不思議活性

モディリアーニとジャンヌと・・・ 1

 『モディリアーニとジャンヌと・・・』

     1

 『ロマの母と子』  1919年
 
 アメデオ・クレメンテ・モディリアーニ(1884年7月12日 - 1920年1月24日)は、イタリアの画家、彫刻家。
 モディリアーニ絵画の代表作は、大部分が1916年から1919年の間に集中して制作されている。 ほとんどは油彩の肖像と裸婦であり、顔と首が異様に長いプロポーションで目には瞳を描き込まないことが多いなど、特異な表現をとっているが、これは自身の彫刻の影響が指摘されている。 肖像画についてはモデルの心理や画家との関係を表現するが、一方、裸体画については、女性の造形美への関心が表れているのが特徴である。 なお、初期には、ピカソの『青の時代』やポール・セザンヌの影響を受けた絵を制作していると。

 私はモディリアーニの絵画を実際に見たことはなく、印刷物で見るのみですが、中学生の頃でしたか、『黒いネクタイの女』(1917年)と題した絵に出会ったのがモディリアーニについて知った最初でした。
 描かれた『黒いネクタイの女』の瞳がはっきりと描かれていないのが不思議でした。後日、「これは、モディリアーニの魂の写し画なのだ。深い夜のなかで目覚め続けるモディリアーニの意識が現してしまったある死、それが捨てがたく見えるのは絵画として確かな情感が完成されてあるからなのだ。」と日記に書いていた私ですが・・・・。

 『黒いネクタイの女』 1917年 

 この一枚の絵画『黒いネクタイの女』しかモディリアーニについて知らなかった私です。思えば、『黒いネクタイの女』の瞳がはっきりと描かれていないことが、この世界を見ていない鏡のなかの女として、自分の死と向き合っているのではと・・・・。
 
 その自分勝手な思いのほかに、モディリアーニについて知ることはなく、還暦を過ぎいつしかリタイア生活になった私ですが、先日、本屋でモディリアーニの『黄色のセーターを着たジャンヌ・エビュテルヌ』に出会いました。その瞳は水色一色でしたが、『黒いネクタイの女』とは違った温かなものを受け取った私でした。

 『黄色のセーターを着たジャンヌ・エビュテルヌ』 1918~19年

 そう、ジャンヌはモディリアーニの恋人だったのですね

 モディリアーニは、1917年3月、アカデミー・コラロッシでジャンヌ・エビュテルヌと知り合い、同棲を始める。 12月、生前唯一となる個展を開催したが、警察を巻き込む騒動となり、 1918年、転地療養のためニースに滞在する。同年11月29日、母親と同じ名前である長女ジャンヌが誕生。 
 1919年7月にはジャンヌ・エビュテルヌに結婚を誓約している。しかし、貧困と生来患っていた肺結核に苦しみ、大量の飲酒、薬物依存などの不摂生で荒廃した生活の末、1920年1月24日、結核性髄膜炎により35歳没。
 ジャンヌもモディリアーニの死の翌日、後を追って自宅のあるアパルトマンから飛び降り自殺した、と。

 モディリアーニについての言葉。

「彼は、人間を脇から眺めるのではなく、人間とともに生きていた。
それは、愛し、悩み、苦しんだ人々の肖像である。」
           ―― イリア・エレンブルグの回想から。

   * * * * * * * *

 それでは、モディリアーニの絵画作品を、幾つか、紹介いたします。

  『ヴァン・ムイデン夫人の肖像』 1917年

 解説より。
 モディリアーニは、この絵を描くことによって、自分らしい様式美をほぼ完成させたと言ってよい。裸婦を描いた時に採用した、ボッティチェリの様式が、普通の女性の肖像にも適用されるにいたったわけである。首をかしげた裸婦には、あまり精神性は見られなかったが、こうした具合に女性が首をかしげると、人は不思議と、そこに精神性を感じるものだ。

・次回に続く・・・・。

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