ふうちゃんのお城ブログ

お城巡りについての記録、城郭検定試験の体験談

第32回ふうちゃんのお城ブログ・群馬県の日本百名城・箕輪城をゆく 

2021-11-20 20:09:00 | 日本百名城

箕輪城(群馬県高崎市)に行きました。

今回で3回目の訪問ですが、改めて堀の広さを歩いてみて実感しました。

 搦手口→二の丸→本丸→御前曲輪→堀へ下る→堀を歩き蔵屋敷で工事中の橋を見る→本丸に戻り橋の工事を見る

→二の丸→土橋・大堀切・郭馬出西虎口門を眺める→郭馬出西→郭馬出西櫓門→搦手口と歩きました。

午前曲輪から堀におります。この下を歩きます。

こんな道を歩きます。

人がいることで堀の広さと土塁の高さを感じる事が出来ます。

堀を歩いて行くと御前曲輪と本丸の間に掛かる木橋の復元工事をしています。

本丸に戻ります。

本丸から見た工事中の木橋です。

令和4年4月完成予定です。

二の丸に戻り郭馬出方向を眺めます。

土橋、大堀切、郭馬出、郭馬出西櫓門が見えます。

土橋上から大堀切を見下ろします。

郭馬出です。

郭馬出の解説です。

郭馬出西虎口門です。発掘調査の結果を生かして復元されました。

郭馬出西虎口門解説。

カメラのキャップがご愛敬ですね。

解説の内容を書いてみます。

 2002年度の発掘調査によって、郭馬出西側の出入り口(虎口)部分で井伊氏の時代(16世紀末)

の城門の柱の礎石が8石確認されました。

 この虎口は本丸への登城ルートのうち、城南側からの2ルートが集約される防衛上極めて重要な

場所になっています。そのため検出された箕輪城の城門の中で最大規模(幅5.73m、奥行き3.48m)

を誇り、箕輪城を象徴する城門の一つであったと想定されます。

 礎石の配置とから2階建ての櫓門と推定されますが、近世城郭で一般的となる瓦葺きではなく、

板葺きであることが、中世から近世への過渡期の特徴を示しています。

 礎石が全て残っていた好条件に加えて、各地に現存している近世初期の城門を参考にすることによって

門の建物構造を推定できました。2011年度から文化庁の専門委員会での審議を経て、2014年から2年かけて

伝統的工法に基づき復元工事を行いました。

 なお、この門は、関ヶ原の戦い(1600年)以前の城郭で復元された城門の中では全国最大規模になります。

1 発掘調査で分かったこと

 ・礎石の配置から、1階建てになることが多い4本柱や6本柱ではなく、2階建ての櫓門であることが推定されました。

 ・門の全面と背面で、雨落溝から礎石までの距離が違っています。前面が45cm長いことから、2階部分が張り出す形

  になり、「石落とし」のあることが推定されました。

 ・硬く踏みしめられていた箇所(上図A)が、主な通行口で、大扉が取り付けられていたと推定されました。また、上図Bの

  箇所も硬化しており、脇戸の位置が明らかになりました。

 ・瓦の出土がなく屋根は板葺きと推定されました。

2 復元図の作成

  発掘調査結果や現存する近世初期の城門を参考に復元図を作成しました。

3 復元整備の工程

 ・伝統的工法で復元を行うため、多くの皇帝がありました。

 (20014年6月~2016年6月)

 1 検出された遺構を砂で保護する。

 2発掘調査で見つかった礎石と同形状・同石材の石を選別し設置する。

 3柱を加工し鉋をかけをする。繰り返すと光が反射するようになる。

 4内冠木や2階の梁に用いられるマツ材は手斧で仕上げる。

 5礎石上面の形状に合うように、柱を何度も加工する(光付け)。

 6慎重に柱を立て、くみ上げる。

 7竹を格組んで組んで縄で固定した小舞の上に荒壁を塗り込む。

 8屋根は、手作りしたスギ板で吹き上げる。

 9門に取り付けてある金具は手作りで製作する。

 

4番の行程を担当した大工さんが

とても苦労したことを

とかって参加したツアーで、

地元のガイドさんから

聞いたことを思い出しました。

 

今回はツアーではなく、

個人の訪問だったので時間が十分に取れ

堀や大堀切の中をゆっくり時間をとって歩くことができ

その広さを実感することができました。

木橋の完成が楽しみです。