シャボン玉の詩

前へ前へと進んできたつもりでしたが、
今では過去の思い出に浸る時間も大切にしなければ、
と思っています。

(14N)霧の彼方(2003小品集より)

2018-06-06 09:56:02 | Weblog
「父さん、修一だよ、分る?頑張ってよ父さん。もうすぐ生まれてくる孫を見届けて下さいな。男の子なんだよ」
確かに雅夫の手に力が加わってくるのがよく分る。
「父さんには僕の事が分っているのだね」
佳子は涙を拭きながら頷く。
「父さん、龍夫だよ。旅行するんでしょう、皆で行こうね。頑張って……」
「間違いなく聞こえているね。ああ良かった。僕の手を握り返したんだから」
佳子は頷く。

「あなた達、先生には会ったの」
「うん、聞いたよ。この2,3日が大きな節目になるんだって」
「急だったんだね、母さん大丈夫?少し休んだ方がいいよ」
「私は大丈夫、ずっと父さんとお話していたのよ」

雅夫は暗闇の中で動けなくなっている。此処がどこだかそれすらわからなくなっている。
元々並外れた方向音痴であるからむやみやたらに動いてはいけないと考えている。
でも向うの対岸には点々と明かりが見える。
あの明かりの処へ行けば何とかなるに違いないと思うのであるが、さてどうしたものか。
どう進めばよいのかそれが分らなくて困っている。
どうやら目前には沼らしきものが広がっている様子が見て取れるのだ。
「雅夫さん、此処よ、こっちですよ。何をしているのよ。そこは危ないから早く」
佳子が大声あげて自分を呼んでいる。
あそこに向かって行けばいいのだな、と思う。
―――しかしこの沼をどう超えろというんだ、とても無理だ。
「ダメだ、沼が広がっている。渡れっこないよ」
振り絞って状況を説明しようとするが、声がのどに詰まってどうしても出てこない。
「飛ぶのよ、ジャンプ、ジャンプするのよ」
―――そんな無茶な、僕は鳥ではないのだから。
「とても無理だよ」
「あなた、飛べますって。絶対に飛べるから。私には分っています。必ず飛べます。さあ、あなたやってみて」
―――ほんとかね、佳子があそこまで言うんだから…とに角やってみるか。