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マシュマロ’sエンディングノート

~At the end of a marshmallow-like life~

処分したいCDやDVDが大量な人へ

2020-03-24 | 終活(モノの整理、心の整理、社会的整理)
モノが家中に溢れているけれど、全て処分してスッキリしたい、と思っている人で、特にCDやDVDや書籍(全ジャンル)が大量にある人に、これだけは言っておきたいことがあります。
それは、

 たった今から少しずつ手放せ

私、この記事を書いている時点で51歳なのですが、あと1ヶ月ほどで52歳になります。
その52歳の私が、今回大量のCDとDVDを処分することにしたのですが、まあ、それはもう大変でした(苦笑)

今回は、私が感じた処分することの大変さを、お届けします(笑)

CDとDVDを処分することにしたきっかけ
これまで、ちらちらとCDとDVDを手放すことにした話をしてきましたが、ここで一度、処分する気持ちになった経緯を振り返ります。

もともと、性格がミーハーなので、ジャンル関係なく好きなアーティストのCDを始めとして、DVDグッズ、出版物などを集める、いわゆる収集癖があります。
ですから、好きなアーティストが30周年だの35周年だのを迎えるほど活躍年数が長いと、それなりにCDその他のモノが、年数経過とともに増えてきました。

しかし、この一年間ぐらいで、もうグッズなどは持っている必要はないだろう、という気持ちになることができ、それらのモノは、一部まだ残っていますが、ほぼ処分しました。
必要ないと思えるようになったのは、単純に気持ちの持ち方を変えたからです。

活躍しているアーティストのグッズを持っていることは、ファン同士の間ではステイタスになります。
また、グッズを持っていることで、私はファンですよ、という証明書になったりもしますので、同じアーティストのファンの方とは、初対面でもスムーズにコミュニケーションをとることができます。
そして、何よりも、CDとグッズを正規ルートで購入することは、アーティストの生活と活躍を支えることになるので、ファンは惜しみなく購入し続けるわけです(笑)

私も、もちろんそう考えて、今まですべてのCDを購入してきましたし、ライブグッズや出版物なども、自分の懐が許す範囲で揃えてきました。
ただ、昨年くらいから、母が着ていない服や使っていないモノを処分し、1年弱で大型収納家具を8台を手放し、不要品の処分に勢いが付き始めて、家の中が徐々にスッキリし始めて、自分の中でも変化が起き始めました。

私は、他人に厳しく自分に甘いところがあり、好きなアーティストのCDやDVD、グッズなどは、持っているだけでも幸せだと思っていたので、処分しなくても、まあよしとしよう、などと思っていました。
しかし、母のモノを処分して、共有のモノ(いわゆる生活用品)も、どんどん間引いて、ふと気が付くと、自室がいちばんモノが多い状態になっていたことに、気がつきました。

そうなると、母には処分するように説得したくせに、自分は何なのだろう?という気持ちが湧いてきて、次に、そもそも今この部屋の中を、いちばん占領しているのは、何だろう?
と考えたときに、趣味で集めたモノで溢れかえった部屋であることに気がつきました。

これでは、いかん!
と、気が付いた日から、とにかく趣味のモノひとつひとつと向き合いながら、いろいろと考えた結果、どうせ私が旅立ったら、赤の他人が捨ててしまうのだから、まだ気持ちがあるうちに、自分で手放そう、と考えるようになりました。
そして、現在の自室の状況は、部屋の角に趣味のモノがこじんまりと納まる程度まで、減らすことができました。
まだ、残っていますが、これらも近いうちに手放せるように頑張ります(笑)

さて、グッズ類は減らしたモノのCDとDVDと出版物が、まだ大量に残っていました。
出版物については、割と未練なく処分できましたが、問題はCDとDVDです。
処分をためらっていた理由は、自分の音楽を聴くスタイル。
デジタルデータ音楽専用の携帯用プレイヤーを持っていない私は、CDそのものをプレイヤーにセットして聴くことが習慣化していました。
といっても、持ち歩くわけではなく、車で音楽を聴く際に、わざわざCDを持ち出しては、車の中で聴いていました。
なので、いざ車中で音楽を聴きたいときに、CDがないと聴けないわけです。
わざわざ、プレイヤーを買うのは面倒くさいし、スマホは容量が小さいモノを使っているので、持っているCDを全てインストールするのは無理なので、ずっとCDを直接聴くという習慣を変えられずにいました。

このような理由で、ずっとCDは手放せないな、と思い込んでいたのですが、先日ふと、車中で音楽を聴いていない自分に気がつきました。
というのも、仕事をやめて車通勤しなくなり、家ではわざわざCDを取り出して音楽を聴くことをしなくなっていたのです。
かといって、音楽を聴きたくなくなったのかといえば、そうでもないので、どうせ聴く機会は家の中だけだ、と思った瞬間から、持っていたCDを全てパソコンへ取り込むことにしました。

取り込みが全て済んだ時点で、さて、本体を処分しなくては、と思うのですが、やはり迷いが出てきました。
そして、さんざん考えて至った結論が、配信サービスから購入しても、アーティストの応援はできるし、きちんと売り上げにも貢献できるから、あとは自分次第だな、というところでした。
そして、ついに、全て手放しても私は大丈夫、音楽が配信されている限り、今手放してもまた手に入れる機会はある、だから一度全て手放そう、と思える状態になりました。

CDとDVDの処分方法
前置きが、長くなってしまいました(苦笑)
それだけ、今回CDとDVDを処分するに至るまでの苦悩が自分なりにあったので、お許しください。

さて、CDとDVDの処分を決めてから、今回はただ捨てるのではなく、宅配買取サービスを利用してみようと、少し前からこちらのブログでも書いてきましたが、昨日の捨て曜日に、やっと申し込みをして、CDとDVDを箱詰めしました。

DVDに関しては、最初全部一度見直してから処分する、と言っていたのですが、2日ほど前になぜか
「もう、みないで処分してしまおう」
という境地になりました(笑)
理由は、全部視聴するには、時間がかかりすぎるから(苦笑)
どうも、DVDを視聴する時間よりも、今テレビで放送している番組の方を優先してしまうし、そもそも今まで見ようともせずに、ずっと置きっぱなしにしていたのに、いまさら視聴時間を取るのは、習慣的に難しかったようです。
最初の10枚ぐらいまでは、懐かしさやライブへ行った際の記憶が甦って、楽しかったのですが、中断して他の用事に取り掛かることが徐々に増えて、20枚ほど消化したあたりで、次のDVDに手が伸びなくなりました。

この時点で、よし!今が宅配買取サービスに申し込むチャンスだ!と感じ、昨日ドラッグストアにある段ボールを貰ってきて、午後から箱詰め作業に取り掛かることにしました。

ちなみに、ドラマや映画のようなストーリーDVDは、残しました。
私、ライブDVDを鑑賞するよりも、ストーリーの方が好きみたいです。

CDとDVDとの闘い
数えてはいませんが、CDとDVDは合わせて200枚以上はあったかもしれません。
主に、2組のアーティストのアルバムやシングルですが、数枚違うアーティストのモノも混ざっていました。
それらも、すべて処分です。
ただ、買取不可品だけは送れないので、それを確認するところから始めました。

処分すると決めてから、保管は収納スツールにして、クローゼットの中に入れていましたが、まず、クローゼットの中に入れるときが、結構重たくて大変でした。
今回は、出したわけですが、当たり前のように重たい(苦笑)
それを今度は、送付用の段ボール箱へ詰め替えなければいけません。

もうね、スツールから段ボール箱へ移すだけでも、イレギュラーサイズのパッケージに悩まされて、うまい具合に納まりません。
何度も試行錯誤しながら、なるべく隙間ができないように、詰めていきます。
1箱25キロオーバーは、引き取ってくれないそうなので、重量オーバーにならないように、2箱に分けることにしたのも、上手く納まらない原因のひとつです。

いろいろと頭を悩ませながら、最終的には緩衝材にするチラシやフリーペーパーで都合をつけて、やっと詰め終わりましたが、今度は1箱の重量を、念のため確認しなくてはいけません。
我が家には、荷物を量るための秤はないので、箱を持って体重計に乗り、そのあと箱を持たない状態で体重を量り、メモリの差で重量確認。
結果、1箱14~15キロでしたが、まあその15キロ弱の荷物を持ちあげることが、まず大変でした。
体力も腕力もない51歳、そんな重たい荷物を持ち上げるだけでも、身体にかかる負担は半端ありませんよ(苦笑)
これが、若いころだったら、もっと楽々持ち上げられてたと思うのですが、寄る年波には抗えませんでした。

荷物の重量を量り終わったら、足腰腕に疲労感が広がり、もう何もしたくなくなりましたね(苦笑)
しかし、まだやることが残っています。
それは、詰め終わった箱を、宅配集荷日まで邪魔にならない場所へ移動させておくこと。
重たすぎるので、箱は玄関に一番近い私の自室に置いてありますが、すごく邪魔(苦笑)
おかしな話です。
好きなアーティストのCDとDVDが入っているのに、箱に詰めて処分する状態にしたとたんに、邪魔に感じるなんて。
結局、私が満足したかったのは、その音楽そのものであって、形(CDやDVD)ではなかったのだな、としみじみ実感しております(苦笑)

処分する際は少しずつがおススメです
今回、私は一度に全部手放そうとしたので、重たさと荷物の大きさに悩まされていますが、もし、ゆくゆくはスッキリさせたいかな、と思っている方がいらっしゃったら、悪いことは言いません。
少しずつ、手放すようにしてください。

今回、私が利用する宅配買取サービスでは、買い取り品5点以上から、送料が無料(先方負担)になります。
私のように、大量に持っている場合は、最低ラインの作品数だけを、数回に分けて送った方がよかったな、と後から思いました。
まあ、早く部屋の中をすっきりさせたいという気持ちが強かったので、一度に全部出すことにしたのですが、おススメする方法は、とにかく少しずつです。

これは、出版物にも当てはまりますが、20個くらいを境に、CDもDVDも急に重たさを感じるようになります(笑)
体力的な自信があったらいいですが、そうではない人もいると思いますし、なにより重たいモノをあちこち移動させるのは、体力があってもしんどいです。
持ち込みするにしても、ごみに出すにしても、重たさは普遍的ですからね。
どういう方法を取ろうが、CD、DVD、書籍類は、自分が持ち運べる程度に溜まってしまった時点で、手放すことを検討したほうがいいと思います。

そして、手放すと決めたら、新しいCDやDVDは、もう買わないと決めた方がいいです。
買ってもいいですが、20枚を超える前に、手放すことをおススメします。
もう、本当に大変なんですよ、大量のCDとDVDを処分するのは(苦笑)

まだまだ残っているモノ
ドラマや映画のDVDを残したと言いましたが、漫画や小説も、まだ残っています。
趣味で集めたグッズも、一部残っています。

書籍に関しては、ある程度時間が経過したら、ブックオフに持ち込むと決めているので、あまり張り切って処分することは無くなったのですが、他のモノは自分の気持ちが固まり次第、処分したいと思っています。
それでも、なかなか手放す決心がつきません。

ただ、最近になって思い入れって結局何だろう?と考えるようになりました。
あと少しで、自分の中で答えにたどり着けそうなのですが、たどり着けたら、きっと思い入れのあるモノも処分できるようになると思います。
そのチャンスが、来るまで、とりあえず思い入れのあるモノは、そのままにしておこうと思います。


今回は、話がめっちゃ長くなってしまった割には、結論が当たり前すぎて自嘲しています。
CDやDVDを処分したいと思っている人に、私のススメが届くといいのですが(苦笑)
とにかく、モノを処分する際は無理せずに、まず自分の身体を思いやってあげてほしいです。
私も、今後は無茶をしないように、気を付けたいと思います(笑)

努力の形跡が残るモノは手放し難い不要品

2020-03-19 | 終活(モノの整理、心の整理、社会的整理)
人生の半分を過ぎましたが、新しいことにチャレンジしたい気持ちは、まだまだあります。
しかし、今までやってきて、今はやめてしまったことに、再チャレンジしようという気持ちも湧いてきます。

本日は、そんな自分のチャレンジ欲求に、一度区切りをつけてみようというお話です。

チャレンジとトライの違い
英訳上では、あきらかな違いがあるのですが、日本語的に使用すると、どちらも同じことをしているような気がしてきます。
私にとってチャレンジとは、人生の時間を費やしてじっくり取り組むことで、トライはとりあえず取り組んでみることです。
当ブログでは、いろいろな決意をして取り組むのがチャレンジで、つべこべ考えずに取り組むことがトライ、という気持ちで綴っているつもりです。
トライするときは、気持ちの上でより軽い感じですね。

これまでのチャレンジ
ここまで生きてくる間に、チャレンジしたことは、そう多くはありません。
ただ、何に取り組むにしても、自分の将来を考えながら、あるいは人生を充実させたいという思いから取り組んだことであったことは確かです。

私がいままでにチャレンジしたことは、

 ・教員になること
 ・絵(イラストや漫画のような)を描くこと
 ・外国語を学ぶこと
 ・ロータス1-2-3の習得

これらのことは、将来を見据え、チャレンジした内容を生かした仕事に就きたいと思いながら、取り組んでいたモノです。
この中で、私の生活に根付いたチャレンジは、結果的にロータスの習得だけでした(苦笑)
といっても、ロータスはすでに製造販売が終了していて、エクセルを日常的に使っているのですが、ロータスを習得しに行かなければ、エクセルを使いこなすこともできなかったので、仕事の選択に大きく影響していたと思います。

そもそも、なぜロータス1-2-3?と思われるかもしれませんが、スクールに通い出したころはロータス1-2-3が主流で、どこのオフィスにも導入されていたからですね。
もし、もう少し時代が進んでいたら、エクセルを習いに行っていたはずです。

教員になることは、結構昔から目指していました。
最初は、幼稚園のころの夢から始まり、幼稚園の先生になりたいと思い、小学校では小学校の教員、中学では中学校の教員になりたくて、高校生になったら高校教員になりたくなるのかと思いきや、そのころは中学教員に夢が固まりつつありましたね(笑)

その夢を実現するために、大学へ進学することを決めたのですが、一方で好きなことに4年間たっぷり使いたい、という思いから、文学系の学科を選択。
たくさんの本(作品)に触れつつ、国語の教職課程も履修していました。

しかし、私の資質では、教員を目指す能力にかなり欠けていたために、結局臨時採用された数年間のみ仕事に従事して、その後は、オフィスワーカーとして契約社員や派遣社員で働くことになりました。
ロータス1-2-3を習得したのは、このころです。

絵を描くことは、高校生のときに、そういった類の部活をしていて、結構真剣に取り組んでいたからです。
このころになると、中学教員になりたい夢が固まっているので、一時期文系に進むか美術系の学科がある大学に進むかで、少し迷った記憶があります。
しかし、絵の才能がないことには、早々に気が付いたため、文系すなわち国語の教員を目指すことにしたのでした(苦笑)

外国語については、英語は中学から習い始めますから、話せるようになったらいいな、くらいの感じで、ずっと授業を受けていましたが、高校生くらいになってから、ちゃんと話せるようになりたいな、と思うようになります。
大学へ進学してからは、第一外国語は英語と決まっていますが、第二外国語というものを選択することができ、2つの外国語を学ぶことができるようになります。
この時、出会ったのが中国語です。

当時、実は香港にあこがれていたのですが、広東語の授業はなかったため、同じアジア圏の言語ということで、中国語を選択することにしました。
ちなみに、他の選択肢としてはフランス語がありましたが、今になってフランス語を習ってもよかったかもな、と思っています(笑)

中国語は、習っていてとても面白かったことと、一応ペーパーテストでは上位を取れていたので、このまま中国語検定で級を取得して、将来の仕事につなげられたらいいな、と思っていました。
しかし、私には致命的な欠点がありました。
それは、聞き取りが非常に苦手であるということ。
これは、中国語だけではなく、英語もそうなのです。

文章は、なんとなくですが意味を理解できるし、学校でのペーパーテストは、どちらも常に80点台以上はキープしていたのですが、なぜか聞き取りだけはいつまでたっても上達しませんでした。
今でも、英語の文章はざっくりと内容を把握することはできても、話している内容は頭に入ってきません。
聞き取りができないので、自分から話すこともなかなか難しい状態です。

ハワイに行った際は、単語だけでも現地の店員の人は理解してくれるので、こちらの要求は伝えられたのですが、相手が長文を話し出すと、一向に理解できない状態でした(苦笑)
ただ、シチュエーションやわかる単語を関連付けて、相手の言っている内容を把握しているような状態でした。
もちろん、少しだけ英語の復習もしておいたのですが、旅行は無事に終えられても、生活する言語レベルには全く達していないのが、私の現在の外国語能力です(苦笑)

今でも、英語だけは話したり聞いたりできるようになりたいと思っているので、英語圏の洋画や海外ドラマを視聴する際は、字幕モードにしていますが、効果を感じることは、ほぼありません(苦笑)
ただ、新聞紙上などで公開される大学センター試験の英語問題は、今でもなんとなく解けているので、効果がないわけではないと思います(笑)

チャレンジして残った形跡
チャレンジをすると、テキストや辞書やプリントなどの学習ツールが残ります。
語学を勉強すると、単語帳が山のように溜まります。
今は、いろいろな翻訳サービスがあり、履歴を残すことができるので、それを単語帳代わりにすることができますが、まだスマホがない時代に語学を勉強していた私の世代は、単語帳をひたすら手作りしたはずです。

教員になるための勉強も、教科書の他に参考文献や関連書籍、問題集などを集めますので、語学関連のモノと合わせると、本棚のスペースをかなり占領しましたね。

絵に関係したことも、作品は当然のごとく残りますが、その作品を書くための道具がたくさん残っていました。
当然、本を見て参考にすることも多く、自分が好きな作家の作品集などを集めたこともありました。
また、参考にするといいつつ漫画も買いあさっていた時期がありますので、私が所有していた書籍や紙類は、かなりの量があったと思います。

今では、将来私が旅立つ際に必要な書類と、保管する義務がある書類と、お気に入りの漫画や書籍だけになったので、チャレンジの最中に所有していた書籍や書類の量に比べると、おそらく1割程度に減ったと思います。

チャレンジの形跡を処分するには
自分が真剣に取り組んだことに関わるモノは、自分がしてきた努力に対する思い入れが強いので、なかなか処分できずにいた時期が、私にもありました。
今となっては、チャレンジした形跡のほとんどを処分し、一部所有している資格関連の認定証や資格証と、それにかかわる書類のみになりましたが、それらも、もう必要のないモノは処分してもいいかな、と思うようになってきました。

処分する気になったきっかけは、自分がチャレンジしてきたことは、最終的に形になっておらず、これから先再チャレンジすることもないだろうと思ったからです。
また、今後も必要になるかもしれない外国語やパソコンソフトに関連するモノも、今では紙媒体で所有しなくてもいい時代になりましたので、いつまでも紙媒体を所有している必要がなくなりました。
エクセルなどは、関数の使い方例はネットで検索したほうが、たくさんの事例が出てきて役立つので、情報が基本的なモノしか掲載されていない書籍は、本当に不要です。

エクセルに関しては、サックリとそうやって考えられるのですが、他のモノは手放す決心をするまでに、なかなかな時間がかかりました。
高校時代に描いた絵など、同じ部活に所属していた友人たちは、いまだに作品を大事に持っていますが、私は処分をしてしまいました。
処分に至るまでには、迷いがたくさんあったのですが、それは自分がしていた努力を全て捨ててしまうことになりそうだと感じていたからです。
中国語のテキストやノートも、同じ理由で処分できずにいましたし、教員になるために所有していたモノも同じです。
とにかく、自分が好きで真剣に取り組んできたことと、それに対する自分がしてきた努力や費やしてきた時間の長さが、手放す行為にブレーキをかけていました。

しかし、40代に入ったころ、不要品を日常的に処分していた私は、ふと考えました。
思い入れがあっても、たくさんの努力をしてきても、たくさんの時間を費やしたとしても、目の前にあるのは、もう使わなくなったモノであると。
長年使っていないモノは、不要品とみなして処分しているわけですから、そのモノに強い思い入れがあったとしても処分すべき対象です。
どれだけモノに対する思い入れがあったとしても、そのモノの役割はすでに終了しています。
役割が終了しているモノに対して、いつまでも感情的になっているのは、マイナスとは言えなくても、決してプラスに働くことはないと思います。

もし、再チャレンジをするのであれば、今の時代に合ったテキストや書籍を新たにそろえる必要も出てきますから、努力した形跡が残るモノを、思い入れだけでいつまでも所有しておくのは、学習的にも生活的にも効率が悪いと思います。
新しいチャレンジをするにしても、過去にチャレンジしたことに再チャレンジするにしても、過去の努力をもう一度振り返るよりは、それらをすべてリセットして始める方が、絶対にスムーズなはずです。
ですから、努力の形跡がいくら残っていようが、今使っていない、参考にしていない、活用していないモノがあったら、一度思い切って処分すべきだと、考えるようになりました。

チャレンジはタイマーだと思え
チャレンジを始めるのに、年齢は関係ありませんが、時間は多少なりとも関係してきます。
例えば、取りたい資格の就職には年齢制限が設けられている場合ですね。
それから、私の年齢だと、一般的な健康上のリスクから、本当にいつ旅立ってしまうかわからないという状態ですので、チャレンジしたいならなるべく早くに着手したほうがいいはずですよね。

しかし、もし途中で勉強することを中断しなくてはならなくなったとき、また再チャレンジするから、関連ツールは全部取っておこう、と考えるのは、タイマーを途中で止めたまま、他のことにタイマーを使えない状態と同じだと考えます。
もし、ここでタイマーをリセットしなかったら、次のチャレンジに対するリミット設定もできませんし、今中断したチャレンジのリミットが大幅に延長されてしまいます。

チャレンジを料理に例えてみます。
料理を作る際、弱火で▲分、沸騰してから▲▲分とレシピに書かれてる場合、それぞれの工程でタイマーをセットしたり、時計の時間を確認したりします。
その際、何かしらのトラブルで、火を止めて中断したと仮定します。
当然、タイマーもストップさせます。
再び、着火できる状態になり、料理の続きをする場合、止めてあったタイマーを再スタートさせると思うのですが、もし、これが、途中で火を止めてしまったら仕上げることができない料理だったら、タイマーはどうしますか?
鍋の中身は、捨てるか他の料理にアレンジできたとして、タイマーは必ずリセットしませんか?
また、ひとつの料理が仕上がったときも、次の料理に取り掛かる際に、タイマーは必ずリセットしますよね。

これは、料理がチャレンジ内容だとしたら、タイマーは現在進行形で動いている努力の気持ちと使っているツールだと思うのです。
たしかに、それまでしてきた努力の評価をツールを通じて感じたい気持ちもあるのですが、努力を中断したタイマーの止まった時間(残り時間)を眺めていても、努力は形になりませんし、次のチャレンジに対して、気持ちのタイマーをリセットできなくなってしまいます。

もし、中断したことを再開するにしても、終了予定までのタイマーは再設定する必要があるし、新しいチャレンジをゼロから始める場合も、タイマーは新たにセットしなければならないのなら、一度中断したチャレンジや完結したチャレンジへの気持ちやツールの所有も、一度リセットする。
そう考えると、いつまでも古い参考書や問題集、関連ツールを持っておく必要はないのだ、と思えるようになりました。

もちろん、努力し続ける必要がある部分に関しては、タイマーは永遠にセットしていいのですが、目的や着地点が決まっているチャレンジについては、目的達成し着地できた段階で、すべてのツールを手放していいと思います。
何故なら、目的達成し着地できたときに、すべての努力が報われているし、しっかりとした評価もなされているから。
いつまでも、古い参考書や問題集やツールを持ち続けなくても、その努力が消えることはありません。

このことに気が付いてから、私の部屋から古い参考書や問題集などの書類は、全て処分されました。
これで、次のチャレンジに着手する際に、スムーズに取り組むことができるようになったと思います。


本日は、ダラダラと綴ってしまいましたが、モノを処分する基準も、自分がしてきた努力の形跡を処分する基準も、基本的には同じだな、と思い、今回の内容になりました。
もし、努力の成果を処分したいと思っても、感情的なストップがかかったら、これからは心のタイマーを確認することを意識していこうと思います。

思い切って処分すると、処分欲が出てくるという話

2020-03-17 | 終活(モノの整理、心の整理、社会的整理)
不要品を処分し始めて、かれこれ20年弱。
え?そんなに時間かかるの?と思われるかもしれませんが、家族との意思統一から始めなければいけないので、説得するために軽く十何年もかかります(笑)
そして、自分もいつの間にか不要なモノを新たに購入していたりするので、出したり入れたりを繰り返していた分、処分の延べ年数が伸びていくのですね(苦笑)

最近の処分欲
昨日が捨て曜日だったので、不要品をごみ袋へ詰めるべく作業をしていたところ、有事の際に使用しようと取っておいたバスタオルの山(20枚位くらいあった?)が目に入り

 「す・て・た・い」

という衝動に駆られました(笑)
有事の際というのは、実は母の介護を想定していました。
現在子育て中の方や、自宅介護真っ最中の方、あるいはペットと暮らしている方は、なんとなく理解していただけるかもしれませんが、要するに食べ物などをこぼしたり、トイレを失敗した際に、使い捨て出来るタオルがあったら便利かな、と考えていたからです。
もちろん、使い捨て専用のウェットシートなども、今はさまざまな種類が売られていますから、何もタオルを取っておく必要もないのかもしれませんが、使わずに処分する罪悪感みたいな気持ちが過ると、なかなか処分できません(苦笑)

しかし、今回はやっと、今取っておいたところで、母が完全介護状態になるかどうかもわからないのだから、一度全部リセットしよう、という気持ちが湧いてきました。
もちろん、未使用のまま捨てる罪悪感はないとは言い切れませんが、今後活用するアイデアがないのであれば、処分することがベストだと思いました。
まだ、他にも布類が残っているのですが、今度の捨て曜日までに残す数を決めて、処分することに決めました。

また、音楽CDと音楽DVDの処分ですが、まだDVDを見終わっていないので、なかなか売却手続きまで進まないのですが、隙間時間をこれに費やして、消化していきたいです。

あと、壁に残していたディスプレイしている小物類を、少し処分します。
好きなモノだけを残していたので、なかなか思い切ることができないのですが、そろそろ手放しても大丈夫だと思えるモノが出てきたので、それを外してそっとサヨナラ袋へ。
サヨナラ袋というのは、小さい紙袋やショップの袋を用意し、その中に入れていき、捨て曜日にサヨナラするための袋。
普通のごみ袋へ入れないのは、好きなモノへ対する気遣い(笑)
まあ、自己満足ではあるのですが、ごみじゃないよ、手放すだけだよ、と自分自身に言い聞かせるための方法です(笑)

もし、手放してもいいような気もするけど、やはりなかなか捨てられない、処分できない、というような大好きなモノは、自分が納得できる名前を付けて、ごみ箱やごみ袋とは別の入れ物を用意するのも、手放すきっかけづくりになるとおもいますので、もしよかったら試してみてほしいです。

処分欲の出始め
いろいろな片付け動画やブログなどをみていると、何度か「捨てハイ」という言葉が出てきます。
つまり、片付けて処分し始めると、気持ちが処分することに向き始めて、他のいろいろなモノも次々と処分して、スッキリしたくなる高揚感のことのようです。
私が言う処分欲とは、この「捨てハイ」状態から、さらに先に進んだ状態ではないかと自己分析しています(笑)

処分することが欲になるまでには、かなりの処分作業を得てきたと思います。
最初は、とにかく自分のストレスの原因がモノにある、と言うところから始まり、目にするとイライラしたり不安感が湧いたりするモノを中心に、家具から雑貨から、処分しまくりました。
その後、家族の遺品整理をきっかけに、さらに処分を進めてきました。
故人の思い出は、モノの価値とは別のモノと考えたときに、モノを大切に取っておくことよりも、毎日思い出して手を合わせることができる余裕の方が、よほど大切だと考えるようになってからは、唯一残しておいた父の絵を、処分する方向で考えています。

最近になって、使っているモノでも、使っている最中に「す・て・た・い」と感じるようになってきました。
例えば、壊れかけているけどまだ使えるモノ、今の私で言うと取っ手にヒビの入ったミルクパンが例に挙げられますが、以前の私なら、それを補修してでも使い続けていたと思います。
しかし、今は調理中のリスクも高いことを意識しているため、すぐにでも捨てたいと考えました。
これが、私の持つ「処分欲」です。
対して、補修してでも使い続けようとするのは、広域の「物欲」だと思います。

以前の私は、この広域の「物欲」が非常に強かったと思います。
しかも、それは無意識のうちに募った欲でした。
ですから、そう簡単には弱めることができない面もあったと思います。
しかし、今はどちらかというと、今使っているこれを処分するには、どうしたらいいか?と考えるようになってきました。
具体例で言うと、食器乾燥機です。
これは、母のたっての希望で持ち続けているモノですが、私は処分したくて仕方ありません。
まあまあ大きな家電品なので、粗大ごみとして出すことになるのですが、毎日目にするたびに、自分で解体して家庭ごみに出してしまおうか、と考えたりしています(部品に分解してしまうと家庭ごみになります)

また、私が自室で過ごすときは、暇になれば処分できそうなモノを探している状態で、まるで不要品ハンターです(笑)
まだ、それほど処分することに意識が向いていなかったころだったら、むしろ自室に足りないモノを探していたと思うと、180度の変化ですよね(苦笑)

このように、常に処分する視点でモノを見ている状態は、「物欲」よりも「処分欲」の占める割合がほとんどを占めているのかな、と思っています。
この「処分欲」が非常に強くなってきたのは、やはり終活をしようと決めたあたりからだったと思います。

処分欲が強くなったら
常に処分すること前提で、モノを見ている毎日ですが、それでも「処分欲」が湧かない日もあります。
「食欲」が湧かないのと同じで、体調や環境の変化に影響されることも多いです。

昨日から本日の朝にかけては、この「処分欲」が旺盛でした(笑)
特に、今朝は昨日ごみ袋が足りなくなって、処分する用意ができなかった不要品があったため、スーパーの開店と同時に指定袋を買ってきました(笑)

そういえば、少し話が逸れますが、いつも午後に買い物へ行くと、ペーパー類が売り切れ状態なのですが、開店と同時に入店すると、通常どおりに商品が陳列されていました。
これ、きっと午前中に売り切れてしまうのだろうな、と思いながら、売り場を通り過ぎました(我が家はまだストックがあるので購入しませんでした)

話を戻します。
指定袋と他の買い物を済ませ、帰宅してから、急いで昨日袋に入れられなかった不要品を、ごみ袋へ詰めました(笑)
家庭ごみの日は、量が多いため回収が午後になることが多いです(出す時間は8時半まで)
私が買い物から帰宅したのが、午前11時ごろでしたので、まさに「捨てハイ」状態で不要品をごみ袋へ放り入れ、最終的に大サイズ3袋分を、追加で捨ててきました。
昨日用意できた分と合わせると、大サイズ5袋と中サイズ1袋(こちらはいつものごみ)の不要品を処分することができたので、非常に「処分欲」が満たされています(笑)

このように「処分欲」が強いときは、本当に片付けが捗るいいチャンスです。
私は、この自分の気持ちを逃さないように、いつも心がけています。
おかげで、思いきりが付かなかったモノに対しても、割と間をあけずに処分する気持ちを持つことができるようになり、少しずつですが、部屋の見通しがよくなってきました(笑)


本日は午前中に、買い物と処分するモノを追加する作業をしていたので、記事の更新が少し遅くなってしまいましたが、欲には勝てませんでした(笑)
明日は、なんとか午前中に記事が更新できるように、頑張ります。

遺品整理(故人が描いた絵)

2020-03-07 | 終活(モノの整理、心の整理、社会的整理)
父が亡くなった際、ほとんどのモノは処分(廃棄)しました。
ただ、父が若いころから趣味としていた絵だけは、ひとまず形見として残しておきましたが、今回一部だけ残して、全て処分することにしました。

父が残した絵
父が残していた絵は、

 ・水彩画とパステル画(枚数不明)
 ・油絵(6作品ほど)

この2種類なのですが、油絵は額縁に収められているモノが2つと、額縁のないモノが4つ。
水彩画とパステル画は、ほとんどがスケッチブックの状態で残っていましたが、一部展覧会(絵画教室主催)に出展したモノが3つほどあります。

遺品整理の際、油絵が思ったほど残っていなかったので、少しホッとした記憶があります。
スケッチブックの絵は、枚数を数えていませんが、ポストカードサイズのモノからB3まであり、トータルでおそらく300枚は超えているかと思われます。

もし、残っていた絵以外に、例えば水墨画や彫刻に手を出していたら、遺品整理はかなり苦労しただろうな、と思うので、油絵、水彩、パステルで趣味がまとまっていたのは、遺族からするとありがたい?ことです。

最初の遺品整理
父が亡くなった直後、ほとんどのモノを処分したのは、父はモノを大切に使ったり保存したりはするのですが、愛用していたかと言われると、そのようなモノはありませんでした。
私の家族に共通している価値観として「新しいモノ好き」というのがあります(苦笑)

今となっては、私も母も新しいモノをいち早く手に入れるような購買行動はしなくなりましたが、以前は新しいモノや便利なモノが発売されると、つい買っていました。
父も同じで、新しいモノで気に入ったものがあると、貯金をして購入するような人でした。
ですから、長年愛用していて、父の思い出がいっぱい詰まっている遺品、というモノはありませんでした。

唯一、父の思いが詰まっているモノが絵画でしたので、最初の遺品整理のときは、絵だけは残しておこうと思い、私なりに整理して押し入れに保管しました。

絵に対するモヤモヤ
最初に父の絵を整理していた時、途中でウンザリしました(笑)
サイズもまちまちだし、保管してあった場所も1ヶ所ではなかったし、一枚一枚確認しながらの整理だったので、半日以上を費やした記憶があります。

しかし、おそらく父がいちばん時間をかけて楽しんできた趣味なので、その時は父の気持ちを優先して、頑張って整理しました。

ところが、数年経った今、本当にこの数か月の間に、父の絵をどうにかしないと、と思うようになりました。
理由は、この数年間、他のモノを処分したり整理したりするたびに、絵の存在にモヤモヤしていたからです。
モヤモヤの原因はいくつかあります。

 ・カミダニが気になるようになった
 ・保管しているけれど見返して思い出に浸っていない
 ・ことあるごとに額縁の廃棄方法を考えている
 ・私が旅立った後はどうせ廃棄されてしまう
 ・他人に評価されるような絵ではない

他にも、モヤモヤする原因はあるのですが、一番ひっかかるのは、この5つの原因です。
そして、今日、ついに決心がつきました。
今すぐに処分できる絵は、次のごみ回収日に出す、と。

家族の絵を処分するということ
家族の遺品を処分するのは、勇気や決断が必要です。
家族や親族が多いと、なおのこと、自分の価値観だけでは判断できません。
しかし、誰がどのように保管し続けるのか、と考えたときに、結局自分に押し付けられる、あるいは自分以外に保管できる親族がいない、となると、最終的な判断は自分自身が下すのが最善の方法だと思いました。
持ち続けるにしても、処分するにしても、他者の価値観を無視する決心がついたら、あとは決行するのみです。

今回、私が処分しようと決断したのは、以前から「もし処分するとしたら、どのような方法にしようか」と考えていた自分がいたからです。
決断する前は、父が残した絵だし、他のモノは処分してしまったのだから、これだけは残そう、というセンチメンタルが作用していました。
しかし、最近になって父の絵に対して現実的な感情が湧くようになりました。
そして、この数日間、ずっと自治体のごみ分別や持ち込みごみのルールを調べ、今回、ある程度はなんとか家庭ごみで処分できそうだという目途が立ったので、処分を決めました。

たしかに、家族の形見と考えると、処分が難しい点はあるのです。
いろいろな感情が、次々と湧いてきますからね。
ただ、自分が旅立った後に、私の遺品を整理する人にとっては、父の形見は「私の遺品」に変わってしまいます。
父の思いや、絵を描いているときの楽しい時間など、処分する人にとってはどうでもいいことなので、おそらくは事務的に廃棄されるだけです。
そう考えると、私が集めた趣味のモノ同様、誰が処分しても同じなら、私ができる範囲で処分しようと思ったのです。
すでに亡くなっている人のことよりも、生きている人の手間を減らすことを優先したい、という気持ちが膨らんだ結果、今回の処分作業に至ることができました。

絵の処分方法(我が自治体の場合)
父が残した絵の分別と処分方法は、以下のパターンがあります。

 ・スケッチ画(紙ごみリサイクル、家庭ごみどちらでも可)
 ・額縁(家庭ごみ指定袋に入る大きさのモノは家庭ごみ、それ以上大きいモノは粗大ごみ)
 ・キャンバス(家庭ごみ)
 ・木枠(小さくバラしたら家庭ごみ、大きいままであれば粗大ごみ)

結論として、キャンバス木枠も額縁も、大きいモノは小さくバラしてしまえば、毎週の家庭ごみ回収日に出せることになります。
その他も同じで、ほぼ家庭ごみで出せることがわかりました。

そこで、今回私が選んだ処分方法は、

 ・スケッチ画→紙ごみリサイクルへ出す
 ・サイズが小さい油絵(キャンバスと木枠込み)→家庭ごみ
 ・サイズの大きい油絵(木枠と額縁込み)→バラして家庭ごみ

とすることにしました。
なお、額縁に入ったパステル画と水彩画が、合わせて3枚ほどあるのですが、サイズがB4くらいなので、それらはしばらく飾ってから、改めて家庭ごみとして処分します。

処分する手間のハードルは下げる
自治体によっては、私の自治体のような分別はNGになるかと思いますが、なるべく分別と廃棄の手間は、自分ができる範囲で、しかもあまりお金をかけずに実行したいですよね。
私も、今回はいろいろ分別して、処分費もかけなければいけないかな、と思ったので、徹底的に調べたのですが、我が自治体がかなり緩い分別基準だったので、助かった部分はあります。

ただ、私が今回実行する処分方法は、次のことは絶対にしてはいけません。

 ・地球環境を考える
 ・勿体ないと思う
 ・売却できないかと考える
 ・誰かに引き取ってもらおうと考える

これらを考えた途端、スケッチ以外のモノが処分できなくなりますからね(苦笑)

モノを処分するということは、何かしらの罪悪感を感じながらしないと、先に進めないと思っています。
たしかに、地球環境は考えるべきことではあるのですが、自分の感情だけで完結していること、勿体ないとか売却したいとか誰かに引き取ってもらいたいとかは、単なる自分のわがままですからね。
そこを考えていたら、モノを減らすことなんて、到底無理です。
また、地球環境を本当に考えているのなら、今あるモノはいずれごみにならざるを得ないのですから、これから手に入れるモノに対して、もっと地球環境を意識したらいいと思うのです。

私が今回、父の絵を処分できるようになった最大のきっかけは、ほとんどが家庭ごみで処分できることが分かったから。
これで、処分方法のハードルが下がりました。
もともと、感情の部分では、とっくに整理がついていたと思います。
でなければ、分別方法など調べたりしませんから(苦笑)

父との思い出はたくさんありますが、絵を描いている父は、実のところあまり見ていないのです。
何故なら、彼は趣味の会のようなところで、絵を描く仲間と語り合いながら絵を描いていて、家ではあまり創作活動をしていなかったから。
でも、絵を描いて作品を大事にする気持ちは、私も以前絵を描いていた時期があって、よく理解できるので、父のそういった気持ちの部分を大事にしておこうと、亡くなった直後には考えたのです。

しかし、月日が経った今、作品を保管していることと、父の気持ちを大切に思うことは、イコールではないと感じ始めていましたから、今回決断することができたのだと思います。


遺品整理は、遺族にとって大変な作業です。
最初は、故人との思い出に浸ったりして、楽しいこともありますが、時間が経つにつれて、おそらくほとんどの遺族が、モノの多さに溜息をつき、心身共に疲れ切って、最後には無感情で事務的に処分しているのだと想像します。
むしろ、全くの赤の他人、第三者が処分したほうが、感傷に浸る時間がない分、作業を迅速にしてくれるでしょうね。
でも、一度遺品を引き受けたら、それは引き受けた人の価値観ですべてを決定していいと思います。
私は、モノの量や使っていた長さや市場価値に拘らなくなったので、今後もし何かしらの感情が動くモノがあったとしても、すっぱり処分することにしています。
たとえそれが、故人の大事にしていたモノででも、です。
全ては、今生きている人の生活を優先すべき、そう思っています。

処分に困っていたモノを処分できた話

2020-03-05 | 終活(モノの整理、心の整理、社会的整理)
昨日、ずっと処分に困っていたモノの一部を、やっと手放すことができたので、そのお話です。

処分に困っていたモノ
私が、処分に困っていたモノは以下のとおり。

 ・記念硬貨数枚
 ・古い未使用切手
 ・ネックレスとネクタイピンのセット(使っている石がダイヤっぽかった)

硬貨と切手は、そもそも廃棄をしてはいけないモノなので、どうやって処分しようか、ずっと悩んでいました。

交換か売却か
記念硬貨も未使用切手も、実を言うと価値あるモノではありませんでしたので、硬貨は銀行や郵便局で普通硬貨と交換してもらい、切手は何とか自分で消化しようと思っていました。

しかし、記念硬貨は交換でいいとしても、古い未使用切手は値上がりが続いた結果、中途半端な額面の切手を足さなければ役に立ちませんし、郵便局で新しい切手に交換できません。
となると、消化するしか手がないのですが、私は郵送することがほとんどありません。
手紙は年に一度、出すか出さないかです。
切手は、ゆうパックなのどの代金としても利用できるとのことなのですが、ゆうパックを出す機会もありません。
これでは、消費するのに何年もかかってしまいます。

なんとか買い取ってくれるところはないかと、数年前に当時よく見かけていた買取店へ持ち込んだところ、我が家で所有していた切手は全て価値がないと言われ、買取不可と言われました。
以来ずっと、古い切手を所有したままだったので、やはり自分でなんとか消費するしかないな、と処分を諦めていました。

硬貨は、金融機関へ行き、すぐにでも普通硬貨に交換したらよかったのですが、つい持って行くの忘れ、今の今まで所有していました。
また、記念硬貨はもしかしたら高値が付くモノもあるから、一応査定くらいはしてもらった方がいいと聞いたことがあったので、一度査定してもらおうという気持ちもありました。

そして、今回やっと、切手を買い取ってくれそうな店舗が見つかり(ここ数年の間に開店したようです)、そこで査定してもらうことにしました。

買取店ではこんな感じで査定をしてもらいました
とにかく、切手だけでも手放したかったので、切手メインに記念硬貨と、これまた処分に悩んでいたネックレスとネクタイピンを持って、今回見つけた買取店へ行きました。

店舗へ入ると、誰もいない状態で、なんとなくしり込みしましたが、切手を手放せるのなら、それくらいなんてことありません(笑)
出てきて応対してくれた店員の方は、お話ししやすい雰囲気を作ってくれ、優しい感じで接してくださいましたが、正直高額買取はないだろうな、といった感じでした(笑)
まあ、希少価値などはない品物ばかりですから、当然なのですが、切手もアクセサリーも記念硬貨も、普通のリサイクルショップでは買い取ってくれませんから、仕方ありません。
硬貨だけは、最低ラインが額面と同じですが(お金なので額面以下では交換できません)、切手とアクセサリーは二束三文で当たり前という気持ちで、査定をしてもらいました。

私が査定して貰っている間に、もう一人お客様が入ってきましたが、こちらの方を接客した方も、優しい感じで応対していたので、接遇教育がそうなっているのでしょうね。
以前、切手の査定をしてもらった店舗は、もっと事務的な感じの接客でしたので、店舗によって方針が違うことにも、すこし興味が湧きました。

査定は、まず記念硬貨から。
ま、こちらは案の定、価値のある硬貨ではなかったので、額面どおりの金額での買い取り、というより両替ですね(笑)
額面が高くて、購入した際の箱などに入った状態で査定してもらうと、査定金額が付くのですが、私が持ち込んだのは、500円から5,000円までの硬貨が数枚でしたので、額面どおりの引き取りとなりました。

次に、切手ですが、こちらも価値のあるモノではなかったので、額面よりも低い金額になると言われました。
それでも、使いようのない切手を引き取ってくれるのなら、もうそれでいいと思っていましたし、もし身近に切手マニアがいたら、無料で差し上げてもいいと思っていたくらいなので、まったく問題ありません。
それで大丈夫です、と伝えて査定してもらいました。

最後に、ついでに査定して貰ったアクセサリーです。
これは、以前母が買取店へ持ち込んだ際に、買取不可だと言われて、持ち帰ってきたモノでした。
一応、ダイヤがはめ込んであるのですが、周りの金は明らかにメッキ加工されているのがわかる品でした。
そもそも、鑑定書や鑑別所も見当たりませんでしたから、グレードも不明ですし、そもそも本当にダイヤかどうかも確かめようがないという状態のモノでした。

そんな話をしながら、査定を進めてもらっていたら、その店舗では買い取り額は安くなるけれど、買取はできると言ってもらったので、やっと手放せるとうれしくなりました(笑)
もっとも、買い取り額は数百円でしたけどね(苦笑)
ちなみに、安いアクセサリーでも、買い取ることはできると言っていたので、その分本格的な高額品は、査定額が他店舗よりも低いかもしれません。

買取完了までの感想と売却先の選択について
実を言うと、この店舗は査定額が低いだろうな、と、入った瞬間に感じていました(笑)
しかし、そのことも込みで、今回は他の店舗では査定をしてもらわずに、持ち込みました。
もし、購入時の金額と品物の価値が解っているモノであれば、私はこの店舗に持ち込みません。

ただ、あまり価値がなさそうで、他店での買い取りを断られたモノ、自分で持っていても仕方がないモノ、いっそ廃棄してもいいとさえ思うモノなら、このような店舗で売却してもいいと思います。
そもそも、自分にとって価値がないモノなのですから、それが数円でも価値をつけてくれ、なおかつ手放すことができるのなら、その方がいいと思いませんか?

今回の売却は、硬貨と切手は本来廃棄してはいけないモノ(切手は金券と同等)だけど、手放したい一心でしたので、とにかく切手を買い取ってくれる、というのが売却先を決める条件でした。
これが、もし高価なアクセサリーや私にでも価値がわかる記念硬貨でしたら、間違いなく老舗の質屋かきちんとした鑑定士がいる古物商で査定してもらいます。

ただ、私の家にはそれほどまでに高価なモノはありませんから、他店舗が買取不可とするようなモノでも買い取ってくれる店舗の存在も必要かな、と思っています。
こういった、安く買いたたく店舗というのは評判が悪くなりがちですが、使いもしない価値も感じないモノを持ち続けていても、結局そこに在るだけで、何の役にも立たないのなら、いっそ数百円でもお金に換えた方が使い道ができます。

もちろん、無償で誰かにあげたり、寄付したりすることも選択肢の中にはあります。
記念硬貨は、それこそ金融機関に寄付として預けてもいいですよね(今回は思い浮かびませんでした)
ただ、アクセサリーや切手は、無料で貰ってくれる人の方が少ないですし、かといって捨てていいモノではない、となると、最終的になんでも買い取ってくれる店舗に持ち込む選択になります。

価値を決めるのは自分
査定額に関係なく、自分にとって価値がないのなら、それは0円です。

我が家に溢れていた食器を例にあげますと、廃棄してきた食器の中には、ノリタケやたち吉もありました。
フリーマーケットや、アプリ利用で処分すれば、おそらくそこそこのお金には換えられたと思います。
しかし、箱に入っていたモノ以外は、全て廃棄しました(箱入りは売却しました)
理由は、数が多すぎたから。
はっきり言って、すべての食器を売ったり、誰かにあげたりしていたら、今頃まだ食器の収納に悩まされていただろうと思います。
それくらい、我が家は食器の数が多く、私には、その多すぎる食器を売ったり誰かにあげるスキルがありませんでした。

何よりも、いい食器を使いこなせていない段階で、私にとっても我が家にとっても、その食器の価値は値段や品質に関係なく、不要なモノ、0円なのですよね。
その価値のないモノを、いつまでも持っておいても、メリットなんか生まれません。
だから、買い取ってもらえない(と思われる)食器は、全て廃棄してきたのです。

他のモノもそうです。
家族は使いもせず、私にとっては不要なモノで、なおかつ周囲でそれを欲しいと思う人や、買い取りたいと思う店がないのなら、それは本格的な不要品ですから、廃棄以外に何ができるでしょうか。
環境のことを考えると、もちろん罪悪感が生まれますが、不要品をいつまでも持ち続けるストレスよりも、罪悪感を持つ方が楽です。
罪悪感は、スペースを占領しませんから。

最近、私が趣味で集めたモノを廃棄した話を知人にしたら、少し驚かれました。
せっかく集めたモノを、捨ててしまったのか、と。
しかし、その知人にとっては価値のあるモノではありませんし、今の私にはモノの価値よりも部屋のスペースの方に価値を感じました。
知人と私の、価値観の違いです。

以前は、その知人と同じように、せっかく集めたモノを廃棄するなんて、とんでもないと思っていた私ですが、今は考え方が変わり、価値はモノ自体にあるのではなく、自分の暮らしや行動にあるのだと思っています。
その暮らしや行動を充実させてくれるモノ、役に立つモノ、よりよくしてくれるモノであれば、大切に使っていきたいと思いますが、買うだけで満足してしまうモノは、もう持たないと決めました。
その価値観は、私だけがしっかりと持っていたらいいので、知人の価値観は私の価値観に影響しません。
結局、モノの価値を決めるのは自分だけなのです。
ですから、もしモノを売却するとしても、その価値観に見合っていたら、低い査定額でもいいですし、市場価値のあるモノでも、廃棄でいいのです。


今回は、処分に困っていた切手、記念硬貨、アクセサリーの処分についての話と、自分の価値観について考えました。
価値観は、いずれまた変化するときもあるかもしれませんが、今よりもモノを持ちたいと思うことは、ほぼないと思っています。
この先、身体が衰えて、他人にお世話になる可能性を考えると、所有しているモノは少ない方がいいです。
だから、今はモノを持つ価値よりも、モノを手放すことの価値を大事にしています。

食器棚の処分を完了。また部屋が広くなった(笑)

2020-02-23 | 終活(モノの整理、心の整理、社会的整理)
昨日、廃棄予定にしていた食器棚の処分が、やっと終わりました。

食器棚を処分した理由1
もともとは、2台あった食器棚。
1台は、両親が結婚したときに購入したモノで、すべての扉がスライド式の水屋風。
2台目は、今の住居へ引っ越してきたときに購入したモノで、観音開きの扉が付いた木目調。
家族が減り、不要品を処分し続けた結果、食器棚にも隙間がたくさんできたので、いずれは食器類や調理器具を1台の食器棚にまとめようと思っていました。

ただ、その段階では、どちらの食器棚を処分すべきかは、迷っている状態でした。
迷っていた理由は、1台目は古くてセンスもいまいちだけど、使い勝手は悪くなく、2台目は使い勝手は好きになれないけれど、センス的にはまあまあ。
そんな感じで、残すべき決定打がありませんでしたが、別の理由もあり、2台目の比較的使用年数が短い(といっても30年超えで使っている)食器棚を処分することにしました。

食器棚を処分した理由2
処分を決めるまでは、どちらも一応使っていました。
ただ、モノが溢れかえっているころは、2台目の観音開きの食器棚は、あまり開閉をしておらず、普段使いの食器は、すべて古い1台目に収納しており、2台目には保存容器をぎゅうぎゅうに詰めていましたから、開閉の機会がなかったのですね。
その状態から、不要なモノを減らして、どちらも5割くらいの収納率になり、2台目の食器棚は食品庫的な使い方に変更していました。
食器を収納しなかった理由は、家事動線の関係と、観音開きの食器棚は、中に埃が溜まりやすかったからです。

使う用途を、食品庫に変えてから少しして、2台目の扉の蝶番が欠けました。
同じころ、実は同時に購入した本棚(すでに処分済み)も、扉が付いていたのですが、同じように蝶番の一部が欠けました。
どちらも、蝶番の寿命です。
今になって思うことですが、30年前に購入した家具は、何十年も使うように想定されていない造りだったということです。
30年前といえば、バブル景気の後半くらい。
モノを消費しては、新しく購入するといったサイクルで、モノが大量生産されていた時代でもあります。
見た目は立派な木目調ですが、ところどころ安い部品を使って、値段を下げて販売していたのでしょう。
私は、当時家具を買う決定権は持っていなかったので、両親が(主に母が)購入を決めたわけですが、当時に戻れるなら、もっと家具選びに口出ししたいです。
その食器棚は、買うべきではない、と(苦笑)

とまあ、それでも30年近く使えたのだから、優秀ではあるのかもしれませんが、蝶番が壊れたままだと、いずれ扉が落ちる可能性が高いので、時期は決めていませんでしたが、処分するとしたら2台目だな、ということは、この時に決めていました。

食器棚を処分した理由3
最近になって、食品庫代わりの2台目の扉を開閉する際に出る音が、気になるようになりました。
観音開きで、ストッパーはマグネットだったのですが、そのマグネットに扉が当たる音、マグネットから外れるときの音が、非常に床に響くことに、いまさらですが気付きました。
また、上部はガラスが嵌っていたのですが、これも扉の開閉時に振動が伝わるので、その振動音をうるさく感じるようになっていました。

それまで、あまり開閉していなかったこともあり、音に気が付いていなかったのですが、あまりにも音が響きすぎると感じ、食品庫としてではなく、普段使いをあまりしないモノだけを収納して、使うことにしたのが、昨年末くらい。

しかし、母がどうしても癖で2台目の食器棚から、食品を探し出そうとします。
しかも、夜中に。
階下の住民に迷惑をかけていてもおかしくないレベルの、扉開閉音を響かせて、夜中に食べるモノを探すものですから、何度も食器棚を開け閉めしないように注意したのですが、そのことを忘れて、同じことを繰り返す母。
これは、もう食器棚を早めに処分したほうがいい、と判断して、処分することにしました。

食器棚を処分した理由4
処分した理由を3つ挙げましたが、いちばんメインの理由は、やはり終活です。
終活を考え始めたころから、家中の大きな家具を眺めては、将来私が老いたときに、これを一度に全部処分するのは、とてもじゃないが大変だ、と、憂鬱な気分にさせられました。
これは、元気でいろいろ考えられる今のうちに、大きな家具はできるだけ処分しないと、大変なことになる、と思いました。
そこから、母をことあるごとに説得し、納得させて、家具の中身と家具そのものを処分し、今回、食器棚を処分したことで、入れ物であったほとんどの大きな家具は、家の中からなくなりました。

現時点で使っている大きな家具(搬出に人手が必要な家具)は、母が使っているローチェスト、60年物の食器棚(笑)、電子レンジラック、3人掛けソファです。
あとは、これに家電品である冷蔵庫と洗濯機。
これらも、いずれは処分するか、あるいは小さいモノに買い替えると思います。

その他にも、まだ家具はありますが、今のところ私一人でも搬出できる大きさと重量なので、機会を見て粗大ごみに出そうと思っています。
が、母への説得もしなければならないので、先が長そうです(苦笑)

食器棚を処分してよかった理由1
昨日、業者の方に運び出してもらっていた2台目の食器棚ですが、運び出ししている最中に、扉が落下しました。
もう、びっくりです(苦笑)
中を空にして、処分する昨日までの期間は、およそ3週間くらいですから、母も開け閉めをしなくなってはいましたが、もしも、まだ使い続けていたら、危ないところでした。
ちなみに、落ちた扉の蝶番は、最初に欠けた扉の蝶番とは別の場所です。

結局、全体的な見た目の劣化はさほどなかったけれど、実は大事な部分(蝶番)は全部寿命が来ていたのでしょうね。
使い勝手の悪さもありましたが、2台目を処分することにしたのは、大正解でした。

食器棚を処分してよかった理由2
食器棚がなくなり、隠れていた壁の汚れと、床に溜まっていた埃と汚れをきれいに掃除して、改めてダイニングを眺めてみました。

広い(笑)

洋服ダンスと和ダンスと大きな本棚を処分したときも、ハイチェストを処分したときも同じ感想でしたが、やはり家具が占める床面積って、思った以上に広いのでしょうね。
平米は同じなのに、広い家に引っ越しでもした気分です(笑)

大きな家具がなくなったら、寂しくなるかもしれない、と母は言いました。
私も一瞬、虚無感みたいなものが生まれるかもしれない、と考えましたが、実際なくなると、開放感しかありません(笑)
家具がないことが、こんなにも清々しいなんて、これまでの何十年間、どうして気が付かなかったんだろう?と思います。

そして、自分ではわかりませんでしたが、家具の存在は少なからずストレスを生むということが、わかりました。
快適な居住空間は、便利なモノや家具を配置することではなくて、少しでも自由に使えるスペースを確保しておくことだと、やっと気づけた感じです。

食器棚を処分してよかった理由3
家具があると、床面積に不規則性が現れます。
四角いはずの床の平面に凸凹ができますから、掃除をする際や家具を移動させるときに、どうしても家具が配置してある凸部分が邪魔になります。
クイックル〇イパーで、床を拭くときも、家具がない方がスムーズにできます。
家具があると、どうしてもその分の角を意識して掃除することになるのですが、家具がなければ直線に掃除するだけで済み、時間短縮になりますし、家具の上の埃を掃う必要もなくなるので、その分の掃除時間もなくすことができます。
省ける時間は、ほんの数秒かもしれないのですが、何十年間も蓄積すれば、立派なムダ時間に成長しますよね。

普段の暮らしでは、数秒の手間などについて考えることはないのですが、掃除に時間をかけたくないのなら、家具は極力持たない方がいいのだと、実感しています。
今回、食器棚を処分したことで、ダイニングの掃除が格段に楽になりました。
まだ、解決すべき点はたくさんあるのですが、少しずつ動線を改善しながら、快適なダイニングにしていきたいですね。


今回、食器棚2台のうちの1台を処分したことで、大きな家具の処分は一旦終わりです。
次に大きな家具の処分が再開されるのは、母の身に何かが起きたときになります。
それは、母の介護が始まるときかもしれないし、介護することもなく旅立ったときかもしれないのですが、何かしらの大きな生活の変化が訪れたとき、と考えています。
これからは、また小さな不要品を処分する作業を再開します。
あ、その前に、大量のCD問題がまだ残っていました(苦笑)
すでに、処分方法の目途は立っているのですが、CDの処分については、いずれまた機会があれば、綴りたいと思います。

音楽CDの取り込み作業をしています

2020-02-16 | 終活(モノの整理、心の整理、社会的整理)
ずっと悩んでいた、音楽CDの処分。
ひとまず、持っているCDを全て、パソコンへ取り込む作業をしているところです。

私にとっての特別な音楽
音楽CDを集めている人は、好きなジャンルすべてを集めるタイプ、なんとなくいいなと思ったCDを集めるタイプ、好きなアーティストのCDだけを集めるタイプと、集める基準がそれぞれあるかと思います。

私の場合は、好きなアーティストのCDだけを購入し、他の音楽CDに関しては、借りて聴く程度で購入はしません。
ジャンルを基準に集める人に比べたら、所有しているCDは少ない方かもしれませんが、それでも、長年活動しているアーティストのCDは、かなりの枚数になります。
実際、私の好きなアーティストは、活動30年越えで、近年はシングル、アルバムと発売する頻度が減りましたが、全て集めていたので、かなりの枚数があります。
また、別のアイドルも好きなのですが、こちらも20年越えで活動しているので、かなりの枚数のCDを購入しています。

どちらも大好きなので、ずっとCDを持ち続けて、さらにこれから先増やし続けたい気持ちもあるのですが、今後の終活を考えると、手放す必要があると感じています。

私は、音楽を聴くのは好きなのですが、30年越えで活動しているアーティストが手掛ける音楽には、これまでの人生で一番嵌っています。
音楽は、さまざまなジャンル、アーティストが、ラジオやテレビで発表していますが、好きだと思っても、私の場合は購入するまでには至りません。
それは、テレビやラジオで聴く程度で十分満足しているからなのですが、この長年好きなアーティストのCDだけは、毎日のように聴いていたい音楽でしたから、惜しみなく発売当日に購入しています。

私にとって、購入してまで聴く音楽は、いつでもどこででも聴くことができるようにしておきたい、特別な音楽なのです。

大好きなのに処分を考えた理由
終活を意識し、暮らし方を少しずつ変えてきて、半分以上の不要品を処分してきましたが、大好きなモノ、特別に思い入れがあるモノは、ひとまず後回しにしてきました。
処分しなくてもいいのではないか、とも思えるのですが、客観的にこの先のことを考えると、書籍やCDは、決心がついた段階で処分すべきモノと思っています。

書籍にしても、CDにしても、単なるモノとして捉えて考えると、1冊1冊が、あるいは1枚1枚の重量が、結構あるのですよね。
それを好きなだけ集めていくと、物量も増えますが重量が半端なく重たくなります。

古い木造の家やアパートの上階に、大量の書籍を収納して床が抜けた、という話は、何度か聞いたことがあります。
話を聞いたときは、他人事のように笑っていましたが、自分が所有する書籍やCDも、結構な重量になっていると考えると、床が抜けるほどではなくても、持ち運びが大変になっていくことくらいは、想像ができます。
最近、いろいろなモノを処分したおかげで、模様替えも多少はしやすい環境になったはずなのですが、なかなか腰が上がりません。
何故かというと、書籍とCDが重たいので、移動させるのが面倒なのですね(苦笑)

たしかに大好きだし、いつまでも持ち続けていたい気持ちは強いのですが、自分の体力も年々衰えてきているし、例えば、この先10年間処分をしなかったとして、その間にもCDは増える可能性が高いので、処分をするタイミングが遅ければ遅いほど、身体がしんどいと思うのです。
いえ、すでに今の時点で、収納場所を移動させるしんどさがあるのですから、これ以上処分を先延ばしにすると、体力的に処分できなくなり、私が旅立ってしまった後に、大量のCDや書籍が残ることになります。
それを、誰かが処分するときのことを考えると、申し訳ない気持ちになりますし、何より自分が好きなアーティストのCDを、他人に処分されたくないな、という思いも強くなってきました。

大好きなCD、大好きな書籍、いつまでも持ち続けたいけれど、最終的な処分は自分でしたい。
だから、今回自分がまだ処分する余力を残しているうちに、着手しようと思ったのです。

かといってすべてを手放せない(苦笑)
モノとして処分する決心はつきましたが、全く聴かない状態にするまでの心境には至っていない私(笑)
今まで、面倒くささが優先していて、パソコン(iTunes)へ取り込むことはしてきませんでしたが、今回とりあえず手持ちのCDすべてを、iTunesで管理することにし、まだ取り込めていないCDも、残り数枚になりました。

ただ、やはりすべてを手放す決心までは、まだできていません。
CDの中には、初回特典としてDVDが付いているモノがあります。
DVDは、一度全部見直してから処分したい気持ちが強いので、明日から隙間時間をDVD鑑賞時間に充てようかと思っています。
見てしまうと処分する決心が揺らぎそうなのですが、自分を納得させるためにも、明日から「ひとり鑑賞会」を決行します(笑)
鑑賞会が終わって、自分の中である程度納得出来たら、DVD付も手放すつもりです。

処分方法は、ネットでの買い取りサービスを利用しようかと思っています。
処分するCDを箱に詰めて、買い取り業者に送付して査定してもらう方法ですね。
あまりいい値段にはならないそうですが、金額よりもCDを聴いてくれる人の手に渡ってほしい気持ちが強いので、こちらの方法を優先したいと思っています。

これから注意すること
まだ、CDすべての処分までには時間がかかりそうですが、今から発売されるCDに関しては、ルールを設けておきたいと思います。

まず、デジタル配信とCD販売の両方がある場合は、デジタルを購入することを優先したいです。
これまでは、ジャケ買いも含めてのCD購入でしたが、今後はジャケ買いを一切やめます。
モノが増えるので、CD購入特典も必要ないですし、DVD付の初回盤も、一度手に入れると手放しにくいことは実感しているので(笑)、DVD付は買わないことにします。

もし、デジタル配信がない場合は、仕方がないので一度CDを購入して、すぐに手放す方法にしたいと思います。
が、最近は大体のCDがデジタル配信されていますから、この方法で大体の音楽はいけるはずです。


まだ、あと少し取り込みが終わっていないCDがありますが、今日中に全部終わりそうです。
CDの処分が決まったら、次はDVD(ドラマや映画)の処分を検討しなければ、と思っています。
DVDも、なんだかんだで枚数が増えています。
CDよりもパッケージが大きいので、保管も結構大変ですからね。
パソコンに取り込むことはできないので、一度全部見直して、どうしても残したいDVD以外は、全部買い取りに出そうと考えています。
私の趣味のモノ、嗜好品の処分は、当分完結しそうにありませんね(笑)

片付け動画は無料の終活セミナー

2020-02-08 | 終活(モノの整理、心の整理、社会的整理)
片付け動画を、ほぼ毎日視聴しています。

私が片付け動画を視聴する理由
ゆっくり、少しずつではありますが、終活を始めています。
終活といっても、エンディングノートをつけたり、遺言書を作成したりしているわけではありません。
ただ、今はひたすら不要品を処分する毎日です。
ブログの投稿内容も、ほぼ片付けブログのような感じになっています(笑)

家中の不要品を探したり、処分したりしていると、必ず作業が滞る瞬間があります。
作業を続けていると、まず身体が疲れてきます。
身体が疲れてくると、当然作業する動作が鈍くなってきます。
同時に、思考も徐々に鈍ってきます。
特に、不要品を見分ける判断力、残すモノの収納方法のアイデアが浮かばなくなってきます。

そういうときは、無理をせずに一度手を止めて、休憩をしたり、作業を翌日に持ち越したりします。
そして、今まで視聴してきた片付け動画を再視聴したり、新たな片付け動画を探して、片付けやモノを処分する際のモチベーションにしています。

今となっては、日々のルーティンになっている片付け動画視聴。
特に、最近は「遺品整理」が気になっているのですが、皆さん遺品がとても多い。
多いだけならいいのですが、汚部屋やごみ屋敷のまま旅立たれた方の部屋や家は、遺族や後始末を依頼されていた方が、とても苦労されている様子が、痛いほど伝わってきます。

私には、配偶者も子どももいませんから、私が旅立った後は、親戚か赤の他人が後始末をすることになるのですが、その方たちには、最小限の負担で済むようにしておきたいと思っています。
そのためにも、反面教師的な意味で、片付け動画、特に汚部屋やごみ屋敷の片付け動画を積極的に視聴しています。

動画視聴しているときの視点
動画視聴している際に、特に気にしている点は、片付けを始める前の部屋(家)に、何がどのように置かれているかです。

当然のことなのですが、他人が住んでいる部屋(家)は、見る機会がありませんよね。
親しい友人知人の家には、招待してもらうこともありますが、そうではない赤の他人の家の中。
気になること、ありませんか?
自分は、こうやって暮らしているけど、他の人は何を使っていて、どうやって生活しているのだろう、と。
はっきり言ってしまえば、自分の知らない未知のことに対する好奇心なのですが、動画配信でも、ルームツアーが人気のようなので、私以外の人も、他人の部屋や家の中に興味があるのだと思います(笑)

片付け動画のBefore部分で、特に気になるのはキッチン周りと水回りです。
キッチン周りの様子は、自分が暮らしていくうえで、とても参考になります。
私は、キッチン周り、水回りは、生活のすべてを反映していると思っていて、そこが正常に機能しているかどうかは、とても気になります。

汚部屋やごみ屋敷は、キッチン周りも水回りも、機能している印象がありません。
特に、トイレと浴室にモノとごみが溢れて、足の踏み場がない場合は、おそらく公共のトイレや浴場を利用していたのだろうことが想像できます。
キッチン周り、水回りが機能していないだろうと思われる部屋(家)は、他の部屋もだいたい機能していない印象です。
住人の方は、ごみの山をベッドにしていたか、モノをかき分けてスペースをわずかに確保して、布団を敷きっぱなし状態で使っていたでしょうし、モノを取り出す際もモノの山から引っ張り出していただろうと思われます。

逆に、ほんの少しでも機能している様子が伺えるキッチンの場合は、他の部屋もなんとか機能している印象があります。
モノが溢れていても、寝室のベッドの上だけにはモノを置いていなかったり、トイレや浴室も、そこで使うモノで溢れているだけで、使用する分には大丈夫だったのだろうと思われます。

普通のルームツアー動画を視聴していても、キッチンが雑然としているお宅は、他の部屋も雑然としていることが多く、キッチンにモノがない(必要なモノしか置いていない)お宅は、他の部屋もスッキリとしていてシンプルです。

キッチン周りと水回りは、そのお宅のすべてを反映している、私は個人的にそう思っています。

参考にしていること
片付けや遺品整理の動画で、参考にしていることは「何をごみとして処分しているか」です。

遺品整理の場合、金品などの貴重品以外は全て不要品でごみですが、まだ生活している方のお宅の場合は、生活必需品は残さなくてはいけません。
その仕分け基準は多種多様ですが、そのおかげで新しい考えに出会うこともあります。
自分が思い込んでいたことを、納得できる形で覆してくれる場合もあり、自分の片付けに反映させることができたとき、作業に勢いが出ます。

例えば、モノのカテゴリー分け。
私は、普段使用しているモノに関しては、細かくカテゴリー設定するタイプで、文房具も細かく分けて保管しています。
しかし、モノを処分する際は、おおざっぱなカテゴリーに分けないと、作業が滞りがちになってしまう、ということは、動画で学んだことのひとつです。

逆に、不要品と判断する基準は細かく設定したほうが、処分できるモノが増えるということも学びました。
モノのカテゴリーは大まかにして、不要品判定する基準は細かくする。
これを意識すると、それまで迷いながら処分していたモノも、スムーズに不要品判定できるようになりました。

動画は無料のWEBセミナー
趣味や興味が同じ人の動画を視聴することもありますが、それはあくまでも息抜き、気晴らしです。
しかし、片付けや遺品整理の動画は、私にとって無料終活セミナーのようなもの。
学びがたくさんあります。
他にも、語学(英語)関係の動画やライフハック動画も視聴して、自分の暮らしに取り入れたりしています。

お金や移動時間を費やして受講するセミナーも、暮らしに役立ったり、生き方の参考になったりしますが、行かなければよかったと思うセミナーも、たまにあります。
しかし、配信動画の場合は、最初の数分を視聴して合わないと思ったら、視聴をやめて違う動画を見ることが可能です。
自分が今、必要としている情報や方法だけを選ぶことができるので、時間のムダを作らずに済みます。
もちろん、信ぴょう性という部分は気になるところですが、それは実際にどこかの会場で受けるセミナーも同じこと。
であれば、移動時間を必要としない、自分が一番知りたい情報を探すことができる動画の方が、自分にとっては価値があるかなと。

今後も、片付けやモノの処分については、動画を参考にしつつ進めていきたいと思っていますが、いずれは終活をテーマにした動画も、視聴を増やしていこうと思います。


今回は、片付け動画が私にとってどんな存在なのか、を綴ってみました。
夢中で視聴して、半日すぎるときもあるので、そこは反省すべき点ですが、これからも動画は暮らしの参考にしていきたいと思っています。
そして、今日も午後から動画を見て、モチベーションを高めたいと思います(笑)

2台ある食器棚の一台を処分したい

2020-02-07 | 終活(モノの整理、心の整理、社会的整理)
ここ数週間、食器棚を処分したくて仕方がありません。

我が家の食器棚事情
以前アップしたブログ内容でも、何度か登場している我が家の食器棚ですが、改めて説明しておきます。

食器棚が2台ある理由は、2つあります。
1つ目は、引っ越しの際に古い食器棚を処分しなかったから。
2つ目は、食器が溢れていたから。

もし、引っ越しする際に所有する食器を厳選していたら、食器棚を2台持つ必要はなかったのですが、もともと引っ越し前は1台でなんとかなっていたのですよね。
それは、なぜか。
未使用食器が、見えない場所(押し入れなど)にしまい込まれていたんですね(笑)

それを知らない私は、食器棚を新しく新調したらどうかと、言ってはいけないアドバイスをしてしまいました。
今では、言わなければよかったと後悔しています(苦笑)
私としては、食器棚が古くて使い勝手も悪く見えたので、アドバイスしたのですが、完全に裏目に出てしまいました。
母は、そもそも食器棚1台では食器が収まらない、と考えていたようで、結局、食器棚を“買い足す”事態が発生してしまったわけです。

更に、引っ越し後も何かと食器が増えていき、2台の食器棚には、食器や保存容器がギチギチに収納されることになるわけですが、それも私が何年もかけて、昨年やっと家族2人で使うだけの数まで減らすことができました。
しかし、まだ整理しきれない調理器具と保存容器があったことと、消耗品(ラップやキッチンペーパーなど)を保管しておく場所もなかったことで、食器棚はそのまま2台使いを継続していました。
1台は純粋に食器棚の役割で、もう1台は調理器具や飲み物(お茶やコーヒーなど)の保管用に。

ところが、最近になって、1台の食器棚に問題が発覚したのです。

食器棚の問題点
問題が発覚したのは、実を言うと引っ越し時に新調した食器棚です。
最初の問題発覚は、1年前ぐらいです。

この新調した方の食器棚は、観音開きの扉が付いていて、扉をマグネットで固定するタイプです。
収納しているのは、ミルサー、コーヒーミル、ティーポット、コーヒーフィルター、水筒、弁当箱、保存容器、ガラスポット、紙食器、ラップ、キッチンペーパー、ごみポリ袋、ティッシュ(ストック)、魔法瓶、お茶、紅茶、コーヒーです。

さて、この食器棚に起きた最初の問題点ですが、それは扉の蝶番のひとつが、割れたこと。
この食器棚の蝶番部分、プラスチックの中に細い金属軸が入っているタイプです。
その蝶番のプラスチック部分が、経年劣化を起こしたのでしょう。
ある日、扉を開けると「ピキッ」と音がして、蝶番のプラスチック部分が欠けました。

私の脳裏に、最初に浮かんだのは「残念」の一言(苦笑)
古い食器棚に比べると、使用期間は約半分です。
それなのに、蝶番という一番重要な部分が最初に壊れるなんて、誰が想像します?
他の蝶番は、まだ生きているので、大事には至っていませんが、そのうち他の蝶番も同じような割れ方をすると、扉が落ちる可能性が高い。
これが、最初の問題点です。

次が、これもまた扉の問題点なのですが、開け閉めすると音がうるさい(苦笑)
これ、マグネットで固定するタイプの扉には、ありがちな現象だと思うのですが、扉とマグネットが当たる瞬間の音が、想像以上に大きい。
特に、ガラス戸になっている上部の開閉は、ガラスの振動で音が割り増しに。

この食器棚の音の大きさに気が付いたのは、最近になって、夜型の母が夜中に何度も開け閉めをするようになったから。
開け閉めする理由は、お茶やコーヒー、ちょっとしたおやつを収納しているからです。
しかし、その何度も開け閉めする音が、想像以上に大きい。
ともすれば、階下の家に音が響いている可能性もあるほど、音が響くのです。
正直、想定外です。

今まで、音に気が付かなかったのは、最初はあまり使用しない保存容器がぎっしり入っていたからです。
保存容器は、たまにしか使わないので、開閉する頻度も極端に少なかったのですが、お茶やコーヒーを収納したことで、毎日のように開閉することになり、やっと音の大きさに気が付いた、という経緯です。

音を軽減するために、マグネット部分にマスキングテープを二重に貼って、マグネットの力を弱めてはいるのですが、それでも音は響きます。
おそらくガラスの振動音も、音が大きい原因のひとつなのでしょう。
いまさらですが、引っ越しの際に、新しい食器棚購入の提案など、しなければよかったと思っています(苦笑)

処分するために
今、とりあえず私の気持ちとしては、蝶番が壊れて、音がうるさい食器棚は処分したいです。
処分するためには、中に収納しているモノを他の場所に移す必要があるので、数日前からいろいろと考えています。

まずは、間引きできる調理器具や雑貨、ストック品を決めること。
モノを間引きするには、暮らしの中の行動も間引きする必要があります。
例えば、ミルサーはジュース作りに使用していますが、手作りジュースをやめてしまえば、不要となります。
また、コーヒーミルも、豆を買わないと決めてしまえば、不要になります(ただ、豆を挽いて淹れるコーヒー、好きなんですよね)
他の雑貨も、そうやって日ごろの習慣を見直せば、不要になるものがたくさんありそうなので、今日から少しずつ、問題ありの食器棚から出していこうと思います。


なんだか、ここ一年くらいは、何かを処分することばかり考えているような気がします(苦笑)
正直なところ、モノを処分することは簡単ではありません。
体力と精神力が必要になるので、とても疲れますし、そのための時間も取られます。
だからと言って、見て見ぬふりや、問題の先延ばしをすると、暮らしに不便や不満を感じることになりかねませんよね。
ここは、頑張りどころと捉えて、食器棚の中、空っぽにしていきたいと思います。

着物の処分方法を考えるのは難しいという話

2020-01-27 | 終活(モノの整理、心の整理、社会的整理)
いつも、深夜にブログを更新するのですが、今回は疲れてパソコンもスリープのまま寝てしまい、朝からの更新になりました。
電気代、勿体なかったな(苦笑)
これを機に、午前中に更新してみようかな、と考えるマシュマロです。

土曜日に引き続き、日曜日も親戚と会って晩餐会?を開いていました。
ブッフェ形式だったので、食べすぎてしまったことが、早い時間に眠くなった原因かも(苦笑)
おかげで、朝はスッキリ目覚められました。

その親戚と、着物を処分する話になったので、今回はそのことを少し考えてみます。

着物は持っていますか?
我が家には、過去に着物が20枚前後ありました。
しかし、着用したことがあるのは、私の振袖とセパレートになっている着物、私が子どものころに父と母が着たことがあると思われる着物が数枚。
昔の写真を見ると、家族で着物を着て正月を過ごしたと思われる写真が存在するので、その時の着物だと思います(モノクロ写真なのではっきりしない)
それ以外では、母が祖母からもらったお下がりの着物と、買ったのに一度も袖を通していない着物と浴衣が数枚ありました。

祖母と母の時代は、着物は持っておくべきアイテムのひとつという価値観です。
結婚するときも、結納や婚礼道具のひとつとして用意されることが当たり前でした。
最近は、結納式も洋服ですることが多いと思いますが、私が若かったころは、結納式に着物を着る家庭が多かったです。
母の世代の価値観では、かわいい娘のために着物を持たせることが親の務めだったのですね。

今でも、一部の人の間では着物の需要は大きいと思いますが、普段から着物を着ている人は少数派です。
若い人の中では、成人式用の振袖と浴衣を持っている程度ではないでしょうか。
最近では、民族衣装の「和服」として、その価値が見直されてきているようで、外国からの旅行者が購入したりレンタルして街歩きをするなどの光景は、頻繁に目にしますが、所有するとなると、おそらく私の世代でたくさんの着物を所有している人は少ないのではないでしょうか。

私が着物を着た回数
私が51年ほど生きてきて、着物を着た記憶があるのは数回です。

 ・三歳のときの七五三で1度
 ・子どものころの正月に1度
 ・高校生のときの正月に1度
 ・成人式のときに2度(写真撮影時と当日)
 ・友人の結婚披露宴で2度
 ・浴衣を数回

以上です。
着物を着る頻度として、これが平均的な回数なのか、少なすぎるのか、私の世代としては多い方なのか、よくわかりません。
ただ、我が家の着物所有数から判断すると、着物に申し訳ないと思える回数のような気がします(苦笑)

高校生のときは、なぜか着物を着たいと思う時期があり、正月に着たのは単純に着たかっただけです(笑)
夏祭りのときは、私が仲良くしていた友人たちとの間で、浴衣ブームが来ました。
友人の1人が服飾系の学科で、毎年夏には浴衣の早縫い大会があり、その練習として友人たちの浴衣を縫ってくれていたので、せっかくだから夏祭りで着て行きましょう、という流れになったと記憶しています。

成人式の振袖は、今でも用意して着る方は多いですが、レンタルが多いように見受けられます。
私が20代のころは、振袖を買うことが当たり前のような雰囲気があり、レンタルは少数派だったような気がします。
今思えば、私の周りがそういう考え方の家庭が多かったのでしょう。

振袖は、購入金額も高かったので、成人式だけでは勿体ないと思ったことと、年齢的に友人の結婚ラッシュだったことで、数回着る機会があり、よかったな、と思っています。
最近のように、ラフなスタイルの披露宴や会費制パーティーが増えていたら、着る機会がなかったかもしれません。

母の買い物癖で着物が増えた
高校生のときに、個人的な着物ブームがあり、成人してからも振袖に数回袖を通したことで、私は着物を着る機会があると判断したのか、母はいつの間にか数枚の訪問着を作っていました。

そのころ、バブル景気の最終期だったこともあり、母は自分の服も少し高額なモノを買い集めていました。
ここからが、母の価値観と考え方の悪いところというか、厄介なところだったのですが、自分ばかり高額な服を買ったら不公平だから、娘にも良質の服を買ってあげよう、と思ってしまう性質だったのですね。
私の趣味や意向は完全無視の状態で、母が思うままに私の服も購入していたこともあり、服が溢れてしまいました。
着物も例外ではなく、私の意向は全く確認することもなく、母の独断で仕立ててもらったので、気が付いたときには「マシュマロ用の着物」が増えていた状態。
おまけに、母が昔から所有している着物と、祖母からのお下がりと、父の着物も数枚ありましたから、最終的な枚数が20枚前後となったわけです。

着物の処分をどうするか
私が20代後半くらいになると、全く着物を着る機会もなくなり、私自身もお正月などに着物を着たいという気持ちにならず、母も父も着物を着る機会がなく、我が家の着物は桐の衣装箱の中にずっと眠っていました。

私が家の不要品を処分し始めてから、数年経ったころに、やっと着物の処分をどうするか、という段階までこぎつけました。
しかし、着物はリサイクルショップでも買い取り不可な場合が多く、誰かに譲るにしても、着物を頻繁に着るような知人友人は、ひとりも思いつきませんでしたので、いつまでも処分できない状態が続きました。

ある日、なんでも買い取ってくれるリサイクルショップがあると聞き、調べてみました。
そこは、持ち込んだ着物の総重量に対して買い取り額が決定する査定方法(1グラム〇円のような)で、二束三文という言葉がぴったり嵌るリサイクルショップ(笑)
しかし、調べる限り着物を買い取ってくれるようなリサイクルショップが他に見当たらなかったので、かなり悩みましたが何度か袖を通した古い着物だけ、そのリサイクルショップへ売ることにしました。
買い取り価格は憶えていないのですが、数千円だったような気がします。
おそらく、購入した時は何十万もした着物もあったでしょうが、査定方法が重さで買い取る方法ですから、購入した価格や着物の素材は全く関係なかったので、仕方ありません。
ただ、売った後にやはりモヤモヤが残り、それ以降は着物をリサイクルショップへ持ち込むことはやめました。

これは、私の価値観なのですが、着物は大事に着てくれる人の手に渡ってほしい気持ちがあります。
グラムで買い取るリサイクルショップは、着物の陳列も雑な印象で、着物を大事にしてくれる人が購入してくれるようには見えませんでした。
無料でいいから、着物は本当に欲しいと思ってくれる人に譲りたい。
そんな気持ちになったので、売らずに残しておいた着物数枚(素人判断で少しいい生地のモノ)は、欲しい人が見つかるか、丁寧に扱ってくれるリサイクルショップが見つかるまでは、持っておこうと思いました。

お茶を習っている親戚に相談した結果
今回会っていた親戚がお茶を習っていて、彼女は着物を着る機会がたくさんあります。
昨年会ったときに、我が家に残っている着物は要らないか、と相談してみたところ、引き取ってくれるということになりました。

その時点で、まだ十数枚残っていて、私の振袖や袖を通していない訪問着も残っていたので、全て貰ってもらうことで話がまとまりました。
一応、着物も年齢に合わせた柄や模様があるので、中には親戚が着るには少しデザインが若すぎるモノもありましたが、お茶の教室には若い人も来るということで、その方にでも譲ってくれと頼みました。

今回の親戚との晩餐会で、着物のことが話題にあがったので、譲った着物がどうなったのか聞くことができました。
私の振袖は、親戚の知り合いの娘さんに譲ったところ、非常に喜んでくれたとのこと。
そして、親戚が着てもおかしくないデザインのモノは、順番に着ているという話でした。

私のお古の振袖を、喜んで貰ってくれたことは、とてもうれしく思っています。
リサイクルショップへ持ち込まずにいて、本当によかったです。

そして最後の1枚
数か月前に、和ダンスを処分するために中に入っているモノを片付けていたところ、全て処分していたと思っていた着物が、まだ残っていました。
1枚は手を通していない喪服。
もう1枚は、色無地の着物でした。

見つけたときは、少し放心状態になりましたね。
まだ、着物が残っていたのか、と(苦笑)
しかし、今回は譲ることができる着物は色無地の1枚だけ。
ですから、最後の1枚として親戚に引き取ってもらいました。

残るは、喪服の1枚だけ。
さて、どうしたらいいものか。

親戚が言うには、喪服はコートなどにリメイクする人も多いのだとか。
へえ、と思う反面、そのリメイクしてくれるお店が見つかるかどうか、という点と、リメイク料金はいかほどか?という点。
あまりにも高いのであれば、少し悩みます。
何故なら、私はあまりコートを着ないから。

リメイクしてくれるお店に関しては、1軒だけ当てがありますので、一度機会を見て相談してみようと思いますが、果たして私は喪服をリメイクするのでしょうか?
こうご期待?です(苦笑)


今回は、着物の処分について綴りましたが、ひとつわかったことがあります。
それは、着物はむやみに買っていいモノではない、ということです。
まあ、当たり前かもしれませんが、ファストファッションの洋服を買うのとはわけが違います。
私の母のように、欲望の赴くままに購入してはいけないモノです。
自分のライフスタイルを考えれば、着物はそんなにたくさんは要らない、ということはわかるはずなのですが、母にはその感覚はなかったようですね。
私は、自分のライフスタイルをしっかり決めているので、今後着物を購入することはないですし、もし着ることがあるとすれば、それは自分の葬儀の時ですね。
最後の着物姿は、自分で確認できないことになりそうですが、私はそれでいいと思います。