25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

ドクトルジバゴをなぜ好むのか

2018年03月05日 | 映画
デビッドリーンの映画「ドクトル・ジバゴ」をなぜ僕は好むのか、風邪でぼんやりしている中で考えてみた。
 やはり、理由の第一位として、ジュリー・クリスティーという女優の起用にある。少女から母親までの時代の「ラーラ」を演じた。若いジュリー・クリスティーと成熟したジュリー・クリスティーが見事に演じ分けられている。ぼくは看護師として働く彼女も、ユリアーティの図書館で働く彼女も、その冬のファッションも含めて好きだ。要するにぼくはジュリー・クリスティーにイカレているのだ。
 映画の目線は絶えずジバゴを追う形となる。ジバゴは革命の歴史に翻弄されていくことになる。革命政府から失脚した夫をもつラーラも翻弄されていく。
 ラーラのどの場面を見てもよいと思うのは、一カットごとに考え尽くされ、デビッド・リーン監督が最も良しとした角度や陰影によって像が作りだされていることだ。監督もジュリー・クリステーの美しさを最大限引き出したいのだ。
 一方の主人公ジバゴを演じたオマー・シャリフはいつも控えめであり、ギトギトしたものもない、心優しい医者・詩人である。デビッド・リーンは主張し過ぎないキャラクターを表現できるものとしてオマー・シャリフを選んだのだろうと思う。
 ジバゴは野戦病院でラーラと出会うことになる。彼の倫理観も、知性もまだ保たれていた。モスクワの家を追われ、ベルキノに逃れるが、その先の町の図書館で偶然にもラーラと出逢うことになる。この時、ついに恋に火がついてしまうのである。妻子を裏切ることになる。不運がまた訪れる。帰宅中にパルチザンに拉致され、医師として従軍することを強制される。生涯妻子とも離れてしまうことになる。

 「ドクトルジバゴ」を好む別の理由として、心の動きが風景の描写によって表されることだ。恋をすればこれまで見えていたものが違った美しさで見えるように、ラーラを囲む風景も、ベルキノという別荘地も美しいものに変わる。

 最後に全編を通して流れる「ラ-ラのテーマ」である。雄大なロシアの地。仰ぎ見る空。この「ラーラのテーマ」がバリエーションを変えて流れてくる。
 二人の恋は寡黙である。恋をしてしまった罪悪感もある。しかし抗えないのである。罪悪を越えるものとして恋を描く思いがデビッド・リーン監督にあった。このテーマは「ライアンの娘」で徹底的に追求されることになる。なぜ、デビッド・リーン監督は「恋の喜び・美しさと裏腹にある恋の残酷」に拘ったのだろう。そのために映像を駆使し、莫大な資金を使ったのだ。

 考えていると「ラーラ」はわかりやすそうでわかりにくい女性である。自分を主張するセリフがあまりないからである。その後映画で「ラーラ的な役」を見たことがない。
 いよいよパステルナークの詩を探そうか、小説を読んでみようかと考えている。