第八章 日本皇道の失墜
鳥羽上皇崩御。崇徳上皇は当然鳥羽宮に駆けつけた。ところが鳥羽宮の役人によって追い返されるという屈辱的な仕打ちを受けた。
崇徳上皇の怒りは髪を逆立て天を突いた。
崇徳・頼長同盟は軍事行動を起こした。
「保元の乱」である・・・・
敵対関係を少し整理すると
崇徳上皇 対 後白河天皇 兄弟関係
藤原頼長 対 藤原忠通 兄弟関係
源為義 対 源義朝 父子関係
平忠正 対 平清盛 叔父甥関係(忠正が叔父さんにあたる)
となる。これで判るように、父子・兄弟・叔姪相分かれての紛争であった。
話をすすめる
崇徳上皇派の藤原頼長は直ちに、源為義を召集した。
為義は義朝以外の息子を集め馳せ参じた。
この崇徳上皇派に馳せ参じた源氏の中に源為朝もいる。
この為朝の強さは、当時の武士で知らぬものはない。まさに無双。
たとえば、弓の張りの強さ。
一人張りが通常。二人張りとなると剛の者といって、めったにいない。三人張りとなると引けるものがほとんどいなくなる。
ところが、為朝は八人張りの弓を引く。
ワイヤーロープを張ったような弓である。
しかも百発百中。
こんな男が崇徳上皇側についた。
一騎当千とはこのこと。
そこで崇徳上皇派の司令官頼長が為朝に彼の作戦を聞いた。
為朝答えて
今夜直ちに夜襲をかけ、三方に火を放ち一方を攻めれば勝負はすぐ決まり当方の勝ち。
ところが、頼長はその教養が邪魔をしたか、そのような下品な戦いは上皇のすることではない、と却下。
為朝はこれを聞き嘆いた。
後白河派の兄義朝は必ず夜襲をかけるに違いない。この戦は敗北だ。
案の定、後白河派が夜討をかけてきた。
ここで少し寄り道をして「保元物語」から、この場面を語ります。
保元元年7月11日午前4時
後白河派の平清盛、源義朝連合が崇徳上皇の立てこもる白河殿を攻めた。
平清盛は西門攻撃を担当
清盛が西門で、「我こそは・・・」と呼ばわり、相手になってやるから出て来いと格好をつけた。
そこに登場した源為朝
「ここを固め候者は、清和天皇九代の後胤、鎮西八郎源為朝なり」
と返答。
清盛、真っ青。えらいのに当たったと思ったかどうか・・・
戦わずして逃げるわけにもいかず、郎党の伊藤五と伊藤六を出した。
結果は・・・
為朝の矢がミサイルのように飛んできた。
伊藤六を貫き、伊藤五を馬の鞍に突き刺した。
清盛はあわてて退却。
清盛に代わって源義朝が西門へ向かった。
さすがの為朝も兄を射殺すには忍びない。
為朝は狙いを少しはずし、兄義朝の兜の星を吹き飛ばした。義朝は失神寸前。
義朝は普通に戦っていたのでは為朝に勝てない、と思い火攻めの計に転じた。
白河殿は黒煙につつまれ、崇徳上皇派は総崩れとなった。
そして・・・
藤原頼長は流れ矢に当たり死亡。
崇徳上皇は仁和寺に逃亡し命乞い。
崇徳上皇に付き従う源為義等武士達は、上皇から恭順の邪魔になるといわれ解散。
後白河派の完勝となった・・・・・
栗山潜鋒は、この上皇の行動に容赦なく筆誅を加える。
上皇が天皇を攻めるということは、考えの及ばないほど不倫なことである。
上皇が髪をそり、降伏したのは非を悔い改めたのではない。
ただ命が惜しかっただけだ。
これほど恥知らずな行為はない。
天皇・上皇の行動における倫理性の欠如。「保建大記」における第二のテーマである。
かくも、倫理性を欠く天皇・上皇が何ゆえ絶対でありうるのか。いや、絶対でないといけないのか。
その証明こそ小室の中心テーマである・・・・・・
鳥羽上皇崩御。崇徳上皇は当然鳥羽宮に駆けつけた。ところが鳥羽宮の役人によって追い返されるという屈辱的な仕打ちを受けた。
崇徳上皇の怒りは髪を逆立て天を突いた。
崇徳・頼長同盟は軍事行動を起こした。
「保元の乱」である・・・・
敵対関係を少し整理すると
崇徳上皇 対 後白河天皇 兄弟関係
藤原頼長 対 藤原忠通 兄弟関係
源為義 対 源義朝 父子関係
平忠正 対 平清盛 叔父甥関係(忠正が叔父さんにあたる)
となる。これで判るように、父子・兄弟・叔姪相分かれての紛争であった。
話をすすめる
崇徳上皇派の藤原頼長は直ちに、源為義を召集した。
為義は義朝以外の息子を集め馳せ参じた。
この崇徳上皇派に馳せ参じた源氏の中に源為朝もいる。
この為朝の強さは、当時の武士で知らぬものはない。まさに無双。
たとえば、弓の張りの強さ。
一人張りが通常。二人張りとなると剛の者といって、めったにいない。三人張りとなると引けるものがほとんどいなくなる。
ところが、為朝は八人張りの弓を引く。
ワイヤーロープを張ったような弓である。
しかも百発百中。
こんな男が崇徳上皇側についた。
一騎当千とはこのこと。
そこで崇徳上皇派の司令官頼長が為朝に彼の作戦を聞いた。
為朝答えて
今夜直ちに夜襲をかけ、三方に火を放ち一方を攻めれば勝負はすぐ決まり当方の勝ち。
ところが、頼長はその教養が邪魔をしたか、そのような下品な戦いは上皇のすることではない、と却下。
為朝はこれを聞き嘆いた。
後白河派の兄義朝は必ず夜襲をかけるに違いない。この戦は敗北だ。
案の定、後白河派が夜討をかけてきた。
ここで少し寄り道をして「保元物語」から、この場面を語ります。
保元元年7月11日午前4時
後白河派の平清盛、源義朝連合が崇徳上皇の立てこもる白河殿を攻めた。
平清盛は西門攻撃を担当
清盛が西門で、「我こそは・・・」と呼ばわり、相手になってやるから出て来いと格好をつけた。
そこに登場した源為朝
「ここを固め候者は、清和天皇九代の後胤、鎮西八郎源為朝なり」
と返答。
清盛、真っ青。えらいのに当たったと思ったかどうか・・・
戦わずして逃げるわけにもいかず、郎党の伊藤五と伊藤六を出した。
結果は・・・
為朝の矢がミサイルのように飛んできた。
伊藤六を貫き、伊藤五を馬の鞍に突き刺した。
清盛はあわてて退却。
清盛に代わって源義朝が西門へ向かった。
さすがの為朝も兄を射殺すには忍びない。
為朝は狙いを少しはずし、兄義朝の兜の星を吹き飛ばした。義朝は失神寸前。
義朝は普通に戦っていたのでは為朝に勝てない、と思い火攻めの計に転じた。
白河殿は黒煙につつまれ、崇徳上皇派は総崩れとなった。
そして・・・
藤原頼長は流れ矢に当たり死亡。
崇徳上皇は仁和寺に逃亡し命乞い。
崇徳上皇に付き従う源為義等武士達は、上皇から恭順の邪魔になるといわれ解散。
後白河派の完勝となった・・・・・
栗山潜鋒は、この上皇の行動に容赦なく筆誅を加える。
上皇が天皇を攻めるということは、考えの及ばないほど不倫なことである。
上皇が髪をそり、降伏したのは非を悔い改めたのではない。
ただ命が惜しかっただけだ。
これほど恥知らずな行為はない。
天皇・上皇の行動における倫理性の欠如。「保建大記」における第二のテーマである。
かくも、倫理性を欠く天皇・上皇が何ゆえ絶対でありうるのか。いや、絶対でないといけないのか。
その証明こそ小室の中心テーマである・・・・・・