浄空法師説法研究

浄空法師の説法に学びながら、日本語に翻訳して紹介しています。

放下すればすぐに得られる

2020-03-15 | 聴師父説

放下即得到 / 放下すればすぐに得られる
2018/5/20 法國巴黎精舍 檔名:32-298-0002

  破迷開悟之後,他的認知跟神是完全平等,這種全知全能是人類本來有的。怎麼丟掉的?丟掉是六根在六塵境界,眼在色、耳在音聲,被外面色聲香味觸法迷了,迷了就是說不知道了。如何把迷掉的再找回來?這就是佛的教學。用什麼方法?戒定慧。從戒下手,就教你放下;真放下之後,就看破了;看破就是覺悟了,完全明白了。
迷いを破り悟りを開いた後では、その人の認知は神と完全に平等です。このような全知全能は人類が本来持っているものです。なぜ失ったのでしょうか?失ったのは六根が六塵の境界にあって、眼で色を見、耳で音を聞き、外の色声香味触法【注】に迷わせられます。迷うとは分からないということです。如何にして迷いから再び立ち返るのでしょうか?これが正に仏の教学です。どのような方法を用いるのでしょうか?戒(かい:戒律)定(じょう:禅定)慧(え:智慧)です。戒律から着手して、放下することを教えます。本当に放下した後、看破できます。看破とは悟ることであり、完全に理解することです。

  所以佛法教學,無論是大乘小乘、顯教密教,離不開戒定慧;離開戒定慧,那不是釋迦牟尼佛傳的。釋迦佛所傳的、所講的,都是人的本能,各個人都有,沒什麼稀奇,佛有,大家都有。佛為什麼能顯?他沒有障礙。我們不能顯,妄想、分別、執著太多了,障礙住了。
ですから仏法の教学は、大乗小乗、顕教密教に関わらず、戒・定・慧を離れることはできません。戒・定・慧を離れていれば、それは釈迦牟尼仏が伝えたものではありません。釈迦牟尼仏が伝えたもの、講じたものは、すべて人本来の能力であり、誰にでもあり、珍しいことではありません。仏にあり、皆さんにもすべてあるものです。仏はなぜ現すことができたのでしょうか?彼には障碍がありません。私たちは現すことができません。妄想、分別、執著(しゅうじゃく:執着)が多すぎて、障碍になっているのです。

  中國這個例子很多,歷朝歷代,出家、在家的,像惠能是個很明顯的例子:沒開悟之前,什麼都不知道,悟了之後什麼都知道。佛法要求的是開悟,不要求別的。開悟必須具備的條件:看破、放下。放下是定,開悟是慧。自性本定,自性本有的智慧,不是從外來,外面沒有東西。學佛多年,定慧不能現前,是沒放下,叫你放下你沒放下。放下就是,所以妙不可言。
中国にはこの事例がたくさんあります。歴代の王朝や、出家、在家のものです。慧能(えのう)大師は明らかな例です。悟りを開く前は、何も分かりません。悟った後では何でもすべて分かります。仏法が要求するのは悟りを開くことであり、他のことではありません。悟りを開くのに必ず具えていなければならない条件は、看破(かんぱ:真相を見極めること)、放下(ほうげ:執着を捨てること)です。放下は定(じょう:禅定)であり、開悟は慧(え:智慧)です。自性本定。自性に本来具わっている智慧は、外から来たものではありません。外には何もありません。仏に長年学んで定も慧も現れないのは、放下していないからです。あなたに放下させるにも、あなたが放下しないのです。放下するだけのことです。その妙は口では言い表せません。

  我們讀《聖經》、讀《古蘭經》,不懂的,在佛教裡頭去找,有解釋的。為什麼?到達那個境界,所講的東西通的,所以一門通了,門門都通了。所有宗教,你想耶穌、佛陀,真的搞明白了,原來耶穌跟佛陀是一個,不是兩個,這是真的,不是假的。所以我們提倡的眾神是一體,宗教是一家。
私たちが『聖書』を読み、『コーラン』を読んで理解できないところは、仏教の中で探せば、その解釈があるものです。なぜでしょうか?その境界(きょうがい:境地)に到達すれば、説かれている内容に通じるからです。ですから一門に通じれば、どの門にも通じます。あらゆる宗教、あなたがイエスや仏陀を思いを寄せ、本当に明らかになれば、もともとイエスと仏陀は一つのことであり、二つのことではありません。これは本当です。嘘ではありません。ですから私たちは衆生と神とは一体であり、宗教は家族であることを提唱しています。

  達到菩薩的境界,所以佛教有三個等級,阿羅漢、菩薩、佛,就像現在學校的學位一樣,佛是博士、菩薩是碩士、阿羅漢是學士,程度不一樣。他要念到博士學位,跟他是完全貫通,所以是一不是二。如果孔子要生在印度,印度人叫他佛陀。他雖然叫的不一樣,實際上他是一樁事情,都達到最高峰了,最高稱為佛陀。所以,佛陀要生在中國,中國人稱他聖人,孔子是聖人,聖人跟印度佛陀完全平等。
菩薩の境界に達します。仏教には阿羅漢、菩薩、仏の三つの等級があります。ちょうど今の学校の学位と同じようなものです。仏は博士、菩薩は修士、阿羅漢は学士です。程度が異なります。その人が博士の学位まで念仏できれば、その人は完全に通じます。ですから一(同じ一つのこと)であり二(異なる二つのこと)ではありません。もし孔子がインドに生まれていれば、インド人は彼を仏陀と呼んだでしょう。呼び方は異なっても、実際には一つのことなのです。どちらも最高峰に達したのであり、最も高いものを仏陀と呼んだのです。ですから仏陀がもし中国に生まれていれば、中国人は彼を聖人と呼んだことでしょう。孔子は聖人です。聖人とインドの仏陀とは完全に平等です。

  最高的境界是什麼?念頭沒有了。眼所見的,這個色相,不起分別心,沒有分別、沒有執著,心是清淨的,完全用清淨心來接受外面的宇宙大自然;你所見到的是真相,諸法實相。我們今天所見到的,裡面摻雜無量無邊的妄想、分別、執著,叫胡思亂想。
最高の境界(きょうがい:境地)とは何でしょうか?念(思い)がなくなることです。眼で見るもの、その色相に対して分別心を起こしません。分別せず、執著(しゅうじゃく:執着)しません。心は清浄(しょうじょう:清らか)です。完全に清浄心で外界の宇宙大自然を受け入れます。その人が見るものは真相であり、諸法実相です。私たちが今日見ているものは、その中に無量無辺の妄想、分別、執著が入り混じっています。あれやこれやと思いを巡らせています。

  睜開眼睛看到大千世界,不起心不動念、不分別不執著,這是戒律。戒律功夫得力,智慧就開了;智慧開就是大徹大悟、明心見性。到大徹大悟、明心見性,就回歸到佛,你本來是佛。中國歷代都有這樣的人出現,這個一百年沒有了。虛雲老和尚這是見性的人,像他這樣的人不多,現在沒有了。現在為什麼沒有了?科學技術玩具太多,大家被它迷了。你看看,這手機裝在身上就被它迷了,你就沒有一樣自在,你的整個精神跟它都連著的,它就把你迷住了。我連手機、電話都沒有,什麼都沒有,所以得到一點清淨。
眼を見開いて大千世界を見て、心を起こさず念を動かさず、分別せず、執著しない。これは戒律です。戒律の技量が力を得て働き、智慧が開かれます。智慧が開けば正に大徹大悟、明心見性です。大徹大悟、明心見性に至れば、仏に回帰します。あなたは本来仏なのです。中国では歴代すべてこのような人が現れましたが、この百年はいなくなりました。虚雲和尚は見性した人ですが、このような人は多くありません。今ではいなくなりました。今はどうしていないのでしょうか?科学技術の玩具が多すぎて、皆がそれに迷わされているからです。ご覧なさい。携帯電話を持つようになってそれに迷わされています。あなたは一つも自在ではなく、あなたの全精神はそれと繋がっています。それはあなたを迷わせています。私は携帯電話さえ持ちません。何もありません。ですから少しばかり清浄を得ています。

<参考>
六根
(ろっこん)・・・・人間の感覚器官。
 眼(視覚)、(聴覚)、(嗅覚)、(味覚)、(触覚)、(意識)
六塵(ろくじん)・・・・六根が知覚する対象
 色(見た目)、(音)、(香り)、(味わい)、(触感)、(思考)

(視覚)→(見た目)
(聴覚)→(音)
(嗅覚)→(香り)
(味覚)→(味わい)
(触覚)→(触感)
(意識)→(思考)

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