ふうちゃんのお城ブログ

お城巡りについての記録、城郭検定試験の体験談

第52回 ふうちゃんのお城ブログ 鉢形城

2022-05-25 10:08:58 | 城郭検定

鉢形城に4月26日に行きました。

伊東潤は「城を攻める城を守る」の中で

鉢形城について

「戦国の黎明から終焉まで、

戦火の絶えることのなかった

激戦地の一つ」

と述べています。

かかわった武将を思いつくままに挙げてみます。

長尾景春(鉢形城の築城者 小説「叛鬼」の主人公)

上杉顕定(山内上杉氏)

上杉定正(扇谷上杉氏)

太田道灌(扇谷上杉氏・江戸城の築城者)

伊勢盛時(北条早雲・小田原北条氏の始祖)

武田信玄

上杉謙信

北条氏邦(小田原北条氏)

前田利家

上杉景勝

真田昌幸

本多忠勝(徳川家康家臣)など

 

武田信玄や上杉謙信をはじめ

有名な戦国武将が続々と登場しています。

 

鉢形城は関越自動車道花園インターから約6kmの所にあります。

わたしは東京の自宅から

関越自動車道と上信越自動車道を使い

軽井沢へよく行きます。

城の勉強を始めて上記の事実を知って以来

花園インターの近くを通るとき

あの信玄も謙信もこの近くを通ったのだと思うと

今はやりの言葉を使えば

「ちむどんどん」してきます。

 

今回は花園インターで降りて

鉢形城に行きました。

 

戦国終焉の戦いが鉢形城でありました。

天正18年(1590年)

秀吉軍の前田利家、上杉景勝、真田昌幸と

徳川家康の麾下浅野長政、本多忠勝、島田利正、鳥居元忠らの

連合軍35000人によって包囲された

北条氏邦家臣黒沢上野介ら3000人が

鉢形城に1ヶ月籠城後、開城しました。

八王子城が一日で落城したことと比べると

鉢形城はよく戦ったと思います。

 

戦いの終末のことです。

こんな話があります。

本多忠勝が

車山(今の八高線折原駅近く・地図参照)から

本多忠勝が鉢形城に大砲を撃ち込みました。

これによって、城内は動揺をきたし

開城するきっかけの一つになったと言うことです。

鉢形城歴史館に電話で確認したところ、

本多忠勝が大砲を撃ち込んだということを

資料で確認することは出来ないということでした。

 

大砲を撃ち込まれた城内を思い描いてみようとしますが、

想像を絶します。

ウクライナの都市の様子と重なってしまい

やるせない思いになります。

いつの世ででも、何処であっても

戦争は恐ろしいです。

 

1ヶ月の籠城に耐えた鉢形城ですが、

北条氏の築城技術が駆使されています。

高い土塁と堀があります。

 

この堀の手前に障子堀があります。

草に覆われて見えにくいのですが、

真ん中の土の部分が障子の桟にあたります。

 

石積土塁と雁木

全長100m、高さ約4.2m、馬踏(上幅)約6m、敷(下幅)約12m、よく残っています。

内側に河原石を3~4段の階段状に積み上げています。

雁木とよばれる階段も作られています。

裏込石がなく、高さが1m程度で、

いわゆる江戸時代の石垣とはその規模・技法等においては

見劣りしますが、

関東地方の石積技術の有様や石積を専門とする技術者の存在を示しています。

(現地解説版より)

 

石垣土塁、庭園、池、東屋

 

門と土塀(復元)

 

かつての強者どもの夢の跡に思いをはせ、

現実に行われている戦いの現実に

引き寄せられる

鉢形城訪問でした。(2022.4.26)

 


第20回城郭検定ー傾向と対策ーその2(第23回ふうちゃんのお城ブログ)改訂版

2022-05-21 10:13:37 | 城郭検定

6月12日(日)の第20回の城郭検定を目指して、準備を進めている方が多いと思います。

今回は1級、準1級、2級、3級が実施されます。

前回、第22回ふうちゃんのお城ブログで触れたことに付け加えて

第19回日本城郭検定ー傾向と対策ー(第22回ふうちゃんのお城ブログ) - ふうちゃんのお城ブログ (goo.ne.jp)

以下のこともお伝えした方がよいと思い、書き始めました。

準1級・1級 受験準備ののために3部作をパソコンで作成しました。 

(勿論2級、3級受験でも役立ちます。)

1 過去問分析お城、

2 過去問分析お城重要語句 

3 城郭検定で出題された数字 

 

1 過去問分析お城

お城についての問題の要旨と回答を各城毎に整理しました。

初めは、以下のように、書き留めておきたいお城を順に番号を振り、問題の要旨と回答を書いていきました。

これが、1級試験合格時には1番から320番にまで達しました。

同時に一つの城の記述が完成したのではなく、

その都度、新しい問題に出会うたびに付け足していったものです。

日本百名城には、001から100

続日本100名城には、101から200

の番号を振り直し、

その他の城には、201から320を振りました。

そして、ソートを架けると、以下のような物が完成しました。

    

・・・・・・・

・・・・・・・

・・・・・・・・

・・・・・・・・

これは、受験対策のみならず、

城を訪問する際に、城郭ウオッチングの視点として活用できます。

わたしだけのガイドブックとも言えます。

 

2 過去問分析お城重要語句 

検定の問題の中には、お城に関する重要語句を問うものがあります。

それを1から91までまとめてあります。

3 城郭検定で出題された数字 

 数字を問う問題が必ず出題されます。

 出題される数決まっており、これも整理しておくと便利だと気付きました。

 54項目全て掲載します。

これ覚えておけば確実に点数を稼ぐことができます。

100(113) 薩摩藩外城の数

 88      広島城櫓の数 

 35      広島城の二重櫓の数

 7基      松前城の砲台 長沼流軍学

 13条      安土山下町中掟書 楽市楽座

 5条      貞山公御教諭 伊達政宗から秀宗へ 宇和島城

 10m     中世の山城で竪堀の幅

 800      黒船来航 全国に築かれた砲台の数

 144      明治の廃城令で破却通達された城の数

 100m     広島城の内堀の幅

3000     一国一城令1615年 以前にあった城の数

  150     名護屋城陣屋の数

  6基     名護屋城の天守を含めた重層櫓の数

 270     吉田郡山城の曲輪の数 毛利輝元

 80m     弘前城曳家工法天守の移動距離

 20km    元寇防塁のⁿ長さ

 100     陣屋大名(城を持たない)の数

  4基     福岡城の現存櫓の数 多門櫓、二の丸南隅櫓、潮見櫓、祈念櫓

 14km    江戸城 外濠の長さ

  6      朝鮮式山城 大野城、金田城、基肄城、長門城、屋嶋城、高安城

 23km    京都御土居の長さ

 63      正保城絵図(現存する)国立公文書館が所蔵している

 131     幕末に江戸城紅葉文庫の蔵書目録に記載されていた(正保絵図の))数

 25      慶長14年(1609年)今年、日本国中天守の数「二十五」建つ

 43一要害   廃城令 明治 存城処分された数

  7      諏訪原城丸馬出の数

  4基     諏訪原城の礎石城門

  3      松代城 二の丸土塁にある埋門の数

  3      幕末、海防強化で全国の砲台(台場)造られたが、小田原城の砲台の数

 18      彦根城の華頭窓の数

 70%     江戸時代に100万人に達した江戸人口の男子の割合

 30      文禄・慶長の役を通じて、朝鮮に渡った武将たちの手によって、慶尚南道の沿岸部に倭城と呼ばれる日本式の城が築かれた数

 10万石     天領支配のために置かれた「代官所」は、役所施設で城や陣屋とは異なる施設である。10万石以上の直轄地に郡代がおかれ

         た。

 5回     大内氏館は最低5回の増改築繰り替えていることが発掘調査で確認されている。

 約40棟   太宰府防衛のために築かれた基肄城4では、これまでの発掘調査で約40棟の礎石建物跡が発見されている。

 48箇所   城の中には見張り小屋として番所が多く置かれていたが、名古屋城には48箇所番所があったとされる。

 6人    出世城と言われた浜松城からは6人の城主が老中に登用されている。

 2人    浜松城主から大坂城代には2人登用されている。

 12箇所  14世紀末頃、北海道へ進出した安東氏が渡島半島の海岸線沿いに築いて拠点

 50日   熊本城は西南戦争時、西郷軍の攻撃に50日耐えた。

 8    江戸城天守閣の隅石の数

 2009(平成21年)から2015(平成27年) 姫路城の修理期間

 80日  石垣山城ができるまでの日数

 3km 石垣山から小田原城までの距離

 4基  福山城神辺○○番櫓の数

二十五 「鍋島直茂譜考補」慶長14年(1609年)佐賀城天守竣工。今年日本国中の天守二十五建つ

 五八 甲陽軍艦 桝形の理想の奥行✕間口

 6城  江馬氏の国指定された山城の数

 9   大野城の門の数

 2万人 阿津賀志山防塁の守備兵の数

 4基 水戸城大手門瓦塀の数

 11か国 尼子氏が最盛期に支配下に置いた国の数

 4ヶ月 高田城の天下普請の建設期間

 16  「日本書紀」などに記載のない古代山城、神籠石系山城で西日本で確認された数

 300  江戸時代にあった城下町の数。現在人口10万人以上の都市の約半数は城下町を起源としている。

 

 

 

4 最近の城に関する情報を集める。

 城びと https://shirobito.jp/をよく読むことをおすすめします。

 https://shirobito.jp/article/rensai/11には

 城びとに最近の発掘関係の記事が更新されています。必読です。

 最近の発掘関係の記事がでています。

 

 出題者?らしい、加藤理文さんの投稿には要注意です。

 例えば、三戸城の発掘について、17回、18回の1級に、城びとの加藤さんの投稿から出題されていました。

  三戸城 令和元年度の発掘調査で、

      江戸時代初期の城を描いたとされる「古城ノ図」と同じ場所から石垣が検出され、

      本丸が石垣であったと判明した。

      検出された石垣は現地表面から1m下に位置し、高さは約1.6m「野面積」の石垣だった。

 

  

 

 


第49回ふうちゃんのお城ブログ 江戸城と青梅街道

2022-05-21 09:43:14 | 城郭検定

本ブログの前回第48回で、杉並区立三谷小学校3年間の校長在任中に

太田道灌と三谷小学校の位置との歴史的意味に気付くことが出来ず、

今、後悔していることにふれました。

https://blog.goo.ne.jp/fuhchan2399/e/e0c1f6b893a100eb621846f1ee68abd0

同じようなことが

平成14年(2002)4月から平成18(2006)年3月まで

校長をしていた杉並第十小学校でもあったのです。

杉並第十小学校の最寄り駅、

地下鉄丸ノ内線東高円寺駅上に

青梅街道があります。

青梅街道の由来を書いた杉並区教育委員会作成の案内板が

道路近くにあります。

案内板は青梅街道の由来を紹介しています。

徳川家康が江戸城(天守)修築の城壁用に

武州多摩群の上成木村、北小曽根村(現青梅市)産出の

石灰を運ぶ道を大久保長安に開かせたのです。

平成6年作成の案内板の存在に気付き、その内容を知ったのは

つい最近令和3年(2021)のことなのです。

城の勉強を始め、江戸城に城としての興味をもってから、

この案内板に接することによって

その内容を読み解くことができました。

 

しかし、実は、これより16年前に青梅街道の由来に気付くチャンスがあったのです。

それは平成18年(2006)にです。

三谷小学校の創立50周年記念誌・副読本「新わたしたちの三谷」作成に、

校長としてかかわりました。

本ブログ第48回で「道灌橋ノ跡碑」の記述については触れました。

その際、副読本の中に青梅街道についての記載があることを

最近、再発見したのです。

それは、これです。

 前述した青梅街道案内版と同じ青梅街道の由来が記述してあります。

平成18年(2006)に校長として、

この副読本を発行したのですから

この頁はきちんと読んでいるはずです。

字面としては、読んでいても

意味内容を

実感として記憶に留めるような読み方をしていなかったことになります。

 

さて、

松江歴史館にあった「江戸始図」の発見によって

家康の作った江戸城の天守の様子が分かってきました。

それは江戸城が

姫路城に似ているということです。

白い漆喰の塗ってある白鷺城と呼ばれる姫路城です。

家康の江戸城の天守も白漆喰の塗ってあるお城だったのです。

その原料して、大量の石灰が必要だったことになります。

 

わたしは、かって以下のようなことを著書に書いたことがあります。

「民放で放送している「暴れん坊将軍」のタイトルバックに

江戸城に天守閣がでてくる。

吉宗時代の享保年間には、

火事で焼けていて天守閣はなかったそうだ。」

 

実は、このテレビの映像のロケ地が姫路城なのです。

吉宗時代享保年間の事として姫路城の天守を登場させるのは

歴史の事実と反するので好ましくないでしょう。

しかし、家康の時代の天守として姫路城でロケした映像を登場させるのは

具体的なイメージを与えると言う意味では「ありかな」とも

思います。

わたしが校長をしていた2つの学校が

青梅街道の由来という歴史的事実で

繋がったことに驚いています。

これも、お城の勉強をしたからだと思います。


第51回ふうちゃんのお城ブログ 伊豆の地 韮山城と蛭ヶ小島

2022-05-05 11:53:26 | 城郭検定

鎌倉殿の13人に登場した

頼朝の配流の地と言われる蛭ヶ小島に行きました。

頼朝と政子の銅像がありました。

茶店のご主人から、下のような地図を頂きました。

韮山城への道を尋ねたときに渡されたものです。

目指す韮山城は徒歩圏内です。

この地図を見て、

この地の歴史の奥深さに感動しました。

わたしの教材ウオッチングの視点を活用しますと

平安時代後期の平治の乱から幕末のお台場建設まで、

社会科の教材となりうる可能性のある

歴史的事物・事象(歴史的事実)が

この地図の中に凝縮しているからです。

蛭ヶ小島(平安後期・平治の乱)

政子産湯の井戸(平安後期)

韮山城(室町時代)

堀越公方(室町時代)

願成就院(鎌倉時代)

反射炉(江戸時代幕末)

江川邸(江戸時代)

平安時代後期から江戸時代幕末後期まで

よくこの伊豆の国市の一(いち)地域に揃ったものです。

 

そこで、この地図を手に韮山城に出発しました。

ここ蛭ヶ小島から韮山城の本丸の赤い旗が見えています。

明応2年(1493)7月

第11代将軍足利義澄の足利茶々丸討伐を命じる御教書を手に

伊勢盛時は興国寺城を出発し、

清水湊から船を連ねて

伊豆半島西岸に上陸し

堀越公方の茶々丸を攻撃しました。

そして、伊豆半島の大半を勢力下におきました。。

その拠点(策源地)として

築城したのが韮山城です。

宗瑞は、小田原城を手に入れた後も生涯を通して、

この韮山城を居城としていました。

 

伊東潤の叛鬼には、次のような場面が描かれています。

長尾景春を迎え

宗瑞は立ち上がると明障子を開け放った。

そこからは、北伊豆地方の山々に抱かれる田方平野が見渡せる。

穫り入れを控えた田には、人々の丈ほどもある稲が高く伸び、風が吹くたびに実った稲をぶつけ合い

豊穣の歌を奏でていた。

 

季節は違いますが

本丸から見える景色です

田方平野の水田にはイチゴのビニルハウスが広がっています。

 

静岡県立韮山高等学校が見えます。

ここもお城の中にある学校です。

本丸に向かう三の丸には韮山高校のテニスコートがありました。

宗瑞や景春が目にした光景が

歩きながら目に飛び込んでくるのです。

 

しかし、韮山城でもう一つ挙げておきたいのは

秀吉に攻撃されたとき、3ヶ月間北条氏規の指揮のもと

持ちこたえたことでです。

 

秀吉軍の攻撃で山中城、八王子城は1日で陥落しています。

その中で3ヶ月持ちこたえたことはかなり善戦したと言えるでしょう。

北条家は、

関東各地に散らばる支城群を駆使して長期戦に持ち込み

豊臣軍に厭線気分を

蔓延させることにより、

撤退を促そうと目論んでいました。

(伊東潤 「城を攻める守る」参照)

韮山城は北条氏の目的を達成した数少ない城の一つと言えます。

(2022.4.7訪問)