25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

時代劇

2015年12月12日 | 文学 思想

  笑ってしまうことがある。忠臣蔵だ。主君のために、命をとして仇討ちを決行する。これは戦後時代が終わり、女房などが討ち取って切り落とした手柄の首を洗っていた時代から、徳川の治世になり、5代将軍綱吉の元禄期の事件である。四十七士が二年に渡って復讐を遂げるまでには、四十七士それぞれにもいろいろなことがあったろうし、最後は成功し、そして切腹となるのだから、後世の人は読み本や芝居にするには格好の素材となっただろう。NHKの大河ドラマでもおぼえているだけでも3つある。

  さすがにこのところ「忠臣蔵」を見なくなった。主君への忠義という言葉がバカバカしいものになっているに違いない。このことに「武士道」の本質をみなくなったのかもしれない。

 ついで、「桜田門外の変」。井伊直弼の首をとるために、テロ攻撃を行う。それから、2、26事件。この辺から日本列島人は帝国主義的な戦争を仕掛けていき、遂には特攻隊を作り、民衆は空襲をうけ、右往左往している間に、原爆で、降参となる。まるで、ISのようではないか。日本列島人にはかつてそういう「命を大事に思わない」時期が長くあった。西洋の悪事に比べたら、可愛いものだという気もするが、人間は何かの契機さえあればいつでも人を合法的に殺すこともいとわないものを潜在的にもっている。

 わずか70年前には人殺しをしていたのだ。IS の過激原理集団も、まだ江戸時代末期や昭和の14、5年あたりの観念や心情で生きているのだろう、昨日岡田さんと話したのだった。僕は「放っておくのが一番だ」と思っているので、それを言うと、かれは賛同し、さらに、「彼らは放っておかれるのが一番怖れることだ。干渉すると、IS側は喜ぶはずだ」と付け加えた。 

  時代劇が少なくなってきた。時々するのはNHKだけだが、それはたんなる探偵ドラマの時代劇版とも言うべきである。映画でもときに制作されるが、テーマは個人の世界にフォーカスするようになっている。

 時代は変わったのだなあ、と感慨する。ところが妙なことに、いつでも戦争のできる国になってしまっている。かつての日本列島人よりもより強固な心情と背景をもった人たちが相手である。奇妙だ。