ふうちゃんのお城ブログ

お城巡りについての記録、城郭検定試験の体験談

第19回城郭検定 直後のレポート (ふうちゃんのお城ブログ 通算 33 回)

2021-11-22 10:41:24 | 城郭検定

11月14日に第19回城郭検定は終了しました。

検定を受けた方お疲れ様でした。

解答が公開され、自己採点をした方も多いことと思います。

(https://www.kentei-uketsuke.com/shiro/)

当日、2級を受けた知人から問題を見せてもらいました。

何と、何と

わたしがこのブログで取り上げた

石火打町ふるさと村(備中松山城)

南蛮たたき塀(名古屋城西の丸北)

おかこい山(中津城)

第19回城郭検定 直前対策 ふうちゃんのお城ブログ臨時号 - ふうちゃんのお城ブログ (goo.ne.jp)

この3問とも第19回城郭検定2級で出題されていました。

わたしは予想屋をしたつもりはありませんが、驚きです。

もし、このブログを読んでから検定を受けた方がいらっしゃったら

嬉しい限りです。

わたしも、やる気になります。

もっとも来年になって6月の試験の前に書けばよいのかもしれませんが、

わたしが第19回の問題を見て、ハッとした3題を挙げてみます。

 

戊辰戦争で藩士ら45名で結成された「凌霜隊」が会津若松城籠城戦に

参加したとして松ノ丸に顕彰碑がある城はどこか。

1 郡上八幡城 2 大垣城 3 白石城 4 高田城

 

まったく、見当もつきません。

お手上げです。

答えは1 郡上八幡城なのです。

郡上八幡城へは行ったことがあるのですが、

郡上八幡城の案内図をカメラのファイルから取り出してみました。

天守の左側に凌霜の森と凌霜隊の碑があります。

この時は見ようとする意識がなかったことがわかります。

完全に見逃しです。

次回の課題です。

岐阜の郡上八幡から会津若松までよく行ったものです。

戊辰戦争には白虎隊や二本松少年隊の他にも

まだまだ私たちの知らない歴史があることが分かります。

 

次の問題です。

明治の廃城令で存城処分になった現存天守はどれか。

1 犬山城 2 丸亀城 3 丸岡城 4 松本城

正解は 2 丸亀城です。

これも難しいです。1級並みの問題かも知れません。

明治維新になっととき、お城は廃藩置県(明治4年・1871)を期に

いったん陸軍省のものになりました。

そして、明治6年(1873)の廃城令によって、

お城の土地建物は、

1 存城処分 陸軍が軍用の財産として使用する(陸軍省所管の行政財産)

丸亀城(明治10年櫓、塀などは順次取り壊されたが、旧藩士からの嘆願で天守と大手門が破却をまにがれた)

2 廃城処分 大蔵省へと引き渡し普通財産としてに所管替えし売却用財産として処分する。

犬山城(天守以外取り壊し、明治24年濃尾地震で天守が半壊したが、修復を条件に旧藩主の成瀬家に譲渡された。)

 

丸岡城(天守は大蔵省により競売にかけられ落札されたが、町民の尽力により買い戻された。)

となったのです。

松本城は廃城令の1年前明治5年売却され、天守は取り壊されそうになりましたが、

明治8年市川量造が博覧会を開くなど資金を集め買い戻しました。

今残る天守は紆余曲折があり、現存していることがわかります。

よく残ってくれましたね。

 

3問目です。

昔から多くの水害に見舞われた天守石垣西に、

「明治二十九年大洪水」という石碑が建てられているのはどこの城か。

1 高岡城 2 大垣城 3 人吉城 4 八代城

正解は 2大垣城です。

昔から多くの水害に気付けばいいのですが、

昨年水害にあった「人吉城かな」、なんて考えてしまいました。

濃尾平野、輪中の水害を指しているのです。

大垣城の石垣に記しが付いているところがあるのですが、

全く気がつきませんでした。

これも、次回への課題です。

 

おまけの1問です。

みなさんこの問題にどう答えますか。

わたしは、正解を見て「うそー!」と言いました。

 

文禄・慶長の役で築かれた名護屋城の周辺には全国から参陣した大名の陣屋が多数造られた。

現在確認されている陣屋はいくつか。

1 約80 2 約100 3 約130 4 約150

何と、正解が、 4 約150となっていたのです。

わたしは、てっきり約130と思っていました。

早速、名護屋博物館のHPを調べました。

すると、現在150あまりが確認されていると出ていまた。

詳しい経緯はわかりませんが、発掘調査が進んだのでしょう。

歴史は変わります。そのことに改めて気付きました。

城郭ウオッチングの課題も次々に出てきました。

だから、お城巡りは止められません。

 

 

 

 

 


第32回ふうちゃんのお城ブログ・群馬県の日本百名城・箕輪城をゆく 

2021-11-20 20:09:00 | 日本百名城

箕輪城(群馬県高崎市)に行きました。

今回で3回目の訪問ですが、改めて堀の広さを歩いてみて実感しました。

 搦手口→二の丸→本丸→御前曲輪→堀へ下る→堀を歩き蔵屋敷で工事中の橋を見る→本丸に戻り橋の工事を見る

→二の丸→土橋・大堀切・郭馬出西虎口門を眺める→郭馬出西→郭馬出西櫓門→搦手口と歩きました。

午前曲輪から堀におります。この下を歩きます。

こんな道を歩きます。

人がいることで堀の広さと土塁の高さを感じる事が出来ます。

堀を歩いて行くと御前曲輪と本丸の間に掛かる木橋の復元工事をしています。

本丸に戻ります。

本丸から見た工事中の木橋です。

令和4年4月完成予定です。

二の丸に戻り郭馬出方向を眺めます。

土橋、大堀切、郭馬出、郭馬出西櫓門が見えます。

土橋上から大堀切を見下ろします。

郭馬出です。

郭馬出の解説です。

郭馬出西虎口門です。発掘調査の結果を生かして復元されました。

郭馬出西虎口門解説。

カメラのキャップがご愛敬ですね。

解説の内容を書いてみます。

 2002年度の発掘調査によって、郭馬出西側の出入り口(虎口)部分で井伊氏の時代(16世紀末)

の城門の柱の礎石が8石確認されました。

 この虎口は本丸への登城ルートのうち、城南側からの2ルートが集約される防衛上極めて重要な

場所になっています。そのため検出された箕輪城の城門の中で最大規模(幅5.73m、奥行き3.48m)

を誇り、箕輪城を象徴する城門の一つであったと想定されます。

 礎石の配置とから2階建ての櫓門と推定されますが、近世城郭で一般的となる瓦葺きではなく、

板葺きであることが、中世から近世への過渡期の特徴を示しています。

 礎石が全て残っていた好条件に加えて、各地に現存している近世初期の城門を参考にすることによって

門の建物構造を推定できました。2011年度から文化庁の専門委員会での審議を経て、2014年から2年かけて

伝統的工法に基づき復元工事を行いました。

 なお、この門は、関ヶ原の戦い(1600年)以前の城郭で復元された城門の中では全国最大規模になります。

1 発掘調査で分かったこと

 ・礎石の配置から、1階建てになることが多い4本柱や6本柱ではなく、2階建ての櫓門であることが推定されました。

 ・門の全面と背面で、雨落溝から礎石までの距離が違っています。前面が45cm長いことから、2階部分が張り出す形

  になり、「石落とし」のあることが推定されました。

 ・硬く踏みしめられていた箇所(上図A)が、主な通行口で、大扉が取り付けられていたと推定されました。また、上図Bの

  箇所も硬化しており、脇戸の位置が明らかになりました。

 ・瓦の出土がなく屋根は板葺きと推定されました。

2 復元図の作成

  発掘調査結果や現存する近世初期の城門を参考に復元図を作成しました。

3 復元整備の工程

 ・伝統的工法で復元を行うため、多くの皇帝がありました。

 (20014年6月~2016年6月)

 1 検出された遺構を砂で保護する。

 2発掘調査で見つかった礎石と同形状・同石材の石を選別し設置する。

 3柱を加工し鉋をかけをする。繰り返すと光が反射するようになる。

 4内冠木や2階の梁に用いられるマツ材は手斧で仕上げる。

 5礎石上面の形状に合うように、柱を何度も加工する(光付け)。

 6慎重に柱を立て、くみ上げる。

 7竹を格組んで組んで縄で固定した小舞の上に荒壁を塗り込む。

 8屋根は、手作りしたスギ板で吹き上げる。

 9門に取り付けてある金具は手作りで製作する。

 

4番の行程を担当した大工さんが

とても苦労したことを

とかって参加したツアーで、

地元のガイドさんから

聞いたことを思い出しました。

 

今回はツアーではなく、

個人の訪問だったので時間が十分に取れ

堀や大堀切の中をゆっくり時間をとって歩くことができ

その広さを実感することができました。

木橋の完成が楽しみです。

 

 

 

 

 

 

 

 


第31回ふうちゃんのお城ブログ 群馬県の日本百名城・金山城をゆく

2021-11-15 11:18:33 | 日本百名城

群馬県の日本百名城 金山城を訪ねました。

金山城案内図

城廻を始めて頃、一度訪ねたことがあります。

今回、関東の石垣の城としてのよさと関東平野の景色を堪能しました。

太田道灌が「天下の名城」とここを訪ねて絶賛したといいます。

『離合集散が激しい時代であり

いつ何時、双方が敵対するとも限らない中

道灌に敢えて手の内を見せ、

「寄らば斬るぞ」という抑止力があったかもしれない』』

という、伊東潤「歴史作家の城めぐり」の一節を思い浮かべながら、

昨日の共は今日の敵の時代、

相手に手の内を明かしたということは、

ここを攻めても無駄だとという思いにさせたのではないか。

と考えました。

今私たちが見る石垣は、道灌が見た者とはちがうかもしれませんが、

古い石垣が残っていました。

それがこれです。解説もありました。(新田神社の裏にあります)

では、いよいよわたしが実際に目にした今の石垣に向かいます。

その前に月の池と日の池を紹介します。

月の池

日の池 左右の四角は井戸

山の上にこのように水をたたえた大きな池が2つもあるのです。

まして、この池は2つとも石垣で囲まれています。

ローマの史跡のようだと感じた人もいるようです。

日の池の左右に見える四角く、格子の蓋があるのは井戸です。

飲料水は井戸で賄い、

池は戦勝祈願

雨乞いなど

神聖な儀式に用いたのではないか

という説もあります。

いよいよ石垣が登場します。

石敷の道をいきます。

大手虎口です。

実城(本丸)向かうための通路を厳重に守っていた一大防御拠点。

高く積まれた石垣は、敵を威圧し、城の威厳を示しています。

周囲の石垣です。

段築です。(高石垣ではなく、少しずつ上に積み上げていきます)

これは積み上げた石垣ではなく自然の岩盤です。

麓にあるこのような石を切り出して、石垣に使ったそうです。

 

本丸には新田神社があります。

新田義貞をご祭神としています。

この城を造った岩松家純は新田一族です。

 

そして、三の丸からのこの景色がなんと言っても素晴らしかったです。

金山城は石垣の立派な城でした。

室町時代に東の関東でこのように立派な石の城が造られたことに驚かされます。

 


第30回ふうちゃんのお城ブログ 小田原城再発見

2021-11-09 14:06:16 | 日本百名城

前回(29回)で小田原城の総構(惣構)についてふれました。

今回は小田原城のお城の門についてです。

その前にこれです。

天守にある売店で購入しました。

虎の印といわれるものです。

2代目の北条氏綱から使われました。

「祿壽應穩」(ろくじゅおうおん)とは

「領民の祿(財産)と壽(生命)は應(まさ)に穩やかなるべし」

領民の生命と財産は領主(北条氏)が守ることを意味しています。

虎にはどのような意味があるのでしょう。

現代では虎は百獣の王ライオンと並ぶ強い動物を表していると言えるでしょう。

虎が北条氏で、強い北条氏が領民の生命と財産を守ることを

表していると言えるしょう。

 

今回小田原城を訪問して見て新たな発見があったのは門についてです。

いつも下の地図にある学橋を渡って2の丸、銅門、常磐木門、天守と行っていました。

今回、正面入口は馬出門からという案内(掲示)従って学橋を渡らずに

馬出門を渡りました。

そこで、門について二つの発見がありました。

1 地図の正面入口、馬出門と内冠木門

2 住吉橋を渡ったところにある埋門についてです。

下の地図で青印があるところです。

 馬出門についての解説です。

高麗門形式の馬出門

高麗門形式の内冠木門

この2つの門で桝形を形成しています。

わたしが知ってる桝形を形成する門は、高麗門と櫓門の組み合わせが多かったので

珍しいと思いました。

次は住吉橋を渡るとき前の門を見ました。

渡り終わって門をくぐりました。

石垣を割って埋み門埋門(うづみもん)であることがわかります。

京都二条城の西門が同じ形式の門だそうです。

小田原城の訪問は何回目かわかりません。

いつも書きますが、城を訪れるとそのたびに発見があって楽しいです。

新たな課題も見つかります。

わたしは、二条城の西門を見ていないことがわかりました。

次回、京都に行くときは二条城の西門を見ることを目指します。


第10回ふうちゃんのお城ブログ 私見日本百名城(続を含む)めぐりの効用

2021-11-06 22:56:39 | 日本百名城

お馴染みの日本地図です。47都道府県が載っています。

よくご覧ください。

本ブログをご覧頂いている皆さんは、

47都道府県をいくつ訪れたことがあるでしょうか。

通過ではなく、一度でも足を踏み入れたことがある。

途中下車で駅のホーム、空港の搭乗口、船の桟橋等に足を踏み入れたことがある場合は、

訪れたことがあるとカウントしてよいことにします。

わたしは、全て訪れたことがあります。

両親を含め東京生まれ東京育ちのわたしですが、

親と江ノ島(神奈川県)に海水浴に行ったり、

林間学校で日光(栃木県)に行ったり都外に出ることはありました。

都外に出たスタートがいつどこであったかは、はっきり記憶にありません。

わたしが、意図的に意識して都外の道府県を回り始めたのは、大学3年の21歳のとき松島(宮城県)からでです。

そのゴールは35歳山寺(山形県)でした。

14年かかったことになります。(わたしの周囲にも47都道府県を全て訪れたことのある人はそう多くありません)

この時点で、最も多く行ったのは、北海道でした。

今は長野県です。毎年、軽井沢に来ているからです。

今も軽井沢でこれを書いています。近くの渓流に水芭蕉が咲いていました。

さて、本題に入ります。

日本城郭協会のHP(令和3年11月6日現在)によりますと

日本百名城認定者が4081名

続日本百名城認定者が702名

います。

日本百名城の選定基準は、

優れた文化財・史跡であること

著名な歴史の舞台であること

時代・地域の代表であること

各都道府県に1から5箇所

続日本百名城も百名城と同様の選定基準になっています。

 

日本城郭協会が平成19年(2007年)百名城めぐりのスタンプラリーを始めて14年間に、

4783人方々が、1から2回は、47都道府県を回ったことになるのです。

わたしは、2016.8から2019.11まで、3年3ヶ月をかけて200の城をめぐりました。

この間、47都道府県を少なくとも2周したことになります。

 

城を訪ねることが目的とは言え、47都道府県を訪ねていることは事実です。

この間、城だけを見ているわけではないと思います。

各都道府県の自然、地理、歴史、文化、食など

様々な事物・事象に触れるはずです。

2019.5.30に徳島城を訪ねました。

徳島城には阿波の青石といわれる緑色片岩の石垣があります。(お城)

徳島市は吉野川の河口にあります。(自然、地理)

阿波踊りが有名です。(歴市、文化)

そして、徳島ラーメンがあります。(食)

写真はありませんが、焼き鳥のことを阿波尾鶏(あわおどり)と言います。

阿波踊りをもじっています。

実際に徳島県を訪れることで、徳島県の社会的な事物、事象に触れることが出来ました。

それぞれの都道府県で様々な事物・事象に直接触れることができるはずです。

 

これこそ、百名城巡りの効用であり、

教材ウオッチングのまたとない機会といえると思います。