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小室直樹を読む  奇蹟の今上天皇 を読む

2010-04-26 09:29:35 | 日記
第二章 地方巡幸 天皇人気の証明
ポツダム宣言受諾で日本降伏が決まったが、日本政府は受諾条件に「国体護持」だけを申し入れた。

この条件をめぐってアメリカ政府内の意見は割れていた。
バーンズ国務長官は、条件をのむ必要はないという意見。スチムソン陸軍長官は、日本軍の武装解除を確実にするためにも、日本側条件を受け入れるべし、という意見であった。

議論の末
「日本国の最終的の形態は・・・・日本国民の自由に表明する意思により決定されるべきものとす」と回答された。

日本降伏後、戦後処理はマッカーサーに任されることになった。

天皇制をどうするか、天皇を戦犯指名するかどうかはマッカーサーの掌中であった。

そのマッカーサーのもとへ、日本各地から投書が届き始めた。

ワシントン国立公文書館にファイルされているものから拾い上げると、
「天皇を裁判してはいけません」山形県:長谷部はる子
「天皇制の問題がやかましいですが、天皇制を廃止せねば民主主義にならないというのは間違ってます」広島県:山本利秋
「復員していろいろな事があったが、天皇を守るため私は生きのびるるつもりだ」住所不
  明:ツルミ・ミノルから上海の戦友アマガサキ・タイチロウに宛てた手紙

当時日本の大多数国民は、天皇が戦犯にされたり、廃位されたなら、聖断によって延期された本土決戦を戦って、一億玉砕をする覚悟であった。

マッカーサーに対し日本国民は卑屈ではなかった。

「天皇は守る」といった内容の、住所署名付きの手紙、はがきが続々とマッカーサーの元へ届いたのだ。

敗戦によって、日本は兵を去り、食が去った。
軍備は全廃され、経済は破局一歩手前。食料はなかった。

日本にあるものは「信」のみであった。
この「信」を資産に日本は奇蹟の復興を遂げる。

民は天皇を信じ、天皇は民を信じた。
天皇と日本国民との「信」は奇蹟である。


昭和二十一年二月、神奈川県川崎市の昭和電工工場ご視察を皮切りに、今上天皇は、戦禍にあえぐ国民を慰め、励ますために全国を回られる事になった。

大阪、名古屋では、何千人という大群衆が崩れ、天皇めがけて殺到したため、立ち往生の天皇は靴を踏まれ、ボタンを剥ぎ取られ、警備当局がハラハラしたこともあった。

そんな日は宿舎につくと侍従たちに
「今日も(人波が)崩れたね」と頬をほころばせ、ひどく嬉しそうだった。

どこも戦災でやられている為、宿舎といえば県庁、公会堂、ときに小学校の教室、駅の引込み線で車中泊ということもあった。

こうした、地方巡幸は副産物として、GHQや連合国に天皇の絶大な人気を再認識させる結果となった。

他の敗戦国元首とはあまりにも違うのである。
自殺したヒトラーはさておき、ムッソリーニは民衆に虐殺され、死体は逆さづりにされた。
エマヌエル・イタリア国王は国外追放。長男が即位したが、わずか一ヵ月後に廃位。

まだ記憶の生々しいそれら悲惨な末路に引き換え、日本のみは国民が全国津々浦々で天皇を熱狂して迎える。
連合軍側にはそれが不思議でならなかった。

英国の新聞は
「日本は敗戦し、外国軍隊に占領されているが、天皇の声望は衰えていない。各地の巡幸で、群集は天皇に対し超人的な存在に対するように敬礼した。なにもかも破壊された日本の社会では、天皇が唯一の安定点をなしている」
と驚きを素直に述べている。

期待を裏切られたのは共産党であった。
・・・・いくら天皇が人気取りにつとめても、必ず人民の反発を買い、失態を晒すに決まっている・・・。
と初めは冷たく嘲っていたが、

まもなく、
「天皇が侵略戦争の最大の責任者であるのに、最近各地に出動し自己の責任を棚に上げて、人民に呼びかけている。天皇のかかる行動は、天皇制護持の旗を掲げ、日本の民主化を挫折させようとする反動政党のための選挙運動に他ならない」
と悲鳴に似た焦燥感をあらわにした。

天皇を恨むもの、天皇の存在を否定するもの。その存在は少ないとはいえ、何十万人もいた。
大衆と体を接するほど近づく事は、要人にとって確実に死を意味する。暗殺を防ぐ事はできないのだ。

天皇は、地方巡幸において群集の中にわけいった。それでも天皇に何事も起こらなかった。

天皇人気が予想外に高いので、日本共産党は悲鳴に似た焦燥感をあらわにし、彼らの親分ソ連共産党もまた、執拗なまでに地方巡幸の中止を要求している。


奇蹟は、さらにその意味を深める。
地方巡幸は、前もって発表された時間表通り、ほぼ正確に行われたからである。

ヒトラーがこの話を聞いたら卒倒したろう・・・・・・