『江島氏物語』 

歴史推理ブログ「筑後江島氏とその庶流」
    通史に無い歴史物語

Vol 39  肥後国人一揆と放し討ち

2018年05月26日 | 江島氏

立花宗茂


●九州国分け

秀吉の九州征伐によって、九州の国人達は否応なしに歴史の本流に巻き込まれてゆきます。そして平安末期から400年余り、「一所懸命」と守り続けた父祖の地と武家の価値観が大きく揺らぐ、歴史の転換点を迎えようとしていました。

天正15年(1587)豊臣秀吉の九州征伐が完了後、九州国分けによって筑後は次のように分けられました。

久留米13万石 、毛利秀包 (山本・竹野・生葉)
柳河13.2 万石、立花宗茂 (山門・下妻・三潴)
山下1.8万石、筑紫広門  (上妻)
三池1万石、高橋統増(宗茂実弟)(三池)

三潴郡は立花宗茂の治めるところとなり、江島氏はその配下の国人となります。


●肥後国人一揆

領地が安堵されてほっと一息をつく間もなく、天正15年7月、九州の国人達を震撼させる事件「肥後国人一揆」が勃発します。

肥後国は島津氏の支配下に置かれていましたが、豊臣軍に押されて島津が撤退し、秀吉は肥後国人52人の所領を安堵します。そして肥後を拝領した「さらさら越え」で著名な「佐々成政」の配下に組み込まれました。

事の発端は佐々成政が秀吉の命であった、領国内の検地を性急に行った事でした。当初秀吉は肥後の国情を考え、成政の支配体制を確立させるために三年の猶予を与えていたと言います。

佐々成正は織田信長に古くから仕え、かつて自分より目下であった秀吉には反抗的な態度を取り続けました。単に功をあせったというよりも、秀吉に対する複雑な思いがあったのではないでしょうか。

隈府城主(現:菊池市)の隈部親永、親泰父子は、所領安堵の秀吉の朱印状を盾に検地を拒否し、挙兵します。成政は7,000の兵を率いて隈本城を立ち、親永の籠る隈府城を落城させます。逃亡した親永は甲斐親英と共に肥後国人を挙兵させます。その数35,000と言われています。一揆軍は勢いを増し、成正の本拠隈本城を包囲します。

成政は甥の佐々成能をはじめ多くの家臣が討ち取られ、兵糧も残り少なく、窮余の策として秀吉に援軍要請を行います。

秀吉の命で、9月には立花宗茂と弟高橋直次は、1,200の兵を率い柳河を出発。1日に13度もの戦いを行い、敵の7城を攻め落とし、650余の首を取るなど獅子奮迅の活躍をします。

秀吉は、肥後国人一揆の早期解決を図るために、第二の援軍として小早川秀包、筑紫広門、鍋島直茂、安国寺恵瓊を送ります。さらに援軍として浅野長政、加藤清正、小西行長、毛利勝信、黒田孝高、蜂須賀家政、福島正則など九州四国の大名、子飼いの大名等を総動員して鎮圧にあたり、ようやく12月になって一揆は鎮圧されました。


佐々成政肖像(富山市郷土博物館蔵)

●立花宗茂の放し討ち

翌年の天正16年(1588)2月、謝罪の為、大坂に出向いた成政は、秀吉に面会を拒否され、一揆の原因を作った罪で閏5月14日に尼崎法園寺において切腹させられます。
一方、立花宗茂の預かりとなった、一揆の首謀者、隈部親永・親泰父子と家臣達にも処刑の命が下ります。宗茂は過去に前例のない処刑を行いました。

【安東氏のルーツ】
「黒門の戦い・放し討ち」より抜粋転載
http://www.maroon.dti.ne.jp/andou3/allandou/fukuoka/kuromon.htm

この時の秀吉の掃討で隈部親永・親泰父子とその家臣団は立花宗茂に預かりとなり、柳川城下に蟄居させられていたが、天正16年5月26日秀吉は一族12人に処刑を命じた。

隈部一族は隈部親永・隈部親泰・隈部善良・牧野某・辻某・長谷川某・本荘某・落合某・鶴某ら12人であった。
(中略)

ここに至って宗茂は隈部親永・親泰父子ら一族12人に名誉あり武士としての最後をと考え「放し討ち」を行うこととした。「放し討ち」とは一対一、または同数による果し合いのことである。

この場合、隈部一族は12人であるため、討つ側も12人にし、十時摂津、十時勘解由、十時伝右衛門連久、池辺龍右衛門、池辺彦左衛門貞政、新田掃部介、内田忠兵衛、安東五郎右衛門、安東善右衛門常久、石松安兵衛、原尻(古庄)宮内鎮勝、森又右衛門、を選抜し、黒門内側の三の丸広場に待機させた。

5月27日午前10時、「目通りしたい儀がある」という宗茂の命をうけて隈部12人が出頭してきた。「殿の下知により、只今討ち果たす」と宣言に始まり、すでに覚悟を決めていた隈部一族と「黒門の戦い」がはじまった。

謀叛の罪では無く名誉ある戦死を贐にしようとする宗茂の意向が明らかであった、隈部親永は老齢であったが、大した抵抗もせず討たれ、他の10人も討ち取られてしまった。
(中略)

この戦いで立花側は森又右衛門が死に全員が傷を負った。
この戦いの様子を宗茂とともに見ていた検視役の浅野長政は秀吉に「放し打ちの勝負とはこれまで聞いた事も無く見たことも無かった。本当に恐ろしい戦いであった」と報告すると、秀吉は「さすがは立花である」と宗茂を絶賛した。
(転載終了)

秀吉は、一揆に参加した国人だけでなく、中立の国人に対しても処罰を行い、肥後国人52人中48人の国人が戦死または処刑されたそうです。

続きは次回で。


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