25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

映画「パガニーニ」とN響まろさんの話

2016年09月07日 | 映画

  脚本家の中園ミホはフランス映画の「男と女」を100回は見たという。僕などいくら「ドクタージバゴ」が好きだからと言って、精々5回くらいのものである。「ゴッドファーザー」でも3回ほどだ。

 久しぶりで外国映画をDVDで見た。「パガニーニ」(原題 Devil's Violinist)を見た。その中で、パガニーニが伴奏をして若い女性が歌うアリアは素晴らしく良かった。ソプラノの高い歌声とパガニーニのバイオリン伴奏は清冽であり、美しい風のようであり、澄み切った小川のようでもあったが、内面の熱情をもしっかりと歌い込んだものであった。久しぶりでこんな良い歌にめぐり逢った。まだ二十歳にもならない乙女をパガニーニは好きになってしまう。しかしそれは引き離さなければならない愛であった。絶望のままに、博打に狂い、アヘンをやり、水銀中毒になっているパガニーニの愛を成就をさせられないと考える、彼の天才性を売り出す世話人の気遣いであった。

 「超絶技巧」で有名なパガニーニだが、後世の評価はやや低かった。映画や小説というのは所詮作り話である。同じ人物を立場を変えてみると、さまざまであるだろう。

 ところで、音楽のことで言えば、先日NHK交響楽団が「N響ほっとコンサート」をやっていた。第二部で「まろさん(篠崎史紀コンサートマスター)と指揮者の広上淳一の対談には、特にまろさんの言葉には目からうろこが落ちる思いだった。知っている、気がついているはずなのに、最近忘れていた、と言っていいだろうか。音楽は感性で聞くものである。これはわかる。しかしながら、自分の想像力を越えた想像力、これが楽しみなことだという風な意味のことを言っていた。

 そして自分風に面白かったのは感性で聞く音楽にも関わらず、教えるときは、「今日は暑い日でした。しかし・・・、とか そして・・・」とか接続詞があると、次に何かなって想像力が働くよね」などと演奏の仕方をしっかり言葉で説明しているのである。演奏する側は言葉の解釈と感性の磨きと技術が求められる。教える側はより言葉の操作が求められる。聴く側は感性だけでよいということになる。そんなことを思いながら、この対談を楽しんだ。