ありがたいことに本ブログを読んでくださる方が増えてきました。
前回は、今現在432のリアクションをいただきました。
わたし(ふうちゃん)とお城とのお付き合いの原点を知って頂くために
加筆・修正し再掲させて頂きます。
突然の訃報
Lineは2021年(令和3年)4月3日突然舞い込みました。
早朝、杉渕尚さんが亡くなったというのです。
杉渕さんは、わたしの城仲間の一人です。
そのとき、急にフラッシュバックしたシーンがあります。
それは、2015.10.30 広島県にある福山城です。
石段が向かってV字のように掛かっている合坂(あいざか)を前にして
「どちらが上り、どちらが下り」と質問しました。
「答えは左側通行なのですが、武士は刀を左側に挿しています。
通行しやすいのは刀が外側にある方ですよね。」
合坂(これは福山城ではありません)
この場面がやけに印象に残り、5年以上経った今でもよく覚えています。
それ以来、社会科教育連盟の3・4年部会後の飲み会で
杉淵さんに城ついての質問をぶつけていたように思います。
そんな中で、日本百名城がについての話があります。
杉渕さんはもうすでに一周しており、
二周目に入っているとのことでした。
わたしも、ネットから百名城の一覧表をプリントアップし、
今まで何らかの形で訪れたことのある城をチェックしたところ、
58になりました。
これから、42周れば、100になる。
そんな軽い気持ちから100名城について興味をもち始めました。
適切なアドバイス
毎年宿泊旅行をしている大学時代の友人と、
大人の休日クラブきっぷを利用し北海道に行くことになりました。
私は名簿上日本100名城NO.1の根室チャシ跡群に行く計画について、杉渕さんに相談しました。
「釧路まで汽車で行き、周りの風景に触れながら、そこから先は、レンタカーがよい」
とのアドバイスをもらいました。
おかげで、景色を見ながら宿泊した霧多布でエゾニューの花を見ることができました。
わたしが学生の頃に流行ったさとう宗幸さんの岩尾別旅情の一節に
「丘の上に咲く一輪のエゾニューの花に寄れば」という歌詞が出てきます。
しかし、花の姿形は知りませんでした。
帰京して調べて、花の名前がエゾニューだとわかったときには、
50年来の思いびとに会ったような気がしました。
杉淵さんのアドバイスのおかげです。
エゾニューの花です。
根室チャシについてはこちらも参照
https://blog.goo.ne.jp/admin/editentry/?eid=e6eae0c808786eab90f65f655d5f6a92&sc=c2VhcmNoX3R5cGU9MCZsaW1pdD0xMCZzb3J0PWRlc2MmY2F0ZWdvcnlfaWQ9JnltZD0mcD0x
それ以来わたしの城めぐりの計画について相談に乗ってもらうようになりました。
かなり無謀な計画を立てましたが、その都度適切な指導をして頂きました。
わたしに合わせた日程調整
杉渕さんは、社会科教育連盟の3.4年部会の会員を中心に、
お城について、Lineで情報を交換したり、
実際にお城へ出掛けたりするお城部を作りました。
お城に出掛ける際に、会員の中で最年長のわたしは、日程やコースについて、優遇してもらったと思っています。
杉渕さんにわたしの希望を伝えると、
それに合わせて仲間を募り、実現してもらいました。
とてもありがたいことです。
こんな具合です。
2017年当時、東京に日本100名城が2つありました。
江戸城と八王子城です。
(現在は続日本100名城の品川台場と滝山城の2つが加わりました。)
「八王子城に行きたいんだけど、都合つきませんか」
これだけで、2017.7.9に実現しました。
杉渕さんは、お城部で仲間を募ったり、
現地で地図の復元に取り組んでいる方に連絡をとり、
ボランティアガイドをお願いしたりしました。
猛暑日が予想されたので、
前日からカチンカチンに凍らせたペットボトル用意するおまけもつきました。
そのとき写した八王子城の石仏です。
訃報を頂いたとき、ご家族にお悔やみを述べるハガキに、
この写真を使っていますが、
まさか、杉渕さんに使うことになるなんて。
春日山城へは、こんなわたしの願いを実現するために行ったと言ってもいいでしょう。
「越中おわらと直江兼続の史跡めぐりというツアーで、
春日山城の石坂浩二に似ていると言われる謙信像の前まで行ったのだけれど、
春日山の上まで登らないで戻ってきたんだよね」
「そうなんですか。上は日本海まで見えますよ。」
そんな会話の数日後、
「10.28に何とかなりませんか」とわたし。
それが何とかなったのです。
鮫ヶ尾城、高田城、春日山城、富山城、高岡城、増山城の豪華ツアーでした。
念願の春日山頂上
謙信も見た日本海直江津
情報の提供
杉渕さんが豊富な情報を提供してくれたおかげで、
わたしの城めぐりはどれだけ豊かになったことでしょう。
群馬県にある岩櫃(いわびつ)城です。
NHK大河ドラマ真田丸を見るまでこの城のことをわたしは知りませんでした。
真田昌幸が織田・武田連合軍に追われた武田勝頼を岩櫃城に招きます。
しかし、勝頼は小山田信茂を頼り岩殿城を目指しますが、裏切りにあい、天目山麓の田野で生涯を閉じます。
以前に行った時には、昌幸が勝頼を住まわせるために設けた潜龍院に行けませんでした。
ある時、杉渕さんがlineで、潜龍院の存在をお城部の会員に知らせる情報を流しました。
そのおかげで、2回目に岩櫃城に行くとき、潜龍院に行くことができたのです。
また、秀吉が唐入りのために設けた名護屋城ですが、
一人で行ったときには十分に理解出来なかった城割り(破城)の様子について説明してもらったことが、
つい昨日のことのように思いだされます。
2019.8.のことです。
岩櫃城
潜龍院
名護屋城
算木積みを壊した石垣(効果的な城割)
最初で最後の2人だけの城めぐり2019.10.1能島城
杉渕さんから「1日の都民の日に能島城に行くのですが一緒に行きませんか」
と誘われました。
能島城は、福江城(五島)、金田城(対馬)と並んで続百名城の中では行きにくい城だと言われいます。
前2城をクリアしているわたしには、これで続百名城達成が視野に入ってきます。
もちろん即決です。
このとき、行ったおかげで、能島城の他にも、2ついいことがありました。
1 これは、わたしだけの事です。
岡山城西の丸西手櫓が普段入れない廃校になった小学校の校庭の中からみれたことです
岡山城西の丸西手櫓
次は2人共通の話題です。
お城ではなくカブトガニです。
生きた花石と言われるカブトガニの保護に取り組んだ岡山県笠岡市の高校の先生と高校生の話が国語の教材にありました。
行ってみたくても交通の便が良くないので後回になっていたのです。
いよいよ能島城に向かいます。
やまなみハイウェイ快適にドライブし、
村上海賊ミュージアムにつきました。
この対岸が能島です。
このときは台風被害の影響で能島には、
上陸できませんでした。
周辺のクルージングを、村上海賊の子孫と思しき船長の見事な操船でしました。
瀬戸内海というと波が静かなイメージがありますが、
このような急流があるのですね。
杉渕さんから、村上龍の「海賊の娘」と城山三郎の「秀吉と武吉」の2冊を紹介されました。
いつものように帰京してから文献研究をしました。
能島城
潮の流れが急な能島城周辺
能島城への旅が、2人だけの最初で最期の旅になってしまうなんて信じられません。
杉淵尚さんの死を悼む
2017.3に玉川大学を定年退職し、2年後に東京学芸大学を退職するとき、
妻から、
「あなたこれからどうするのですか」と訪ねられました。
わたしは即座に
「お城があるから大丈夫」と答えました。
このような答えができたのは、
杉淵尚さんの存在なくして考えられません。
あなたは、わたしの城道(しろみち)への良き伝導者でありました。
このブログを書きながら、しみじみそう思います。
百名城、続百名城すべてに行くことがができたのも、
ともに城道を歩き、
また、適切な情報を惜しげもなく提供してくれた
杉淵尚さん
あなたがいたからです。
命のある限りこの道を歩いていきます。
本当にありがとうございました。
心から、ご冥福をお祈りします。
最後に、あなたや都小社研の仲間と全小社研岐阜大会後の巡検で行った、
郡上八幡城の写真で終わります。