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日本人として日々の暮らしの中で思うこと、知りたかったこと

歴史の真実⑦

2019-03-02 06:34:24 | 韓国・北朝鮮
日清戦争(1894年~1895年)の日本の勝利により、朝鮮は清朝の柵封体制から独立し1897年から大韓帝国と呼称を改めた。


大韓帝国の自治や近代化は進まず、日露戦争(1904年~1905年)後のポーツマス条約(1905年5月)により、外交権を日本がもつ保護国となった。そして京城(現ソウル)に朝鮮総監府がおかれ、大日本帝国初代内閣総理大臣であった伊藤博文が初代総監となって大韓帝国(1895年~1910年)の自治を監督。


しかし当時、絶望的なほど社会インフラが不足していて近代化以前の状態の韓国(シャルル・ダレ「朝鮮教会史」1874年参照)にとって、日本と一体化する以外には、南下政策で不凍港を求めるロシアなど列強にのみこまれずに近代化を遂げる道はなかった。


当時、韓国最大の政治勢力であった一進会(1904年~)という韓国人政治団体(100万人規模と自称)が日韓併合を要求するも、伊藤博文統監は(併合に伴う日本側の負担の大きさもあり)あくまで「朝鮮の自治が必要」としてこれに反対。そして安重根(及び、あるいは、ロシア特務機関等)により1909年10月26日ハルピン駅にて暗殺され死亡。


一進会は1909年12月4日、「合邦声明」を出し、伊藤の後の第2代韓国統監である曽根荒助と、韓国首相であった李完用(イ・ワンヨン)に対し「日韓合邦」の請願を提出。1910年6月3日「併合後の韓国に対する施政方針」が帝国議会で閣議決定し、8月22日寺内正毅第3代総監と李完用韓国首相により調印され、韓国は日本に併合となった。
つまり、韓国の当時最大勢力である政治団体が、自らの国が近代国家へ脱皮するための唯一の道として日韓併合を選んだのである。

併合後は毎年大日本帝国の国家予算のおよそ1割もの血税が韓国(当時は日本の一部であった)の社会インフラの整備のために投入されたという見方もある。(松木國俊「日韓併合の実像」より引用)

要するに日本による韓国併合は韓国がロシアにのみこまれることを避けるための、双方にとり究極の選択だったのだ。日本は日露戦争の犠牲を無駄にしたくなかったしどこまでも不甲斐ない韓国を日本がロシアから守る他なかった、ということだ。

その後、1910年から太平洋戦争敗戦の1945年までの日韓併合時代のようすは以下のサイトで「1910年-1945年日韓併合時代の真実」が体系的に掲載されており、検索できます。

引用:
https://honuryoma.wordpress.com/1910%E5%B9%B4%E3%83%BC1945%E5%B9%B4-%E6%97%A5%E9%9F%93%E4%BD%B5%E5%90%88%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F/





コメント

kamakuraboyさん、こんばんは
伊藤博文が暗殺されてから韓国とは腐れ縁ということですね。駄々をこねるダメな子の子守を押しつけられた気持ちです。そのダメな子が駄々をこねるだけではなく徐々に横着になってきたようです。
2019/1/13(日) 午前 0:44 泉城


> 泉城さん
おはようございます。全く同感です。もはや日本の方はかなりあきらめムード(というか悲しいことですが、関わりたくないムード)でしょうか。あまりの卓袱台返しに怒り狂っている方々もけっこうおられるようですが。
2019/1/13(日) 午前 7:45 kamakuraboy



2018年1月30日ヤフーブログに投稿した記事より

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