The Man

理系男のダンディズム -ロジカルにロジカルに。 考え抜いたとき、それはその人の感性となる-

理想の追求と過剰な要求

2005-05-29 18:15:00 | 生き方
我々は、日々、必要以上の要求していないだろうか?

yamakaw さま by absinth from しんぞぉのおんな にトラックバック。

いつもながら、十分な休息を得ることもなく働き続けるabsinthさんには、ただただ感心させられるのだが。

が、この勤務状況。
2~30歳代の若い医師達、-特に総合医と呼ばれる内科や外科の医師達- は、本人が望む・望まないに関わらず、このような状況を避けられないのが現実である。
(GALANT's Cafeは医療関係者ではないが、GALANT's Cafeの幼馴染、同期、そして彼らの友人・知人達が医師であるため、彼らの置かれた現状を間接的に見聞きしている)

他には、小児科や産科なども同じ状況 と多数聞く。


医療とは、サービス業。


このような解釈をされるようになって、久しい。
GALANT's Cafeも、その通りであると思う。

病気を治すのはその人自らの力(治癒力)であって、医師や看護師に代表される医療スタップや医薬品ではない。

医療スタッフや医薬品は、あくまで、その人が持つ治癒力への補助、支援力にしかなれない。
#が、このことを自覚していない治療希望者が多いのではないかと、GALANT's Cafeは思っている。

本来、サービスとは、無料・有料を問わず、サービスを享受する人への支援力。

が、医療というサービス業が他のサービス業と異なるのは、一刻を争う場合があること。
いくら計画を立てその遂行を尊守したところで、一刻を争う事象が飛び込んでくれば、立てられた計画を無視してでも、一刻を争う事象へ対応する必要がある。
計画通りに遂行できないこと、ここが医療問題の難しいところ。

そして、医療問題の解決をより難しくしていることは、医療行為の基本はすべて人の手で行われること。
しかも、それなりの資格がある有限の人達によってのみ。

今日、技術の進化に伴い、医療に関わる行為も自動化されることが多くなった。

しかし、それらのほとんどは、検査方法であったり、情報の管理や処方箋に基づいた薬のパッケージングの自動化等である。
患者を見て(本当は“診て”)、感じて、治療方法を考える(おそらく、これが診察行為の本筋であろう)という行為はもとより、決断された治療方法の自動化は、ほとんど実現されていないだろう。

このような条件下で、工学(特に大量生産のような)のように効率を追求した分業(専業)化や自動化による、品質の均一化と提供コストの削減を実現する医療サービスの提供は、可能なのだろうか?


日本古来の物造りとは、職人芸であった。
職人芸とは、材料の仕入れから製造物の完成まで、加工・製造、そして加工・製造に関与する道具・機械の製作・メンテナンスまで、一人の人間によって行われることが基本とされてきた。

それゆえ、オーダの細かい違いに対応することは容易であれども、品質の均一化や提供可能な量の増加によるコストの削減の実現は困難であった。

この問題を、世界大戦を通じて学ばされた日本人は、ヨーロッパやアメリカから多くを学び、今や当たり前となった、高品質、大量生産を低コストで可能にする素晴らしき量産システムを作り上げてきた(ここで着目すべきことは、その製造法ではなく、その製造法を支え、次の世代に伝承するシステムである)。

が。
画一的なモノやサービスが溢れるようになった今日、人と違った、いや、自分にしっくりくるモノやサービスを要求するようになってきてはいないか?

この要求を満たすためには、量産システムでは対応不可能。
原点回帰ではないが、一種の職人芸のような、最初から最後までを一人の人間が担当するような行為が、数多く復活しつつある。



さて。
トラックバック先の、absinthさんが書かれた記事に戻って。

absinthさんは、件数は少なくとも、地域に点在する高度な医療行為(何をもって、“高度”と言うかは、人によるであろう)を受診可能な病院の存在が必要な理由を述べておられる。
また、医療行為の最初から最後までを一人の人間が担当することに対する自らの願望も述べておられる。

それに対し、その理念は美しくはあるが現実的ではなく、アメリカの医療行為に代表されるような、医療行為場所の集約、および分業(専業)体制を確立することの必要さを述べておられるトラックバックやコメントも多数ある。

このやり取りを、理系男(工学系)であるGALANT's Cafeが見ると、日本の医療もまた、工学と同じような道をたどるのかな?と思う。


真の効率を追求すれば、医療関係者の負担は減り、サービスの質は安定し、また多くの人へサービス提供を可能にするだろう。
このことは、決して、悪いことではない。

が、その分業体制に部品として組み込まれた医療関係者から、不満も出るだろう(無論、喜んで受け入れる方も多いと思う)。

また、画一的なサービスしか受けられなくなったサービス利用者(この場合は、患者)から、不満が出ることもあるだろう(無論こちらも、喜んで受け入れる方も多いだろうと思う)。

その時には。

再び、小さく点在しようとも、非効率であろうとも、医療行為の最初から最後まで携わることに誇りを持つ医療へ、戻っていくのだろう。

つまり、どちらが正しく、どちらが美しいという話ではない。
サービスの提供形態として、両方、必要不可欠なのだ。

にも関わらず。
日本の現行の医療システムでは、画一的に取り扱うことしか、許されていない。

これは恵まれたことでもあるが、その犠牲になっていることも多い。

この原因は、非効率と言われている日本の医療体制の問題だけでなく、過剰なサービス提供を要求する患者側にも、あるのではないか?

医療関係者だって、人。
神じゃ、ない。
医療関係者を神格なる人と思い、過剰な期待 -過剰なサービス提供- を彼らに求めていないか?

今、医療行為を受けようとする人(もしくは受ける可能性がある人 つまり、すべての人)が知っておかなければならないことは、医療関係者達 -特に若き医師達- が自らを犠牲にしてまでも提供しようとする質の高いサービス提供行為の存在についてではないか?



私事になるが。

GALANT's Cafeの幼馴染でもある外科医が、自ら愛用するパソコンの不調を訴え、救援を求めてきた。

所詮、パソコン。
製造元へ修理依頼すれば済む話だ。

が。
彼と彼の兄(彼らは兄弟で、街の人々から信頼され愛される病院を営んでいる)らの美しき理念が詰まったパソコンだ。
彼らの美しき理念の実現は、彼らが住む街の人々の幸せを実現することに繋がる。

そのパソコンの復旧が遅れれば、彼らの美しき理念の実現が、また一歩遠のく。
それは、決して、許されることじゃない。

彼らが、日々、その美しき理念の実現に、どれだけの犠牲を払っているか。
その犠牲のすべてを知らずとも、ほんの一部をGALANT's Cafeは知っている。

だから、その理念を分かっている者、そして障害が発生したパソコンを復旧できる技を持つ者として、彼はGALANT's Cafeに助けを求めてきたのだ。

それを、どうして、見殺しにできようか?
(自分の力量を超える話ならば、別だが... その時にはGALANT's Cafeが、その力量を持つ人間を探してこよう!)

これは、ビジネスの問題ではない。
これは、彼らの美しき理念を実現させることなんだ!

だから。
彼に、どんなに病院で待たされたとしても。
イヤな顔などしない。
(そもそも、そんな概念が、GALANT's Cafeには欠落している。)

たとえ小さく(世界の広さ、いや、日本の広さに比べれば)とも、街の人々を幸せにしようとする彼らの美しき理念。

その彼らの美しき理念の実現に、微力ながらも協力できることを誇りを思う。

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