世の中、そんなに単純じゃ、ないのだけれど。
プロセス志向は、いかが? by 水井パセリ from mononohazumi
改訂・プロセス志向はいかが? by 水井パセリ from mononohazumi
あいまいな優しさ by omori-sh from 35の朝COLOR
達にトラックバック。
というGALANT's Cafeが、とても、物事に白黒つけたがるのだけれども^^;
確かに、この世の中、はっきりと白、黒、と言えるような事象は、少ない。
いや、たとえ言えたとして、長い年月で見れば、本当に白は白だったのか、黒は黒だったのか、怪しいことなんて、たくさんあるだろう。
そんなことは、分かっている。
分かっているけれども、やはりGALANT's Cafeは、人生一度は、白黒をはっきりさせてみたくなるものなんだな。
ま、これで、たくさんの失敗もしてきたのだけれど。
#何について?なんて、野暮なことは聞くな!w
#理系男なんて、そんなもんさ!(こらこら、一般化して、誤魔化すでない>じぶん^^;)
さて。
>ハッキリものごとを決めて、スッキリ進めるのを良しとする風潮を感じます。
>マスコミでは、そのほうがインパクトがあり受けもいいからでしょうか。そう
>いうコメンテイターも多くみられ、「ハッキリいうわよ」の○木さんに人気が
>あるようです。こうした白か黒かという結論を即断でだしたり、言い切って単
>純化するのはステレオタイプ的な考えを蔓延させそうです。また「はい、それ
>で終わり。」と、さっさとかたづけてしまう無責任さを感じます。
プロセス志向は、いかが?by 水井パセリ from mononohazumiより
うん、そういう風にも取れる。
しかし、この逆もしかりで。
意識ある煙に巻くようなあいまいな述べ方にも、無責任さを感じる。
特に、専門家(professional)たる人間が、そのような述べ方をすることは、大いに問題があるだろう。
#専門家だって、人間!全知全能の神ではないのだ!
#だから、分からないことは「分からない」と言えば、いいのだ。
#(無論、言えばオシマイというものではないが)
#それをあいまいにして誤魔化そうとするから、問題を余計大きくするのだ。
確かに近年は、「ハッキリものごとを決めて、スッキリ進めるのを良しとする風潮」という奴がある。
この点については、あいまいな優しさにてomori-shさんが指摘されている通り、アメリカライクな風潮になってきた。
このような風潮が行き過ぎると、近年のアメリカやヨーロッパにてしばし見られる、少しでも非がありそうなものは裁判ではっきり黒にしてしまえ!という「訴訟大国」になってしまうだろう。
では、なぜ、近年の日本は、こんな風潮になってきたのだろう?
原因としては、長期に渡る不景気やら、それに伴う失業率の悪化(近年は回復傾向にありつつあるが)、少子高齢化や近隣諸国の急速な近代化に伴う日本国の劣勢、そして、不安定な世界情勢など。
さまざまなことが考えられる。
GALANT's Cafeが直感的に感じている原因としては、
◆社会が高度複雑化し、皆が同じ体験をすることが困難となった結果、自らがどう生きていけばいいのか分からず、自分自身があまりにも不透明になった
◆かと言って、なんらかの手法で経済的には生きることができることが多い故、生きるのに困るほどでもない
◆漠然とした不安はあるけど、考えるのは面倒だし、上記のようにとりあえず生きていけるし、親も子供も「人生は楽しむことが重要」と、とりあえず(形格好の)人生を楽しむことに始終しがち
なために、誰かに「これは正しい、これは間違っている」と断言してもらうことで、安心感を得ているのではないか?
#ある一種の“癒し効果”ですな。
これと同じことは。
多種多様に渡る理系分野の各専門においても、生じていることで。
なんらかの理由を探し出して、「○○(という理論だったり、人だったり)が(正しい・間違っている)言っている」と言い切ることで、自分の不安を打ち消しては、いないか?
そして、これらの根底に横たわる、共通の事象とは。
自らが、何を見て、何を感じ、何を考えたか?
そう、やはり、ここに行き着くと思うのだ。
自分が見て、感じ、考えているか?
他人の話や見聞を借りて、自らを誤魔化してはいないか?
ある人々は、「そんなことはしなくとも、生きていけるもんね」と、経験を積まずに形格好だけ大人になっていくことに始終していないか?
またある別の人々は、「それは、しっかりと勉強しなければ、生きていくことは難しい」と、ひたすら他人の知見(話を見聞きするだけでなく、本や論文による学習までも含め)を覚えることに始終していないか?
大切なことは。
先人の知見(見方・感じ方・考え方)に学ぶこと。(それが文化というものでしょう?)
そして、
その先人の知見を考慮した上で、さまざまな物事について、自分で見て、感じて、考えること。
だと、GALANT's Cafeは思うのだ。
そして、物事に白黒つけようと、このように生き続けた人だけが、「物事に白黒つけることは、本当にできない」という悟りの境地に達するのだろう。
それが、
>大切なのは、ものごとに向き合うその人ならではの方法論といったこと。
>それを導き出そうとする懐の深さやものごとの奥行きやつながりが感じ
>取れる。それが、大切と思うのです。学べることを察知し、感じ方の幅
>を広げ、自己の内なる世界をより高めたいです。そこに過去に苦渋しな
>がら今を生き、信頼に値する未来を手元に引き寄せようと、懸命に闘っ
>ているものがあれば、きっとしなやかに逞しく生きていけることでしょう。
改訂・プロセス志向はいかが? by 水井パセリ from mononohazumi
に通ずるのだろう。
と、言いながらも。
まだまだ白黒つけたがっているGALANT's Cafeは...青いね^^ゞ
プロセス志向は、いかが? by 水井パセリ from mononohazumi
改訂・プロセス志向はいかが? by 水井パセリ from mononohazumi
あいまいな優しさ by omori-sh from 35の朝COLOR
達にトラックバック。
というGALANT's Cafeが、とても、物事に白黒つけたがるのだけれども^^;
確かに、この世の中、はっきりと白、黒、と言えるような事象は、少ない。
いや、たとえ言えたとして、長い年月で見れば、本当に白は白だったのか、黒は黒だったのか、怪しいことなんて、たくさんあるだろう。
そんなことは、分かっている。
分かっているけれども、やはりGALANT's Cafeは、人生一度は、白黒をはっきりさせてみたくなるものなんだな。
ま、これで、たくさんの失敗もしてきたのだけれど。
#何について?なんて、野暮なことは聞くな!w
#理系男なんて、そんなもんさ!(こらこら、一般化して、誤魔化すでない>じぶん^^;)
さて。
>ハッキリものごとを決めて、スッキリ進めるのを良しとする風潮を感じます。
>マスコミでは、そのほうがインパクトがあり受けもいいからでしょうか。そう
>いうコメンテイターも多くみられ、「ハッキリいうわよ」の○木さんに人気が
>あるようです。こうした白か黒かという結論を即断でだしたり、言い切って単
>純化するのはステレオタイプ的な考えを蔓延させそうです。また「はい、それ
>で終わり。」と、さっさとかたづけてしまう無責任さを感じます。
プロセス志向は、いかが?by 水井パセリ from mononohazumiより
うん、そういう風にも取れる。
しかし、この逆もしかりで。
意識ある煙に巻くようなあいまいな述べ方にも、無責任さを感じる。
特に、専門家(professional)たる人間が、そのような述べ方をすることは、大いに問題があるだろう。
#専門家だって、人間!全知全能の神ではないのだ!
#だから、分からないことは「分からない」と言えば、いいのだ。
#(無論、言えばオシマイというものではないが)
#それをあいまいにして誤魔化そうとするから、問題を余計大きくするのだ。
確かに近年は、「ハッキリものごとを決めて、スッキリ進めるのを良しとする風潮」という奴がある。
この点については、あいまいな優しさにてomori-shさんが指摘されている通り、アメリカライクな風潮になってきた。
このような風潮が行き過ぎると、近年のアメリカやヨーロッパにてしばし見られる、少しでも非がありそうなものは裁判ではっきり黒にしてしまえ!という「訴訟大国」になってしまうだろう。
では、なぜ、近年の日本は、こんな風潮になってきたのだろう?
原因としては、長期に渡る不景気やら、それに伴う失業率の悪化(近年は回復傾向にありつつあるが)、少子高齢化や近隣諸国の急速な近代化に伴う日本国の劣勢、そして、不安定な世界情勢など。
さまざまなことが考えられる。
GALANT's Cafeが直感的に感じている原因としては、
◆社会が高度複雑化し、皆が同じ体験をすることが困難となった結果、自らがどう生きていけばいいのか分からず、自分自身があまりにも不透明になった
◆かと言って、なんらかの手法で経済的には生きることができることが多い故、生きるのに困るほどでもない
◆漠然とした不安はあるけど、考えるのは面倒だし、上記のようにとりあえず生きていけるし、親も子供も「人生は楽しむことが重要」と、とりあえず(形格好の)人生を楽しむことに始終しがち
なために、誰かに「これは正しい、これは間違っている」と断言してもらうことで、安心感を得ているのではないか?
#ある一種の“癒し効果”ですな。
これと同じことは。
多種多様に渡る理系分野の各専門においても、生じていることで。
なんらかの理由を探し出して、「○○(という理論だったり、人だったり)が(正しい・間違っている)言っている」と言い切ることで、自分の不安を打ち消しては、いないか?
そして、これらの根底に横たわる、共通の事象とは。
自らが、何を見て、何を感じ、何を考えたか?
そう、やはり、ここに行き着くと思うのだ。
自分が見て、感じ、考えているか?
他人の話や見聞を借りて、自らを誤魔化してはいないか?
ある人々は、「そんなことはしなくとも、生きていけるもんね」と、経験を積まずに形格好だけ大人になっていくことに始終していないか?
またある別の人々は、「それは、しっかりと勉強しなければ、生きていくことは難しい」と、ひたすら他人の知見(話を見聞きするだけでなく、本や論文による学習までも含め)を覚えることに始終していないか?
大切なことは。
先人の知見(見方・感じ方・考え方)に学ぶこと。(それが文化というものでしょう?)
そして、
その先人の知見を考慮した上で、さまざまな物事について、自分で見て、感じて、考えること。
だと、GALANT's Cafeは思うのだ。
そして、物事に白黒つけようと、このように生き続けた人だけが、「物事に白黒つけることは、本当にできない」という悟りの境地に達するのだろう。
それが、
>大切なのは、ものごとに向き合うその人ならではの方法論といったこと。
>それを導き出そうとする懐の深さやものごとの奥行きやつながりが感じ
>取れる。それが、大切と思うのです。学べることを察知し、感じ方の幅
>を広げ、自己の内なる世界をより高めたいです。そこに過去に苦渋しな
>がら今を生き、信頼に値する未来を手元に引き寄せようと、懸命に闘っ
>ているものがあれば、きっとしなやかに逞しく生きていけることでしょう。
改訂・プロセス志向はいかが? by 水井パセリ from mononohazumi
に通ずるのだろう。
と、言いながらも。
まだまだ白黒つけたがっているGALANT's Cafeは...青いね^^ゞ
この解体すごく分かりやすいです。解体新書は解体分析心書になってます。書いた本人がこんぐらがってわかんなかったのを、スルスルっと、さすが理系男ここにあり!ですね。
ルミナリエの幻想的な輝きと共にノックアウト状態・・です。えっと~ルミチャンみてます?(最後・・意味不明に騒いですみません。)
白黒つけるべきではない、ということ自体白黒つけてるようなもので、基本的には正しい・正しくない、好き・嫌いというような判断は常にやってますからね。
ぼくなんかも自分の判断を正当化するためにあーだこーだ考えている自分を客観的に見て卑怯だよなあ、と思うときありますから。
その卑怯さが灰色かなあと思うんですね。
弱いんだと思いますよ、灰色がないと耐えられないもん。
いやはやそれにしてもちょこっとしたきっかけでパセリさんといい、こうやって掘り下げていただけて、ぼくとしてもたいへんうれしいです!
これは、まさしく『生きる力』だと思います。
文部科学省が子供につけさせようとしている力です。
手段や方法には、疑問がありますが、方向は賛成できます。
自分で考えて、判断してそれに沿って行動できる生徒は本当に少ないです。
考えるばかりで、結論が出ないと行動できない子・・・(行動しながら考えれば?)
考える力はあるけど、自分に自信がなくて行動できない子・・・(一線を踏み出せ!)
人と同じでないと不安な子・・・(同じじゃ面白くないよ。)
『自ら考え判断して行動する』子を育てる教育は、
効率が悪く、忍耐力と時間のかかる教育なんですよね。非効率的とか忍耐力とか今の社会が一番苦手とする分野です。
解体したのか、てけとーに組上げたのか、怪しいのですが^^;
あ、激しく勘違いされていますよ。
過大評価し過ぎです^^;
omori-shさま:
過大評価してません?^^;
いや、もっと言うと、白とか黒ではないのかもしれませんよ。
なんというかな?カラフル?
まずは考え抜くことで、自分なりの基準を作り上げてみること、そして、その基準が適切かどうか、生きながら修正していけばいいように思います。
まず、最初に。
「生きる力」って、なんだろうなぁ?って、思うのです。
収入が多いという奴も、現代の資本主義社会では、重要なことの“一つ”だと思います。
が、一番大切なことは、「何を見て、何を感じ、何を考えるか?」だと思うのです。人間とは、本能の赴くままに生きてきた生き物ではないはずだから。
なので、大人(特に親!)が『自分で見て、感じて、考えて、生きている』かどうかを、問われる時代になったように思います。
このような姿勢は、教えるものではなく、見て無意識に真似るものなのかもしれませんね。
丁重なコメントありがとうございます。
子供を育てるとき、
親も先生もつい、失敗しないように、最短の道のりを(正解を)教えてしまいがちです。。(効率的)
でも、それでは子供が自分の力で考えて実行する力は育たない。考えて、失敗して、また工夫して、又失敗して、考えるうち解決して・・・・このような体験が必要です。(非効率的)
失敗は恐れなくて良い。これが生きる力では。。
そばで見ている親や先生は、忍耐強く見守らねばならない。時間はかかるし、これが大変難しいことなんです。
Cafeさまなら理解していたただけるような気がして書いてしまいました。。。
それからここに繋がるコメント、素晴らしいですね。わたしも本当に、そうだと思います。気長に”見守り待つという愛情”を、いつの間にか家庭も社会も、忘れ去ってしまい、何でも効率優先になっているようにおもいます。熟成させるための”待ち”は、大切だと思います。
明日はクリスマスというのに、この続きを朝からするとは。
アホもここまで来ると、誰も何もいいませんな^^;
#これも見守り?^^;;;
47kumikoさま:
教え育てる人間が待つ という行為は、非常に大切なことでしょう。
何でも教えてしまうと、本人が自ら考えようとしなくなります。
本blogの過去記事
「人を育てる/人に育てられるということ」
http://blog.goo.ne.jp/g-cafe/e/a2bfca52e7d2fc37eca9823d758f191a
でも、同様のことについて述べていました。
この記事に出てきた後輩は、GALANT's Cafeの元にやって来た時には、自らが何をすればいいのか、さっぱり分かっていませんでしたが、ちょこっと手本を見せて「放置(これが見守るということですね)」し、1年も経つと、
「試行錯誤」
http://blog.goo.ne.jp/g-cafe/e/8ec8125ed31f8f20a7c4eeb95d9fb72a
のように成長し、巣立っていきました。
成果(結果)を早く出すことが求められている昨今ですが、本当に早く出したいならば、どんなに時間がかかっても最初が肝心だと思っています。
現代社会は、安直な発想がはびこるようになり、「見守る」というようなことをしなくなったように思いますね。
#「見て見ぬ振りをする」ならば、たくさん見受けられますが^^;
そうおっしゃる水井さんは、しっかり「見て待っていらっしゃる」のではないですか?^^
GALANT's Cafeの場合は...ボケてるだけ?^^;