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ある阿呆の徒然annex

「柳が如く、撓やかに、逞しく。」
ある阿呆大学生による自己満足blog!!

教頭下着ドロ事件で教委のコメントに疑問符

2008年02月04日 00時56分00秒 | 教育・教採
教師の不祥事というのは、度々マスコミを賑わせます。

教師とはいえ完璧な人間であるはずがありませんし、完璧である必要はありません。
ですが、少なくとも「一線」は越えてはいけないと思うんです。
もっというなら、「完璧」を目指すとまでは言わなくても意識する必要はあると思います。
教師でなくても越えてはいけない一線を、教師が越えてしまってはいけませんよ。やっぱり。

女子大学院生の300円下着盗み教頭逮捕(日刊スポーツ)
 神奈川県警相模原北署は3日、アパートに干してあった下着を盗んだとして、窃盗容疑で同県相模原市立広田小学校教頭中島保夫容疑者(54)を逮捕した。
 中島容疑者は「以前から女性の下着に興味があった。ほかにも何件かやった」と、容疑を認めているという。
 調べでは、中島容疑者は2日午後10時ごろ、同市相原のアパート1階の軒先に干してあった女子大学院生(23)の下着1枚(約300円相当)を盗んだ疑い。
 同居している男性(24)が気付き110番。現場から走り去った車のナンバーから中島容疑者が浮かんだ。
 相模原市教職員課は「学校や教職員に対する信頼を根底から揺るがすもので、はなはだ遺憾。厳正に対処する」とのコメントを出した。

そういう欲望があるのは分かります。
ですが、やって良いことといけないことがあるでしょう。
これは明らかにやってはいけないことです。
良識のある人なら、被害者のことを考えた時点で思い留まるでしょう。
そうでなくても自分の家族や自分を慕っている教え子や教職員のことを思えば、思い留まるはずです。

ところでこの記事、教委のコメント。「学校や教職員に対する信頼を根底から揺るがすもので、はなはだ遺憾。厳正に対処する」

このコメント、ちょっとおかしいと思いません?(通り一遍なのは仕方ないとしても。)
民間企業の不祥事の時と、何か違いません?

言いましょうか。

普通、「権威の失墜」云々言う前に、謝罪するのが先でしょう。
「自分たちの組織の一員が、社会の人に迷惑をかけた」ということを。
極端に言えば、何だか教委が「教師の信頼失墜させやがって! 俺らも被害者なんだよ!」と言っているように聞こえるんですよね。
とても自分たちの一員が人様に迷惑をかけたという意識が、感じられないんですよね。

民間企業だったら、まずそんなことはありえません。心の中でそう思っても、普通はそうは発表しません。

たとえばNHKの記者が先日、免停中に車を運転して無免許運転で摘発された際の記事です。
またNHK不祥事 記者が無免許運転(スポニチ 2008年01月29日)
 NHKは28日、水戸放送局放送部つくば報道室の男性記者(29)が、無免許で同報道室の車両を運転し、茨城県警に反則切符を切られたと発表した。
 NHKによると、この記者は25日午前10時半ごろ、茨城県八千代町の県道を走行中、スピードの出し過ぎで同県警の白バイに停止させられ、無免許運転が発覚。当時は勤務中で、取材先の知り合いの葬儀に向かう途中だったという。
 記者は昨年11月、勤務中に追突事故を起こして、1月23日から60日間の運転免許停止処分を受けており、「コンプライアンス(法令順守)のことは頭にあったが、急いでいたので運転してしまった」と話しているという。NHK広報局は「誠に遺憾であり、深くおわびします。事実関係を調べた上で厳正に対処します」とのコメントを出した。

上記の記事の通り、NHKの場合は「誠に遺憾であり、深くおわびします。事実関係を調べた上で厳正に対処します」です。ちゃんと最初に謝罪の一言を入れています。
もっとも、この件は勤務時間内ということもあるかもしれませんが、あの放火未遂事件(勤務時間外に起こした事件)の際にも、放送局長が深々と頭を下げて謝罪しています。

昨年1月に当時オリックス・バファローズの前川勝彦投手が無免許運転で交通事故を起こした際にも、雑賀球団社長(故人、先月19日に逝去)らが会見で謝罪しました。

私は別に、教委が教師を守れと言っているのではありません。
現場の教師と教委は一つの組織として地域の公教育を担っているわけでしょ?
だったら、教師が不祥事を起こしたらまずは「自分たちの一員が一般社会の一に迷惑をかけた、申し訳ない」と被害者への謝罪をするのが先ではないのでしょうか?

「一人の不祥事で信頼に傷を付けられた組織も被害者」、たしかに一理あります。
でもそれは原則として、決して自分から言うことではないですよ。

もし、記事に書かれていない部分で相模原市教委が謝罪する内容のコメントをしていたのなら、今回のエントリーについてはお詫びのうえ訂正させて頂きます。

ですが、私の前提どおり、記事に書かれたコメントだけで謝罪の言葉がなかったとしたら……。

「『教師の常識は世間の非常識、世間の常識は教師の非常識』とは、どういうことか?」

1年半前に教採の集団面接でそういう発問がありました。
私はその時、かなり当たり障りのないことを返したのですが、今なら違うことを答えるかもしれません。
どうも今回書いたようなところにも、「世間の常識は教師の非常識」という部分があるのかもしれません。

そんなことを、僭越ながらちょっと思ってしまいます。

「エジソンの母」

2008年02月01日 23時59分53秒 | 教育・教採
さっきチラ見したんですが、このドラマの学年主任の先生の弁。

「学校は理想を教えるところ。理想を教えておけば、現実の歪みに直面しても最終的に間違った方向にはいかない」

たしかにそうだと思います。学校は理想を教えるところです。

でも、何だかなぁ……。

あのドラマの中では、あの流れだと、この言葉が教師の言い訳として使われている気がするんですよね。

まぁ俺が中高教員志望者というのと、ドラマの中のが小学生(しかも低学年)というところで、違いがあるのかもしれないんですけど。

たしかに学校は理想を教えるところです。
でも、あんな「臭いところに蓋」的な発想でそれを教えることができるんでしょうか?
現実の受け止め方を教えることも、大事な仕事なんじゃないかなぁと。
それは決して「所詮世の中こんなもんだよ」という意味ではなくて、「本当はこうあることが望ましいのに、現実にはそうでない部分もあるよ」と。

理想は理想としてあるけれども、現実は全てが全て理想どおりいくわけではない。
でも、だからこそ、現実を理想に近づけていかなくてはいけない。
理想と現実は違う。だからこそ現実を理想に近づけていくための対策を考えたり行ったりすることが大事なのではないでしょうか?
そのために、理想を教える一方で、理想と食い違っている現実があることも教え、その現実を理想に近づけるための方策を自ら考えていくことのできる力、そいつを身に付けさせるのが学校なのではないかと。
それが「理想を教える」ということの、本当の意味なのではないでしょうか?

たしかに、「現実的にはどうしても理想と現実とが食い違うこともあって、それはどこかで妥協しなくては物事は前に進まない」といったことは、もっと年齢を重ねてからでないと、適切に理解するのは難しいのかもしれません。

でも「食い違っている」ということ、「それでも理想を追求しながら生きていく必要がある」ということは、ちゃんと話せば分かると思うんですよ。
しかもこれだけマスメディアやインターネットなど情報が溢れている社会ともなれば、そういう「食い違い」に触れる機会も多くなります。
だから余計に、そういうことを教えることは必要だと思うんです。

このドラマで子どもから疑問点として挙がった「格差社会」だってそうです。
理想は「平等」、現実には「格差」。働かないで楽している人もいれば、働いても裕福とはいえない人もいる。
だから格差を是正することを考えなくちゃいけない。

そこまで含めて初めて、「理想を教える」ということなのではないでしょうか?
そうやっていくと、「理想」の裏にある原理まで見えてきて、他のことにも応用が利くことだってあるかもしれません。


にしても、「エジソン君」は、かなりの才能をもってますね。もっとも、規範を身につける必要はあるとは思いますけど。

授業づくり論(試論)①

2007年12月07日 23時56分13秒 | 教育・教採
どうも。プロ野球ネタが続いていたところで、久々に教育ネタです。

いや、気になる野球ネタはいくらでも出てくるんです。
いつの間にか入来弟が横浜ベイスターズに入ってたこととか、気づいたら新井が移籍会見やってたとか。
でも今回は置いときます。

まあ教育ネタと言っても堅苦しい話ではなく、「授業づくり」という、別に教師志望でなくても取っ付きやすいネタで。
大学生を経験した人なら塾や家庭教師で「教える」という仕事をやったことのある人も少なくないでしょうし。
それに、少しでもまともに学校通ったことのある人なら、誰でも授業は受けたことあるでしょうし。
「授業」というのは多くの人にとって一番取っ付きやすい教育ネタだと思います。
そんなわけで、肩の力を抜いてのほほーんと読んで頂ければいいかなと思います。

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まず、私の授業論の基本ですが、授業には大きく2つのポイントがあると、私は考えています。
1つは、(A)「生徒が知識や技術、思考法・学ぶ方法などを授かる場」であること。
もう1つは、(B)「生徒が自ら思考したり学んだりする力や態度を培う場」であること。
この2つです(もちろんこの2つの境界線は曖昧な部分もありますが、便宜上)。

ではこの2つの要素を踏まえて、教師はどう授業づくりを考えるべきかを、考えて生きたいと思います。

まず(A)「生徒が知識や技術、思考法・学ぶ方法などを授かる場」の要素ですね。今回はこれについてお話ししたいと思います。

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「生徒が授かる場」としての授業ということで、そのためには「分かりやすくかつインパクトのある授業」を教師が構想していく必要があります。

身に付けるべき知識や理解すべき因果関係・システムなどを整理して効果的に伝える、という技術。この部分は予備校の先生が得意としているところです。
この部分は、要は「教師のメッセージ(表現)を生徒が受け取る」ということができます。
ですから、この部分においては「教師の表現のあり方」が重要になります。

で、その「表現」ですが、主に2つのポイントがあると思いますね。
第一に、()「板書、話し方、説明の仕方、ワークシート・資料等の使い方といった技術的なこと」。
そして第二には、()「1つの授業(ないし連続する時限)が最も大事なテーマ(主発問)を軸に構造化され、効果的に理解されるようになっていること」。

()に関しては個々の技術についてそれぞれ重要なポイントがいろいろあるので、今回は割愛します。
()についてですが、表現というのは何でも構造化したほうが伝わりやすいってことです。
表現というのは一区切りの中でストーリーがはっきりしていた方が分かりやすいし、インパクトもあるんです。
ただ事項を並べてるよりも、何かしらストーリーにはめた方が分かりやすいし面白いわけで。

たとえば、『ドラえもん』について説明するとき、
「ドラえもんは未来から来たネコ型ロボットで、未来の便利な道具を沢山もっている」「野比のび太は勉強もスポーツも苦手な小学生」「ドラえもんはのび太を助ける」
という3つの文が別々にあるより、
「野比のび太は、勉強もスポーツも苦手なという小学生。ドラえもんは、そののび太の面倒を見るため、未来からやってきた。ドラえもんは色んな未来の道具を使ってのび太を助ける」
とした方が、『ドラえもん』がどういうマンガであるか理解しやすいでしょう。

ただこれは、下手をするとイデオロギー的に極端に偏った授業になったり、間違った情報になってしまったりするので、注意も必要です。

上のドラえもんの例で言うなら、「のび太は勉強が苦手」「ドラえもんはのび太を助ける」ということを強調しようとしすぎると、「のび太は勉強が出来ないのでドラえもんにコンピュータ・ペンシルを借りて毎回テストで満点を取っている」といったウソが作られてしまう可能性があります。実際のマンガでは、のび太はテストでコンピュータ・ペンシルを使おうとしたけど、思いとどまったんです。
これは脚色が間違った情報を生んでいるということですし、「のび太は劣等生」というイデオロギーに偏って語られているということです。
のび太君は道徳心のある心優しい少年なんです(もっとも、勉強やスポーツが出来ることと道徳心との間に相関関係はないが)。

間違った情報は避けるべきですし、少なくとも学問的正当性は確保する必要があります。そうでなければ、テレビ番組や報道などでいうところの「ヤラセ」になってしまいます。
それに「イデオロギー的な偏り」に関しては、特に学校教育は政治的中立性が求められている(←教育基本法)ので、現在の政治判断に関わる事項などについては特に、イデオロギー的な偏りは極力避けなければなりません。
まあこの2点を気をつけた上でですね、分かりやすくインパクトのある表現として生徒の心に残る授業を、構成する必要があるわけです。

この()の「表現の構造化」ということに関しては、私の個人的なことを言えば、映像ドキュメンタリー作品の制作に携わった経験が、かなり役立っていますね。
対象を取材して、それを視聴者に分かりやすく、かつ興味をひくように構成する。ただしヤラセと演出との境界線は意識しながら。
その作業は、授業の構成を考える作業とすごく似ているんです。
そんなこともあって私は、優れた映像ドキュメンタリー作品(Nスペなど)から授業の構成法についてヒントを得ることも、考えています。

====================
今回は、前編ということで、「生徒の知識・理解等のための授業」という側面から、教師の表現、特に「構造化」ということについて述べてみました。

次回(ブログではなくシリーズの)、後編では「生徒が自ら考える力を身に付ける場」としての授業について、考えていきたいと思います。

長文になりましたが、ご精読ありがとうございました。

とりあえず実習を振り返ってみる

2007年06月04日 22時31分59秒 | 教育・教採
京都に戻ってきました。昨日、神戸空港経由で。

思えば、料金を気にせずにネット使うのは久々です。
4月後半から5月前半はパソコン修理に出してたんで、パソコン使う時は大学かネットカフェ。ネットカフェのナイトパックで徹夜で模擬授業のための指導案作成、なんてこともありました。
5月後半は実習で帰省。実習開始直後に修理完了した我がFMVが宅配されてきましたが、実家はブロードバンド繋いでないので、ネット使う時はダイヤルアップです。ダイヤルアップだと、料金の他に、電話を掛けてくる人がいるかもしれないことも気にしなくてはなりません。
こりゃもう自宅ADSL万歳ですね。

平日に給食以外の昼飯を食ったのも、今日が久々でしたね。2週間、給食でしたから。
にしても、給食ってのも久々でした。中学卒業したのが8年前の3月ですから、それ以来の給食。8年ぶりの給食の味ですが、あえて言うなら「金城の内野守備」でしたね。
「葛城の外野守備」とどちらにしようか迷いましたが、さしあたり「金城の内野守備」にしておきます。
「その心」に関しては、分かる人にだけ分かればいいです(笑)
決して「ズレータの外野守備(>「ズレフト」)」ではないのでご安心を。

実習中、ほんま楽しかったですね。
時間かかったけど生徒とも打ち解けたし、他の実習生とも仲良くなれました。

実習生はまさに「戦友」ですね。
大学の中でも特に自由奔放な気風の大学にいる今の私にとっては、中学校は閉塞感を禁じえぬものでした。母校なのに「ヨソ者」視されている、という妙な感覚もありましたし。
そんな日々のストレスも乗り越えられたのは、「戦友」たる彼/彼女らがいてくれたおかげという部分も大きいです。
その「戦友」たちのうち3週間組は、まだ実習中。残り4日間、仕事もやけどそれ以上に、楽しくやってほしいです。

生徒のことについて書きましょうか。
何度か書きましたけど、生徒たちは、大人が忘れてしまっている素直さをもってます。
掃除なんて結構一生懸命にやってますからね。「県内一の名門校」を自称するどっかの高校の生徒よりも、よっぽど頑張ってます。

先生方からは叱る声しかほとんど聞こえてこなかったけど、実際、褒めるべき部分も多かったと思います(たしかに叱るべき部分も多かったですけど 笑)。
私も一応、「先生」という立場から注意をすることも多かったし、説教してしまったこともあったんですが、褒めるべき部分も多かったことに、感心しました。気付いた時には褒めるように気をつけていましたが、正直もっと褒めてあげられれば良かったなと、ちょっと思っています。

あと、反応が素直な分、高校よりも授業してて楽しかったですね。ま、それでも私は高校志望なんですけど(内容面の問題で)。

正直、いろいろと考えさせられた実習でした。
自分自身、「教員としてどうすべきか、どうあるべきか」も考えましたし、その面に関しては、高校に行った時以上に真剣になりました。
「生徒の行動ではなく、生徒という人間と向き合う」ことの大事さも感じました。ここで具体例を挙げることは都合上できないんですが、行動だけ見て叱り飛ばしていると、無駄な衝突を生むことだってあります。無駄な衝突は、お互いのために良くありません。私自身、心に留めておかないといけないことです。

え!? 「実習校への批判は?」って!? それは立場上言えないので(笑)

採用試験へのモチベーションは、俄然上がりましたね。

今日から試験勉強を再開しています。
「芸亭」の「芸」と、藝術の「藝」の常用漢字体「芸」とが同じ字なのは何だか納得できないな、と思いつつ。
元は「芸」と「藝」って全く別の字なんですよね。それなのに常用漢字では「藝」を「芸」と表記するから、全く別の字なのに同じ形になってしまってるっていう。
だから区別のために、「芸亭」の「芸」は日本史の教科書なんかでは、草冠を4画草冠(「十十」形)にしてる場合が多いですよね。

なんか面白くもない妙なウンチクを書いてしまいましたが、そんなわけで萌えて、いや燃えてきました。
知らんうちにTA格にされてたりする今日この頃ですが、採用試験へ向けて、楽しみながらやっていきたいと思っております。

実習終わったので取り敢えず書く

2007年06月02日 03時52分19秒 | 教育・教採
何だか、あっという間に2週間すぎちゃいました。
終わっちゃったね、教育実習其之二@中学校。
打ち上げから帰ってきて、dial upで投稿するために、こいつをメモ帳で書いてます。

いやー中学生って良いですね。
未熟なところは多いけれども、俺らが忘れてしまったような素直さを持ってて、妙に感心させられることも多々ありました。
掃除なんて、私が去年実習で行った高校の生徒よりも、よっぽど一生懸命やってましたからね。

でも私はやっぱり高校地歴で受験するんだろうな、と改めて思ったのも事実です。
中学校が嫌って言うんじゃなくて、どうも中学社会の授業が何度やっても、高校でやった時ほどうまく行った気がしないんですよ。
特に今の中学校は、僕らん頃と比べても、学習内容がかなり削減されてますからね。薄い内容を難しい言葉を使わずに分かりやすく説明しないといけない、かといって教師自身の理解が薄いと授業が薄くなる。
今回の授業、授業8コマやったんですけど、それで「俺の授業は高校向き」ってことが分かりました。

それに、歴史の授業なんか、ある程度きっちり調べて「ほぼ確からしい」と思えないと、私は中々できないんですよ。
でも中学校ではやっぱり端折らないといけない部分が多いですし、歴史ってのは端折ることで間違った解釈が生じることもあるんで。
そこを割り切って授業できる人ならいいんでしょうけど、私は「頭では分かっても心では分からない」ってやつでして、頭では「それは必要なこと」と分かってても、心では「何かもどかしい」なんですよ(そういった部分は高校でも多少はありますけど)。

それに中学校は、内容の研究よりも教育方法の研究の方が圧倒的にウェートが大きくて。
俺はそっちよりも内容面の研究をガリガリやる高校の方が合ってるのかな、と思います。

ま、実習についてはまたお話します。

ところで、さっきウチの教授からのメールを見たんですが、何だかいつのまにか責任者になっちゃってます。
映像制作演習の件で、設備関連の担当者に送ったメールのコピーが私のところにも届いてまして。
「担当の学生の名前はF(=俺)とKと申します。」
え!? 俺いつの間に担当者になってるん?? 私はただのお手伝いさんで、担当はK君だけのはずなんですが……??
ま、「僕の名前使うならTA代ください」ってことで(笑)

学校教育と競争原理

2007年04月08日 16時17分32秒 | 教育・教採
今日の朝日新聞1面の記事ですが、ちょっとご覧ください。
教員給与、査定で20%増減 再生会議提言へ   [2007年04月08日 朝日新聞]
 政府の教育再生会議は、ほぼ一律だった公立学校教員の給与を査定によって80~120%の幅で決められるようにし、あらたに「上級教職」をつくるなど、成果を反映させる新制度を提言する方針を固めた。予算を学校の児童・生徒数に応じて配分し、企業や個人が学校に直接寄付できる制度も提言する。道徳教育の強化と並んで、学校現場への競争原理導入という安倍首相の教育改革の二本柱が鮮明になった。
 再生会議は、公立学校の義務教育費のうち8割弱が人件費にあてられる現状を重視。「公教育の高コスト構造を見直す」として人材確保法の改正と給与や退職金、年金水準の見直しを求める。
 さらに査定の基準作りを提言。現行基準の増減それぞれ20%の幅で給与を決められる制度や、教え方や学級運営に優れた教員を上級教職として処遇する制度を求める。
 また、公立学校の統廃合を進め、教職員や経費を削減、浮いた財源を設備や図書の充実、学校独自の取り組みに振り向けられるようにする。学校選択制を拡大して競争を促し、「児童・生徒1人当たりに着目した予算配分」も打ち出す。安倍首相が著書「美しい国へ」で導入に前向きな姿勢を示した教育バウチャー制度の考え方に基づく。
 各市町村ごとに教育予算の使われ方を一律の基準で公表する「公教育費マップ」(仮称)の作成も提言。自治体間の競争も促す考えからだ。
 また大学教員の給与についても、60歳以上で2割、63歳以上で3割それぞれカットし、実績のある若手に手厚く配分する仕組みを求める。
 これら改革案について再生会議は9日の「学校再生分科会」(第1分科会)で議論のたたき台として公表、参院選前の5月にまとめる第2次報告の柱にしたい考えだ。
 ただ、再生会議はすでに、子どもの規範意識を向上させる観点から道徳の教科化を打ち出しているが、成績評価の対象にするかどうかなど会議内に異論がある。今回の改革案でも、学校間で予算配分に差をつけ、民間企業が小中の公立校など学校に寄付できるようになると、義務教育課程でも学校間の格差が拡大しかねない。改革の二本の柱とも是非を巡る論議が過熱しそうだ。
学校経営と競争原理って、そもそも馴染まないものだと思いますけどね。
たしかに競争原理は向上を生むための有効なメカニズムとなりますが、弊害も数多く生みます。

たとえば、普通の企業で競争原理がどのように働いているか、考えてみて下さい。
競争原理は向上を生みます。同業他社に負けないよう努力し、それにより技術等が向上していきます。
しかし競争原理は、向上の抑制にもつながります。たとえば、ごく普通の考え方をもった企業であれば、最新製品の技術情報はトップシークレットとして、社外に決して漏らさないようにするはずです。これが教育の世界に持ち込まれてしまったら、どうなるでしょう? 各教師が独自に考え出した指導方法や教材などが、他の教師に共有されにくくなります。
もっとも、教師になる人というのは、「そのような情報封鎖はすべきでない、大事なのは児童・生徒だ」という倫理観の持ち主が多いと思いますから、もしかしたら私の考えすぎなのかもしれません。
でも教師も人間です。私利私欲がないはずがありませんし、その誘惑に負けてしまうかもしれません。まして今や、飲酒運転で轢き逃げなどという、とんでもないことをしてしまう高校教員もいる世の中ですからね(しかも被害者は高校生だったそうです。自分の生徒と同じくらいの少年を跳ね飛ばして、何とも思わなかったんでしょうか?)。
競争原理はそのように働く危険性を、常に持っています。そのへんはどうなんでしょう?

しかも「査定」というのも、かなり怪しいものです。
一般企業であれば、「会社の業績(主に金銭面)にどれだけ貢献したか」で評価されます。
しかし、学校の場合はどうでしょう? 学校教育において重要なのは、「今その児童/生徒がどうあるか」以上に、「その児童/生徒が大人になったときにどうあるか」であるはずです。
もちろん前者が重要でないはずはありませんが、より重要なのは、あくまで後者です。でも、それを評価するって、かなり難しいと思うんですよ。
まず把握することも難しいですし、何をもって評価の基準とするかにも、かなり危険性があると思います。

それに、「お上からの査定」となると、教員が上からの評価ばっか気にして、本当に大事なこと、「眼前の生徒のために」という思考回路が、働かなくなってしまう可能性も高いです。
未履修問題でも明らかになったように、今でさえその傾向があるのですから、給与に響くとなると、余計にそうです。

もっとも、いい加減な勤務態度で夕方5時には帰宅して家では学校のことなんて全く考えもしない教員と、朝早く出勤して一生懸命働いて残業もして家に帰っても授業の準備やら何やらをする教員とが同じ給料をもらう、という今の状態は、たしかに考えものだとは思わないでもないですけどね。
(その意味では、「給与査定=競争原理」という朝日の言い方は、必ずしも正しいとは言えないと思います。)

この記事には大学教員の話題も触れてますけど、それもちょっと考えた方がいいです。学問分野によっては、蓄積が大きくモノを言うものもあります。たとえば私が専門とする歴史学など、その典型です。

私が言いたいのは、(株式会社設立の学校なども含めて)「学校経営に競争原理」は馴染まないんじゃないの? ということです。

まぁそんなね、私としては学校教育の行く末を悲観したくもなるニュースが飛び交う今日この頃ですが、そんな中で私がなおも教師を目指すのはなぜか、次々回でそれについて書きたいと思います。

あ、次回はちょっと他に書かないといけないネタができたんで。次々回です。

理科教育の意義について、ちょっと考えてみた

2007年03月03日 04時39分35秒 | 教育・教採
えーと、マリーンズ観戦記、また延期でいいっすかね? ごめんなさい。
大分気を逸した感がありますけど……。一応ほんまに今度やるんで。
写真、1枚だけこのエントリーの末尾に載せます。

僕って1つ1つの教科/科目に意味づけ出来るんでしょうか?
専門の社会科(地歴・公民科)については、私自身、一応の見解を持っているんですが。
先日、「歴史教育の意義」について、友人と少し話す機会があったんですが、それからいろいろ考えてて、1つの言葉を思い出したんです。

聞いた話ですが、進路指導の3者面談の席上、ある高校の先生(地歴・公民科ではない)は、生徒が「大学で歴史を勉強したい」と言っている時、こうおっしゃったそうです。
 「歴史を勉強しても、社会に出れば趣味の領域ですからねぇ……。」
たしかに歴史って、就職して仕事でそんなに直接役立つものではないんですよね。一部の限られた職種を除いては。
でも、歴史を学ぶことには、それ以外のところで、ちゃんと意義があります!(それについては後日述べます。)

その先生が歴史教育の意義を認識していて、かつ「この生徒ならこんな言い方しても歴史への興味を失わない」と判断した上での発言なら、まぁ良いのかもしれません(そうであると私は信じたい)。それでも『きらきら研修医』の「木下みかこ医師」の倫理コード抵触具合と同じくらいギリギリだと、私は思いますけど。

あ、『きらきら研修医』、男性看護師たちの想像の中での「女帝うさこ」に、爆笑してまいました(あの想像シーン考えた人は真性ドMなんか?とちょっと思ってしまった)。
にしてもタピオカ君は、ちょっと可哀想です。ほんま「気付いてないのは、うさこだけ」ですよねぇ。

話が逸れました。すみません。
どうも最近、ぐびなまやユーキャンやJR九州のCM見ても「うさこ」と思ってしまうもので。
さて、それでですね。その教師の発言を思い出して、ちょっと思ったわけですよ。
「果たして俺は、学校教員として、各教科の意義づけをすることが出来るのか」と。
というか、意義づけ出来ることが必要だなと。仕事で使うから、ではなくて、それ以外の意義を。
そんな訳で、ちょっと考えてみたわけです。

前振りが本文みたいなエントリーですみませんが、以下は箇条書き的に、私が考えたものを書きたいと思います。なお社会科については、私の専門ということで後日別枠にします。

◎国  語◎
 文章を読み解く力、文章で表現する力 → ひいては、あらゆる解釈能力と表現力。
◎英語(外国語)◎
 ①異文化理解(言語を見れば文化が分かる。なぜなら、思考パターン、事象認識の違いは言語に現れるから)。
 ②文法理論によって文章を解析する力(あまりに生活に溶け込んだ母語では、容易ではない部分がある)。
 なお、中・高の外国語教育が実質ほとんど英語であることに批判もあるが、現実問題として実利的に考えれば致し方ないし、母語以外の言語を1つ学べば、他の外語を学ぶ時にはその方法を応用できる。
◎数  学◎
 論理的思考力。これは単に計算力というだけでなく、文系的な事柄の思考にも繋がる(ピタゴラスが「万物の根源は数」と言っているが、数学は論理の骨組みを究極的に示したものである)。
◎理  科◎
 日常生活の中で自然現象を見極め、生かすことの出来る力となる。
 例えば、酸化・還元反応を知っていれば、金属を痛みにくくすることもできる(化学)。力の法則を知っていれば、効率的な力の使い方が分かる(物理)。人間の体の構造を知っていれば、病気の時どこが悪いか、自分でも何となく予測がつく(→すると病気を早期発見できる;生物)。気候の原理を知っていれば、天気予報で拾いきれないような細かい天気をある程度は予測できる(地学)。

そんなところでしょうか。半ば思いつきなので、甘いかもしれません。
もし何かありましたら、ご意見、ご感想等、ぜひお願いします!
教師(志望)の方はもちろんですが、それ以外の方も大歓迎です!
というかむしろ、「俺は教師になんてならねーよ」と思っている方の意見を伺いたいです。

最後に、お約束どおり写真を1枚。
「TSUYOSHI」こと西岡剛
今季から登録名を「TSUYOSHI」にした西岡剛です。
プロ野球にあまり興味がない人でも、「WBCで、絶妙のタッチアップだったのにデービッドソンの餌食となった選手」と言えば分かるでしょうか?
登録名ですが、ローマ字登録の先輩・SHINJO(新庄)には一応相談したそうです。奇しくも、新庄も「ツヨシ」(剛志)。

【教育を考える①】未履修問題に思うこと

2006年12月24日 22時35分52秒 | 教育・教採
高等学校世界史を中心とするこの論争、世間ではちょっと下火になってますが、私の思うところを少し書いておきたいと思います。

教育基本法「改正」が強行採決されたのを見て、「未履修問題ってひょっとして自民党の“自作自演”なのでは?」と少し思ってしまったりもしたんですが。まぁネット上という公共の場であまり無責任なことは言えないんで、そのことはひとまず置いといて。

この問題を聞いた時、まず私は、正直「なぜ今さら?」て思いましたね。
私の周りのバリバリの進学校出身の人でも「世界史やってない」て言ってる人は結構いましたし。
それに、文部科学省や教育委員会が今になって始めて聞いたとは、とても思えません。
これだけ多くの学校で行われていたなら、現場との乖離著しい文科省はともかく、現場との繋がりの深い(基本的に現場上がりの人間が多い)教育委員会が、全く知らないなんてはずはありません。今まで「暗黙の了解」として黙認してきたというだけ、のはずです。新聞報道を発端に騒がれ出してから「事実を確認している」というのは正にただの言い訳で、責任を全て現場になすりつけるなんてズルすぎです。

さて、では今回私がこの問題、そしてそれをめぐる報道や言説を通して考えたことを、3点挙げたいと思います。

①「正直者が馬鹿を見る」言説
未履修科目の補習をさせることについての伊吹文科大臣のコメント、「正直者が馬鹿を見るようじゃいかん」みたいなこと言ってましたよね?
一体何を言ってるんですかね?
問題の本質を考えて下さい。
学習指導要領というのは、「(高校なら)高校を卒業した者として必要な素養」を記したものであり、そしてそれを教育者側が生徒に保証するものです。ところが保証されているはずのことが教えられてなかった、そのことが問題なんでしょう?
でも、その伊吹大臣の発言は、「真面目に履修したヤツが受験に不利を被って、履修しなかったヤツが受験に有利だったら、履修しなかったヤツが得をする。だから補習させるべきだ」と捉えられます。そんなこと、そのへんのオッサンが言うならまだしも、天下の文部科学大臣たるものが、です。
(少なくとも制度の上では)「可哀想」なのは、馬鹿正直に履修した生徒ではなく、本来教えてもらえるはずのことを教えてもらえなかった生徒でしょう? 制度自体の不備はさておき、少なくともその制度が「正しい」と主張する立場にある人間なら、そう捉えるべきでしょう。

②伊吹文科相「指導要領の見直しは検討しない」発言
まぁ私に言わせますと正直、現場と文科省との乖離を象徴するかのような発言ですね。
制度を守ってなかったこと自体は、問題だと思います。責められてしかるべきです。
でも、待って下さい。
1校や2校ではなく、これだけ多くの学校がやってたんです。しかも今回発覚したのはおそらく「氷山の一角」にすぎませんし、決してある地区に限定されたものではなく全国的に、です。
それって、全国の学校現場が現行の指導要領に対して悲鳴を上げているってことじゃないんですか?
「守れていないからといって制度を見直すのは本末転倒」というのはある意味ごもっともなんですが、これだけ多くの学校が逸脱してたというのは、制度そのものに無理がある可能性を示唆してるんじゃないんですか?
正直この伊吹大臣の発言には、「正直者が馬鹿を見る」発言と同じくらい、あるいはそれ以上に疑問を抱きました。

③マスコミども
自分たちのことは棚に挙げて、ですね。ほんまに。新聞社やテレビ局にも、未履修の若手社員は多いはずです。無論、この問題を面白可笑しく糾弾してたワイドショーのスタッフにも。
芸能活動しながら高校を「特例」で卒業させてもらってるような人を番組に呼んで、もっともそうなことを言わせてるあたり、どうなんでしょう?
しかも例によって叩くだけ叩いて、建設的な議論はほとんどなされない。あー嫌だ嫌だ。

まぁこんなことですかね。
正直、①の方は文部科学大臣としての良識を疑いますし、②の方は権力側のかなり危険なやり方だと思いますね、私は。
この1件を通して私は、行政と現場が乖離している教育の現状を改めて認識しました。
まぁ文部科学省>教育委員会>学校というかなり一方的な権力構造にも問題ありますけどね。TMのヤラセだってそれが一因になってますし。

ま、陰気臭いんでこの辺でやめましょう。

それでは、皆々様、メリークリスマス☆

「プラス思考」について少し考えてみた

2006年07月26日 23時58分55秒 | 教育・教採
昨日(というか今日未明)の記事の「今日のひとこと」で、私は、「希望は『ある』のではなく『見出す』もの」と言いました。
実はこの言葉、酒の席で思いついてしまったものを、酔った勢いでアップロードしてしまったわけですが。
俺の価値観にものすごく依拠した言葉ではあるけど、そんなに的外れではないですよね。
まぁ厳密には、「あるのではない」のではなく「簡単に見出せない」ですかね?

だから、「希望は見えるものではない 見出すものである」としときましょう。

今回はこの言葉から、少し考えてみたいと思います。

この記事のカテゴリーは、「教育・教採」にしました。その理由は、この言葉が出てきた文脈にあります。
さっきも言ったように、この言葉は酒の席で思いついたものです。
ある先輩とお話してて、というか先輩のお話を聞いてて、分かったことなんですが。

どうですか、皆さん?

世の中って楽しいことばかりですか? 本当に楽しいことだらけの世の中ですか?

その質問に「ハイ!!」と答えてしまう人には、ウソツキ検定1級に認定します(笑)
実は世の中、憂きこと辛いことが、とっても多い。
それでも何かしら「楽しいこと」なり「希望」なりが見出せるから、人生やっていける。
そしてそういう積み重ねの中で、日々の生活(あるいは人生)が「楽しい」「充実している」と思える。
大半の人が、実はそうなんじゃないでしょうか?

ひょっとしたら中には本当に「辛いことなんて何もない」と言う人もいるかもしれませんが。
まぁそんな人は稀でしょう。

でも今の教育って、そういう視点が欠けているんじゃないかな?と思う。
もちろん現場の教職員の先生方は、そうでない方々も沢山いらっしゃると思います。
ですが風潮として、何となくそういうものがあるのではないかと。
いや、確かにプラス思考って、とっても大事なことなんですよ。
でもそれを生み出すには、マイナスをも受け容れることのできる「力」が必要だろうと。

私の印象ですが、なんか今の教育界って、闇雲に「プラス思考」とか「積極性」とかが持て囃される。
「希望を持て」といったようなことばかりが言われる。
それでいて、辛いこと・苦しいことを受け止める、受け入れるということは、あまり言われない。

でも人生って当然、楽しいこと嬉しいことばかりじゃないでしょ?
悲しいこと辛いこと苦しいこと、そんなことだって沢山あるでしょ?
そういったことを無視しておいて楽しい人生送るなんて、まぁ無理ですよ。

辛いとき苦しいとき悲しいとき、トコトン悩んで、そしてそれを受け止め、受け入れる。
そうやって負の部分を認めることで、様々なものが光り輝いて見えてくる。
そうやって前へ進んでいくエネルギーを生み出していく。
それが大事なのではないかな?と。
よっぽど器用な人・高尚な人でない限り、誰に教えられるわけでもなくそのような技術を身に付けていくなんて、まず無理であって。
でも現在の教育では、「希望を持て」だの「プラス思考」だの、そんなことばかりが闇雲に持て囃される。

たしかに希望を持つこと、プラス思考というのは、非常に大事なことですし、私自身それを否定するわけではありません。むしろその意義は大いに支持します。
ですが、そのためにはやっぱり、マイナスの部分を受け容れることも必要なんじゃないでしょうか?
それを受け止め、受け容れた上でこそ成り立つ、「プラス思考」であり「希望を持つ」ことだと思うんです。

まぁこんな第三者的に非難してますけど、私はこれから教育に携わる当事者となろうとしている人間ですから、他人事ではないんですけどね。
実際どうやって児童・生徒に伝えていったらいいかというのは、少し悩ましいところではあるんですが。
でも、少なくとも心掛けていかなくてはいけない。そう思ってます。

教育に携わる当事者として、俺自身にそう言い聞かせていたいです。

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今日のひとこと:

…は、未明にやったからもういいでしょう。今回は。

私立学校適性検査

2006年07月10日 23時53分51秒 | 教育・教採
そういうものがあるということがあるというのは、前から知ってました。
3限にテストがあったので、午前中から大学(学部)の図書室で勉強してたときに、ふと思い出して。

ひょっとしたら、と思い、何ヵ月かぶりに就職支援室に足を運びました。
すると、出てるじゃないですか。
兵庫県・福岡県・長崎県。
(ネットで調べたところ、鹿児島県は実施していないみたいです。)
気になる試験日程は…、8月27日!
て、下手すると2次面接の前日ってことになるのか!?
(鹿児島県の2次試験は8月28日からの10日間ほどの間で、いつになるか分からないんです。)
しかも兵庫県、出願終わってるやん!

まぁ親とも電話で話しまして、移動の都合等も考慮して、「受けるなら福岡県で」ということになりました。
福岡なら在住の人間が身内にいるので、宿の確保が非常に楽ということもあり。

出願が来週ということなので、受けるならさっさと決めなくてはなりませんが。
…てか、願書「持参」!? 「郵送は付加」!?
何で!!??
どうしたものか。

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今日のひとこと:

 燃えろよ湯上谷 我らの湯上谷 お前のバットで 勝利を決めろ
 (元南海・福岡ダイエー、湯上谷志内野手のテーマ)

サッカーのワールドカップは、ジダンが引退試合で頭突きをかまして退場になるという、よく分からない幕切れで終わりました(しかもそれでいてMVP 笑)。
そこで友人と「引退試合で何かやらかしたプロ野球選手はいたか?」という話になったのですが。
そこで私が名前を挙げたのが湯上谷志氏です。
(「」は機種依存文字かもしれないので一応断っておきますが「立ヘンに広」です。)
2000年日本シリーズ第6戦、負傷欠場の小久保(現読売)に変わり、王監督は、既に現役引退を心の中で決めていた湯上谷を、サードでスタメン起用します。
当時まだ湯上谷の引退は発表されていませんでした。
井口(現ホワイトソックス)欠場の間、内野の準レギュラーを務めていた浜名千広(現解説者)や柳田聖人(現韓国ロッテジャイアンツコーチ)ではなく、湯上谷を起用したところに「もしや」と思ったのですが。
「8番、サード、湯上谷。背番号6。」
南海時代・平和台球場時代と弱小期からホークス一筋でチームを支えてきた生え抜きの選手。
小久保の負傷欠場で回ってきた出番とはいえ、密かに引退を決意していたそのベテランに対する、王監督の粋な計らいです。
…が、湯上谷、なんと悪送球!
結局これが今に至るまで「湯上谷は弱いホークスの象徴だった」とまで言われることとなっています。

まぁ「湯上谷の悪送球は“愛嬌”」ということで、私と友人との会話では「ジダン≠湯上谷」となったわけですが。