ぱっと見た目、普通なんだけど。でも中身はとんでもなく凄いって、素晴らしいと思ったりしない???
手術がないから 余計なことを考えるんだ by absinth from しんぞぉのおんな にトラックバック。
忙しいと、ゆっくりと何かを考える余裕もないから、余計なことは考えないのかな?
でも、GALANT's Cafeの場合は、忙しい時の方が余計なことをいっぱい考えてたりする。
まぁ大抵は、どうしようもない妄想の類なのだけど。
それでも100個くらい考えれば、1つぐらい、ちょっとばかし気の利いたことも考えつくものさ^^
な~んて、本文を読む前に考えたりしたのだけど。
>あたしは
>
>ゲテモノじゃない。
いきなり、これかい!^^;
そりゃぁ、そうだよね。
モノ好きな人だけどw
#GALANT's Cafeもモノ好きだけどね。
#そんなGALANT's Cafeに、「奴は理系か?文系か?」なーんて、
#語らせたいと思ったこのお方も、相当モノ好きだと思うのですよ^^
>「こいつは 変わってるから」
>
>そういう言葉でしか 評価されないあたしがいて
>
>そういう言葉に 喜んで 安住している あたしがいる。
ほほ^^
GALANT's Cafeなんか、リアル社会で意識的に「(GALANT's Cafeって)ふつうの人だよねー?」って皆に聞いて、「嘘つき!(はぁと!?)」と、即答される。
#「嘘つき!」って、あーた(あなた)^^ゞ
これには、目的があって。
これで、「他者と異なっている」自分を、再確認していたりする。
それは、「隣の人とは、同じにはならないぞ!」って、自分で他者と差異化を図って生きようとしてきたから。
>そんなところに 自分の価値を見出そうとする ずるいあたしがいる。
と、ご自身のことを、absinthさんはそうおっしゃるのだけど。
そうだろうか?
本当にずるい???
確かに。
本当の狙いが「他者と同じであること」であったのにかかわらず、結果的にズレてしまい、「他者とは異なる」という(良い)評価に甘んずるならば、ずるいかもしれない。
が。
最初から、「他者と差異化を図る」ことが、本当の狙いであったならば。
いつのころからか、はっきりとした記憶はないが。
GALANT's Cafeは、誰にそう育てられた訳でもないのに、幼い頃から、「“人と同じ”であることに甘んずるまい」と決めていた。
こんなことを、なぜ思い始めたのか?
この思いはどこから来たのか、まったく不明なのだが。
たとえば。
学校などの集団にて、何かを決めなければならない際、「皆がそう言っているから」と、多勢の意見に従う人がいる(大人社会でも、同じだね^^;)。
昔から、この発想が嫌いで。
絶対、長いものには巻かれまいと生きてきた。
#当然ながら、長いものが本当に良い場合は、別だが。
そして。
「今までもそうだったのだから、(なし崩し的に)これからも同じ仲間だよね」のような、意味もなく仲間にされる(そして、この行く末は「皆、仲間なのだから、連帯責任を負わなければならない」というような、まったくもって理不尽なことになるのだ)にも、強く抵抗してきた。
#無論、その連携を継続させることが意味を持つことならば、話はまったく別!
そう。
何を見て、何を感じ、何を考えるか?
これはGALANT's Cafeにとって、自分自身を守るための最大の武器であったのだ。
当然ながら。
「皆と同じである」ことに安心感を覚える国の民だもの。
「皆と異なろう」とする奴への風あたりは強い。
非難、揶揄、その他もろもろ。
#まぁ、今も、そう変わんないか^^
真に独立独歩な生き方をしようとして、このような周囲からの攻撃に耐え切れず、頓挫してしまった人は多いのではないだろうか?
だが、面白いもので。
出る杭は叩かれるのがオチなのだが。
出るに出過ぎた杭は、叩くことすら困難になるのだ。
#叩こうとした奴が、周りから非難を浴びるということね^^
え?
摩訶不思議に思うかもしれない。
が、これは真実。
このからくりは。
そいつの代わりは、そいつしかいない。
そう。
GALANT's Cafeの代わりは、GALANT's Cafeしかいないということを、周囲に認めさせてしまうこと。
もし。
単なる成績優秀者なだけであったら。
いくらでも代わりはいるわけだ。
#No.1が居なくなれば、No.2が繰り上がるだけだものね。
何かに詳しいというだけなら。
同じことに詳しい奴は、他にいくらでもいるだろう。
だから。
ある狭い分野だけでいいから、徹底的に極めてみること。
そして、極めた人間にしか見ることが、感じることができない、なにか をつかむこと。
#本当は、非常に困難なことなのだけど。
#準・極めるということならば、比較的容易なのだ。
そして。
少しずつ、その幅を広げていくこと。
皆が出来るのに、自分は出来ない?
そんなこと、どうだっていいじゃないか。
俺には、俺にしか出来ないことがあるんだぜ。
その幅を広げていくと。
物事にはすべて、共通した事象があるということに気が付く。
それが、
何を見て、何を感じ、何を考えるか?
なのだ。
人から見聞きした程度ではわからない、そう、時間をかけてでも、無駄になると分かっていても、自らやってみる(=経験を積む)ことで初めてわかるものがあるというものだ。
だから、ちょっとやそっと、長いものに巻かれてみたって、訳もわからず他人に迎合してみたって、なんの意味を持たないのだ。
そうやって生きていくと。
見た目は普通でも、中身は一風変わってしまうよね。
それで、いいじゃん?
徹底的に差異化を図ると、それは最大の武器となる。
今、ここ(組織など)から外したければ、外せばいい。
自分の代わりは自分しかいない。
代わりの人間で済ませられるものなら、やってみるがいいさ。
行き着く先は、やる前から分かっているさ...
...と、変わってしまうことも極めると、強気に出られるのですな^^
#でも、ゲテモノと変 は、違うよねぇ。
だから。
たとえ茨の道とわかっていても。
人と異なる生き方をすることが、止められないのだ。
P.S. 但し、このような生き方は、非常にリスクがあって。
周囲から見て、「本当に素晴らしい(=有能である)奴だ」と評価されるか、
「本当にどうしようもない(=無能である)奴だ」と評価されるか、
両極端のどちらかしかない。
そして。
GALANT's Cafeは...orz (やべっ!^^;)
常に、きちんと、自分を客観視する必要がありますね^^ゞ
手術がないから 余計なことを考えるんだ by absinth from しんぞぉのおんな にトラックバック。
忙しいと、ゆっくりと何かを考える余裕もないから、余計なことは考えないのかな?
でも、GALANT's Cafeの場合は、忙しい時の方が余計なことをいっぱい考えてたりする。
まぁ大抵は、どうしようもない妄想の類なのだけど。
それでも100個くらい考えれば、1つぐらい、ちょっとばかし気の利いたことも考えつくものさ^^
な~んて、本文を読む前に考えたりしたのだけど。
>あたしは
>
>ゲテモノじゃない。
いきなり、これかい!^^;
そりゃぁ、そうだよね。
モノ好きな人だけどw
#GALANT's Cafeもモノ好きだけどね。
#そんなGALANT's Cafeに、「奴は理系か?文系か?」なーんて、
#語らせたいと思ったこのお方も、相当モノ好きだと思うのですよ^^
>「こいつは 変わってるから」
>
>そういう言葉でしか 評価されないあたしがいて
>
>そういう言葉に 喜んで 安住している あたしがいる。
ほほ^^
GALANT's Cafeなんか、リアル社会で意識的に「(GALANT's Cafeって)ふつうの人だよねー?」って皆に聞いて、「嘘つき!(はぁと!?)」と、即答される。
#「嘘つき!」って、あーた(あなた)^^ゞ
これには、目的があって。
これで、「他者と異なっている」自分を、再確認していたりする。
それは、「隣の人とは、同じにはならないぞ!」って、自分で他者と差異化を図って生きようとしてきたから。
>そんなところに 自分の価値を見出そうとする ずるいあたしがいる。
と、ご自身のことを、absinthさんはそうおっしゃるのだけど。
そうだろうか?
本当にずるい???
確かに。
本当の狙いが「他者と同じであること」であったのにかかわらず、結果的にズレてしまい、「他者とは異なる」という(良い)評価に甘んずるならば、ずるいかもしれない。
が。
最初から、「他者と差異化を図る」ことが、本当の狙いであったならば。
いつのころからか、はっきりとした記憶はないが。
GALANT's Cafeは、誰にそう育てられた訳でもないのに、幼い頃から、「“人と同じ”であることに甘んずるまい」と決めていた。
こんなことを、なぜ思い始めたのか?
この思いはどこから来たのか、まったく不明なのだが。
たとえば。
学校などの集団にて、何かを決めなければならない際、「皆がそう言っているから」と、多勢の意見に従う人がいる(大人社会でも、同じだね^^;)。
昔から、この発想が嫌いで。
絶対、長いものには巻かれまいと生きてきた。
#当然ながら、長いものが本当に良い場合は、別だが。
そして。
「今までもそうだったのだから、(なし崩し的に)これからも同じ仲間だよね」のような、意味もなく仲間にされる(そして、この行く末は「皆、仲間なのだから、連帯責任を負わなければならない」というような、まったくもって理不尽なことになるのだ)にも、強く抵抗してきた。
#無論、その連携を継続させることが意味を持つことならば、話はまったく別!
そう。
何を見て、何を感じ、何を考えるか?
これはGALANT's Cafeにとって、自分自身を守るための最大の武器であったのだ。
当然ながら。
「皆と同じである」ことに安心感を覚える国の民だもの。
「皆と異なろう」とする奴への風あたりは強い。
非難、揶揄、その他もろもろ。
#まぁ、今も、そう変わんないか^^
真に独立独歩な生き方をしようとして、このような周囲からの攻撃に耐え切れず、頓挫してしまった人は多いのではないだろうか?
だが、面白いもので。
出る杭は叩かれるのがオチなのだが。
出るに出過ぎた杭は、叩くことすら困難になるのだ。
#叩こうとした奴が、周りから非難を浴びるということね^^
え?
摩訶不思議に思うかもしれない。
が、これは真実。
このからくりは。
そいつの代わりは、そいつしかいない。
そう。
GALANT's Cafeの代わりは、GALANT's Cafeしかいないということを、周囲に認めさせてしまうこと。
もし。
単なる成績優秀者なだけであったら。
いくらでも代わりはいるわけだ。
#No.1が居なくなれば、No.2が繰り上がるだけだものね。
何かに詳しいというだけなら。
同じことに詳しい奴は、他にいくらでもいるだろう。
だから。
ある狭い分野だけでいいから、徹底的に極めてみること。
そして、極めた人間にしか見ることが、感じることができない、なにか をつかむこと。
#本当は、非常に困難なことなのだけど。
#準・極めるということならば、比較的容易なのだ。
そして。
少しずつ、その幅を広げていくこと。
皆が出来るのに、自分は出来ない?
そんなこと、どうだっていいじゃないか。
俺には、俺にしか出来ないことがあるんだぜ。
その幅を広げていくと。
物事にはすべて、共通した事象があるということに気が付く。
それが、
何を見て、何を感じ、何を考えるか?
なのだ。
人から見聞きした程度ではわからない、そう、時間をかけてでも、無駄になると分かっていても、自らやってみる(=経験を積む)ことで初めてわかるものがあるというものだ。
だから、ちょっとやそっと、長いものに巻かれてみたって、訳もわからず他人に迎合してみたって、なんの意味を持たないのだ。
そうやって生きていくと。
見た目は普通でも、中身は一風変わってしまうよね。
それで、いいじゃん?
徹底的に差異化を図ると、それは最大の武器となる。
今、ここ(組織など)から外したければ、外せばいい。
自分の代わりは自分しかいない。
代わりの人間で済ませられるものなら、やってみるがいいさ。
行き着く先は、やる前から分かっているさ...
...と、変わってしまうことも極めると、強気に出られるのですな^^
#でも、ゲテモノと変 は、違うよねぇ。
だから。
たとえ茨の道とわかっていても。
人と異なる生き方をすることが、止められないのだ。
P.S. 但し、このような生き方は、非常にリスクがあって。
周囲から見て、「本当に素晴らしい(=有能である)奴だ」と評価されるか、
「本当にどうしようもない(=無能である)奴だ」と評価されるか、
両極端のどちらかしかない。
そして。
GALANT's Cafeは...orz (やべっ!^^;)
常に、きちんと、自分を客観視する必要がありますね^^ゞ
いいえ。私が思ったのは逆のことです。
始めから他者との差異化を図って行動しているのですから、変わっているのは当たり前のことなのです。
多勢に引きずられず自分の意見に従う、というのは重要なことですが、私が言いたかったのは別のことです。
差異化そのものが行動の目的と化すことの嫌らしさを言いたかったのです。
先日評価された私のある仕事は、着眼点がすばらしいという事でした。でもそれは何の事はない、誰もが行っておりそれに縛られている思考法をひっくり返してみただけのものでした。他人と逆の思考法をしてみた、だけのことが、評価を得たことに、私は大きな失望を覚えましたが、その一方で評価されたことを嬉しく思っている自分に気付き、さらに自己嫌悪に陥りました。
だって自分自身はその仕事(およびそこに至る着眼点)を大したものではないと知っているのですから。
cafeさんの様に「自分が何を考えるか?」を徹底できる人は別として私のような人間はともすれば、他人との差異化を目指すこと自体が目的と化してしまいがちです。
「皆人と同じことを目指す」とよく言われますが、果たしてそうでしょうか。
逆に私には「私は違うんだ」の声が少々うるさく感じられるほどです。
その意味で「変わってるね」は明らかに褒め言葉です。
それを言われて嬉しくない人間がいましょうか。
大切なことはcafeさんのおっしゃるとおり「自分が何を考えるか」であるのに、同じか違うかに主眼が置かれ、個性をもつことそのものが価値あることのように言われています。
極論すれば個性そのものには価値はなく、価値ある個性かどうかが問題だと思うのですが、私も含め、他人と違うことだけで満足しがちであるなあ、と思うのです。
そいつの代わりは他にはいない、とまわりに思わせることで自分の居場所を確保すること、そのことに長けている自分には、「いくらでも代わりはいる」という場で生きていくことの方がずっと困難に思えます。私はその精神的重圧に耐える自信がないから、他人との差異化を図リ続けることによって「逃げて」いるのかもしれません。
あの記事は、「差異化そのものが行動の目的と化すことの嫌らしさ」についてでしたか。
うぅぅ...GALANT's Cafeの読解力が足らないな(泣)
ただ、頂いたコメントについては、「なるほど」という思いと「そうだろうか?」という感を持ちました。
先日評価されたという着眼点、「absinthさんにとっては(ある種)当たり前」の発想であったのだが、「周囲の方々には斬新な」発想であった ということですよね?
ご自身にとっては「当たり前」の発想なのだから、評価されたことに違和感を感じ、そして、違和感を感じたにも関わらず嬉しく思っている自分に嫌気が差したということなのだと思います。
が。
それは、やはり素晴らしいことなのではないでしょうか?
専門家という奴は、「自らにとっては当たり前のように出来る技・思考」を用いて、「他人を喜ばせる」商売ですよね?(非常に単純化していますが^^;)
今回、absinthさんが経験されたことは、おそらく同業の方々から賞賛されたのだと思いますが、皆にとっては当たり前でなかったことを提供し、皆から喜ばれたわけですよね?
これって、素敵な差異化でありませんか?^^
そして。
後半のおっしゃりたいことは、まさしくその通り!と思います。
今の日本、何を達成したいのか?という目的と、どの手段を用いるか?という目的への道筋を混同してしまい、おかしな事態になっている事例は多々ありますね。
おっしゃるとおり、「個性」とは、何かを成し遂げた結果の副産物のようなものに過ぎないのに、「個性」を作ることが目的になってしまっているきらいがあります。
特に専門家という生き物は、同業の他人と同じでは、自分の(職業人としての)価値を見出しにくい生き物でもあります。
そのために、差異化を図り、個性化を深め、自らの存在価値を際立たせようとします。
が、見た目の(表面的な)差異化を図るのではなく、思考や洞察と言った深層の差異化を図りたいものですね。
お二人とももうすでに十分に代わりの存在なんて探しても見つからないでしょう。
ただ仕事ということに限定すれば、客観的には代わりがいるほうがいいというか、代わりがいて当たり前なんでしょうね。社会の中では。
個人としては、自分を深く掘り下げて考えた方がおもしろいから、こだわるべきだとぼくも思います。
お、難しい話ですね。
もし、その仕事が数をこなすタイプだったら、代理が多く居る方がいいですよね。
が。
その仕事が、オリジナリティを求めるタイプだったら。
代理が居ること自体が、大問題なのかもしれませんね^^;