ペタンク

南フランス生まれのスポーツ、みんなと楽しんでいます。

淀探索

2018-02-28 19:28:13 | 日記
今年は維新150年と云うことで

伏見の街は盛り上がり、

もう一度伏見の事を知ろうと、

1つ上の先輩N氏のお誘いも有り、

歴史探訪シリーズで、

今回は京阪淀駅をスタートし歩いてきました


まずは明治元年1月4日戊辰戦争。

鳥羽伏見の戦いで4日間の徳川軍と薩摩の攻防戦に於いて

お互いその鳥羽街道と京街道の交わったところで、

納所(のうそ)と云い

妙教寺を挟んでの戦いで、

東軍(徳川軍)の大砲の弾が、

本堂南側の壁から(写真上右)入り、

柱(写真左)を貫通し北側の戸板に止まったとの事

”この弾が(レプリカ?^^)そうです”と見せて下さいました。

高さ約20cm、直径約10cmぐらいで(写真右下)

これが炸裂していたら、この本堂無かったかも…

この本堂以外でも裏のお墓の所にも打ち込まれて、

お墓も壊されましたとおっしゃっていました。

こちらには桑名藩士を中心とした幕府軍の埋葬地になったそうです。


元々この淀は、大阪から京に入って来る唯一の街道筋で、重要拠点。

人口の割、お寺の多い所だったらしく、

今でも有るあちらこちらのお寺の一隅には、

無残に亡くなられた東軍の兵士の小さな慰霊墓が、

寂しそうに建っていました… 合掌


この妙教寺の横に川が流れていますが、

この場所に辺に、秀吉の天下となってから、

1589年弟の秀長に命じて

茶々の居る”淀城”(二代目)とされ

それが外堀で有ったとか…

そしてその城で鶴丸が産まれたが、

3才で亡くなりその後茶々は大阪城に移ったとか。


今の石垣の残っている淀城は三代目で、、

1623年秀忠の命で先に廃城となっていた、

桃山城の石垣や資材を使い築城され。

1756年落雷で天守や大半を焼失するも

幕末まで再建されなかったが、

鳥羽伏見の戦いに敗北した幕府軍は淀城に

籠って戦おうとしたが、

薩長の錦の御旗を見た淀藩(幕府軍)に拒絶され、、

官軍の勝利に一役買うことと成ってしまったそうです。



この短い4日間で、日本の運命が決まってしまったと、、

ある方が嘆いていらしたのが印象的でした…

コメント (2)
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