新しいリコーダー奏法

吉嶺史晴によるリコーダー奏法解説ブログです。上達してゆくための全般的な考えかた・生き方のヒントについても書いています。

あらかじめ予定を考えてから即興する方法、何も考えないでその場で即興してゆく方法

2019年11月22日 | 即興演奏
即興の方法には大きくわけてふたつの方法があると考えてみます。

■あらかじめ大まかな道筋を考えてから即興をやる方法
■前もって決めないでその場で即興してゆく方法

慣れないうちは前もっていろいろなプランを考えてから即興するのが良いです。拍子、テンポ、調、和声の進行など。

しかし慣れて来たらこういうものを前もって決めないでその場で随時、瞬間的な判断で決めながら音楽を展開してゆくという方法もあります。とは言え、その奏者から出てくる音、あるいは音楽はその奏者が過去になんらかの形で聴いたものに影響されているのは否めません。

自分だけで全部、作ってゆくのは至難の技なので即興の例として過去の作品を参照してみるのは良いアイディアです。

*オトテールの残した文献に「プレリュードの技法」というものがあります。
ここには様々なプレリュードがあります。そのなかには極めて音楽的なものもあれば、ある特定の調に指使いを慣れされるための練習という意図が強いものもあります。

*あるいはファン・エイクの「笛の楽園」
これなどは当時流行の歌を分割装飾したものです。この場合は純粋な即興というよりは即興の材料になるものはすでに歌として存在していました。

*バッサーノやヴィルジリアーノが残したリチェルカーレ集を考えてみましょう。
この場合にはもとになる歌が存在した、というよりは当時その場で純粋な即興として奏されていたものに極めて近い様式のものが楽譜として残っている、といった趣のものです。

*古典派のピアノ協奏曲のようなものにはカデンツァと呼ばれる部分があり、かつては独奏者が即興していたものでした。この場合は独奏者の名人芸を披露する、という明白な意図があります。

*キリスト教の教会ではオルガン奏者が会衆の歌の伴奏をするだけではなく、礼拝のなかでは即興的な演奏を行うという伝統がいまだに残っている地域もあるようです。

*ジャズにおける即興はもとはお店の客がダンスをするために歌の曲を繰り返しているだけではなく、繰り返しの際に装飾をつけていたことが発展して独立したアドリブになってゆく、という経緯もあったようです。

このように考えてみるとひとくちに「即興」とは言ってもその目的や発展の在り方も様々です。

即興の練習をしてみるのは良いアイディアです。
そのために何か明白な目標をひとつ持ってみるのはどうでしょうか?

例えばこれからルイエのリコーダーソナタを演奏するとします。
まず曲が始まる前にプレリュード。
そして楽章と楽章の間には即興で短い間奏曲を入れてみるというようなアイディア。
もちろん即興的な部分は主な楽曲との間に程よいバランスを保つことが必要です。

あるいはまた純粋な作曲のための素材準備としての即興も考えられます。
部屋のなかを真っ暗にして録音機のマイクをオンにします。
その場で浮かんで来る旋律をどんどん音にしてゆきます。

後で落ち着いて録音を聴きながら作曲に使えそうな材料だけピックアップして耳コピーします。

気軽に即興演奏、楽しんでみてはどうでしょう?

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オトテール「プレリュードの技法」

2018年09月24日 | 即興演奏
17世紀フランスの管楽器奏者・作曲家J.M.オトテールの著作に「プレリュードの技法」というものがあります。

このなかには独立した音楽作品としての質を備えたプレリュード(前奏曲)に加えて様々なスケールやアルペジオの例があります。

このようなものを見てみると当時の音楽家たちにとって音楽とそうでないもの(スケールとアルペジオ)の区別はさほど重要なものではなかったのでは?

このような推測をしてみたくなります。

私たちは演奏という切り口から音楽にアプローチしているのでどうしても作曲、あるいは即興演奏、あるいはまたその場で既存の音楽作品に自由に装飾を加えてゆくということに慣れていません。

しかし、当時の文献が示唆してくれること(それは必ずしも客観的な読み取りではないかもしれないのですが)から私たちなりのアイディアを組み立てることは出来るはずです。

普通、一般的に私たちはスケールやアルペジオを機械的な音の羅列として認識し、「それらは音楽的なものとはいえない」というようなアイディアを持っているかもしれません。

しかし果たして本当にそうなのでしょうか?

オトテールのみならず、様式は違いますがA.ヴィヴァルディが残した一連のリコーダー協奏曲のなかにある16分音符のパッセージはどうでしょうか。

そのようなものを「機械的であり、音楽的には面白みのないものである」と切り捨ててしまったらヴィヴァルディのヴィヴァルディたる面白さは半減してしまうかもしれません。

初級者、中級者、あるいはかなり演奏そのものに慣れているはずの奏者であってもその場で装飾する、即興演奏する、あるいはまた作曲する、というようなことに対して抵抗を示す人は多いです。

でももしかしたら、それはそんなに難しいことではないかもしれません。

私たちが普段、思っている「スケールやアルペジオは音楽的なものとしてはあまり面白みがない」というアイディア、これ本当に正しいのでしょうか?

もしかしたら単純なスケールやアルペジオをもとにしてそこから新しい何かを作りだすことが出来ないものでしょうか?

オトテールが残した「プレリュードの技法」は単なるプレリュードの例であるということを超えて、音楽家が音楽というものに対峙していくための姿勢を暗示しているものだと読み取ることは出来ないものでしょうか?