アメージング アマデウス

天才少年ウルフィは成長するにつれ、加速度的に能力を開発させて行きました。死後もなお驚異の進化は続いています。

華厳 Ⅱ井上の恋

2017-01-27 22:57:28 | 物語
 衛士の一人が池の堰を切ったので、たちまち池は透き通った水で溢れた。
「皇太子、泳げば少しは涼しくなりますわ」
「ええ、お姉様、わたくしもそう思っておりましたの」
 井上斎宮は薄衣を纏ったまま池に入って行きます。
 阿部皇太子は采女と女孺(にょじゅ、めのわらわ)達を見やって、
「さあ、あなたたちも一緒に」と、薄衣を抜き捨てて、ザブリと頭から池に途飛び込んだ。
 女孺は三人とも、袴と衣を脱いで皇太子に従った。
 二人の采女も女孺にならった。
 由利だけは池に入らずに、皇太子達が泳ぐのを見ていた。吉備真備の娘だった彼女は有る事をしっていたからだ。

 池の辺、その茂みで二人の貴公子が池に背中を見せた。二人の内親王の様子を伺いながら話をしていたが、思わぬ展開に慌てて顔を背けた。
 当時の高貴な女性は人前で着替えたり、肌を見せる事を恥ずかしがらなかったが、貴公子はあえて直視することを控えるのが嗜みであった。
「天真爛漫とは伺っておりましたが、これ程とは?」
「両陛下は心配されておりましたが、わたくは、あれはあれで良いと考えております」
「ところで、梓の中将。先ほどのお話はすでに決まっておりますのでしょうか?」
「いいえ、私が両陛下に進言しただけで、決まった分けでは有りません」
「中将(すけ)殿、吉備真備といえば秀才と聞こえておりますが、白猪史真成(しらいのふひとまなり)という書生の名は聞いた覚えがございませんが?」
「真備と真成は大学寮では白虎と青龍に喩えられていた程の青年です、鉈のような真備、剃刀が如き切れる真成、この二人に皇太子の教育を託し、即位成された後の政治も任せるのが良いと思っています」
 高梓は中衛府の中将で実質的な指揮権を持っていた。
 中衛府は東の舎人とも呼ばれており、皇太子の近衛兵をも兼ねていた。
 梓は、皇族派の長屋王と藤原一門との醜い政争に明け暮れる朝廷を懸念して、阿部皇太子が即位した時には、盤石の体制で大和朝廷を支える覚悟であった。
 白壁王と親しくしているのも、天智系の王達の協力を求めての事だった。が、さすがの高梓も、白壁王と井上斎宮が恋仲とは知らなかった。
 
 数日後、井上斎宮一行は伊勢への路を急いでいた。
 行列は三条大路を進み、平城京師を抜け、暗越街道に入ると急に細くなった。三人通れるかどうかだ。
 牛車に揺られながら、井上は憂いに浸っていた。再び白壁王に会えるかどうか分からない。なんどもなんども平城の方を振り返ったが、想いは募るばかりで、夏の空のように晴れることは無かった。
 街道の右手の丘の上の生駒仙坊から一団の沙弥が現れて、街道に入り、平城へと行脚してきた。
 信心深く、行基禅師を慕っていた井上は、わざわざ牛車から降りて、車も人も道端に寄せて沙弥達の通りすぎるのを待った。
 沙弥達は賛嘆を歌いながら行脚していた。
「百石(ももくさ)に、八十石(やそくさ)そえて、給いてし、乳房のむくい、今ぞわがする」
 井上は今平城で流行っているこの賛嘆を知っていたが、直に聞くのは初めてだった。
 生駒仙坊の沙弥達は、こうやって賛嘆を歌いながら托鉢をしているのだ。
 傍らの乳母が耳元で囁いた。
「姫様、あの者達は物持ちからは托鉢をうけますが、貧者には逆に食物などを与えるそうですよ」
「ほんとうに、心の澄んだ方達なのですね」
 二人の囁きが聞こえたのだろうか? 三人の沙弥が笠を取って井上の前に立ち止まった。
 二十歳を過ぎたばかりの沙弥が、眼光鋭く、良く通る美しい声で歌った・
「願い奉る御詠歌を」
 触れなば忽ち切れてしまう刃物の如き眼光の沙弥は南家仲麻呂とそっくりだ。と、井上は思った。
 中年の穏やかな沙弥と菩薩が如き悟りを開いた容貌の老いた沙弥が若者と共に賛嘆を歌った。
「百石に、八十石そえて、給いてし、乳房のむくい、今ぞわがする」
 老いた沙弥が井上の眼前に鉢をつきだした。催促をしているのだ。
 井上は慌てていくらかの銭を鉢に入れて合掌した。
 眼を開けると老沙弥は穏やかに微笑んでいたが、鉢を更に突きだした。
 慌てて布や着物を持って来させて、老沙弥に渡そうとすると、横から若い沙弥が無言のまま受け取った。
「伊勢までの道中恙無く、ご無事で行きなされ。御母君はお元気で御座いますか」
 そう言った老沙弥はまた微笑んだ。
 井上は菩薩のようなお方だと思った。
 三人は笠を被って再び賛嘆を歌いながら行脚を始めた。
「母上をご存じなのかしら」
 独り言を呟きながらぼんやりと見送っている井上。

 老沙弥と井上の母・広刀自は旧知の仲だった。
 三人は沙弥では無く、歴とした僧侶だった。
 眼光の鋭い若者は、若き日の怪僧弓削道鏡。
 穏やかな僧侶は、薬師寺義淵僧正最大の後継者、東大寺初代別当良弁。
老いた僧侶は、菩薩と謳われた行基禅師、その人だった。

 我に返った井上が牛車に乗ろうとすると、道端に騎乗の公卿がいた。白壁王だ。
 下馬した白壁王が井上の前に跪いて木簡を捧げた。
 恥ずかしさと嬉しさで顔を紅く染めた井上が木簡を受け取った。
 木簡には短歌が書かれていた。

 恋ひ死なむ、後は何せむ、生ける日のためこそを、妹見まく欲りすれ

 うろたえる井上に、気を利かした乳母が木簡と筆を渡した。
 木簡をもって返歌を詠もうとするが、どうしても浮かんで来ない。仕方が無いので、好きな短歌で代用した。

うつつには、逢ふよしもなし、ぬばたまの、夜の夢にを、継ぎて見えこそ

      2017/01/27   Gorou