アメージング アマデウス

天才少年ウルフィは成長するにつれ、加速度的に能力を開発させて行きました。死後もなお驚異の進化は続いています。

丘の上のマリア 終曲Ⅲ 311

2017-01-14 09:41:10 | 物語
三 三一一

 石巻の加藤一家は昼食を漁港のレストランで取っていた。
 母友恵が一家で外出するのは希な事だったし、妙にはしゃいでハイになって
いた。
 沢山並ぶ料理にも関わらず、友恵は次々と追加注文をする。
「お母様、僕そんなに食べられないよ」
「幸平は男なんだから、沢山食べなくちゃ」
 小学五年の孫に男という言葉を強調し、お婆様等とは決して呼ばせなかった。
「それにしてもお母様、いくら何でも多すぎますわ」
「いいのいいの、美味しいものは少しづつでいいから食べなさい」
 十二時半にこのレストランに来たのに、出たときは二時半を過ぎていた。

 紅いポルシェ911の前で立ち止まって海の方を見ている友恵。
「お母様、何なさっているの?」
「決まってるじゃない。綺麗な海。なんて素敵なんでしょ」
 どんよりとした空を映して海の色は灰色に濁っていた。
「お母様どなたか捜しているのですか」
「幸平に決まっているじゃない」
「幸平だったらここにいるわ」
「あらっ、じゃあ行きましょう。でも何処に行こうかね」
「もう帰りましょう、お母様」
 友恵の様子が今朝からおかしかった、妙にはしゃいでいたり、急に沈み込ん
だりしていた。
「帰りたいのね。帰っても誰も待っていないわよ」
「ここで待っていたら、誰かが来るの?」
「きっと来るわ」
 友恵を無視し、由美は運転席に乗り込んだ、幸平はいさんで後部座席に走り
こんだ。
 友恵はまだ海を見ていた。由美から見えないその顔が苦渋で歪んでいた。
「お母様、置いて行きますよ」
「まあ怖い、お前にもそんな怖い顔ができるんだね」
 渋々助手席に乗る友恵、まだ海を見詰めていた。

 海岸線を自宅へとポルシェを走らせる由美、何か胸騒ぎがして成らない。自
然といつもよりスピードが出しており、前の車と追突しそうになったりしてい
る。
「もっと、もつと、スピードを出しなさい。由美」
 友恵は今はもうはしゃいでいた。
 突然、何もかもが激しく揺れた。横に大きく二度三度と揺れたかと思うと、
今度は縦に揺れた。
 急ブレーキを掛ける由美。
 そこら中の車からブレーキ音が聞こえていた。
 由美の直ぐ前の車がハンドルを切り間違えてガードレールに追突した。
 三分の一ほど車体をガードレールからはみ出させてようやく止まった。
 危険を感じて車から降りる由美、他の車からもドライバーは皆、慌てて飛び出してきた。
「地震だ。車じゃ大事故起こしてしまう。自分の足で高台に逃げるんだ」
「これだけ大きな地震だから津波が起こるに違いない」
 由美も男達に同調して車を捨てると決めて、後部座敷の幸平を引っ張り出し
た。
「幸平。走るのよ力一杯に走るのよ!」
 助手席にいると思った友恵が見当たらなかった。
 由美は周りを見回して母を捜した。
 友恵は奇声を発しながらガードレールの向こう側で海を見ていた。
 走り寄る由美。
「お母様」
「見てご覧、由美」
 友恵の指さす先の港では一隻の漁船が外洋に向かっていた。その周りでは海
が渦巻き荒れ狂っていた。
「勇敢な船じゃないか」
「お母様、気を確かに持って下さい」
「わたくしは至って確かよ。やっと迎えに来たのよ」
「誰?」
「紗智子と地獄の亡者達さ。ホラッ!」
 母の見詰める海の先で津波が沸き上がっていた。
「お母様、お願い!」
 由美は母の身体を力の限り引っ張ったがビクともしなかった。
 由美を振り返って微笑む友恵、こんなやさしく安らかな母の顔は初めてだっ
た。
「いいの、私はこれでいいのよ。あなたと幸平はいきなさい」
 行けと言ったのか、生きろといったのか分からなかったが、由美は母を諦
め、幸平の手を引っ張るようにして夢中で掛けた。
 背後から大津波がものすごい勢いで迫ってくる。
 津波は奇声を上げて踊らんばかりにしている友恵を飲み込み、逃げ惑う人々
と由美と幸平に襲いかかって来た。

 真はそれが地震だと確信すると、直ぐ携帯を取ったが、全く繋がらなかっ
た。仕方が無いので山形警察署へと走った。
 こんな地震は初めてだった。千葉県の家族が無事なのか? 震源地が何処な
のか、まるで見当も付かなかった。
 すれ違う人々に手当たり次第に様子を聴いた。
 一人だけ情報を持っていた。宮城県を中心に未曾有の地震が発生したとい
う。それとて信憑性が分からなかった。
 山形警察署にようやく駆け込んで、警視庁の吉溝と連絡が取りたいと懇願し
た。
 蜂の巣を突くように混乱している署内で一人だけが冷静に真の話を聞いてくれ
たが、電話も携帯も全滅だった。
 無線で吉溝と連絡が取れたのは三十分後だった。
「何が起こっているんだ?」
「兎に角大変な事に成った。東北地方で途轍もない地震が発生して、大津波も
襲ってきた」
「頼みが有る。家族に俺の無事を伝えてくれ。それから山形警察で派遣される
救助隊に参加させて欲しい」
「相変わらず無茶を言うな。だが、お前のようにタフで経験豊富な野郎が加わ
るのは心強い」
 吉溝は署長を呼び出した。
「その男は吉川というタフガイだ。救助隊に加えて欲しい。彼が望む事は可能
な限り適えてやってくれ」

 署長の計らいで、真は災害救助ヘリに乗せて貰い宮城を目指した。が、その
夜は燃料補給やらなんやらで立ち往生し、石巻に入れたのは翌日の昼過ぎだっ
た。
 ヘリから飛び降りた真は、余りの凄惨な状況に言葉を失った、市街地は全て
瓦礫で埋まり、あちこちで壊れた車が転がっていた。いや、車だけで無く、漁
船までも瓦礫と成り果てていた。
 真は被災者の情報を集めるために赤十字病院に走った。
 病院に駆け込んだ真は、まるで野戦病院のように成っているのを見て呆然と
立ち尽くした。気を取り直し、側にいた看護士に被災者と負傷者のリストの在
処を聞いたが、まだ情報が錯綜して実態がつかめていないと言う。
 それでも何人かに食い下がったが、矢張り駄目だった。
 
 真は高台の加藤家を目指して掛けだしたが、障害物が多すぎて思うように進
めなかった。
 加藤家に辿り着いた時には、もう夕闇が迫っていた。
 ドアやガラス窓を叩いたがなんの反応も無かった。
 ガレージに車が無かった。昨日は家族で外出していたに違いない。

石巻港に戻った真は、地元の消防団員や自衛隊員に混じって瓦礫で埋まった
海岸の捜索をした。
 十才位の女の子が、ダブダブの防災服で瓦礫の下を、スコップで掘り起こし
ていた。
 側に屈む真。
「ここは危ないから、高いところに非難しなさい」
 真を無視して掘り続ける少女、口を真一文字に結んで、何事かを決意してい
るようだ。
「サイレンがなったら逃げるんだよ」
 少女はチラッと真を見てちいさく頷いたが、瓦礫の下を掘り続けた。もうこ
の少女の決意は誰にも変えられない。
 いざとなったら引っ担いでにげるだけだと思い、真は捜索隊に早足で追いつ
いた。
「いたぞーっ!」
 誰かが叫んだ。誰もが男の指さす先を凝視した。
 携帯電話を握った女性の手が瓦礫から伸びていた。
 男達が駆け寄り、瓦礫を取り除いて行く。女性の上半身が出て来た。
 誰かが女性の首筋に手を当て、誰かが息をしているか耳を口に当てて確か
め、誰かが脈をとった。が、誰もが項垂れた。すでに亡くなっていた。
 それでも男達はその婦人を瓦礫から取り出して担架に乗せた。
 その時サイレンが鳴った。津波が迫ってきたのだ。
 皆が高台目指して走った。
 ヘリの拡声器からの音が聞こえてきた。
「明日朝、わたしたちは必ず戻って来ますから、それまで頑張って下さい」
 何を言ってるんだ、嘘だ。バカヤロー! 皆死んじまうじゃないか。言いよ
うのない怒りが真に込み上げてきた。
 先ほどの少女が子犬の死骸を抱きしめて泣いていた。
「ゴメンねチイちゃん、ゴメンねチイちゃん」
 少女の耳にはサイレンが聞こえていないようだ。
 真は子犬毎少女をかき抱いて走った。ガツン!というような衝撃を感じた。
 子犬はリードで繋がれていたのだ。
 頭上を沢山の救助ヘリが飛んでいたが、どれもが山の方に向かってていた。

 赤十字病院は正常を取り戻しつつ有った。
 真は少女と子犬の死体を看護士に預けて、避難者と負傷者の名簿を貪るよう
に見た。どちらの名簿にも、加藤家の人々はのっていなかった。
 夜の間は避難所を出来る限り廻ろうと決意して赤十字病院を出た。
 表にいた消防隊員に真は声を掛けた。
「どうして、ヘリは引き上げるんですか?」
「夜間救助の為の設備が整っていないのです。赤外線カメラも熱探知装置も持
っていません。夜間活動はヘリにとって極めて危険なんです」
 何という欺瞞、国も県も、市町村も、余りにも怠慢である。真の憤りは悲し
みに代わった。

 五カ所の避難所を廻ったが、加藤親子の消息は掴めなかった。
 次の避難所で、真の体力も精神力も尽きてしまった。
 もう駄目だ、真は避難所の壁に凭れて座り込んだ。意識が朦朧としてきた。
 いつのまにか看護士が前に立っていた。
 屈み込んで、真に丸く白い握り飯とペットボトルを渡してくれた。
「ご苦労様。明日も頑張って下さいね」
 思えば、今日は何も口にしていなかった。握りを貪り、ペットボトルの水を
直接胃の腑に流し込んだ。
「何にも出来ない。何にも出来ないんだよ」
「みなさん良くやってるわ。今日は三十人もの命が救われました」
「もっと沢山の遺体が発見された。救えた筈の命が失われて行くんだ」
「とにかく少し休んで、明日からも皆で頑張りましょう」
「ああ・・・ああ、そうだ」
 呟きながら、真は眠りこけていた。

 由美は瓦礫の柱にしがみついて波立つ夜の海を漂っていた。
「幸平、眠っては駄目よ」
 右手で幸平を支えながら、必死で話しかけ、励まし続けた。
 雪が本降りになってきて、手足が凍えて自由が利かなく成ってきた。頭も眼
もぼんやりとしてきた。
 高台の寺のような建物が見えてきた。
 辺り一面が真っ暗なのに、その寺には薄らと明かりが見えた。妄想かも知れ
ない。
 由美は足をばたつかせて寺に向かった。
「幸平、助けて」
 幸平も足をばたつかせてくれた。

 長い長ーい時間だった、何度も諦めかけては気を持ち直し、ようやく寺の境
内の縁側にしがみついた。
「タスケテーッ!」
 幸平も叫んでいる。
「誰か、誰かいないんですかーッ!」
 住職らしい初老の男が出て来た。
「よく辿り尽きましたな。ここは高台に成っているのでもう大丈夫」
 心強い言葉で人心地が着いたが、悪寒で震えが止まらない。抱きかかえた幸
平の身体が氷のように冷たかった。
 畳がじめじめととしていた。直ぐ下まで浸水しているのだ。
「はやく服を着替えないといけません。さあ二階へ」
 住職は二人の背中を押しながら二階の一室に連れて行った。
「死んだ家内の物と息子の小さい時の物です。沢山重ね着為るんですぞ」
 由美は幸平の濡れた服を脱がせ、素早くタオルで拭い、服を着せ替えた。
「あなたも着替えなくてはいけません」
 こんな時にでも、女には羞恥心が有るのだ、少しおかしかった。
 由美の気持ちを察して住職は消えた。
 着替えを終えた由美は一息ついた。きっと助かる。きっと助かる。何度も言
い聞かせた。
「ママ、おなかすいた。もっと食べとけば良かったね」
「今夜一晩の辛抱、明日の朝には救助されるわ」
「お婆様も助かっているかなあ」
「ええ、きっと助かっているわ。お婆様なんて言ったらまた怒られるわよ」
 住職が又やってきた。
「さあ、こちらに」
 住職は囲炉裏のある広い部屋に案内してくれた。
 囲炉裏端に先客がいた。老婦人と孫らしき幼い女の子だ。
「二人とも今朝辿り尽きましたが、大分弱っています」
 その二人は毛布を被ったまま身動きをしなかった。生きている証は側に座っ
た由美と幸平をぼんやりながら見ている事だけだった。
 囲炉裏の火は心細い程小さく、火と反比例してもうもうと煙を吐いていた。
 住職が由美の前に、乾パンと缶詰を二つ置いた。
「これで終いじゃから大事に食べなされ」
「ご住職は?」
「わしならいつもたらふく食うておるから大丈夫じゃ」
 そう言って太鼓腹を揺すって見せた。
 由美は両手で住職を拝んで、何度も頭を下げた。
「有り難う御座います。有り難う御座います」
 少し照れた住職は、
「さて、薪でも捜して来ようかね」
 何かを叩いたり、ノコギリや斧の音が暫く続いた。

 震災から二日目の朝。
 誰かが慌ただしく走る音で眼を冷ます真、腕時計を見ると五時を回ってい
た。
 飛び起きた真がその避難所を出ると、テーブルにお握り弁当やペットボトル
が並んでいた。救援物資がようやく届いたのだ。
 港に行くと、昨日より三倍は救援隊の人数が増えていた。近隣からのボラン
ティアだ、続々と各県から被災地を目指しているらしい。
 真は日本と日本人も満更でも無いと偏見を改めた。
 今朝は無数のヘリが沖を目指して勇ましくも飛翔していた。
 十人程を引き連れて捜索を開始した。
 隊員達の言葉は多様だった。東北弁は勿論、関西弁、九州弁まで聞こえて来
た。どうやって辿り着いたのだろう? たまたま観光に来ていたのかも知れな
い。
 必死の捜索に関わらず、見つかるのは遺体だけだった。その度に二人の隊員
を避難所に帰した。
「隊長。どの避難所に向かいますか?」
「少し遠いが、赤十字病院に向かえ、あそこなら人手が足りてる」
 時間だけが過ぎていく、瓦礫の中を進むのは困難極まり無かった。油断すれ
ば足を滑らせて怪我をしかねない。
 この日の捜索も虚しさだけが残った。
 避難所に戻った真は、用意されていた弁当を貪るように食べた。美味い!
格段に品質が良くなっている。物資がどんどん届いている証拠だ。だが、この
物資も、今も瓦礫の中で救援を待ち倦ねている人々に届いてのこそだ。

 薪が殆ど無くなったので住職がまた消えた。
 今度はノコギリの音も斧の音も聞こえてこない。
 不思議にこの場では誰も自己紹介をしない。先に不安を抱き、というより
絶望している今、他人の事に等興味が持てないのだ。
 それでも、由美はグッタリとした老婆と孫娘をつついた。眠ったら死んでし
まうような気がしたからだ。まだかすかな反応があった。
 住職が薪を抱えて帰って来た。
 微かにともっていた火に薪を放り込むと、パチパチと音をたてて勢いよく燃
え上がった。
 住職は不思議な、そして優しく穏やかな表情で合掌した。
「有りがたい薪であるぞ」と言うと、何やら経を唱え始めた。
「摩訶般若波羅蜜多心経 観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五
蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不 異色色即是空空即是色受想行識亦復如
是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄 不増不減是故空中無色無受想行識無
眼」
 そこで経を辞めて首を傾げている。
「生臭でな、忘れてしもうた。うむ! 」
 住職は幾つかの経典も火にくべた。
「掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提薩婆訶 般若心経」
 唱え終えた住職が立ち上がって、耳を澄ました。
 微かにヘリの飛ぶ音が聞こえてきた。
「どうやら夜が明けたようじゃ、一仕事してくるか?」

 住職が消えて小一時間たった。
 ヘリの音は大きくなり、数もどんどん増えている。
 ペンキだらけの作業着で住職は帰って来た。
「どうして薪をくべなかったのじゃ」
「なんだか罰があたりそうで」
「なんの、道理が分からねば仏では無い」
 住職は次々と経典を火の中に放り込んだ。
「屋根に大きく、五人と書いてきたから誰かが見つけるじゃろう」
 だが、何時間経っても救助は来なかった。
 相変わらず元気な住職と、比較的体力を回復していた由美が屋根に登って手
を振り、叫び続けた。
 どのヘリも気づいて呉れなかったが、夕闇が迫った頃、近くのビル屋上の一
団が由美と住職に気付いた。
 一機のヘリが屋上の一団に気づき、確認のためそのビルに近寄っていく。
 男達は大きな身振りで一斉に寺の屋根をさしていた。それは自分たちよりあ
の五人の人たちを先に助けるべきだとでもっているように思えた。
 ヘリも気付いたようだ、ビルの屋上に救援物資を投下した後、こちらに向か
ってくる。
 住職と由美は下の三人を何とか屋根に運んで救援をまった。もう殆ど闇にな
っていた。
 救助隊員が降下してきて、最初に吊り上げたのは孫娘で、次が老婆だった。
「次は息子さんの番ですぞ」
 老婆を吊り上げるとき、その救助隊員は不思議な行動を取った。
 住職にリュックを投げて、敬礼をしたのだ。
 ヘリの拡声器から音が振ってきた。
「残念ですが、本機は夜間救助が出来ません。明日朝一番で必ず参りますか
ら、頑張って下さい。どうかご無事で。本当に頑張って下さい」
 その場に崩れ落ちる由美、幸平を抱きしめて泣きじゃくった。とても明日の
朝まで頑張る事など出来ないと思った。助かったと一度は思った気持ちが崩れ
ていった。
 リュックの中身を確かめている住職はヘリに向かって叫んだ。
「おい! 食べ物と飲み物だけじゃないか。どうやって寒さを凌げと言うん
だ。化けてやる。坊主の幽霊は怖いぞ!」
 ヘリに聞こえる筈も無い。機内では助けた二人を隊員が取り囲んで沈み込ん
でいた。二人とも息を引き取っていたのだ。悔しさで祈る事さへ忘れていた。
 この二人とて危険を侵して救い出したのだ。

 真はこの日からは陸上救援隊には加わらなかった。
 ひたすら加藤親子の情報収集に走り回った。万が一と思って加藤家に何度か
足を運んだが、矢張り無駄足だった。
 もはや避難所のリストなど信じなかった。避難者の間と被災者のベッドを確
かめ、遺体を見つけると、遺族かも知れないと嘘をついて顔を見せて貰った。
絶望が支配した。遭難者名簿にも勿論載っていなかった。
 こうしてまる二日虚しい時間を消費してしまった。

 由美の薄れ行く意識の中でヘリの音が轟いていた。近づいているのか遠のい
ているのか分からなかった。
 遠くに光り輝く場所があった。
 ぞろぞろと人々が光に向かっていく。いや、鳥たちも獣たちも、その光を目
指していた。
 由美も目指したが、幸平の手だけはしっかりと握り続けた。
 幸平が抵抗をしている。
 由美は幸平を見た。
「どうしたの?」
「ママ、駄目だよ、行っちゃ駄目だよ」
 周りの人々が心配して由美の顔を覗いた。何故か皆白衣を着ていた。
 その顔が、みな霞んで消えた。

 ぼんやりと、又見えてきた。
「お名前言えますか?」
「かとうゆみ」
「加藤由美さんですね」
「息子が、息子は何処です」
「あの子でしょ、ほら」
 看護士の視線の先で幸平が眠っていた。
「幸平さんは、あなたの息子さんは大丈夫ですよ」
 一人の看護士が、由美の手首の黒いタグをそっと外した。助かる見込みが無
いと思われていたのだ。
「加藤由美さん、あなたももう大丈夫です」
「お坊様はご無事ですか?」
「ええ、元気なお坊様でしたわ」
 由美は、微笑んでいた看護士の顔がやや曇ったのを見逃さなかった。
 床に直に寝かされていた由美はベッドに移され、幸平と並んで治療を受け
た。

 午後になると、ゾロゾロと加藤グループの重役達が見舞いに現れた。
 皆一様にお悔やみを唱えているいるようだが、由美の耳には届かなかった。
 誰もが由美が生きていて残念なのだ。折角鬼のような女帝が消えたというのに。
 由美は彼等の反応が見たくて、その一人に命じてみた。
「松涛の家は研究所にします。優秀な科学者を狩って来なさい。金に糸目はつ
けません」
「お嬢様、そのように手配致します。それよりもどこかの大学病院への移送手
続きを取りましょう」
 由美は傍らの懇意になった看護士を見詰めた。
 看護士は微笑みながら首を微かに傾げた。
「成りません、わたくしはここで治療を続けます」
「お嬢様」
「やめなさい、お嬢様などと、わたくしは小娘では有りません」
「では、どのように?」
「取りあえずは会長と呼ぶように。治ったら秘書室を作り、面接をします。社
外からも広く人財を求めるように」
 豹変した由美に、重役達は皆項垂れた。
 看護士は笑いを堪えきれずに眼に涙を浮かべていた。
 優しい眼差しを看護士に向ける由美。
 看護士もまた微笑みで返した。

 由美は堅く決意した。母に代わって女帝になると、女帝になって姉の遺志を
継ぐ。と。
 由美は姉紗智子の論文や意見書を読んだ事が有った。その時は理解出来なか
ったが、今は分かるような気がした。
 紗智子は言う、このままでは日本は滅んでしまう。原子炉を創るのに膨大な
年月と莫大な費用がかかるが、廃炉にするのにその数倍かかると。
 また、こんなことも言っていた。十メートルの津波が想定出来るのなら、最
低十五メートル、出来れば二十メートルの防壁を創るべきだと。
「お姉様、あなたは何故無駄に命をお捨てになってしまったの。今こそあなた
を日本が必要としています」
 由美は色々と思い出した。思えば松涛のソーラパネルや風車に温水プール
も、原子力に替わるエネルギーの研究をしていたのだ。
 たしか、災害用の水陸両用ロボットや小型無線ヘリなどの事も書いて有っ
た。
「わたくしはお姉様のようには成れない。だけど、お姉様の持てなかった力を
手に入れました。わたくしは鬼になり、お姉様の遺志を継いで見せますわ」

 真はこの日も加藤親子の消息を探し続けていた。
 早くも日が傾いている。
 夕陽の光で微かに浮かび上がる体育館のような建物が有った。
 もしかしたら避難所かも知れない。一途の望みをかけて走った。そのつもり
が思うように足が動かなかった。
 ようやく扉に辿り着いて、それを開けた。
 光射す夕日の向こうで、ベッドに半身を起こす女性がいた。
 その女性は両手でお握りを握りしめ、口には運ばずに眼を細めて真の方を見詰
めている。
 彼女からは真の姿が確認出来なかったに違いない。
 だが、真からはしっかりとその姿が見えた。
「よかった。本当に良かった」
         丘の上のマリア・完
              2017年1月13日   Gorou