由美の顔に、仄かな光が射してきた。
 東北の海に沈む夕日はどこか哀しげだ。今日の夕日は少しも紅く輝いていな
かった。まるで白衣を纏った寒参りのようだ。
「今日も又、あの不気味な画を描いているのかしら?」
 由美は、読んでいた聖書から目を外して壁の大きな画(60号)を見た。母友
恵がいつものように描いていた、東北の水平線に沈む夕日だ。群雲が沸き上が
って夕日を半分隠していた。
 顔を顰めてその画を凝視する由美、ふと疑問が浮かんだのだ、水平線だろう
か? 地平線に違いない。群雲の手前に拡がっているのは、海ではなく草原の
ように見える。
「何故? 見た事も無い満州の地平線と夕日を描くのかしら」
 由美は、聖書をテーブルに置き、眼鏡を掛けて画の前に佇み、その画を眺め
回した。
 群雲と夕日の狭間に無数の気泡のような物が漂っている。今にも襲いかかっ
て来そうなその気泡は亡者の顔だった。
「いつもこの亡者達に襲われているのかしら?」
 由美はとりとめの無い不安に沈んでいった。

 由美は高校も大学もミッション系を卒業したので、自然とクリスチャンにな
っていた。
 理解が出来ていない聖書を読むと気持ちが安らいだ。
 二度結婚させられて、三度目の夫との間で男の子が生まれ、加藤家にようやく
男子が生まれた事を喜んだ母が幸平と名付けた。友という加藤家縁の名で無
く、父幸太の一字を当てた事は不思議に思えたが、今思えば、敢えて幸いと字
を使い、姉の紗智子も幸子としたかったのかも知れない。
 名前とは不思議な魔力を持っている。紗智子と名付けられた姉は、溢れるよ
うな知性を与えられたがうすぎぬのような人生を歩んだ。
  由美の三人の夫は皆手切れ金目当てで結婚したに過ぎず、由美は妻としても女としても愛されなかった。当然三度とも離婚になった。
 三人目の男が一番抵抗した。男子を持った事で加藤家の財産に野望を向けたのだ。それも、大金で頬を叩かれ、裏社会から命が危ないと分からせる程脅しを掛けられた。
 チャイムの音でわれに返った。

 玄関に中年の男が立っていた。
「ご無沙汰しております」
 律儀なほど馬鹿丁寧に、男は辞儀をした。
 小首を傾げて男を見る由美、確かに見覚えが有ったからだ。
「あのう・・・?」
「もうすぐ十二年に成ります」
 十二年? 記憶の糸をたぐる由美、ああ、きっと姉の事件の事だ。
「あの時の刑事さん。ですか?」
「もう刑事は辞めております。キチカワともうします」
「あのう、何故訪ねてお出でになりましたの? こんな田舎まで」
「石巻に所用がありましたので」
「わたくし共がこちらに転居していたのを、どちらでお知りになりましたのか
しら?」
 蛇の道はヘビ、さすがは元刑事、と由美は考えた。誰にも知れぬようにと加
藤グループには厳しく命じてあった。
 両手でおどけて首を傾げて見せる真。ご想像に任せると言う意味だ。
「少しだけお聴きしたいのと、線香の一つでもと思いまして」
 軽く頭を下げる真。長身の彼にはそれでも由美の表情は見られた。
 真の記憶とは違って暗く厳しい顔をしていた。もう四十を過ぎている筈だ
し、よほど辛い経験を重ねたに違いない。
「どうぞ」
 由美は無理に微笑みを浮かべていた。

 二十畳以上は有ろうかというリビングの壁際、幸太と紗智子の遺影は紫檀の
整理箪笥の上に置かれていた。
 真は、二人の遺影に線香を上げ、手を合わせて瞑想を捧げた。
 目を開けた真が次に視線を向けたのは、壁に掛かる60インチ液晶ほどの大き
な画だった。
 その前に立って画を眺め回す真。恐ろしく下手だが妙に迫力が有った、一見
印象派の模倣にも見えたが、ただ絵の具を塗りたぐっているだけだった。
「母が描きましたの」
 背後の声に振り返る真。飲み物の盆を持った由美が佇んでいた。
「どうぞお掛けに成って」
 ソファーにゆっくりと腰を下ろす真。
 その前にそっと緑茶を置いた由美は真の向かいに軽く腰掛けた。
 茶柱から目を上げる真。
「お母上はご在宅でしょうか?」
「はい、二階のベランダで画を描いておりますわ。母は生憎何方様にも逢いま
せんの」
 一面のガラス張りの窓外の風景を眺める真、そこからは街並みと石巻港が見
えただけだ。二階からなら水平線が見えるかも知れないと思った。
「息子さんは、幸平君は学校ですか?」
 由美に焦点を合わせた真が、冬休みと知っていて敢えて尋ねた。
「はい、幸平はいま」と、年を言おうとして言葉を濁らせる由美。息子は小学
五年だが、毎日のように補習と塾に通っていた。が、この人はわたしたちの事
は何でも知っている、と思い口を噤んだのだ。

 二階のベランダで画を描いている友恵はカンバスに絵の具を塗りたぎりなが
ら何やら不気味な歌を口ずさんでいた。
 友恵は幼い日々を思い出していた。
 彼女の乳母が子守歌のように聴かせてくれた歌があった。子供心にも何か恐
ろしげに思えた。
 中学生になり、乳母を問い詰めた。
「何の歌なの?」
「お嬢様、子守歌で御座います」
「嘘! こんなに変な子守歌、有るわけ無いでしょう?」
「大陸では皆歌っています。私も小さい頃にさんざん聞かされていた子守歌で
す」
「大体何語なの?」
「勿論中国語で御座います」
 乳母は口を真一文字にして苦渋に歪んだ顔のまま、逃れるようにして友恵か
ら離れて行った。
 
 友恵は密かにその歌を録音し、中国語に堪能の先生に聞かせた。
「加藤さん、中国語ではないわ」
「先生、わたくしどうしても知りたいんです。分かる人を紹介するか、捜して
下さい」
 
 数日後。
「加藤さん分かったわ。満州語だったわ」
「どんな内容の歌なのですか?」
「大体こんな意味らしいわ。加藤公司はこの世の焔魔堂、生きて入って、死ぬ
まで出てこれぬ。公司というのは会社のことよ」
 大意を聞いただけで身体が震えた。

 友恵は満州時代の加藤グループの事を調べ上げて、戦慄におののき、毎晩の
ように悪夢に魘された。
 加藤グループの工場に、貨物列車やトラックに満載された人々が送られてき
た。
 誰もがやせ衰え、幽霊のような姿だった。
 鞭打たれて絶命する人がいた。
 鉄条網で感電死する人も居た。
 工場の煙突ずもうもうと煙をはいていた。
 友恵の妄想では、ナチの捕虜収容所と加藤グループの工場とが完全に重なっ
ていた。
 こんなに酷いことをしたのだから、必ず報いを受ける。恨み辛みで詛いがか
かるに違いない。
 だが、二ヶ月もするとすっかり忘れてしまった。乳母が二度とその歌を、友
恵の前では歌わなかったからだ。

 三十年振りにあの歌と加藤家の残虐行為を思い出した。紗智子の死も、街娼
マリアの出現も,友恵の中では呪いゆえだと思った。恐ろしい復讐が始まった
のだ。
 五年前、友恵は何もかも番頭達に任せて隠棲生活に入った。
 今では毎日のように、ベランダで水平線を見ながら描いていた。見た筈の無
い満州平野の地平線に沈む夕日を。
 群雲の中に無数の亡者の顔が浮かび上がって襲ってきた。友恵と加藤家の人
間が絶滅するまで呪いは続くに違いない。
 友恵は画を描きながら、美しく楽しい歌を口ずさんだ積もりだったが、耳に
届いたときにはあのおぞましい呪いの怨歌になっていた。

 長い沈黙の後、ようやく口を開く真。
「実は」と、本題に入った。
「紗智子さんの葬儀の時に見た人の事を教えて頂く為に参りました」
「大勢の方々が参列し下さいましたわ」
「あなたと同年代の青年で、テキパキと働いていました」
「参列者ではないのですか?」
「ええ、葬儀の受付をしていた男で、私は親戚の葬儀で冷静に対応している彼
を見て。少し違和感を持っていました」
「それだったら恭平君に違いありませんわ。御母衣恭平君、父の従弟の息子で
す」
「その後連絡は?」
「いいえ、一度も」
「彼は東大を首席で卒業して弁護士になりました」
「それは聞いております」
「その後裁判官に転身して、もうすぐ裁判長になるそうです」
 由美は無言のまま真に耳を傾けていた。真意が分からぬので口を挟むのを憚
ったのだ。
「彼は両親を高校三年の時亡くした為、東大進学を諦めて自動車工場に勤めま
したが、連休明けに紗智子さんが引き取ったと聞きました」
「ええ、わたくしもあの頃は松濤の家に居りましたから、知っておりますわ」
「恭平氏は嬉しかったでしょうね。住まいも生活も、優秀な家庭教師も与えら
れたのですから」
「暗かったあの子がすっかり朗らかになっていました」
「私は紗智子さんと恭平氏の仲を疑っています」
 顔を曇らせ、眉間に皺を寄せ、由美は真を睨むように見詰めた。
「男女の関係が有ったのでは?」
「あり得ません」
 由美は珍しく語気鋭く否定した。
「姉は恭平君をまるで子供扱いしていましたもの」
「少なくとも恭平氏は紗智子さんに恋していた」
「ええ、それは中学生の頃から。・・・恭平君が姉に恋していた事くらいは、
わたくしも気付いておりました。でもはやりやまいのような物ですわ」
「いいえ、裁判官になった今でも、御母衣恭平氏の心の中には紗智子さんが棲
んでいます。二年前に娘さんが生まれ、紗智子と名付けました」
「たんなる偶然です」と言って黙り込む由美はもう真の方を見なくなった。
 真は言い過ぎたのを後悔していた。御母衣恭平が本当は日本人の血を引いて
いない事は遂に言い出せ無かった。
 
 真が加藤家を辞した時にし夕闇が迫っていた。
 港の方を見ても家並みが邪魔をして、海まで見えなかった。どんよりと垂れ
込める雲の下に空が拡がっていた。
 真は少し後悔していたて。己が調べ上げた史実を誇示しようと訪れたつもり
は無かったが、由美はそう思ったに違いない。
 牡丹のような雪が降ってきた。
 真が上を見た時には雪は本降りになろうとしていた。それでも彼方の空は暁
に染まっていた。

 真が帰った後も由美は座り続けていた。
 いろいろな事が頭を過ぎり、いいようの無い不安が募った。元刑事が言った
事は本当だろうか? ネスタの冤罪で幕が下りた筈の姉の事件はおぞましくも
まだ続いて行くのだろか? 母が隠棲をして不気味な画を描き続けている事は
何か関係があるのだろうか。
「お姉様はなぜあんな具合に人生を終えてしまわれたの! お父様! わたく
しとお姉様を憐れんで下さいまし」
 由美は、胸のクルスの上に聖書を抱きしめた。
    2017年1月10日    Gorou