○△□ ∞ 鶴千亀万 人間百年

『鶴は千年、亀は万年、人間は百年へ』

喫茶去「柳美里/鎌倉から移住して南相馬小高区に本屋を開店」

2018-04-16 | 雑記

◯2018.4.16日本経済新聞・春秋での紹介があった「芥川作家の柳美里さんの本屋」…興味あり調べてコピペしてみました。

鎌倉から移住して南相馬小高区に本屋を開店

本屋「フルハウス」OPEN! 本屋「フルハウス」OPEN! 

2017/11/25 に公開
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作家の柳美里さんは、旦那さんと息子さんの3人で、鎌倉から移住。若いときの放浪時代からの経験で、良い町には、良い本屋さんが在った経験から南相馬小高区で本屋さんの開業を目指します。
 
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人々に愛されてきた街角の書店が廃業する。そんなニュースに触れる機会が増えた。「本屋ゼロ」の市町村・行政区が全体の2割を占:日本経済新聞 https://www.nikkei.com/article/DGKKZO29419560W8A410C1MM8000/

 人々に愛されてきた街角の書店が廃業する。そんなニュースに触れる機会が増えた。「本屋ゼロ」の市町村・行政区が全体の2割を占めると聞いて驚いた。若者が本を読まない。ネットでの注文が当たり前になった。近年、毎日1軒のペースで書店が消えているという。

▼東日本大震災で被災した本屋は700以上。「東京の書店まで車を走らせ、自分で雑誌を買ってみんなに渡したい」「本の力を借りて、言葉の力を借りて、私たち自身が元気でいれば、誰かの涙を乾かすことができる」。東北沿岸部の書店員らの声を記録した「復興の書店」(小学館)は、本への熱い思いを伝えてくれる。

▼広さは10坪ほどだろうか。先週、福島県南相馬市のJR常磐線・小高駅近くに小さな書店が開業した。店主は、芥川賞作家の柳美里さん。エプロン姿で接客していた。3年前、神奈川県から同市に移住。本を通じて、人と人がつながる場所になれば。そんな願いで自宅を改修し、店を開いた。なんてすてきな贈り物だろう。

▼真新しい書棚には、柳さんが信を置く中村文則さん、和合亮一さんなど24人の作家、詩人が推奨する作品が並ぶ。当代屈指の目利きが精選した本のセレクトショップだ。週末には著名作家らを招き、自作の朗読会などを開く。当地は原発事故の影響で、住民の帰還は道半ばだ。本屋のある日常は、再起の一助となるはずだ。

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復興の書店 (小学館文庫)試し読みする   トークショーを繰り広げたフルハウスの会場=南相馬市

柳美里さん書店「フルハウス」でイベント 執筆エピソード語る:福島民友ニュース:福島民友新聞社 みんゆうNet http://www.minyu-net.com/news/news/FM20180415-261535.php

南相馬市小高区在住の芥川賞作家柳美里さん(49)の書店「フルハウス」のオープニングイベントは14日、同区で開かれ、柳さんが「春の消息」共著者の東北大大学院教授の佐藤弘夫さん(64)とトークショーを繰り広げた。

 今月9日に開店したフルハウスは、毎週土曜日に小説家や詩人などを招き、トークイベントや輪読会を企画している。初回の同日は、県内外から約30人が参加した。

 2人は最初に「春の消息」を朗読。その後、執筆に当たってのエピソードをはじめ、「死者と生者」「読書」など多岐にわたるテーマについて語り合った。参加者は2人の繰り出すトークにじっくりと耳を傾けていた。

柳美里さんが南相馬で書店開業 店名は、小説から https://www.huffingtonpost.jp/2018/04/09/yumirisangaminamisomadeshotenkaigyo-tenmeiwa-shosetsukara_a_23407116/

本の説明をする柳美里さん(右)=南相馬市小高区東町 写真:ASAHI

芥川賞作家の柳美里さん(49)が9日、福島県南相馬市のJR小高駅前に書店をオープンさせた。店名は「フルハウス」。初めて出版した小説本のタイトルにちなむ。「大入り満員」の願いも込めた。人と人を本がつなぐのだと信じて。

 「フルハウス、オープンします」。9日昼過ぎ、柳さんの第一声をきっかけに、集まった客が次々と店に入り、それぞれ思い思いの本を手に取った。

 

 「フルハウス」は柳さんが駅前通りに面した自宅の約35平方メートルを改装し、新しく誕生した書店だ。

 柔らかい春の日差しがあふれる開放感ある店内には、約1800タイトル、約5千冊の本がそろう。

 自らの小説をはじめ、福島在住の詩人の和合亮一さんや交流のある作家の角田光代さんら約20人が選んだお薦め本も並ぶ。

 絵本をそろえたのは、避難などで離れて暮らす幼い親族に思いをはせてもらいたいから。料理本など実用書には、避難という非日常を経験した人々に、日々の生活との「橋渡し」の役目を期待する。

 

 この日は、柳さんも「フルハウス」と書かれたエプロンを着て店頭に立ち、訪れた客に話しかけた。「普段はどんな本を読むんですか」「この本は友人の作家が選んでくれたんです」

(朝日新聞デジタル 2018年04月10日 07時12分)

 本屋「フルハウス」OPEN! 本屋「フルハウス」OPEN! 本屋「フルハウス」OPEN!


memo ∞「鮨 銀座 久兵衛/2018.3.25安倍首相のオバマ元大統領昼食ご案内場所」

2018-03-25 | 雑記

3月25日 AFP】安倍晋三(Shinzo Abe)首相は25日、来日中のバラク・オバマ(Barack Obama)前米大統領と東京・銀座のすし店で昼食を共にした。(c)AFP

安倍首相、オバマ氏と懇談=すし店で思い出話に花 (時事通信) - Yahoo!ニュース 時事通信

 安倍晋三首相は25日、来日したオバマ前米大統領と東京・銀座のすし店「久兵衛」で昼食をともにしながら懇談した。

トランプ米政権が鉄鋼・アルミ輸入制限を発動し、米朝首脳会談も控えるなど日米関係にとって微妙な時期だが、首相周辺は「旧交を温めるのが目的」と説明。2人は2016年5月に被爆地・広島をそろって訪れたことなど、思い出話に花を咲かせた。

 両氏が会ったのは、同年12月のハワイ・真珠湾以来。店の前でオバマ氏が「ハーイ、シンゾー」と声を掛けると、出迎えた首相も「会えて良かった」と応じ、笑顔で握手を交わした。約1時間半の昼食後、オバマ氏は「素晴らしかった」。首相も「主に昔話。結構盛り上がり、今回もすしが大変おいしかったと言ってくれた」と語った。

 オバマ氏はすし好きで知られ、大統領在任中の14年4月の来日時も、首相は銀座のすし店「すきやばし次郎」でもてなしている。久兵衛によると、オバマ氏はつきだしや刺し身に加え、握り12~13貫を平らげたという。 

鮨 銀座 久兵衛 ⑤

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memo ∞ 「消費者と生産者をつなぐことで新しいコミュニティを形成 ~福島屋」

2018-01-24 | 雑記

消費者と生産者をつなぐことで新しいコミュニティを形成 ~福島屋 bbs.kyoudoutai.net/blog/2017/09/5

あっちこっちで話題です!商売の本道・王道でしょう〜

【株式会社福島屋(1)】「日本でいちばん大切にしたい会社」に選ばれたスーパー

【株式会社福島屋(2)】ワケあり商品も工夫次第 農家もハッピーになれる経営

【株式会社福島屋(3)】スーパーがチラシを打たずに集客!?

【株式会社福島屋(4)】2号店が大赤字 苦しみ抜いた6ヶ月

【株式会社福島屋(5)】無農薬りんご栽培の第一人者 木村秋則氏の教え

 

カンブリア宮殿 Ryu's eye(福島屋 会長・福島徹)

FUKUSHIMAYA 福島屋 紹介

 

 


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memo ∞ 「金原明善 伝/2018.1.22安倍首相施政演説の引用人物」

2018-01-23 | 雑記

大久保利通と天竜川の治水事業——金原明善の熱誠と甲東の果断 - 幕末維新備忘録

古くから「暴れ天竜」と恐れられていた天竜川は、嘉永3年から明治元年までの19年の間に堤が切れたことが5度もあった。なかでも明治元(慶応4)年の洪水は最も惨害を極め、沿岸の村落や耕地をのみこみ、人家一万余戸に被害をおよぼした。

そこで安間村*1にいた金原明善(きんぱら めいぜん)は、沿岸住民とのあいだに協力会社を設立し、治水事業に尽力していた。ところが明治10年に県の治水の予算が4万円に縮小。静岡県には大川巨河が多いため、天竜川の治水事業には1万円しか割り当てられなくなった。 

これまで年間2万6千円の費用がかかっていた事業である。このままでは工事を中止しなければいけない。明善翁は「斃れて止む」との決心を住民に約束して治河協力会社を設立していた。むろん翁自身は天竜川のために斃れることは差しつかえない。だが、その後はだれが天竜川の水防に取り組み住民を救うのか。それまで幾度となく県庁に哀願していた翁は、10年の暮れ頃になりある覚悟決めた。

「非常の事業を全うするには、非常の決心をせねばならぬ。お上も恃むに足らず、河下の人間も力とするに足らぬうえ、ただ頼むは自己の熱誠のみであるここで徒らに日を送ることは、餓死を待つ同様である」

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12月中旬。表向きは博覧会見物として妻・玉城を連れて上京する。翁はまず、本郷の真光寺にむかい川村正平を訪ねた。川村は半年ほどまえ太政官の命で地方を調査し、翁の治水にかける熱意に感服した人物であった。

事情を聴いた川村は、宮内侍補の土方久元を紹介するといい、土方家まで同道した。土方も翁の熱意にうたれ、吉井友実から大久保内務卿に伝えた。

 当時、大久保公は多忙であったが「そういうことならば12月26日に霞ヶ関の官舎で面会する。同日午前出頭せよ」と命じた。

こうして12月26日、明善翁はこれまでの事情を一通り説明したあと、
「政府として人民保護の処置を尽くさなければ、沿岸の土地住民は滅亡するほかない」

と陳述した。 

するとそれまで黙していた大久保公は、
「われは天竜川の内務卿にあらず、天下の内務卿である。天竜川の沿川における人民の窮状はまことに気の毒ではあるが、天竜川の沿川だけを救済するわけには参らぬ」
と拒絶。

明善翁は冷水を浴びせられたようであったがどうにか気を取り直し力を込めて訴えた。

「この上は致し方ありませぬ。私には非常の大決心がありますが、それならば御聞き届け下さるでありましょうか」 

「非常の決心とは如何なる意味であるか」 

「我家の先祖代々所持しております家産をすべて献納して工事費を償いますから、不足額の補助を願いたい」 

「その金はどのくらいある」

「よく調査しなければわかりませんが、家産全部を売却すれば、四万円ほどはあろうと信じます」

この決心を聞いても大久保公は、
「一応考えてみよう。今日はまずこれにて帰ってよろしい」
としか言わなかった。

こうして明善翁は川村正平の家へ戻った。翁は、おそらく駄目であろう、生きては郷里に帰られぬ、神も仏も我が熱誠を見てはくれぬのか、と失望していた 

翌朝、上京中の静岡県令大迫貞清から、翁に出頭せよとの命があった。江戸払いでも受けるのであろう、と大迫県令の宿所を訪れると、
「昨日、君は天竜川の沿川の状態について、内務卿に詳細陳情したということであるが、内務卿からの命が下って、さっそく県庁にあてて願書を差し出すべき旨の沙汰があった。君の願意は叶ったのである」
と意外なことを告げられる。 

これを聞いて翁は涙を流して喜んだとのことである。それから旅館に戻り、玉城に「お上のため先祖伝来の家財をすべて差し出す。財産は一切残らない」と告げた。

さらに、これからは自活のために月給取りになる、と言い、それでも天竜川の治水が成功しないときには、「お前と共に樽の中へ入って、天竜川の河底へ埋めてもらう。そうして命のあるあいだ鉦を叩いて、天竜川に厚意を持つ者を守護し、天竜川に反対する者をとり殺す。最後の手段はこれしかあるまい」と玉城に言った。

家産献納のことを知った山岡鉄舟は、
「お前、そんなことをしてどうする。それほどにせずとも法の立てようがあるではないか」

と言うと、明善翁は、
「私は借金のない車夫になった心でやります。世には借金を持った車夫さえあるではありませんか」
と答えたという。

そうして玉城を東京に残したまま、郷里に帰り、治河協力会社で家産公売の手続きをした。そして『財産献納願書』を区長や治河協力会社の社員ら9名が連署して11年の3月、県庁に提出

ところが県庁では、一家の全財産を受けいれるわけにはいかない、として一部を明善翁の生計に差しつかえないように下げ戻し、残りを治水事業に出金させた。さらに治水工事のために年間2万3千円の補助金を下付することが許可された。こうして翁の素志が貫徹されたのであった。

後年明善翁明善は次のように人に語ったという。

大久保内務卿は大迫県令に対し、若し明善翁より全財産を提供するにおいては、斯々の条件を付して指令を与えるべしとの命を、予め下し置かれたものではないかと思われる。内務卿は霞ヶ関において、私の長い歎願を黙して聴いておられたが、国家多事の際国政の上からいえば勿論大事件とはいえない一小部分の問題であって、所詮採用は駄目だと諦めていたが、わずかに一日の詮議を以て、斯くまでに徹底したる裁許を仰いだことは感歎の外はない。——勝田孫弥『甲東逸話』

そして『甲東逸話』の著者は以下のように記している。

斯の如く、甲東の決断で明善翁は願意を遂げ、その面目も立ち、初めて蘇生の思をしたのである。而して天竜川の治水の基礎、植林堤防の方法も備わり、沿川における数万の人民のために生命財産が全く保護されるようになったのは、実に甲東の賜物であったのである。
 後年伊藤博文が内務卿たりしとき、やはり天竜川の治水問題で、内務省に詮議を願い出たことがあった。伊藤内務卿を初め、各局課に至るまで、なかなか議論家が多く、法律の解釈、規則の見解と、荏苒日を重ね、遂に三ヶ月もかかったのである。
 同じく治水の問題で、伊藤内務卿の時代は三ヶ月を費やし、大久保内務卿の時にはわずかに一日にて処断された。明善翁は一日と三ヶ月とを比較して大久保内務卿の手腕力量に鑑み、「たとい時代の推移はあるにせよ、その人物の等差も隔たりがあるものである。」というていた————勝田孫弥『甲東逸話』

 

 参考 勝田孫弥『甲東逸話』 静岡県知事官房編『金原明善と其事業』 渡辺霞亭『金原明善翁』


memo ∞ 「山川健次郎 伝/2018.1.22安倍首相施政演説の引用人物」

2018-01-23 | 雑記

            

白虎隊士から東大総長へ(山川健次郎)http://www7a.biglobe.ne.jp/~jigenji/kenjirou.htm

 東京帝国大学総長になった白虎隊士がいる。会津若松城の籠城戦を経験し、会津藩だけでなく敵方の薩摩および長州の藩士の期待を一身に集め、朝敵(新政府軍)から異例の出世を遂げた男の名は山川健次郎である。

 健次郎はペリーが黒船で来航した翌年の嘉永7年(1854)に生まれた。山川家は代々300石の中級藩士の家柄であったが、祖父の代には家老職の家格となった。幼くして病で父を亡くした。兄は山川大蔵(後に浩)、妹は後に鹿鳴館の華と云われた山川捨松である。
大蔵は新政府軍が城を包囲する中を彼岸獅子の楽隊を先頭に入場し、籠城戦では家老として総指揮をとった。また明治3年の会津藩のお家再興では、筆頭家老にあたる大参事となり斗南藩を文字通り牽引した。

 

 鳥羽伏見の戦いで惨敗した会津藩は、江戸に戻るや急いで洋式の軍隊に改めた。これまでの会津藩は青年から老人まで同じ部隊に属しており、体力にばらつきがあり統一行動を取れなかった。そこで年齢別に部隊を編成し直した。

 15歳から18歳までの白虎隊、18歳から35歳の精鋭の朱雀隊、36歳から49歳の青龍隊、50歳以上の玄武隊の4部隊に編成した。さらに階級によって士中隊、寄合隊、足軽隊に区分した。各隊の任務は朱雀隊が実戦部隊、青龍隊が藩境の守備、玄武隊と白虎隊は予備隊とした。飯盛山で自刃して知られている白虎隊士は、白虎士中二番隊42名の生き残った19名のことである。
また藩内から20歳から40歳の農兵3千人を集め、正規軍を合わせると総勢約7千人の部隊を組織した。河井継之助の仲介もあって、スネル兄弟から洋式銃を大量に入手し、洋式調練を急いだ。

ところが訓練の段階で、15歳の少年に鉄砲はあまりにも重過ぎて、健次郎少年を含む15歳の年少組を訓練から外した。

 慶応4年8月22日、新政府により国境の母成峠が破られ、白虎隊の護衛のもとに藩主松平容保は滝沢峠に出陣した。健次郎は滝沢口まで白虎隊について行ったが、ここで年少組は待機となる。運命のいたずらか、これが健次郎が見た白虎士中二番隊の最後の姿であった。健次郎は城に戻り籠城戦に加わったが、雨あられとふる弾丸の中で、毎日この世の地獄を見ていた。
9月22日朝、ついに城に白旗があがった。

 開城後、猪苗代に謹慎していた健次郎に対し、重臣が相談した結果越後へ脱走の藩命がでた。長州藩士奥平謙輔と会津藩秋月悌次郎との密約により、会津の将来を託する人材として健次郎に白羽の矢が当ったのである。
危険を冒して先導してくれた僧に助けられ、健次郎は新潟で奥平に会った。奥平に随行し一時佐渡や新発田に滞在したが、明治2年5月に東京の長州藩の屋敷に入り奥平の書生になった。

 明治4年、北海道開拓使で技術者養成のため、何人かの書生をアメリカに留学させることになり、その一員に選ばれた。留学生を選定するにあたり、旧幕府側に理解を示す開拓使の薩摩の黒田清隆がいたことが幸いした。北海道は寒いということで、薩長からだけの選抜を退けた。健次郎は長州の奥平謙輔に助けられ、今度は薩摩の黒田清隆に救われた。 
よく明治4年正月、黒田に引率されて健次郎はアメリカに向った。

 ここで難関のエール大学に合格する。健次郎はアメリカとの国力の差は日本人の理学の軽視であると感じ、自らの専攻を物理とした。新政府側の各藩が競って留学生を送り出した結果、勉学しない学生が増加し、国費での留学に批判が出てきた。健次郎にも帰国命令がきたが、現地人が「帰国後、日本のために頑張るなら」という条件で学資の援助をした。
滞米4年、エール大学で物理学の学位を取得し帰国の途についた。思えばかっての敵である奥平、黒田そしてアメリカの人達、そして会津の多くの人に支えられての卒業であった。

 帰国した健次郎は東京大学の前身である東京開成学校の教授補として就職した。明治12年には 日本人として最初の物理学教授となった。
明治19年(1886)、帝国大学令が発布され、東京大学は東京帝国大学になった。東京帝国大学は文科大学、理科大学、医科大学、工科大学、法科大学の5つの単科大学で構成され、明治26年に40歳で理科大学長になった。
そして明治34年(1901)、健次郎48歳で東京帝国大学総長に選ばれた。朝敵の汚名を着せられた会津藩からの最高学府の総長就任はまさに異例のことであり、旧会津藩の関係者は涙を流した。

 その後、51歳で貴族院議員、52歳で東京帝国大学総長を辞任するも、58歳で九州帝国大学初代総長、60歳で再び請われて東京帝国大学総長に復帰、61歳で京都帝国大学総長を兼任、62歳の大正4年(1915)遂に男爵となった。

 昭和6年(1931)6月、恩師である長州の奥平謙輔の書が飾ってある自宅で、健次郎は静かに眠りについた。
伝通院の葬儀では東京帝国大学総長の小野塚喜平次が弔辞を述べた。小野塚は長岡の出身で米百俵で設立された国漢学校に学び、東京帝国大学、ドイツ、フランスの留学で法律を学んだ。
最後に会津出身の健次郎を送りだしたのは、偶然にも長岡出身で共に辛酸をなめた小野塚だったのである。
会津白虎隊の勇士は77歳で青山墓地に眠る。