ふうちゃんのお城ブログ

お城巡りについての記録、城郭検定試験の体験談

80回ふうちゃんのお城ブログ 元気な桃と出会うたび

2024-06-15 18:06:59 | 城郭検定

令和6年4月15日、娘桃は44歳で旅立ちました。

5年前に娘桃とわたしで行った四国の城を辿る旅に妻と出ました。

徳島城の石垣です。

阿波青石と言われる緑色片岩で出来ています。

本丸まで続く一直線の急な階段を息を切らしながら登りました。

5年前、娘桃はこの急な階段を登ることができた。

と思うと感無量でした。

桃は、この3年間、体調不良で、

最後は要介護で、

、デーサービス、訪問看護、訪問医療等福祉関係の方々のお世話になって生活をしていました。

しかし、小脳に出血の小さな痕跡が発見される前までは、

元気に普通な暮らしをしていたことを実感できました。

桃は元気な人だったのです。

この広い本丸で椅子に座って息を整えながら、

元気な桃の姿を思い浮かべる妻とわたしでした。

 

高知城です。

大手門と天守が現存で残っている城は、高知城、丸亀城、弘前城だそうでとても珍しい。

現存の大手門と天守が同時にカメラに収まるのはもっと珍しいそうです。

珍しいことをもう一つ紹介します。

現存の12天守はすでに紹介。

現存の御殿は川越城、掛川城、二条城、そして高知城。

そして、現存の天守と現存の御殿が同じ空間にあるのは高知城だけです。

 

天守の上にいく急な梯子状の階段

天守の最上階まで行くにはこの階段を登らなければなりません。


宇和島城です。

この天守の特徴は、鉄砲や弓矢を撃つために開けた○まるや□しかくの狭間(さま)ないことです。

平和な時代の城です。

戦うためというよりは、見せることを意識しているのでしょう。

天守を真正面から見るためには、急な階段を20分歩かなければなりません。

5年前の娘桃は、元気にここを歩いたのです。

後ろ向きに立ち止まっているのは妻です。

そこから遅れて立ち止まりカメラを構えているわたしがいます。

 

大洲城と松山城です。

5年前に娘桃とわたしで廻った四国の城を

妻とわたしでその足跡を辿る旅も最終日になりました。

大洲城は現存の高欄櫓と台所櫓の間に平成16年に木造天守を復元しました。

松山城は12現存天守で姫路城とともに連結式の天守で、

戦いのための備えがプンプン感じられる城です。

両城ともに天守の上の階に行くには木造の梯子状の階段を登らなければなりません。

桃は元気にここにきたのです。

そのことを実感できました。

 今回の旅は桃の死から間もない頃、妻から言い出しました。

「桃が行った四国の城に行ってみたい。」

即、わたしは4月25日に飛行機とホテルの手配をしました。

 実は5年前の城廻は、当時、日本名城巡りしていたわたしが、

妻と行く予定だったのです。

出発前日になって、妻が発熱し、

急遽桃といくことになったのです。

 5年前のことが、今日のために仕組まれていたとしたら、

何とドラマッチクな話です。

発病後3年、特に、この1年だけが44年の生涯の中で、

特別な期間であったことを実感できた旅でした。

 

また、桃は親が知らない所で、

元気に年相応にイケメン(福士蒼汰、山崎賢人、松本潤等)にも興味をもち、

友達とだべること楽しんでいたことも、

お線香を上げに来てくれた高校時代の友人や

フラワーアレンジメントを一緒に学んでいた友達の話からわかりました。

 

お遍路さんではありませんが、同行親子、元気な桃に出会えた旅でした。

 

 

 

 

 


ふうちゃんのお城ブログ第79回 再々度小田原城総構へ

2024-05-16 15:04:13 | 城郭検定

 

5月5日に再々度小田原城の総構を

講師小田原城郭研究会の山本篤志さんの案内で

巡ることになりました。

小田原駅西口の早雲像ですが、

5月3日の小田原北條5代祭りに兜と陣羽織をつけるそうです。

この銅像小田原市民一人あたり500円の寄付でできたということです。

 

城下張出です。

東西に50m、南北に45mぼど北に張り出す構造をもち、

敵兵に対して横矢掛と呼ばれる側面攻撃が掛けられます。

「北條五大記」が殿主と呼ぶ櫓台とも考えら

小田原城総構の北端の最前線基地と考えられます。(小田原城総構散策Mapより)

 

総構を巡っていると小田原城の天守が見えました。

山ノ神堀切

総構の北側に位置する谷津丘陵が最も狭くなった場所、

南北方向に尾根を断ち切るように掘られた堀切。

幅約30m、高さは約50m、西側の尾根との標高差約5m。

 

稲荷森

かつて一面孟宗竹に覆われていたため、

最も良好に堀が残された場所になりました。

堀の深さは約10mを測ります。

城内に向かっての湾入地形に合わせて

総構の堀が作られている様子が観察できます。

 

小峯御鐘ノ台大堀切東堀

ここは以前にもきたことがあります。

しゃがんで視線を下げて向こうを見ます。

段差があるように見えます。

今回の発見です。

総構の堀は山中城にあるような障子堀になっていたということです。

これがこのツアーでの最大の発見です。

今まで見てきた城下張出や山ノ神、稲荷森の堀も

障子堀ではないかということです。

この写真は東堀の出口付近にある

小田原の蒲鉾会社の社長のお宅だそうですが、

石垣の土台の上に住宅が建っています。

この高さと堀の深さを比べるのに山本講師は

ここに着目したということです。

 

稲荷森の美しさ。

堀が障子堀になっていたということ。

これが今回のツアーでの新たな発見でした。

秀吉はこの総構をみて、京都に御土居を作ったといいます。

小田原攻めに参加した各地の大名もそれぞれの土地に総構を築いたようです。


第78回ふうちゃんのお城ブログー浜松城を訪ねてー

2024-04-01 22:36:38 | 城郭検定

2019年12月25日。

ふうちゃんは今まで見たことのない美しいお城を見ました。

それは、浜松城の天守です。

三方原に向かう路線バスの中からです。

写真はありません。

ふうちゃんの心の中に刻まれたママなのです。

白内障の手術直後に初めて見たお城だったのです。

 

今回、久しぶりに浜松城に行きました。

可愛らしい天守をしっかりカメラに収めました。

 

お城に行く前にはままつフラワーパークで行われている浜名湖花博2024に行きました。

そこで、感動したのがこれです。

遠くから見ると出世大名家康君が見えます。

このような三角形の土地に花を植えていくのです。

近くから見ると

こんな感じにか見えません。

遠くから角度を付けてみると

初めのように家康君に見えます。

花をどのように植えるのかデザイン(設計)しているのです。

 

今の浜松城に行く前、曳馬(引馬)に行きました。

ひくまじょうと読みます。

場所は浜松城の天守から見える本丸の向こうの一番上の丸くなった森です。

磯田道史先生の解説です。

今は東照宮になっています。

家康は引馬は馬を引く負けを連想することから、浜松と改名しました。

 

もう一つ行ったところがあります。

椿姫観音堂です。

大河ドラマの田鶴役 関水渚さんの色紙

磯田先生の解説の冒頭

「飯尾豊前の守の城であったここ引馬城を開かせ」とあります。

豊前の守が暗殺された後、この城を最後まで奥方のお田鶴の方が守りました。

家康を相手に孤軍奮闘戦ったのです。

昨年の大河ドラマでもお田鶴の方の奮闘の様子が放送されていました。

「落城寸前のさなか、

緋縅(ひおどし)の鎧の白柄のなぎなた、

丈なす黒髪に純白の鉢巻きのお田鶴の方、

それを取り巻く鉢巻きにたすき掛け、

なぎなたを手にした18人の侍女が

主君のお田鶴の方を守り壮絶に戦いましたが

命を落としてしまいます。

家康公は、この地にお田鶴の方と侍女18人の亡骸を手厚く葬り、

塚を築き、洞を建てました。

母同士が義理の姉妹にあたる

家康公の正室「築山御前」も

塚の周りに百本あまりの椿を植え、

供養を営みました。

椿は毎年、美しい花を咲かせたことから、

いつかしら椿塚と呼ばれ、

それが椿姫の由来になったと言い伝えられています。」(現地にあったパンフレットより)

「敵ながら天晴れ」家康は認めたのでしょう。

 

そして、浜松城に向かいました。

城郭検定に取り組む中で、

浜松城は、天守台が天守曲輪の中にある珍しい城であることを知りましたが、

それを実感したいというのが

3回目になる今回の浜松城訪問の目的です。

天守曲輪の石垣と天守門(櫓門になっている)

石垣は野面で折れが入っているのがわかります。

天守の上から天守門をみます。

櫓が石垣に載っているのがよく分かります。

 

この角度から見ると浜松城の構造がよく分かります。

手前から本丸の石垣、ネットの向こうの石垣から天守櫓、櫓門になっている天守門、

そして天守がそびえています。

 

堀尾氏時代に創建された天守は17世紀姿を消し

江戸時代には天守がなかったそうです。

しかし、城主が6人老中、2人が大坂城代に登用され出世城と言われています。

この天守は昭和33年の復元です。

このようなことを実際に目で確かめ、訪問の目的を果たすことができました。

 

浜松と言えば。浜松餃子です。

浜松駅ビル1階にある石松という店で10個食べました。

久しぶりの新幹線を利用した城郭ウオッチングでした。

 

追伸

おまけの一枚新幹線からの富士山です。

 


ふうちゃんのお城ブログ更新・本作成についてのお知らせ

2024-02-20 11:47:19 | 城郭検定

江戸城天守台です。

明暦の大火の大火後、天守の再建をめざして

加賀前田藩が請負い、天守台を作りました。

しかし、保科正之の市民生活再建優先の建言を受けて

天守は今日まで再建されていません。

わたしは保科正之の市民生活優先の精神を受けて

今、一部にある江戸城天守再建の動きには賛成できません。

 

子供たちと小田原城を訪問して以来(https://blog.goo.ne.jp/fuhchan2399/e/ab32e6f25ffcf75b2f221ba4832c1bad)

しばらく更新していません。

先日、久しぶりに川越城に行きました。

川越御殿です。現存する4つの御殿の内の一つです。

次の計画を立てるための準備のためです。

乞うご期待です。

また、

現在、今までのブロクをまとめて、本を作ろうとしています。

城郭ウオッチングを通して学んだ事

城郭検定を通して知識を得たことなどを

中心にまとめようとしています。

 

 

 

 

 


第77回 ふうちゃんのお城ブログ 小学生とその保護者を小田原城へ

2023-12-19 21:12:37 | 城郭検定

わたしが小学校の教員をしていた時の教え子が学習塾(幼児教室)を経営しています。

4月に学習塾のアトラクションとして、

お城の話を

小学校の低・中学年にして欲しい

との依頼を受けました。

今年の4月に

現存12天守の話をパワーポイントを使ってしました。

参加者から、実際にお城に見学に行きたいという要望がありました。

小学生の低・中学年が初めてお城を見に行く。

やはり、初心者には、

天守(天守閣)があるお城らしいお城がいい。

東京近郊で天守のあるお城。

どこにあると思いますか。

ありました。

ありました。

小田原城です。

 

ということで、

12月17日(日)小田原城に行きまたした。

 

これはその報告です。

 

参加者は1年生から4年生までの小学生11名と保護者12名、

そして、教え子とわたしです。

小田原駅に現地集合。

小学校の低・中学年が対象ですから、

具体的な物や映像で迫ることが大切です。

お城に行くには小田原駅の東口を出るですが

今回は西口を出ます。

北条早雲(宗瑞)公の銅像があるからです。

小田原北条氏の初代です。

どうしても記憶に留めておきたいたい人です。

遠目から見たのですが、

もう少し像に近づいて

早雲公の近くにどんな動物がいるか。

角に何が付いているか見るように指示します。

牛の角に松明が付いています。

いわゆる「火牛の計」(かぎゅうのけい)を表しています。

早雲公は小田原城を攻めるとき

夜陰に紛れて千頭の牛の角に松明をつけて迫ったと言われています。

同様のことが木曽義仲が倶利伽羅峠で用いたと言われていることから

どちらも、後世の創作ではないかという説が強いそうです。

早雲公の場合、単なる創作ではなく、

押し寄せる津波の影響を牛に仮託したものであるという考え方もあるそうです。

津波被災による混乱に乗じて早雲公が小田原に進出したという解釈だそうですが、

まだ、慎重な検討が必要とのことです。

参照 佐々木健策「戦国期小田原の正体」(吉川弘文館)

 

小田原駅東口に戻りこの天守の遠景に出会わせます。

今日目指すのは天守(天守閣)です。

天守に向い歩きはじめます。

案内図で経路を示します。

この経路赤点に従って進むことを知らせます。

お城の見方の初歩的な話をします。

お城は攻める方と守る方がいること。

今日は攻める方なので、

守る方の工夫(仕掛け)を仕掛けをみつけましょう。

 

では、先に進みます。

お城らしい風景が展開されてきます。

隅櫓(矢倉とも書きます)物置、武器庫です。

お濠(敵をお城に近づけさせないため。鉄砲や弓が届かないように。)

馬出門土橋(めがね橋)、土塀、馬出門

馬出門(高麗門)

外から行くと門が狭くなっています。

なかなか中に入れないで立ち往生します。

塀に空いている△や□の穴を狭間(さま)と言って

鉄砲や弓を撃つための穴です。矢や銃口でねらうことがでます。

立ち往生していると

狭間から銃口や弓矢が仕掛けられて狙い撃ちされます。

中には入ることが出来ても

四方が壁(狭間のある石垣、塀、門)で囲まれた空間(桝形)になっていて

狭間から狙い撃ちされ命の危険にさらされます。

狭い高麗門を潜っても

まっすぐ進むことはできません。

ここの場合だと直角に左折させられます。

そこを横から狙われます。

もう一つの高麗門(内冠木門)を

やっと抜けて

馬屋曲輪に入りました。

将軍家の馬を繋いでいたそうです。(今の駐車場かな)

そこから、次に進む住吉橋と銅門(内仕切門と渡櫓門)をお濠越しに見渡します。

門の中が四角い桝形になっていることがよく分かります。

土塀にはお濠越しに鉄砲で狙う狭間がついているのです。

 

住吉橋と内仕切門

内仕切門は石垣をくりぬいて作った埋門(うずみもん)形式という大変珍しい門です。

中に入り左に曲がると渡櫓門が見えてきます。

大扉などの飾り金具に銅が用いられたことから銅門(あかがねもん)とよばれています。

桝形の中を通って階段が渡櫓門まで続いています。

よく見てください。お城の中の階段は幅が一律ではありません。

歩きにくくし、前進を妨害するためです。

子供たちが門の入口手前の屋根に付いている石落に気付きました。

石落は屋根がくりぬいてあり、上から下に向かって石、熱湯、肥などを落としたり

鉄砲を撃ったりします。

当日、渡り櫓門の二階を特別公開しており、

石落を上から見ることができました。

渡櫓門を抜け、二の丸にでました。

広い空間です。

二の丸御殿があり、政治をしたり、藩主の生活の場として利用されていました。

藩主(お殿様)は天守で生活しているのではなく

御殿で生活しています。

天守で生活していたのは織田信長だけです。

 

常磐木門をくぐると本丸です。

いよいよ本丸です。

天守も真正面に顔をだしました。

これが天守の真正面です。

真正面から天守に入ることは出来ません。

左に見える附櫓の真正面に回り込んで入らなければならないです。

これも攻め込まれないための工夫です。

ここまでは、その都度、説明をしながらきました。

天守では大勢の方が一緒になります。

天守課題を設けて

親子でクイズに取り組んでもらうことにしました。

 

天守課題

1 情報を得るために城内のビデオを見る。

2 北条氏は何代つづいたか確認する。

3 江戸時代の城主は主に何氏と何氏か。

4 虎の印判が押してある書類を確認する。

5 展望台で石垣山を確認する。

6 城内のクイズコーナーに挑戦する。 

 

次のクイズに、親子で相談して考えてください。(実際に配布したプリントにはルビがついています。)

第1問 小田原駅西口に立つ銅像の戦国武将はだれでしょう。

1徳川家康 2織田信長 3豊臣秀吉 4北条早雲

第2問 小田原駅東口を出た所から見える小田原城天守はいつ建てられたものでしょう。

1江戸時代 2明治時代 3昭和時代 4平成時代

第3問 馬出門を入ったらある空間をなんと言いますか。

1虎口 2桝形 3大手 4搦手

第4問 馬出門と内冠木門の形をなんと言いますか。

1冠木門 2櫓門 3薬医門 4高麗門

第5問 住吉橋を渡った所にある内仕切り門のように石垣を割って設けた門を何といいますか。

1埋門 2薬医門 3櫓門 4大手門

第6問 渡櫓門は銅門と言われています。なぜでしょう?

 1大扉などの飾り金具に銅が用いられているから。

 2屋根に銅が用いられているから。

 3窓に銅が用いられているから

 4階段に銅がモ散られているから

第7問 天守は何重何階でしょう。

 1五重四階 2四重四階 3三重四階 4二重二階

  平成の改修で三重五階になったので上記の中に正解はありません。

第8問 小田原城天守は、次のどれとかかわりが深いですか?

 1徳川15代   2足利15代 3北条5代 4豊臣2代

第9問 藩主が民にお触れを出すとき使った動物の頭の印は何でしょう。

 1いぬ 2ねこ 3うし 4とら

第10問 小田原藩が目指した年貢(税金)は何でしょう。

 1五公五民 2六公四民  3七公三民 4四公六民

第11問 豊臣秀吉が小田原城を攻めたときに作ったお城はなんでしょう。

 1石垣山城 2江戸城 3川越城 4小机城

第12問 小田原城天守にお祭りされている神様は?

 1大黒天 2天神 3摩利支天 4弁財天

(宿題)小田原城の見学で学んだことから、お城検定の問題を作ってみましょう。

 

当日、実際に答え合わせをする時間がなくなりました。

このブログで確認していください。

正解は太字です。

 

 

最後に一緒に行く予定だったのは

関東大震災の崩れた石垣の跡です。

お城は地震の被害にいつの時代も遭遇してきました。

この石垣も地震の遺構として敢えて残してあるのです。

また、天守の展示の一番始めにあったのは

この石(石碑)です。

解説にはこう書いてあります。

小田原城再興碑

元禄16年(1703)11月22日夜の大地震により

小田原城は天守をはじめ、ほとんどの建造物が倒壊・消失する

壊滅的被害を受けました。この再興碑は、藩主大久保忠増による

復興の経緯を伝える貴重な資料で、大正12年(1923)の

関東大震災の際、崩落した天守台の石垣の中から発見されたものです。

 

実に貴重な資料です。

地震への復興はお城にとっても永遠の課題と言えるでしょう。

そのことを伝える関東大震災の石垣を子供たちにも

直に感じて欲しかったのです。

またの機会に訪れて頂ければと思います。