今日は長崎へ原子爆弾が落とされて61年目。平和を願う記念日です。
午前11時2分。上空で原子爆弾が炸裂した時刻に
長崎の鐘が鳴り、参列者は黙祷を捧げました。
61年前、一瞬にして7万名以上の命が奪われた。たった一発の爆弾で。
7万名といえば、横浜スタジアムを2回満員にしても足りない数です。
そして同じ数の人たちが原爆後遺症で亡くなり、今も苦しんでいます。
核実験ではなく、実際の兵器として人類の頭上で爆発した原子爆弾。
ヒロシマが最初で、ナガサキが最後でなければなりません。
長崎市長による平和宣言は、いまだに核軍縮が進まない現状に
「怒り」を表明しました。
あの日あの時、なにがそこで起きたか?を知っている長崎だからこそ言える。
そんな平和宣言だったのではないでしょうか?
アメリカはイラクへの軍事攻撃で劣化ウラン弾を使用しました。
核のゴミである劣化ウランでも、その破壊力は他の兵器の比では有りませんでした。
ですから、一瞬にして7万人、広島では10万人を殺傷できる核兵器を
「有効」に使いたい、そんな軍事大国の思惑が伺える今日この頃です。
しかし、その核兵器が一般市民の上で炸裂したとき、どれほどの被害が、
放射能による汚染が、長く人々を苦しめるのか?検証はされていません。
戦略的なミタリーバランスだけを考えて核兵器を語るのは非常に危険です。
そこには「人」は介入せず、国家指導者の力の争いだけが浮き彫りになる。
結局は、アメリカの大統領から朝鮮民主主義人民共和国の総書記も
核の犠牲者にはなり得ない。犠牲になるのは一般市民です。
私たちは広島と長崎の小さな声に耳を傾け、
大国の思惑という大きなニュースに惑わされる事無く、
真実と事実を、後世に、これからを生きる子ども達に伝えて行く。
そんな義務があると思います。
私たちは今、戦っています。そして勝っています。
平和が続く限り私たちは勝利し、戦争が始まるとき私たちは敗北するのです。
憲法9条の謳う恒久平和は、私たちの義務でもあり権利でもあるのでしょう。
午前11時2分。上空で原子爆弾が炸裂した時刻に
長崎の鐘が鳴り、参列者は黙祷を捧げました。
61年前、一瞬にして7万名以上の命が奪われた。たった一発の爆弾で。
7万名といえば、横浜スタジアムを2回満員にしても足りない数です。
そして同じ数の人たちが原爆後遺症で亡くなり、今も苦しんでいます。
核実験ではなく、実際の兵器として人類の頭上で爆発した原子爆弾。
ヒロシマが最初で、ナガサキが最後でなければなりません。
長崎市長による平和宣言は、いまだに核軍縮が進まない現状に
「怒り」を表明しました。
あの日あの時、なにがそこで起きたか?を知っている長崎だからこそ言える。
そんな平和宣言だったのではないでしょうか?
アメリカはイラクへの軍事攻撃で劣化ウラン弾を使用しました。
核のゴミである劣化ウランでも、その破壊力は他の兵器の比では有りませんでした。
ですから、一瞬にして7万人、広島では10万人を殺傷できる核兵器を
「有効」に使いたい、そんな軍事大国の思惑が伺える今日この頃です。
しかし、その核兵器が一般市民の上で炸裂したとき、どれほどの被害が、
放射能による汚染が、長く人々を苦しめるのか?検証はされていません。
戦略的なミタリーバランスだけを考えて核兵器を語るのは非常に危険です。
そこには「人」は介入せず、国家指導者の力の争いだけが浮き彫りになる。
結局は、アメリカの大統領から朝鮮民主主義人民共和国の総書記も
核の犠牲者にはなり得ない。犠牲になるのは一般市民です。
私たちは広島と長崎の小さな声に耳を傾け、
大国の思惑という大きなニュースに惑わされる事無く、
真実と事実を、後世に、これからを生きる子ども達に伝えて行く。
そんな義務があると思います。
私たちは今、戦っています。そして勝っています。
平和が続く限り私たちは勝利し、戦争が始まるとき私たちは敗北するのです。
憲法9条の謳う恒久平和は、私たちの義務でもあり権利でもあるのでしょう。